土曜日の昼、地区センターの自動ドアは、体温を測るみたいにゆっくり開いた。
 入口の掲示板には、習字教室と卓球クラブの紙。通路は消毒液の匂い。遠くで子どもが走る靴音がして、壁には地域のポスターがいくつも重なっている。俺はその中の一枚をなんとなく見上げてから、二階の学習室へ向かった。
 「おっそい」
 ドアを開けると、早乙女が机に広げたノートの向こうから眉を上げた。髪をひとつに結んで、シャーペンを小刻みに振っている。机の端にはスポーツドリンク。目の前の参考書にはインデックスが色分けされていて、几帳面さがにじんでいた。
 「電車、遅れた」
 「嘘。湊はいつも歩きだよね」
 「……途中で猫を見た」
 「はいはい。座れ」
 半ば強引に誘われた勉強会。地区センターの四人掛けの机に、三つの席。なぜか、そこに陽もいた。窓際の席。いつもの窓とは違う位置なのに、似た光が落ちている。
 「誰が誘った」
 「俺」
 陽が当たり前みたいに言う。
 「お前か」と返すと、陽は目尻を少しだけ下げた。口元に「知ってたくせに」という形の笑い。
 「誰が来るか、言わない方が面白いと思って」と早乙女。
 「サプライズって言うんだよ、こういうの」
 「余計な演出いらない」
 「はいはい。じゃ、はじめまーす」
 学習室の時計は、数字が大きいタイプ。秒針の音が今日は少しだけ響く。窓の外は白い雲。春の手前の光。机にひろげた数学の問題集は、昨日と同じところで止まっていた。一次関数の応用、グラフ、面積。見たことのある記号なのに、問題文にされると急に遠くなる。
 「湊、ここからだね」
 早乙女が俺の問題集を覗き込む。陽は向かいで自分のノートを開きながら、視線だけこっちに寄越す。
 「ここ、何が分かってる?」
 「直線の式」
 「ほかに?」
 「交点。……あとは、台形の面積の出し方」
 「そう。じゃあ、何が分かってない?」
 「……交点を出してから、どこまでを足して引くのか、見えない」
 早乙女は頷いて、ボールペンの先で紙をとん、と叩いた。「見えない、は悪くない言い方だね。じゃ、見えるように線を足す。どこに?」
 「ここ、と、ここ」
 指を置くと、早乙女が「正解」と言って線を引いた。
 陽が、むこうから小さく笑う。「ここで詰まるの、悪くない」
 「褒めた?」
 「ちゃんと」
 短い会話の間に、陽の手は止まらない。ノートの上に等間隔で数字が並ぶ。字が整っているのに、余白の取り方がゆるい。几帳面と自由の中間。俺はそれを見て、たまらず吹き出した。
 「なに」
 「いや。おまえの“ちゃんと”はずるい」
 「ずるいの?」
 「ずるい」
 俺が笑うと、早乙女が肘で小突いてくる。「集中」と言いながらも、口元は甘い。三人の空気が、午前中の教室よりやわらかい。地区センターの古い蛍光灯が、何回かゆっくり明滅した。
 勉強の手は、すぐには速くならない。それでも、陽はヒントだけ置いて立ち去る教え方をした。答えまでは絶対に言わない。手前で止まる。たまに、紙の端に小さな点を打って「ここ」とだけ指す。俺がその点の意味に気づくまで待つ。分かった、と顔に出すと、陽はうなずくだけで、また自分のノートに戻る。
 「いじわる」と早乙女が言うと、陽は首を振った。
 「いじわるじゃない。俺が答えを言うと、湊は次の同じ地点まで歩けなくなるから」
 「たまに正論ぶつけるの、ずるい」と早乙女。
 「ずるいの、流行ってる?」と陽。
 「流行らせないで」と俺。
 机には三人分の消しゴムのカス。窓の外では、小学生の卓球の音が一定のリズムで響く。すぐ近くの会議室からは、お年寄りの歌声。バラードのサビだけを何度も歌っている。耳に入る音が多いのに、集中すると、どれも遠くなる。問題文の文字が紙に沈んで、少しだけ頭に入っていく。
