月曜の朝の空気は、週末の湿気をまだ少し引きずっていた。昇降口のゴムマットを踏むたび、靴底が低く鳴る。靴箱の列に沿って歩いていると、背中の方で名前がひとつ飛んだ。神崎。言い方は軽い。軽いのに、耳に刺さる。
 教室のドアを開けると、月曜の教室はもういつもの熱を取り戻していた。窓際のカーテンが短く揺れ、机の上には週末の話題が散らばる。旅行、試合、バイト、ゲーム。いくつもの声が重なって、ひとつの音になる。その中に混じって、俺の知っている名前がもう一つ、軽く弾んだ。
 神崎、最近図書室行きすぎ。
 彼女説。
 俺は視線をプリントに落として、耳だけ真剣にした。プリントはホームルームで配られる週間予定表。日付、行事予定、提出物。その小さな四角の中で、今日が静かに主張している。俺はペンで今日の日付に丸をつけるふりをして、視線を紙から外さない。外さないで、耳だけで世界の形をなぞる。
 彼女説って、誰。
 図書室でしょ。なんか静かな子。
 神崎は誰でも優しいから。
 優しいってずるいよな。
 ずるい、は便利な言葉だ。いいことに影をつける。影ができると、人は安心する。俺はその影の外に立って、プリントの端を折った。折り目は一直線にできなくて、角が少しだけ浮いた。
 席につくと、早乙女が前の席から振り返った。髪をひとつ結びにして、目だけで笑う。
 「おはよう。顔」
 「顔?」
 「強ばってる」
 「別に」
 「別に、じゃない顔」
 彼女はそれ以上追い詰めない。机の上のシャーペンを指で回し、プリントの提出欄にさらさらと名前を書いた。早乙女は大体いつも正解に近いことを言う。だから、追い詰めないのも正解だと思った。
 ホームルームが始まり、担任がいつもの声で連絡事項を読み上げる。前半は行事、後半は生活指導。髪染め禁止、ピアス禁止、遅刻・欠席の連絡方法。言葉が規則正しく並ぶ。規則正しく並んだ言葉は、安心を生む。けれど、噂はそういう言葉の外側で増殖する。担任の声の合間に、後ろの窓際から笑い声が小さく漏れた。俺は予定表の空欄を埋めるふりをしながら、笑い声の数を数えた。三回。笑いの粒は小さいのに、耳に残った。
 一時間目は数学。板書の角度まで見慣れた、いつも通りの黒板。文字の左端が少しだけ斜めになっていて、先生の歩き癖が出ている。一次関数の応用。先週土曜の勉強会でやったところに近い。問題文の語尾が似ていて、ヒントを置いていく陽の指の動きが頭の中で再生された。ここ。そこ。言葉より先に、点と線が浮かぶ。ペン先が勝手に動く。
 隣の席で、紙が滑る音がした。小さなメモ。早乙女からだ。
 顔、戻ってきた。
 俺は思わず笑いそうになったが、唇の端だけで止めた。メモの端に小さな笑顔の絵が描いてある。早乙女は、誰かの速度を待つのがうまい。
 休み時間。廊下の窓の外は、まだ午前の白い光を抱えていた。階段を下りて給水機に向かう途中、踊り場で陽に会った。上から降りてくる彼の足音はいつも同じ速さで、階段の幅をちょうどいいリズムで使う。俺を見つけると、止まって笑う。
 「顔、強ばってる」
 「別に」
 「別に、じゃない顔」
 同じ会話が、さっきより近い距離で繰り返された。陽は俺の一段下に立って、目線が少しだけ上を向く。角度のせいで、表情がいつもより柔らかく見える。息が上がっているわけでもないのに、呼吸の回数だけがはっきり分かった。
 「……噂、嫌じゃないの?」
 言えたのは、階段の上と下の隙間があったからだと思う。隙間があると、言葉は落ちても拾える。陽は視線を少しだけ外して、踊り場の窓の外を見た。薄い雲。遠くのクレーン。運動部のかけ声が小さく届く。
