告白の翌朝、校門の旗はいつも通り風に鳴っていた。掲示板のポスターは角が少しめくれて、昨日のテープの端が日に透けて見える。世界は大きく変わらない。けれど、靴の中の足の位置が、いつもよりぴたりと合っていた。歩幅が勝手に整う。体のどこかで、昨日の鍵の音がまだ鳴っている。
昇降口で靴を履き替えると、早乙女が階段の上から手を振った。いつもの笑い方で、少しだけ長く。
「おはよう、文化祭顔」
「それ、昨日も言った」
「今日も継続。で、午後は図書室で通常運転?」
「通常運転」
「よろしい。運転免許、二人に交付」
意味のない免許が、朝の背筋を軽くした。教室に入ると、朝のざわめきがいつも通り広がっている。黒板には英単語の小テストの予告、窓際の机にはまだ誰かの忘れた体育着。俺は席に鞄を置き、プリントを出しているふりをする。背中のほうで、名前が呼ばれた。
「湊」
振り向くと、陽がドアのところにいた。昨日と同じ速さで目が合い、同じ速さで口角が上がる。違うのは、目線の長さがほんの少しだけ長いこと。合図の練習が、標準になった長さ。
「おはよう」
「おはよう」
ふたりの声が混ざって、朝の教室の音の中に紛れた。近くで男子が「古本市、意外と良かったな」と話している。別の女子が「短編集から入るの賢い」とうなずく。話題は文化祭が中心で、そこに粒のように噂が混じる。
神崎、昨日の午後さ
鍵の音、聞いた?
図書室、閉まってたらしいよ
軽い文字列がグループに流れてくるのを、ポケットのスマホが震えて知らせる。既読が増える速さと、自分の呼吸の速さは、もう一致しない。噂は勝手に走るが、俺たちの歩幅は乱れない。そう決めたから、体が先に従ってくれる。
一時間目の数学。先生の板書はいつも通り丁寧で、チョークの粉が黒板の下に薄く積もる。昨日の練習通り、押し込まない呼吸を繰り返す。問題の途中で、前の席の男子が振り返った。
「文化祭の写真、湊が撮ったやつ、よかったわ。踊り場の窓の」
「ありがとう」
短く返す。短い返事は、余計なものを増やさない。先生がこちらを見て、目だけで「静かにね」と合図する。図書室だけじゃない。教室にも、同じ合図がある。
休み時間、早乙女が机に寄りかかって小声で言った。
「午前のうちに教務のとこ、古本市の売上、先生が喜んでたって」
「ほんと?」
「『次も図書委員主催で』って。湊の帯の並べ方、評判よかったってさ」
「並べたの、半分は陽」
「知ってる。半分は言う、半分は内緒。昨日の配分のやつ」
微笑むと、早乙女はすぐに気づく。「顔がそうなった」とまた言って、席に戻った。彼女の軽さは、いつも実用的だ。
二時間目の現代文、三時間目の英語、四時間目の世界史。授業は連続し、ノートはいつも通り線で埋まる。違うのは、ページの端に小さな付箋を一枚挟んだこと。湊、の字がひらがなにほどけたやつ。俺が書いたやつを陽の机の角に忍ばせ、陽は昼休みに俺の筆箱の中へ小さな返事を滑り込ませた。
了解。標準継続。
今日のアイス、新作探す。
昼休み、購買のパンの列は長く、体育館の裏には日陰の風が通っていた。自販機の前で陽が小さくボールを蹴る。体育館の陰から出ては戻る、軽いドリブルの繰り返し。フェンスの金網に指を引っかけて見ていると、陽がボールを止めて言った。
「俺、湊といる時の方が、自分を好きになれる」
突然なのに、突然じゃない言い方。胸の中で準備されていた答えが、勝手に口に出た。
「俺も」
言い終えた瞬間、風が一段柔らかくなった気がした。誰かの笑い声が遠くで弾け、午後の鐘が空気を切る。昼休みの終わりは、いつも少し早い。