 休憩は、十一時半。
 「一回切ろう」と早乙女が言って、ストレッチみたいに背中を伸ばした。机が小さく鳴る。陽が「飲み物買う」と立ち上がり、俺と早乙女も続く。自販機は廊下の突き当たり。小銭を落とす音がやけに大きい。
 「何買う」と早乙女。
 「お茶」と俺。
 「ココア」と陽。
 「子どもかよ」と俺が言うと、陽は「甘いの飲むと人に優しくできる」と真顔。
 「じゃあ、二本買え」と早乙女が笑う。
 学習室に戻るとき、俺は紙袋を一つ持っていた。昨日の夜、ついでのつもりで焼いたクッキー。最初の数枚は焦げかけて、そこから火加減を調整した。洗い物の音を小さくして、母親に気づかれないように片付けた。袋の口を締める最後の瞬間、香りが部屋に残って、眠るまでの時間が少しだけ短くなった。
 机に戻って、紙袋から箱を出す。
 「なにそれ」と早乙女。
 「クッキー。余ったから」
 余った、は、嘘だ。最初から持ってくるつもりで作った。言わないけど。
 「やった」と早乙女が身を乗り出す。陽は手を止めてこちらを見る。
 箱を開けると、音まで甘くなる気がした。丸いのと四角いの。チョコ入りとプレーン。焼きむらの少ない方を上にしたつもりだが、どうだろう。指先で紙の仕切りを外す。早乙女がプレーンを、陽が四角いチョコを取る。俺は一拍置いて、丸いプレーンをひとつ。
 陽は一口目で言った。
 「うま」
 「ふつうにね」と早乙女。
 「ふつうに、は褒め言葉か?」と俺。
 「最大級だよ。手作りで“ふつうにうまい”って、かなり難しい」
 陽は、それには頷きながら、もうひとつ取る。
 「湊は丁寧に作る人なんだな」
 「どういう意味」
 「好きって意味」
 音の少ない褒め方は、逆に響く。
 自分の鼓動の音とクッキーのさくっとした音が重なって、少しだけ息が浅くなった。早乙女が俺の脇腹を肘でつつく。「顔」と言われて、慌てて視線を落とす。紙ナプキンの角に視線を固定して、深呼吸を一回。窓の外の雲がゆっくり動いている。地区センターの白い壁は、学校より少し黄味が強い。それだけの違いが、今日の出来事を別の記憶に入れてくれる。
 「レシピ、どこで」
 「ネット。動画」
 「分量、守るタイプ?」
 「守る」
 「そりゃ丁寧だ」と早乙女。「私は目分量でやって失敗するタイプ。性格出るね」
 陽は、二枚目をゆっくり噛みながら俺を見る。
 「俺、いつも湊にヒントだけ置くけど、湊は自分の台所ではちゃんと全部言うんだね」
 「どういう言い方」
 「レシピ、が答え」
 「たまに面倒な比喩するのやめろ」
 「面倒かな」
 「面倒」
 早乙女が笑う。「でも好きでしょ、そういうの」
 俺は反射的に否定しかけて、言葉を噛んだ。口の中に残った甘さが、嘘を薄める。
 勉強は午後にもう一ラウンド。
 今度は理科。電磁誘導。コイル、磁石、フレミング。どれも中学で聞いたはずの単語。説明を読むと分かるのに、問題になると文脈がずれる。陽はやはりヒントだけを置いた。紙の端にちょっとした文字。「変化」「向き」「面積」。それだけ。分からないと、彼は「ここで詰まるの、悪くない」をもう一回言った。二回目のその言葉は、少しだけ違う色に聞こえた。午前より、俺の中で響く場所が変わったからだと思った。
 早乙女は、途中で国語に移った。現代文の長文問題。赤いボールペンで、接続語に丸をつけていく。ページの端に、今日の予定が小さく書いてある。「夕焼け撮る」。
 「撮るの?」と俺が言うと、早乙女は笑う。
 「ここの屋上、鍵借りたら入れるんだよ。管理人さんに聞いた。いい感じに低い建物が多くて、電線も少ない。今日、きっときれい。雲と光の具合が」
 「一人で?」
 「二人で」と早乙女は陽を見る。陽は軽く首を振った。