 「嫌ってほどじゃない」
 「強いな」
 「強いんじゃない。俺、湊のペース待てるよ」
 待てる、という言い方に、階段の段差が一段増えた気がした。俺にペースなんてあったのか。人の横に合わせに行くことばかりしてきたと思っていた。合わせると、楽だ。楽だけど、すぐに自分が薄くなる。薄くなった自分は、見えないふりをするのが得意だ。見えると、壊れる気がするから。
 「……待たれると、困る」
 「困る?」
 「俺、早くない」
 「早い必要、ない」
 陽はそれだけ言って、階段を一段上がった。目線が揃う。近い。踊り場に影が二つ重なって、少し濃くなる。人は、濃い場所と薄い場所を行き来して、ちょうどよくなるのだと思った。
 「昼、どうする?」
 「いつも通り」
 「分かった」
 陽はそこで話を切った。切ることで守れるものがある。言葉は、増やすと重くなる。重いものは、階段で落とすと危ない。陽は多分、それを知っている。
 三時間目の社会は、いつも退屈だ。先生の声が単調で、黒板の図も少し歪んでいる。あくびの数を数える遊びを自分に課して、五回目で飽きた。プリントの欄外に小さく点を打つ。ここ。そこ。土曜の学習室の光が、ふいに教室の白に重なる。笑い声の方向が、今はそんなに気にならない。噂の輪郭はつねに曖昧で、だから広がる。曖昧さが楽しい人たちがいるのも、知っている。俺はその輪郭を見ないふりをしながら、今日は少しだけ強くなる練習をしている。練習は上達につながる。すぐには無理でも、筋肉がつくと信じてやるしかない。
 昼休み。教室の端で、早乙女とパンを食べる。購買で買ったメロンパン。袋を開ける音がいくつも重なる。陽はクラスの真ん中のテーブルで、男子二人と軽く談笑している。笑い方が適量だ。いつも適量を守る。だから、噂がついても、燃えない。燃やされないように湿らせておくのがうまい。俺はメロンパンの真ん中をちぎって口に入れた。柔らかい甘さ。喉が少し重くなる。
 「で、どうするの」と早乙女。
 「どうもしない」
 「それができるなら、最強」
 早乙女は空の牛乳パックを潰しながら言った。「でも、無理な日は無理って言っていいから」
 「言う相手、いるかな」
 「いるでしょ。少なくとも、ここに一人」
 彼女はさらりと言って、机の端を指で叩いた。机に触れる指先は、軽いのに確かだった。俺は頷く代わりに、メロンパンの最後の一口を口に入れた。甘さが重いのに、心臓の方は軽くなった。
 午後の授業が終わる頃、噂はまた少し別の形をしていた。神崎、今日も図書室かよ。彼女説じゃなくて、もしかして男? 笑いは一段大きくなった。言葉の質量を上げるために、誰かが余計な文字を足したのが分かる。俺は席を立たず、廊下の喧騒が通り過ぎるのを待った。置いていく足音がいくつも。置いていくのが好きな人たちは、振り返らない。それも、知っている。
 教室を出たのは、チャイムが鳴ってしばらく経ってからだった。わざと少し遅れて、階段の踊り場で窓の外を見た。空は薄い灰。風が弱い。旗が半分だけ揺れている。深呼吸を一回。肺の奥まで空気を入れると、体の重さが整う。整えた体で、図書室へ向かった。
 図書室のドアを押すと、空気の温度が明らかに違った。冷たいわけではないのに、外の熱が切られる。紙の匂い。ワックスの匂い。熊谷先生の、静かにね、といういつもの声。席はいつもの窓際。いつもの時間より少し遅いからか、光が低い角度で机を照らしていた。陽はすでに座っていて、声を出さずに軽く手を上げた。何も聞かない。代わりに、付箋が一枚、俺の方に滑ってきた。
 今日のページ、どこから?