午後の授業が終われば、図書室。古本市の後片付けはほとんど済んでいて、今日は通常の貸出業務に戻る日。廊下で熊谷先生とすれ違う。
「静かにね」
合図の一言がうれしい。図書室の空気は、紙とインクの匂いに少しだけテープの残り香が混ざっている。窓際の席に座る前に、二人で返本の台車を押した。棚番号ごとに本を戻す。手は自然に役割を分ける。背の高い棚は陽、低い棚は俺。戻しながら、付箋で冗談を書く。背表紙の間に挟むには短い、机の端に並べるにはちょうどいい長さ。
湊、今日の標準、温度高め
神崎、今日の標準、目線長め
書いて見せれば、陽が肩をすくめる。「了解」と口だけで言い、俺の机にひとつ返す。
今日の標準、手は机の下で。
読んだ瞬間、机の下で指先が触れた。短く、確かに。触れた温度は、昨日より少し低く、昨日よりずっと落ち着いている。図書室の四角い光が、午後の角度で机に落ちる。光の四角は、季節で色が変わるらしい。春はやわらかく、夏は濃く、秋は澄んで、冬は青い。どの季節も、俺たちはここに座るだろう。付箋を交換し、時々は手を重ね、相合い傘で帰る。
「名前で呼ぶの、まだ緊張する?」
陽が小声で聞いた。カウンターの向こうで先生が返却処理をしている気配がする。
「ちょっと」
「何回でも練習しよ」
「練習、効く?」
「効く。昨日、効いた」
机の下で、指先がもう一度だけ触れる。触れて、離す。回数は多くなくていい。標準は、少ない回数で支えられる。
夕方、仕事がひと段落すると、熊谷先生が「助かった」と言って麦茶をくれた。紙コップの氷が鳴る。先生は「今日は早めに閉めるね」と言い、入り口の掲示に閉館時間を追加した紙を留めた。ステープラーの音が一回。音のきれいな一回。
「帰り、コンビニ」
「新作アイス半分こ」
「約束」
図書室を出て、昇降口へ向かう廊下を歩く。途中、クラスの男子が笑いながらヒソヒソを混ぜる。
神崎、昨日の鍵
いや、鍵の音は誰でも出せるし
でも、今日の顔、わかっただろ
わかった、の最後の音が少し下がった。確かめない。確かめなくていい。恥ずかしくないように進めば、少しずつ、余白が整う。廊下の角で早乙女が手を振る。
「はい、これ。記念のコーヒー牛乳。甘いやつ」
「なんの記念だよ」
「今日も標準。標準は祝う価値ある。あと、写真、今日の窓。陽にはまだ見せないで保存しときな」
「了解」
彼女はそれ以上何も言わず、軽く背中を押してくる。それだけで十分だ。昇降口を抜けると、夕方の風が顔に当たる。空は薄い橙で、電柱の影が長い。校門の外のコンビニは、いつもの白い光の中に新しいポップを増やしている。レジ横の冷凍ケースを開け、新作のアイスを二本取る。クッキー&キャラメル。名前が少し長い。半分に割るタイプで、分けやすい。
「俺、こっちの端」
「じゃあこっちの端」
紙を剥がす音が小さく重なる。ひと口目は甘く、二口目は冷たく、三口目は静かだ。陽は「うま」と言い、俺は「語彙」と返す。看板の光が顔に反射して、陽の目が少し明るく見える。コンビニの前のベンチは空いていて、二人で間を詰めすぎない距離に座る。
「明日、部活?」
「ある。朝練」
「じゃあ、明日の標準は既読遅めで」
「了解。湊は?」
「朝は文章短めで」
「了解」
連絡の標準を決めるなんて、誰に見せるものでもないのに、やけに誇らしい。決めたことのある人間は、少し強い。コンビニの自動ドアが開くたびに、ピンという音が鳴る。音が外に逃げていく。
「湊」
「なに」
「今度、休日、図書館じゃなくて、駅前の小さな本屋行こう。古本市で来てくれたおじいさんがやってるとこ」