 「今日は、俺より湊でしょ」
 早乙女はそれを聞いて、わざとらしく肩をすくめた。「あーあ、残念。じゃあ私は下から撮るか。夕焼けの反射も撮りたいし」
 その言い方が、わざと、なのにぜんぜん嫌味じゃない。むしろ、背中を押されているみたいだった。
 勉強会は予定の時間で終わった。管理人の人が「五時になったら施錠します」と言いに来て、俺たちは机を拭いた。消しゴムのカスを集めて、紙ごみにまとめる。陽は最後まで黙っていたが、机の角にこびりついた汚れを指で剥がして、ティッシュに包んだ。そういうところが、ずるい。目立たない優しさは、あとから効いてくる。
 廊下を歩くとき、早乙女が「先に行く」と言った。
 「夕焼け、角のコンビニの前がきれいなの。反射が広いから。二人は、ゆっくり歩けば間に合う」
 「わざとだろ」
 「わざとだよ」
 手をひらひらと振って、早乙女は階段を下りていく。俺と陽は、残された廊下に取り残される。窓の外、空の端が少しだけ色を持ち始めていた。昼の白から、夕方の橙へ。
 「早乙女、いいやつだな」
 俺の言葉に、陽は窓の外を見たまま答えた。
 「俺たちのこと、押してる」
 「俺たち?」
 そこだけ、言葉が重く落ちる。俺はつい、靴先を見た。新しく買ってもらったばかりのスニーカー。白い部分にうっすら汚れ。今日の地区センターの床の色が少し映っている。
 「言葉にすると、形になる」と陽が言う。
 「形になると、崩れることもある。だから、早乙女は言わない。押すだけ」
 「……内緒の輪郭、ってやつか」
 「うん。友達の視線で少し鮮明になる夜」
 自分で言っておいて、自分で納得している表情だった。俺は「詩人ぶるな」と言ってから、階段を下りた。靴音が二つ。同じ間隔。歩幅は、揃えようとしなくても揃った。
 地区センターを出ると、夕焼けは約束通りの色だった。雲の端がほのかに光って、街のビルの窓に映る。コンビニのガラスにも薄く映り込んで、店のスチーマーの白い蒸気がオレンジを吸い込んでいる。早乙女が少し先でカメラを構え、しゃがみこんだり立ち上がったり、忙しい。俺たちをちらりと見たが、手を振らない。きっと、フレームに余計なものを入れたくないのだろう。二人だけのフレームを、わざと残してくれている。
 信号待ち。風が弱くなって、信号機の音がはっきりする。陽がポケットから飴を取り出す。
 「一個いる?」
 「なに味」
 「ラムネ」
 「子どもかよ」
 「甘いの舐めると、人に優しくできる」
 「それ、さっきも言った」
 「効果が切れた」
 笑って、飴を受け取る。口に入れると、冷たい甘さ。勉強で乾いた喉が一瞬で潤う。夕焼けの色とラムネの味は不思議な組み合わせだ。子どもの頃の夏祭りを思い出す。射的とヨーヨー釣り。綿あめの手。そんな記憶が通り過ぎて、今の景色に戻る。
 「湊」
 「なに」
 「クッキー、残ってる?」
 「ある」
 「もらっていい?」
 「いいけど、今?」
 「今」
 紙袋から残りを出す。四角いチョコが三つ。プレーンが二つ。陽は迷わずチョコを取る。俺はプレーンをひとつ。コンビニの横のベンチに腰かけて、二人で噛む。さくっという音が同時に鳴って、少し照れくさい。陽は黙って咀嚼して、飲み込んでから言った。
 「やっぱり、丁寧だ」
 「またそれ」
 「また言うよ。何度でも」
 「何度も言うな」
 「じゃあ、減らす」
 「減らすな」
 言葉で砂をかけ合うみたいな小競り合い。けれど、そこにはいつも優しさの層が敷かれている。俺はそれを足で確かめるみたいに、短い返事で踏む。踏んでも沈まない。崩れない。そういう場所が、今のところ一番落ち着く。