 その一行で、肩の力が抜けた。声じゃないから、音が小さい。音が小さいから、揺れない。揺れないから、体の奥の方に届く。
 ここから。
 俺は自分の問題集のページを指で叩いて、付箋を返した。陽はうなずいて、鉛筆の先を紙に置いた。了解。彼は付箋の端に小さくそう書いて、俺の本の角に貼った。貼られた言葉が目に見える形になって、今日の俺の速度がそこに固定された気がした。
 しばらく、黙々と問題を解いた。机の上の音は、鉛筆が紙を走る音と、消しゴムがこすれる音だけだ。外の風がガラスに当たる音が小さく割り込む。陽はたまに視線だけこちらに寄越す。俺が止まると、彼も止まる。ヒントは、いつものように短い。紙の角に点。そこ。言葉はないのに、意味がある。意味だけが置いていかれて、俺はその意味を拾う。拾うことで、噂の言葉から逃げられる。逃げるのではなく、別の場所に立つ。立ち位置を変えれば、見えるものも変わる。
 熊谷先生が、カウンターの向こうでパソコンを打っている。キーの音が一定で、心臓の鼓動にうっすら重なる。そういえば、土曜に熊谷先生の話をした。昔、小説を書いていたという話。言葉の扱いに慣れている人は、沈黙の形も知っている。俺は沈黙の形の中に、今の自分を少しずつ立てていく。
 ページが二つ進んだところで、陽がペンを止めた。付箋がもう一枚、俺の方に来る。
 飴、いる?
 ラムネ。
 小さく笑って、首を横に振る。いらない。陽はうなずいて、自分で口に入れた。飴の包み紙が静かに鳴る。その音が、今日の図書室の見えない合図みたいに感じられた。
 夕方のチャイムが鳴る少し前、俺はシャーペンを置いた。手の指が少し固い。机の角に置かれた付箋が二枚、黄色が重なっている。今日のページの印と、了解。俺はそれを本に挟み、鞄に入れた。陽も同じタイミングで本を閉じる。息を合わせたわけでもないのに、合う。
 帰り際、俺は思わず言った。
 「……ありがと」
 陽は首を傾げた。「何に?」
 「付箋」
 「付箋?」
 「声、出さないで聞いてくれたやつ」
 陽は一瞬黙って、それから笑った。笑ったあとで、小さく頷いた。
 「じゃあ、明日は栞にする」
 「は?」
 「付箋だと粘着力が落ちるから。栞の方が、繰り返し使える」
 たったそれだけの会話で、胸の奥に新しい引き出しができた。俺の速度に名前がついた日。付箋より少しだけ硬い、栞という名の速度。慌てないでいい、と胸の内側で繰り返す。繰り返すことで、言葉が体に馴染む。
 図書室を出ると、廊下はすでにまばらだった。早乙女が遠くの方で掲示板を写真に撮っている。部活のポスターの更新があったらしい。俺たちを見ると、わざとらしく視線を外した。たぶん、押すだけ。形にしない押し方は、彼女の得意技だ。
 昇降口で靴を履き替えていると、背中の方から声がした。
 神崎くん、最近、誰と帰ってるの。
 笑い声がまた少し弾む。足元の白いスニーカーの紐を結びながら、俺は一秒だけ目を閉じた。一秒だけ閉じて、開けると、世界の明るさが微妙に違って見える。光が少しだけ硬い。
 陽が横に立った。何も言わない。靴を履きながら、片手で傘の柄を持ち上げる。今日は雨じゃないのに、持ってきていたらしい。理由は聞かない。俺は自分の鞄のポケットに手を入れた。クッキーの紙袋は空っぽだった。ラムネの包み紙だけが一枚、底に残っている。紙は軽い。軽いけれど、存在は消えない。
 校門を出ると、風が少し強くなった。夕方の匂い。帰宅の自転車のブレーキ音。信号が青に変わる直前、陽が言った。