「いいね」
「それと、サッカーの試合、次はもう少しだけ前で見る?」
「フェンスの切れ目のとこ」
「そこ。そこで、また合図する」
「了解」
会話は短く、約束は軽い。軽さは強さだ。強すぎる約束は折れやすい。日常を延長する約束は、曲がっても戻る。
駅へ向かう道、いつもの角でタクシーが一台止まり、誰かが降りる。電柱の影が靴先を斜めに横切る。信号が変わるのを待つ間、陽がふいに言った。
「俺さ、湊の写真の名前、ひとつ増やした」
「なに」
「『標準の光』」
「すぐ増やす」
「便利だから」
「褒めるのに便利なの、やめろ」
「褒めてるのに」
自分でも笑っているのがわかる。信号が青になり、横断歩道の白が足元を流れる。駅前のロータリーは人が多い。駅ビルに入る前、陽が立ち止まった。
「もうひとつ、決めとこう」
「なに」
「不意打ちで手をつなぐの、外ではしない。内側でだけ」
「了解」
「あと、写真に写る距離は、湊が決める」
「了解」
「合意の標準、増やした」
「増やすの、得意だな」
「湊のおかげで」
短いやりとりに、昨日の図書室の静けさが薄く混ざる。駅の改札の前で、ふたり同時に手を上げた。短い、いつものさよなら。
「また」
「また。湊」
改札を通って振り返ると、陽はもうホームへ向かう階段を登りはじめている。背中の形は、昨日と同じで、昨日より少し軽い。電車の風がホームから降りてきて、シャツの裾をふわりと持ち上げる。俺はその場で一度だけ深呼吸し、ホームへ上がる階段へ足を向けた。
家に着くと、母がキッチンでレタスを洗っていた。水の音が跳ね、流しの銀色に光が走る。
「おかえり。文化祭、お疲れさま」
「ただいま。売上、良かったって」
「先生からメッセージ来てた。図書委員、優秀。湊、鍵、ちゃんとできた?」
一瞬、心臓が小さく跳ねる。昨日の鍵の音が頭の中で再生される。俺はうなずいた。
「できた。静かに」
母は手を止め、俺の顔を見た。短くうなずいて、またレタスに戻る。聞きすぎない距離の安心。家の音が、体に戻る。
自室に戻って机に座る。カメラからデータを取り込み、文化祭の残りの写真をフォルダに分ける。昨日の窓の写真を「裏庭_練習」と名づけ、今日の図書室の光を「標準の光」に入れる。ファイル名は長くていい。長い名前は、思い出しやすい。
スマホが震く。陽からメッセージ。
今日の標準、完了。
アイス、また探す。
写真、ありがとう。
短い三行に、昨日の約束がちゃんと生きている。俺は返す。
こちらこそ。
明日は朝練、既読遅めで。
がんばれ。
既読の青はしばらくつかない。朝練の準備をしているのかもしれない。つかない青に不安は乗らない。標準にしておいたからだ。標準は、心を守る。
机の引き出しから小さなメモ用紙を出し、ペン先を紙に触れさせる。今日のまとめを短く残す。長い文章にしない。短い言葉で何度も支える。
これからの放課後、よろしく。
書いて、栞に挟む。栞の黒い縁を指でなぞる。指先に、紙の粉の微かなざらつきが戻ってくる。図書室の四角い光が、まぶたの裏に浮かぶ。春はやわらかく、夏は濃く、秋は澄んで、冬は青い。そのすべての色で、俺たちは同じ席に座る。メモを交換し、冗談を書き、時々は黙って手を重ねる。見守ってくれる人たちが、遠く近くにいる。熊谷先生の「静かにね」が、いつでもどこでも聞こえるように、やさしく進もう。
ベッドに横になり、天井を見上げる。昨日よりも白が近い。昨日よりも、眠りは浅くない。目を閉じる前に、最後の行だけ心の中で声にする。
これからの放課後、よろしく。
