文化祭の朝は、校門の横断幕が風に鳴っていた。色紙の角がわずかにめくれ、ガムテープの端に光が乗る。いつもより早く登校した校庭には、もう人の動きが出来上がっていて、運搬用の台車が砂の溝に時々引っかかる音があちこちで響いた。俺は教室に段ボールを置き、クラス展示の最終チェックに入る。黒い模造紙に貼った写真のずれを直し、受付の小銭を数える。数え直す。数え直しても、緊張の桁がひとつ減らない。
クラスのテーマは「思い出とこれから」。壁に貼られた写真の中に、俺が撮った「踊り場の窓」が混じっている。薄い雲と、平らな光。あの日、陽が「ここ、好きなんだよね」と言った窓。その前を通るたび、胸の中の何かが位置を取り直す。
午前中は、来場者の流れが絶えなかった。子供の声が混ざると、空気は軽くなる。パンフレットの角が柔らかくなっていき、受付のメンバーは交代で水を飲んだ。俺がレンズを首から下げて会場の端を回っていると、早乙女が自分のカメラを片手に寄ってくる。
「湊、顔が文化祭じゃない」
「どういう」
「頭の中、午後。図書室。あの鍵。でいっぱい」
図星だった。苦笑いが浮かんで、自分でもそれに驚く。笑う余裕が、少しはあるらしい。
「練習は?」
「練習、って」
「ほら。名前で呼ぶ練習、合図の練習、受け取りの練習。告白も練習しておきなよ、口の形」
「今ここで?」
「裏庭、昼休み。貸す。場所」
早乙女はそれだけ言って、人混みの中に戻っていった。彼女の背中はまっすぐで、肩甲骨の間にある髪の結び目がやけに落ち着いて見えた。
十一時すぎ。クラス展示の客入りはピークを迎え、俺は受付に入ってお釣りを渡す係を一時間だけ担当した。財布のファスナーの金具が小さな音を出すたび、胸の奥の速度が違うところに絡む。昼休み近く、陽が教室の入り口から顔を出した。入口付近の騒ぎが自然に薄くなり、そこだけ音が少し静かになる。
「湊」
呼ばれて、体の重心が整う。便利な言葉だ。俺は親指で自分の胸ポケットを軽く叩いて、合図を返す。陽は短く頷き、手を一度だけ振って消えた。古本市の会場準備に戻ったのだろう。
昼休み。早乙女にラインを送る前に、向こうから「裏庭、今」のメッセージ。教室の喧騒を抜け、廊下を歩く。中庭では演劇部のメイク待ちの子が鏡を覗いている。石畳の角で靴が硬い音を出す。裏庭に回り込むと、体育館の影が細長く芝生に落ちていた。ベンチが一脚、木の匂いを強くしている。早乙女はベンチの上にカメラを置き、両手で顔をあおいでいた。
「はい、練習。横顔の角度は自由。視線の高さは標準。声の大きさは、ここから図書室に届くくらい」
「それ、無理」
「無理って言う人は、本番で足りない分だけが出せない。練習で多めに出しとく。で、言葉は短文で。回りくどいの禁止。湊の標準」
「……分かった」
「じゃ、イメージ。図書室の窓際、午後の光、鍵はここにある。熊谷先生は『静かにね』を置いて出ていった。はい」
早乙女の指示は早口なのに、脳にすっと入ってくる。俺はベンチの背に手をかけ、深呼吸を一度。喉の渇きが消えない。舌の奥が少し熱い。
「神崎」
口に出した瞬間、自分の発音がひどく他人行儀に聞こえて、言い直す。
「陽」
言い直しただけで、胸の奥が少し緩んだ。
「俺、たぶん、じゃなくて、好き。弱いの嫌だから、好き。ちゃんと」
言って、手の甲に汗が滲むのを感じる。早乙女はうん、と頷いた。
「短くていい。力もある。湊の体に合ってる。ただ、たぶん、の前に一回呼吸が上がる。そこ、押し込まないで、流して」