 「今日、遅かったね」
 「わざと」
 「噂の速度に合わせた?」
 「違う。自分の速度に合わせた」
 「それ、いい」
 陽はそれ以上何も言わない。何も言わないことで、俺の言葉に余白ができる。その余白に、さっきの付箋が収まる。今日のページ、どこから。ここから。了解。明日は栞。言葉の順序が、胸の中で正しい並び方を覚える。
 駅に着くころ、空は薄い群青に変わり始めていた。ホームに上がる階段で、また笑い声が聞こえた。笑いは今日一日で少し疲れて、少し飽きて、少し弱くなっていた。噂はいつもそうだ。生まれたばかりのときがいちばん強くて、時間とともに自分の重さで沈んでいく。
 改札を通る前に、陽が足を止めた。
 「湊」
 「なに」
 「明日、栞、忘れたら付箋ね」
 「分かった」
 「分かった、の速度でいいから」
 分かった、は便利な言葉だ。何かを承認するのに、余計な形容を必要としない。俺はうなずいて、改札にカードをかざした。ピッという軽い音。この音は誰に対しても平等で、俺にも平等だ。ホームの端で電車を待ちながら、スマホの画面をちらりと見る。何も来ていない。何も来ていないことも、今日は安心になる。待てる。待てると、決めた。
 家に帰る道で、ふと足を止めた。電柱の影が足元に落ちて、影と靴の間に薄い線ができる。線の向こう側に、今日の自分が立っている気がした。線のこちら側に、昨日までの俺がいる。どちらも俺で、どちらも間違いではない。違うのは、付箋の有無くらいだ。貼ったら剥がれる。剥がれたら栞にする。栞にしたら、何度でも挟める。挟むたびに、ページの角が少しだけ丸くなる。丸くなった角は、誰かの指にやさしい。
 家に着くと、母親の声が台所から聞こえた。晩御飯の匂い。いつも通りの音。机に鞄を置いて、問題集を取り出す。黄色い付箋が一枚、角に貼られている。今日のページ、どこから。自分で書いた文字が、少しだけよそよそしく見える。遠くから見た自分の背中みたいだ。俺は付箋を剥がし、机の端に貼り直した。貼り直したとき、糊が少し弱くなっているのが分かる。明日は栞にしよう。そう思っただけで、胸の中の何かがほどけた。
 スマホが震いたのは、夜の九時。陽から。
 今日の遅れ、いい遅れだった。
 明日は早くても遅くても、栞。
 短い言葉で、ちょうどいい。ちょうどいい長さのロープみたいに、手のひらに収まった。俺は返事を打ちかけて、止めた。ありがとう、を打つのは簡単だ。でも、今日は付箋に任せた方がいい気がした。明日、栞を見せる。それが返事になる。
 ベッドに横になる。天井の白い塗料に、日中の光がわずかに残っている。目を閉じると、階段の踊り場の光が出てきた。上と下の距離。一段分の差。追いつく速さと、待つ速さ。待たれることに戸惑った午前と、待ってもらえると知った午後。内緒の箱は、今日もひとつ、形を変えた。付箋から栞へ。噂から速度へ。名前がつくと、守れるものが増える。守るための名前なら、悪くない。俺はそう思って、眠りに落ちた。
 翌朝、鞄に薄い栞を入れる。昨日の付箋の黄色が、机の端で小さく光った。剥がれかけた角を、そっと指で押さえる。押さえた指先の温度で、糊が少しだけまた粘る。粘りは弱い。でも、ゼロじゃない。ゼロじゃないものは、繋がる。繋がるものは、続いていく。続いていくなら、急がなくていい。俺のペースで。誰かが待ってくれるという事実を、胸の内側で何度も言い聞かせた。慌てないでいい、と繰り返す声が、今度は自分の声になっていた。