放課後、君の寝顔に恋をした。— 図書室から始まる二人の内緒

 朝のチャイムが鳴った瞬間、教室の窓際は昨日の続きみたいに同じ色をしていた。
 席に座ると、神崎陽が、いつのまにか隣に立っている。机に手をついて、少しだけ身をかがめてくる。目線が近い。昨日ほどじゃないけど、近い。

 「昨日の、怒ってたら謝る」

 「怒ってない」

 「じゃ、観察は机越しで」

 「観察って言うな」

 短いキャッチボール。言葉を投げたら、ちゃんと返ってくる。取りやすい球速で。こっちの手が痛くならない程度に。

 一時間目の数学、二時間目の英語。黒板に並ぶ文字列の間を、視線はちゃんと往復しているはずなのに、ふと気が逸れてしまう。十数分に一度、横から小さく紙が滑ってきて、俺の肘に当たる。陽の字は、意外と丸い。メモ用紙に「お腹鳴りそう」とか「先生のスニーカー新しくない?」とか、意味のないことが並ぶ。その、意味のなさが心地よかった。

 「おい、前を見て」と先生に言われて、俺たちは同時に前を向く。笑いを堪えるタイミングまで、ちょっと合ってしまう。授業が終わると、陽はすっと立って、机の端を指で叩いた。

 「放課後、図書室? 昨日と同じ」

 「たぶん」

 「たぶん、が多いね」

 「確定事項ばっかりじゃつまらないだろ」

 「じゃあ、今日の天気は?」

 「……曇り。午後から雨」

 「確定事項だ」

 短く笑って、陽は自分の席に戻っていった。周りの視線が薄くついてくる。中心にいる人間の周りは、いつも空気が少しだけ密度を増す。俺は窓の外を見る。グラウンドを囲む木々が、まだ明るい灰色の空の下で小さくざわついていた。

 昼休み。パンと牛乳を持って廊下を歩いていたら、女子の二人組が前から来る。俺を見るというより、俺の後ろを覗き込むみたいな目線だった。振り返ると、陽が少し離れてついてきて、視線がぶつかると、片手を上げる。やたらとよく似合う何気ない仕草に、廊下の空気が柔らかく動いた。

 「湊くん、最近図書室行ってるよね」と女子のひとりが言った。

 「前から行ってるけど」

 「ふうん。熊谷先生、優しいから居心地いいよね」

 「まあ」

 「神崎くんも、最近よく行くよね」

 その言葉に、陽がにこりと笑って、俺の横に並んだ。「静かだし」とだけ言って、空になった牛乳パックを指でつぶす。女子たちは顔を見合わせて、それ以上は何も言わなかった。笑いの形が一瞬だけ揺れたけど、誰にも掴まれないまま流れていった。

 午後のチャイムが鳴る頃、窓は予報通りの音を立て始めた。雨が来る。粒の最初の一つめを見つけたとき、俺は立ち上がる理由もなく立ち上がっていた。頭の中で、昇降口の風景が先に再生される。

 放課後。
 図書室の窓には、雨粒が斜めに線を引き続ける。ブラインドの隙間から外の灰色が滲み込んできて、机の木目がしっとり濃く見えた。俺は返却された文庫に印を押しながら、指の先で紙の端の湿りを確かめる。陽は、少し離れた棚の前で背伸びをして、上段から本を取ろうとしている。届かないふりをしているわけではない。本当に、ちょっとだけ届かない。

 「貸して」と言って、俺はその本の背を取って、すっと引き出した。陽が受け取る。その指が俺の指に触れて、ほんの一瞬、止まる。雨音がそこだけ大きくなって、すぐに遠のいた。

 「ありがと」

 「それ、面白いのか」

 「あらすじは面白そう。中身は、これから」

 そんな話をいくつかして、熊谷先生の「今日は早めに閉めるよ」という声で、俺たちはカウンターの前に集まった。鍵が返却され、貸し出し処理が終わる。俺が鞄に本を入れて顔を上げると、陽はすでに昇降口の方を指さしていた。