手を握り返す温度が、胸の内側できちんと残る。陽が答える。こちらこそ。声は小さくても、ちゃんと届く。その音の上で息を整え、俺は静かに眠りに落ちた。
<おしまい>
昇降口で靴を履き替えると、早乙女が階段の上から手を振った。いつもの笑い方で、少しだけ長く。
「おはよう、文化祭顔」
「それ、昨日も言った」
「今日も継続。で、午後は図書室で通常運転?」
「通常運転」
「よろしい。運転免許、二人に交付」
意味のない免許が、朝の背筋を軽くした。教室に入ると、朝のざわめきがいつも通り広がっている。黒板には英単語の小テストの予告、窓際の机にはまだ誰かの忘れた体育着。俺は席に鞄を置き、プリントを出しているふりをする。背中のほうで、名前が呼ばれた。
「湊」
振り向くと、陽がドアのところにいた。昨日と同じ速さで目が合い、同じ速さで口角が上がる。違うのは、目線の長さがほんの少しだけ長いこと。合図の練習が、標準になった長さ。
「おはよう」
「おはよう」
ふたりの声が混ざって、朝の教室の音の中に紛れた。近くで男子が「古本市、意外と良かったな」と話している。別の女子が「短編集から入るの賢い」とうなずく。話題は文化祭が中心で、そこに粒のように噂が混じる。
神崎、昨日の午後さ
鍵の音、聞いた?
図書室、閉まってたらしいよ
軽い文字列がグループに流れてくるのを、ポケットのスマホが震えて知らせる。既読が増える速さと、自分の呼吸の速さは、もう一致しない。噂は勝手に走るが、俺たちの歩幅は乱れない。そう決めたから、体が先に従ってくれる。
一時間目の数学。先生の板書はいつも通り丁寧で、チョークの粉が黒板の下に薄く積もる。昨日の練習通り、押し込まない呼吸を繰り返す。問題の途中で、前の席の男子が振り返った。
「文化祭の写真、湊が撮ったやつ、よかったわ。踊り場の窓の」
「ありがとう」
短く返す。短い返事は、余計なものを増やさない。先生がこちらを見て、目だけで「静かにね」と合図する。図書室だけじゃない。教室にも、同じ合図がある。
休み時間、早乙女が机に寄りかかって小声で言った。
「午前のうちに教務のとこ、古本市の売上、先生が喜んでたって」
「ほんと?」
「『次も図書委員主催で』って。湊の帯の並べ方、評判よかったってさ」
「並べたの、半分は陽」
「知ってる。半分は言う、半分は内緒。昨日の配分のやつ」
微笑むと、早乙女はすぐに気づく。「顔がそうなった」とまた言って、席に戻った。彼女の軽さは、いつも実用的だ。
二時間目の現代文、三時間目の英語、四時間目の世界史。授業は連続し、ノートはいつも通り線で埋まる。違うのは、ページの端に小さな付箋を一枚挟んだこと。湊、の字がひらがなにほどけたやつ。俺が書いたやつを陽の机の角に忍ばせ、陽は昼休みに俺の筆箱の中へ小さな返事を滑り込ませた。
了解。標準継続。
今日のアイス、新作探す。
昼休み、購買のパンの列は長く、体育館の裏には日陰の風が通っていた。自販機の前で陽が小さくボールを蹴る。体育館の陰から出ては戻る、軽いドリブルの繰り返し。フェンスの金網に指を引っかけて見ていると、陽がボールを止めて言った。
「俺、湊といる時の方が、自分を好きになれる」
突然なのに、突然じゃない言い方。胸の中で準備されていた答えが、勝手に口に出た。
「俺も」
言い終えた瞬間、風が一段柔らかくなった気がした。誰かの笑い声が遠くで弾け、午後の鐘が空気を切る。昼休みの終わりは、いつも少し早い。
午後の授業が終われば、図書室。古本市の後片付けはほとんど済んでいて、今日は通常の貸出業務に戻る日。廊下で熊谷先生とすれ違う。
「静かにね」