「流す」
「そう。水を流すみたいに。で、最後に確認。相手の呼吸の速さを見る。速ければ、もう一回だけ、遅い言葉を置く」
「遅い言葉」
「例えば、『焦らないで一緒にいよう』とか。湊の言葉にして」
俺はベンチの木目を親指でなぞった。言葉を増やすと恥ずかしさが音を立てる。けれど、増やさずに伝えられるほど、俺は器用じゃない。
「ありがとう」
「礼はいらない。友達として、押しただけ」
「押された」
「正しく押すのが私の長所。ほら、戻れ。午後は古本市。湊の場所」
戻る途中、体育館の扉の隙間から、吹奏楽部の音が漏れてきた。チューニングの不安定な音が、次の瞬間、ふっと揃う。揃った音は、体の芯をまっすぐ通った。
古本市の会場に着くと、入口の看板が昼の光を反射していた。図書室のドアを開けると、人の熱と紙の匂いに包まれる。熊谷先生の視線がこちらに向いて、合図だけ置いていった。「静かにね」。いつもの速度だ。
午後は人の流れが一定で、ずっと忙しかった。おすすめ棚の本が次々と減っていく。陽は入口で動線を調整し、時々カウンターに来て「水」とだけ言う。俺はカップを差し出し、彼の指先に一瞬触れる。触れた温度が、冷たくて真面目だ。
三時半、客足が少し落ち着くと、陽がカウンターの裏側に回ってきた。段ボールの中身を詰め直し、会計台の上の紙をそろえる。子供が落とした小さな栞を拾い、机の端に置く。そういう動きを見ているだけで、落ち着く。落ち着いたところで、熊谷先生が鍵束をカウンターに置いた。
「このあと、ちょっと体育館。十五分で戻る。施錠、任せたよ」
「はい」
「静かにね」
先生は笑って出ていく。ドアが閉まる音がして、図書室の中の音が一段落ちる。残っているのは、紙の擦れる音と、窓の外を通る足音だけ。人影が切れて、入口の表示板の「入場可能」の札が寂しそうに揺れた。
陽が鍵に視線を落として、俺を見る。
「湊」
「陽」
呼び合う声が、部屋の真ん中に落ちる。鍵が机の上で小さく鳴った。それが合図に聞こえた。俺はカウンターから出て、いつもの窓際の席に立つ。陽が反対側に回ってきて、机の角に指を置く。指先はあの日の紙の粉の記憶をまだ持っているみたいに、落ち着いて見える。
深呼吸を一回。早乙女が言っていた練習のことを思い出す。たぶん、の前に呼吸が上がる。押し込まない。流す。流してから、言う。
「好き、だと思う。……思う、じゃ弱い。好き。ちゃんと」
言葉は短くした。短くしたから、音がはっきり聞こえた。自分の声なのに、誰かに読まれているみたいな感じがした。陽は目を見た。目を見るのが合図だと決めたのは俺たちだ。合図の通り、彼のまぶたが一瞬だけゆっくり動く。
「俺はずっと、好き。焦らないで来て良かった」
返ってきた言葉が、練習よりも深くて、遅かった。遅い言葉は、心臓の下の方にやさしく沈む。その沈み方に、体が勝手に安堵する。陽が机の角から一歩近づいて、抱きしめられた。頬と頬の間に、窓からの光が薄く入る。制服の布と布の摩擦の音が、ほとんど聞こえないくらい小さい。合図の確認をひとつずつやっていくみたいに、彼は耳元で息を整えた。
「触れていい?」
「……うん」
合意の確認。大事なやつ。俺はうなずく。うなずきの角度は、練習よりも少し大きい。陽の手が、背中の上で迷わず止まる。止めてから、力をほんの少しだけ抜く。抜いた力のぶん、温度が近づく。頬に軽く触れるものがあって、驚くほど自然に目を閉じる。頬に、キス。音はない。音がないくせに、世界は盛大に静かになった。図書室の外の喧騒が遠ざかり、鍵の存在だけがここに残る。