 「濡れる」

 「そりゃ、雨だから」

 「傘、持ってる?」

 「持ってる。けど」

 「けど?」

 「一本」

 陽は、ほんの少しだけ眉を上げた。「駅、同じ方向?」

 自然すぎて、断り方を忘れる。断る理由も浮かばない。昇降口で立ち尽くす俺の肩へ、黒い傘の影が重なった。校舎の白い光の下、傘の内側だけが暗い。そこに、洗剤の匂いと、陽の呼吸のリズムがたまる。

 「入る?」

 「……入る」

 濡れた地面に、傘の縁から落ちる水の線が見える。靴が水たまりを避けるたび、静かな音が鳴る。二人の影が路面に重なって、たまに離れて、また重なる。肩と肩が触れるほど近いわけではないのに、触れているみたいに熱かった。

 「ねえ、湊」

 「なに」

 「俺、ちょっと嬉しい。こういうの」

 「こういうの?」

 「一緒に歩くの」

 言葉の選び方が素直すぎて、何もかもがすぐに心臓へ届く。笑うか、ごまかすか、黙るか。選択肢が多すぎて、いちばん静かな「黙る」を選ぶ。陽は、黙ったままの俺を横目で見て、少しだけ傘の角度をこっち寄りにした。肩に落ちていたはずの雨粒が減る。

 校門を抜けて、駅までの道。コンビニのガラスに、二人分の姿が映る。傘の黒が二人を囲って、周りの世界を切り取ってくれる。そこだけ、別の天気みたいだと思う。

 踏切の前で遮断機が降りた。雨を弾いた鉄の匂い。列車のライトが近づいてきて、足元の水たまりが白く光る。線路を渡る風が、傘の布をふくらませる。陽が、少しだけ傘を押さえた。指の関節が白くなる。指の骨の形を見ているうちに、電車は通り過ぎて、風が弱くなった。

 「濡れたね」と陽が言う。

 「まあ、これくらい」

 「髪、跳ねてる」

 陽の指先が、俺の前髪の端をつまんで、すっと戻す。反射的に顔を上げると、近い距離で目が合って、ふいに目を逸らした。心臓が、さっきの遮断機みたいに勝手に上がり下がりする。

 駅に着くと、屋根の下の空気は少し温度が上がって、濡れた制服が肌に張り付く感覚が気にならなくなる。ホームへ向かう階段の手前で、陽が足を止めた。

 「傘、貸してくれてありがとう」

 「別に。俺も入ってたし」

 「返すとき、また一緒に帰る理由ができる」

 軽く言うのに、重さがあった。嬉しいの共有は雨に強い。伝わるのに、言い訳がいらない。俺は頷く代わりに、傘の持ち手を彼に押し付けた。

 「預かっとけ」

 「預かる」

 電車が来る音がして、俺たちはそれぞれの車両に乗った。窓の外の雨は、走り出すと一本の線になって、風景を斜めに切り分ける。向かいの席で、陽が濡れた傘を畳んで、足元に立てた。俺は反対側の窓に額を軽くつける。冷たいガラスの感触と、体内の熱の差がはっきりわかる。

 知らないうちに交換されていた連絡先は、クラスのグループから自然に流れ込んだものだと思っていた。けれど、陽の名前が俺のスマホの画面に現れたとき、その認識は少しだけ違う形に変わっていく。

 夜。
 シャワーの音が止んで、ドライヤーの音が止んで、俺の部屋に雨の音だけが戻る。机の上、数学の問題集の薄い表紙。開かなきゃと思うのに、スマホの画面が明るい。通知が一件。知らないうちに交換されていた連絡先から、最初のメッセージ。

 傘ありがとう。返すとき、また一緒に帰る理由ができる。

 俺は文面を何度も直して、「こちらこそ」とだけ返す。余計なものを足した瞬間、何かが崩れそうだったから。送信を押す指が少しだけ震えた。既読の青が、胸の奥で灯った。まるで、雨の街に点る信号みたいに、確かな場所を示してくれる。

 すぐに返事は来ない。来ないことも、安心だった。急かされていないし、逃げ道を塞がれていない。ベッドに背中を沈める。天井の白が、薄暗い雨の色を吸って、少し低く感じる。

 三分後。
 スマホが震えた。

 今日、湊の歩幅に合わせたの初めてだった。歩くの、意外と速い。

 思わず笑って、すぐに真顔に戻る。顔が熱い。俺は「おまえが遅い」と打ちかけて、消す。しょうがない、と打って、消す。結局「そうか」で送る。淡白すぎるのは分かっているのに、今はこれ以上のことばを選べなかった。

 返事はまた少しだけ遅れて届いた。

 そう。明日、図書室、いる?