合図の一言がうれしい。図書室の空気は、紙とインクの匂いに少しだけテープの残り香が混ざっている。窓際の席に座る前に、二人で返本の台車を押した。棚番号ごとに本を戻す。手は自然に役割を分ける。背の高い棚は陽、低い棚は俺。戻しながら、付箋で冗談を書く。背表紙の間に挟むには短い、机の端に並べるにはちょうどいい長さ。
湊、今日の標準、温度高め
神崎、今日の標準、目線長め
書いて見せれば、陽が肩をすくめる。「了解」と口だけで言い、俺の机にひとつ返す。
今日の標準、手は机の下で。
読んだ瞬間、机の下で指先が触れた。短く、確かに。触れた温度は、昨日より少し低く、昨日よりずっと落ち着いている。図書室の四角い光が、午後の角度で机に落ちる。光の四角は、季節で色が変わるらしい。春はやわらかく、夏は濃く、秋は澄んで、冬は青い。どの季節も、俺たちはここに座るだろう。付箋を交換し、時々は手を重ね、相合い傘で帰る。
「名前で呼ぶの、まだ緊張する?」
陽が小声で聞いた。カウンターの向こうで先生が返却処理をしている気配がする。
「ちょっと」
「何回でも練習しよ」
「練習、効く?」
「効く。昨日、効いた」
机の下で、指先がもう一度だけ触れる。触れて、離す。回数は多くなくていい。標準は、少ない回数で支えられる。
夕方、仕事がひと段落すると、熊谷先生が「助かった」と言って麦茶をくれた。紙コップの氷が鳴る。先生は「今日は早めに閉めるね」と言い、入り口の掲示に閉館時間を追加した紙を留めた。ステープラーの音が一回。音のきれいな一回。
「帰り、コンビニ」
「新作アイス半分こ」
「約束」
図書室を出て、昇降口へ向かう廊下を歩く。途中、クラスの男子が笑いながらヒソヒソを混ぜる。
神崎、昨日の鍵
いや、鍵の音は誰でも出せるし
でも、今日の顔、わかっただろ
わかった、の最後の音が少し下がった。確かめない。確かめなくていい。恥ずかしくないように進めば、少しずつ、余白が整う。廊下の角で早乙女が手を振る。
「はい、これ。記念のコーヒー牛乳。甘いやつ」
「なんの記念だよ」
「今日も標準。標準は祝う価値ある。あと、写真、今日の窓。陽にはまだ見せないで保存しときな」
「了解」
彼女はそれ以上何も言わず、軽く背中を押してくる。それだけで十分だ。昇降口を抜けると、夕方の風が顔に当たる。空は薄い橙で、電柱の影が長い。校門の外のコンビニは、いつもの白い光の中に新しいポップを増やしている。レジ横の冷凍ケースを開け、新作のアイスを二本取る。クッキー&キャラメル。名前が少し長い。半分に割るタイプで、分けやすい。
「俺、こっちの端」
「じゃあこっちの端」
紙を剥がす音が小さく重なる。ひと口目は甘く、二口目は冷たく、三口目は静かだ。陽は「うま」と言い、俺は「語彙」と返す。看板の光が顔に反射して、陽の目が少し明るく見える。コンビニの前のベンチは空いていて、二人で間を詰めすぎない距離に座る。
「明日、部活?」
「ある。朝練」
「じゃあ、明日の標準は既読遅めで」
「了解。湊は?」
「朝は文章短めで」
「了解」
連絡の標準を決めるなんて、誰に見せるものでもないのに、やけに誇らしい。決めたことのある人間は、少し強い。コンビニの自動ドアが開くたびに、ピンという音が鳴る。音が外に逃げていく。
「湊」
「なに」
「今度、休日、図書館じゃなくて、駅前の小さな本屋行こう。古本市で来てくれたおじいさんがやってるとこ」
「いいね」
「それと、サッカーの試合、次はもう少しだけ前で見る?」
「フェンスの切れ目のとこ」
「そこ。そこで、また合図する」