 帰り道、早乙女は「もう少し撮る」と言って、わざと距離を取ってくれた。コンビニの前で手を振って、別方向へ歩いていく。俺と陽は、同じ駅へ向かって歩く。二人きりの歩幅は揃いやすい。信号で立ち止まるたび、靴先が同じ位置で止まる。店のガラスに映る並び方も、いつのまにかしっくりくる。
 「湊、さ」
 「ん」
 「勉強、今日の分で苦手減った?」
 「少し」
 「じゃあ、来週もやろう」
 「誰が誘う」
 「俺」
 「お前か」
 陽が笑う。「飽きないの、俺たち」
 「飽きるほど続けてから言え」と返すと、陽は足元の影を見た。二人分の影が長く伸びて、薄く重なっている。重なった部分が濃くて、強い。
 駅が近づく。ホームのアナウンス。改札のピッという音。陽が小さく息を吸う気配がした。言うか言わないか、迷っているときの音。俺はそれを待つ。待つことに慣れてきたのが、自分でも分かる。
 「湊」
 「なに」
 「今日の“俺たち”、噛みしめた?」
 胸の奥が、少しだけ痛い。さっきのクッキーの角みたいに、じわじわ残る痛み。
 「……まあ」
 「“まあ”はどのくらい」
 「半分」
 「半分、好き」
 陽はそれ以上は言わなかった。俺も言わない。言葉を増やすと、輪郭が固まる。固めるには、まだ早い。固めないことで守れるものもある。
 改札の前で、俺たちはいつも通り別のホームへ向かう。陽は手を上げて、指先だけを振った。俺も、小さく返す。ホームの端で、電車を待ちながら、スマホが震いたくなるのを期待する。まだ何も送っていないのに期待するのは、ずるい。
 家に着くまでの間、通知は鳴らなかった。
 代わりに、夕焼けが頭の中で何度も再生された。コンビニのガラス、ベンチの影、ラムネの味。帰宅してシャワーを浴びると、肌に残った外気のにおいが流れていく。髪を拭きながら、机の上の紙袋を見た。クッキーがひとつ、底に残っている。明日の朝食べるか、誰かに渡すか。そんな小さな選択の中に、今日の余韻が隠れている。
 夜、机に肘をついて、数学の問題集を開く。さっきの台形の問題に戻ると、紙の端に点はない。陽の指はもうない。自分で点を置いてみる。ここ。そこから線を引いて、足して、引いて。解答欄に数字が入ったとき、体の内側で小さく何かが鳴った。正解、という音じゃない。続き、という音だ。
 スマホが震いたのは、寝る前。
 陽から。
 今日の“内緒”、箱に入れた。クッキーの匂いごと。
 来週の土曜、空けといて。早乙女にも言っとく。
 俺は「分かった」と返した。
 送信ボタンを押す直前、文面の前に「こちらこそ」を足しかけて、消した。繰り返しは、今日のぶんだけでいい。明日の分は、明日また増やせばいい。
 既読の青が灯る。画面を伏せて、ベッドに体を倒す。天井の白は、昨日より少し暖色に見えた。地区センターの蛍光灯の色が目に残っているのかもしれない。まぶたを閉じると、紙袋のがさがさする音と、クッキーのさくっとした音が混ざった。
 早乙女は今ごろ、今日の夕焼けを選んでいるだろう。いい一枚が撮れたら、きっとグループに上げる。コメント欄が賑やかになっても、そこに書かれない注釈が存在する。写真の端のベンチ。ラムネの包み。四角いチョコの欠けた部分。内緒の輪郭は、そういう見えない注釈でできている。
 明日も、たぶん、窓際。
 たぶん、が今日より少しだけ確かな色で、胸の中に貼りついた。
 一口目で「うま」と言う人がいること。ヒントだけ置いていく指があること。肘でつついて笑わせる友達がいること。どれも簡単じゃないのに、今日の俺にはちゃんと与えられていた。
 噛みしめる、という言葉は便利だ。
 “俺たち”を口に含んで、甘さや硬さを確かめるみたいに、ゆっくりと。
 たぶん、来週も、同じことをする。少し違う場所で、少し違う味で。
 それを想像しただけで、眠りまでの距離が短くなった。