 いる。たぶん。

 たぶん、好きだね。

 確定事項ばっかりじゃ、つまらないだろ。

 既読の青が二つ並ぶ。俺はスマホを伏せて、机の上の数学をやっと開く。問題文が視界に入る。理解までの距離を測るみたいに、解答欄の空白を見つめる。鉛筆の芯が紙をなぞる音。雨音が弱くなった気がした。

 翌日。
 朝の教室は、湿った床の匂いがまだ残っている。窓から離れた席の子が「髪うねる」とぼやいて、別の子が「ストレートアイロン貸す」と笑って、いつもの生活音が散っていく。俺が席に着くと、陽が机の隣を軽く指で叩いた。

 「おはよ」

 「おはよう」

 「傘、持ってきたよ」

 鞄から取り出された傘は、昨日よりも黒が深く見えた。乾いているはずなのに、雨の匂いが少しだけ残っている。持ち手のゴムの端に、小さなシールが貼ってあった。黄色い丸。こんなもの、昨日はなかった。

 「それ」

 「目印。湊のだから」

 「俺の?」

 「そう。返したふりして、預かってもいいけど」

 「変なルール作るな」

 陽は肩をすくめて笑う。笑いながら、シールの端をぐっと抑えた。剥がれないように。なぜだか、それを見ているだけで、胸の奥に重心ができたような気がした。傘一本で、こんなにも世界の手触りが変わるのかと、少し驚いた。

 一時間目の国語で、先生が「語感」という言葉を黒板に書いた。合う音と合わない音。意味と意味の間で起こる化学反応。陽はその言葉に小さく反応して、俺の方を見る。視線が合う。何も言わないけど、何かが通る。ノートに書いた自分の字が、少しだけ丁寧になる。

 昼休み、購買でパンを買う列に並ぶ。前に陽、後ろに俺。列が蛇のように折れて、配られるトレーの音がカランと鳴る。陽が「コッペパンのピーナツ、最後のひとつ」と言って、手を伸ばした。後ろから伸びた別の手が、同じものを掴む。陽は、すっと手を引いた。

 「どうぞ」

 「いいの?」と女子の声。陽は頷く。譲って当然、みたいな顔。それが嫌味に聞こえないのは、彼が普段からそういう人間だからだ。俺は棚の隅に残っていたメロンパンを取る。陽も同じものを取る。レジで会計をして、二人で廊下に出る。

 「ピーナツ、好きなの?」と聞くと、陽は「普通」と答えた。「でも、湊がメロンパン取ったから」

 「真似すんな」

 「歩幅、合わせるの好きなんだよ」

 言ってから、自分でも笑っている。俺はメロンパンの袋を開けながら、肩で小さく笑って、うまく誤魔化した。甘い匂いが、雨上がりの校舎に似合わないくらい、まっすぐ広がった。

 放課後。
 空は、昨日の続きみたいにまた降り出した。しとしと、というより、窓を叩くはっきりとした音。図書室に入ると、熊谷先生が眼鏡の位置を直して言う。

 「今日は人が少ないね。静かにね。ふたりとも」

 「はい」と答えるのが同時で、先生が少し笑う。俺は窓際の席に、陽は向かいに。机の上では、手元の本だけが世界。だけど、視界の端に常に陽がいる。

 三十分ほど経って、ふと視界がぼやけた。眠気が、まぶたの裏からじわじわ這い上がってくる。昨日の逆。こいつの寝顔を見た、あの時間を思い出す。

 「寝てもいいよ」と陽が小声で言う。

 「寝ない」

 「じゃあ、俺が寝る」

 「なんで」

 「寝顔、見られたい」

 「……変態」

 陽は声を出さない笑い方をする。あくびを噛み殺すふりをして、机に腕を置いて、目を閉じる。俺はページをめくるふりをしながら、視線が勝手に釘付けになるのを止められない。まつ毛の影。緩んだ口元。額にかかる前髪の一本。観察という言葉を使いたくなるほど、細部がやけに鮮明だった。