「了解」
会話は短く、約束は軽い。軽さは強さだ。強すぎる約束は折れやすい。日常を延長する約束は、曲がっても戻る。
駅へ向かう道、いつもの角でタクシーが一台止まり、誰かが降りる。電柱の影が靴先を斜めに横切る。信号が変わるのを待つ間、陽がふいに言った。
「俺さ、湊の写真の名前、ひとつ増やした」
「なに」
「『標準の光』」
「すぐ増やす」
「便利だから」
「褒めるのに便利なの、やめろ」
「褒めてるのに」
自分でも笑っているのがわかる。信号が青になり、横断歩道の白が足元を流れる。駅前のロータリーは人が多い。駅ビルに入る前、陽が立ち止まった。
「もうひとつ、決めとこう」
「なに」
「不意打ちで手をつなぐの、外ではしない。内側でだけ」
「了解」
「あと、写真に写る距離は、湊が決める」
「了解」
「合意の標準、増やした」
「増やすの、得意だな」
「湊のおかげで」
短いやりとりに、昨日の図書室の静けさが薄く混ざる。駅の改札の前で、ふたり同時に手を上げた。短い、いつものさよなら。
「また」
「また。湊」
改札を通って振り返ると、陽はもうホームへ向かう階段を登りはじめている。背中の形は、昨日と同じで、昨日より少し軽い。電車の風がホームから降りてきて、シャツの裾をふわりと持ち上げる。俺はその場で一度だけ深呼吸し、ホームへ上がる階段へ足を向けた。
家に着くと、母がキッチンでレタスを洗っていた。水の音が跳ね、流しの銀色に光が走る。
「おかえり。文化祭、お疲れさま」
「ただいま。売上、良かったって」
「先生からメッセージ来てた。図書委員、優秀。湊、鍵、ちゃんとできた?」
一瞬、心臓が小さく跳ねる。昨日の鍵の音が頭の中で再生される。俺はうなずいた。
「できた。静かに」
母は手を止め、俺の顔を見た。短くうなずいて、またレタスに戻る。聞きすぎない距離の安心。家の音が、体に戻る。
自室に戻って机に座る。カメラからデータを取り込み、文化祭の残りの写真をフォルダに分ける。昨日の窓の写真を「裏庭_練習」と名づけ、今日の図書室の光を「標準の光」に入れる。ファイル名は長くていい。長い名前は、思い出しやすい。
スマホが震く。陽からメッセージ。
今日の標準、完了。
アイス、また探す。
写真、ありがとう。
短い三行に、昨日の約束がちゃんと生きている。俺は返す。
こちらこそ。
明日は朝練、既読遅めで。
がんばれ。
既読の青はしばらくつかない。朝練の準備をしているのかもしれない。つかない青に不安は乗らない。標準にしておいたからだ。標準は、心を守る。
机の引き出しから小さなメモ用紙を出し、ペン先を紙に触れさせる。今日のまとめを短く残す。長い文章にしない。短い言葉で何度も支える。
これからの放課後、よろしく。
書いて、栞に挟む。栞の黒い縁を指でなぞる。指先に、紙の粉の微かなざらつきが戻ってくる。図書室の四角い光が、まぶたの裏に浮かぶ。春はやわらかく、夏は濃く、秋は澄んで、冬は青い。そのすべての色で、俺たちは同じ席に座る。メモを交換し、冗談を書き、時々は黙って手を重ねる。見守ってくれる人たちが、遠く近くにいる。熊谷先生の「静かにね」が、いつでもどこでも聞こえるように、やさしく進もう。
ベッドに横になり、天井を見上げる。昨日よりも白が近い。昨日よりも、眠りは浅くない。目を閉じる前に、最後の行だけ心の中で声にする。
これからの放課後、よろしく。
手を握り返す温度が、胸の内側できちんと残る。陽が答える。こちらこそ。声は小さくても、ちゃんと届く。その音の上で息を整え、俺は静かに眠りに落ちた。
<おしまい>