 「ねえ」と、目を閉じたまま陽が言う。

 「なに」

 「内緒にしようか」

 「何を」

 「これ。図書室。相合い傘。歩幅のこと、全部」

 予想していたより、ずっと簡単に口にされた。俺は返事に迷う。隠したいわけじゃない。でも、言葉にした瞬間、名前がついて、余計な色が混ざる。噂とか、誤解とか。面倒ごとが一気に集まってくるのが想像できた。

 「言わなくても、伝わることってあるだろ」

 そう言うと、陽は目を開けずに頷いた。頷き方が、少し嬉しそうだった。

 「じゃあ、内緒」

 「内緒」

 言葉のかたちがふたりの間に置かれた。目に見えないのに、確かにあるもの。透明な箱みたいなものができて、その中に今日までの出来事がひとつずつ収まっていく。寝顔、窓際、傘、既読の青。触ったら指紋がつくから、そっとしておく。

 帰り際、俺たちはまた昇降口に立った。昨日と同じように、黒い傘が二人を包む。昨日と違うのは、持ち手の黄色い丸だけ。小さな太陽みたいなシールが、雨の中で控えめに明るい。

 校門を出たところのコンビニで、俺たちはいったん傘を閉じた。屋根の下、濡れた地面が反射して、店内の蛍光灯の白が足元まで伸びる。陽が「肉まん食べる?」と聞く。俺は迷って、頷いた。スチーマーの蓋が上がると、白い湯気が傘の中より温かい匂いを運んできた。

 店の隅に立って、熱い肉まんを半分に割る。指先に熱が移る。陽が受け取る。蒸気が目に入って、少しだけ瞬きを多くする。そんな些細なことが、異常なくらいに記憶に残る。

 「湊」

 「なに」

 「俺、図書委員になったの、今年からじゃないんだ」

 「知ってる。去年は名前なかった」

 「うん。去年の途中でやめた」

 「なんで」

 陽は肉まんを一口かじって、視線を外した。屋根から落ちる雨の線を、一本ずつ数えるみたいに見ている。

 「家のこと」

 それ以上は言わなかった。俺も、聞かなかった。聞けなかった。理由は、聞いてしまえば、内緒の箱の形が変わる気がしたから。今の形が、とてもぴったりきていたから。

 「じゃあ、今年の途中からまた」

 「そう。熊谷先生に、もう一回お願いした」

 「熊谷先生、ああ見えて優しいからな」

 「うん。ああ見えて、ね」

 陽が微笑む。その微笑みの奥に、うっすらと別の色が混ざるのがわかる。明るい色の向こうに暗い色。暗い色の向こうに、また明るい色。湊かなえの小説の登場人物みたいに、誰もが何かを抱えていて、それが人を完全に悪くもしないし、完全に善にも変えない。生きているぶんだけ重くて、でも、ちゃんと持てる重さで。

 店を出ると、雨は少し弱まっていた。傘を広げる。透明な箱に、コンビニの湯気の匂いがふわりと入り込む。二人で歩く。信号待ち。車が水を跳ねる。制服の裾がもう一度湿る。

 「明日も、この席?」と陽が言う。

 「たぶん」

 「たぶん、も、内緒のうち?」

 「そうかも」

 「じゃあ、たぶんに、はいを混ぜておく」

 陽の言語センスは、たまに子どもっぽくて、たまに大人びている。均等じゃないのに、つり合いが取れている。俺は頷いて、傘の柄を握り直した。手の中の重みが、昨日よりもしっかりと感じられる。

 駅で別れ、電車の窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑う。誰にも見えないところで笑えるのは、内緒の効能のひとつだと気づく。家に着く頃には雨は止みかけていて、アスファルトの色が濃いままの街を、雨上がりの匂いが薄く覆っている。

 夜。
 机の上に傘を立てかける。黄色い丸いシールが、部屋の灯りを受けて、昼間よりもはっきりと目に入る。スマホが震える。陽から。

 今日の肉まん、半分こ美味しかった。今度はあんまんにしよう。

 俺は「どっちでもいい」と打ちかけて、「あんまんは甘すぎる」と直す。送って、すぐに届く既読。少し間があって、返事。

 甘いの、苦手?

 少し。
 甘いの苦手なんだ。
 でも、たまにはいい。
 たまに、がちょうどいい。
 言葉が四つまで頭の中に並んで、結局送ったのは最初の二つだけだった。

 苦手は、知っとく。

 知られることが、怖くない。むしろ安心する。俺はベッドに潜り込み、天井を見上げる。黄色い丸いシールを想像する。目を閉じて、今日の雨の音をもう一度呼び出す。傘の縁から落ちる水の線。遮断機の赤。コンビニの湯気。相合い傘の内側の暗い空間に、ふたりだけの名前のない気配が漂っている。言葉にしないものほど、強く長く残るのは、どうしてだろう。

 翌朝。
 雨は止んで、空気の湿度だけが残っていた。窓ガラスに薄く曇りがついて、指でなぞるとすぐに消える。学校に着くと、昇降口の前に陽がいた。傘は持っていない。代わりに、ペットボトルの水を持っている。キャップに口をつける瞬間、目が合う。

 「おはよ」

 「おはよう」

 「傘、昨日ので正解だった」

 「正解?」

 「うん。湊の家の方が駅から遠い」

 「なんで知ってる」

 「歩幅合わせてたら、分かる」

 冗談めかしているのに、目は真面目だった。たぶん本当に、歩幅で分かる何かがあるのだろう。俺たちは靴箱で靴を履き替え、階段を上がる。廊下の角で、熊谷先生とすれ違う。先生は俺たちの顔を順番に見て、いつもの調子で言う。

 「図書室、今日も開けておくからね。静かに」

 「はい」と俺。「はい」と陽。二重の返事に先生がまた少し笑って、行ってしまう。俺は陽を見る。陽も俺を見る。内緒の箱の中で、今日の分の空白が用意される音がした。そこに入るべきものは、まだ決まっていない。でも、たぶん、決まり方は昨日と似ている。昨日と違う。

 昼休み、廊下の端の自販機の前で、俺たちはまた並んだ。陽がスポーツドリンク、俺は麦茶。同じタイミングでボタンを押して、同じタイミングで取り出し口に手を入れる。陽が「シンクロした」と言って笑う。俺はキャップを開けながら、あえて笑わなかった。笑わないことも、共有の一部になっていく。

 午後、黒板の前で先生の声が少しだけ遠くなる時間。窓の外に、薄い雲が流れる。雨が上がったせいで光が戻り、白いチョークの粉の舞い方がよく見えた。陽は前を向いて、ノートに何かを書いている。視線を落としても、横からの気配は消えない。消えてほしくもない。

 放課後。
 図書室のドアを押すと、冷たい空気がまとわりつく。昨日よりも本の匂いが濃い。湿度が下がったからなのか、紙の繊維まで指の先で感じる。窓際の席に座る。陽が向かいに座る。いつものように本をひらき、いつものようにページをめくる。違うのは、俺たちの間に置かれた見えない箱の存在を、昨日よりもはっきり自覚していること。

 「ねえ、湊」と陽が小声で言う。

 「なに」

 「この箱、名前つける?」

 「いらない」

 「いらない?」

 「名前つけたら、余計な人が覗く」

 「覗かれたくない?」

 「覗かれて嬉しいやつは、ここに置かない」

 陽は少しだけ目を丸くして、それからうなずいた。「うん」とだけ言って、またページに視線を落とす。俺は、その横顔を一秒だけ見て、すぐに自分のページに戻る。

 熊谷先生の「静かにね」が今日も遠くで響いた。俺たちは静かに頷く。窓の外、昨日より明るい空に、薄い虹が一本、まだ色を決め切れていない線みたいに浮かんでいた。誰かに教えるほどのものではない。けれど、ここからなら見える。ここからなら、二人で同じものを見たと、胸の奥でそっと言える。

 これが内緒の始まり。
 言わなくても伝わる気配の名前。
 雨の粒が作った内側の空間に、光が一本だけ差し込む。その細い線が、これから先、何度も、何度でも、俺たちの歩幅を照らすのだろうと思った。