「ありがとう」
言う俺の声が、図書室の壁にやわらかく跳ね返った。陽は笑って、もう一度だけ抱きしめた。抱きしめる強さは軽くて、でもそれで十分だった。
「これで、内緒じゃなくてもいいけど」
陽が少し離れて、目の端で笑う。
「二人の内緒も、残そう」
「半々で」
「半々、了解」
半分は、外に見せる名前。半分は、ここに置いておく温度。二人で決めた配分は、ちょうど良かった。俺は机の角に触れて、さっきまでの緊張がそこにまだ残っていることを確かめる。残っていてもいい。残りは、役に立つ。
時間を見て、俺たちは鍵束を手に取る。扉の鍵を一度回して、すぐ戻す。試すみたいに。音が小さく鳴って、部屋の空気が変わらなかったのを確かめ、扉を開ける。廊下に出ると、人の声が一度に戻ってきた。文化祭の午後の音。笑い声、呼び込みの声、吹奏楽の遠い響き。陽が並んで歩く。いつもの距離、いつもの速度。だけど、見える景色は少し違っている。色が濃い。匂いがわずかに強い。世界の輪郭が太い。
階段を下りる途中、早乙女が踊り場で待っていた。自販機の横、柱の影。片手に缶コーヒーを二本。
「おめでとう」
「見てた?」
「音で全部わかった」
「音?」
「鍵の音。息の音。出る音、消える音。編集は得意」
からかわれているのに、腹が立たなかった。むしろ嬉しい。早乙女は缶を一本ずつ渡して、俺たちの顔を見比べる。
「湊、顔が文化祭になった」
「どういう」
「ちゃんと今をやってる顔」
陽が缶を開ける。俺も続く。炭酸じゃないのに、開けた瞬間に少しだけ胸が弾ける。苦い。苦いのに、喉を通るのはやさしい。三人でしばらく何も言わず、踊り場の窓から差す光を見た。午前に比べて角度が低く、窓枠の影が階段の段にくっきり落ちる。人が通るたびに影が切れて、また繋がる。
「午後、古本市は?」
「盛況。短編集が効いてる」
「前菜理論、ね」
「それはお前が言った」
「言った。正しかった」
早乙女は空になりかけた缶を両手で包み、息を吹きかけた。
「で、いつ言うの。外に向けて」
「半分だけ、まだ内緒にする」
「半々か。じゃあ、私の口も半分閉めとく」
「半分は開くのか」
「開くよ。だって写真は撮るでしょ」
「撮るのか」
「撮るよ。記録と記憶、両方。どちらも薄まるから、混ぜる」
早乙女はそれだけ言って、缶をゴミ箱に入れた。「午後の光、逃さないようにね」と言い残して、走るように去っていった。彼女の背中は、さっきより少し軽かった。
図書室に戻ると、熊谷先生が鍵を返してくれた。「静かにね」と、いつもの合図。俺たちは同時に「はい」と返す。奇妙にうれしいユニゾンだった。古本市の後半は、午前ほど賑やかではなかったが、人は途切れなかった。陽は入口に立ちながら、ときどきこちらを見て微笑む。微笑みの角度が、以前よりゆっくりで、長かった。合図の練習が、もう標準になっている。
閉館の時間。最後の会計が終わり、来場者が帰る。図書室の中に静けさが戻って、紙の匂いだけが残る。椅子を机の下に収め、ポスターを外し、値札の束を箱に入れる。今日の残像を少しずつ畳む作業。畳みながら、俺は心の中に一枚だけ折り目を増やした。午前の練習、午後の本番。その境目に、鍵の小さな音がある。あの音が、今日を分けた。
すべて片付いたあと、俺たちは扉の前に立った。先生の鍵束はカウンターに置いたまま。廊下の向こうから、吹奏楽の最後の曲が薄く聞こえる。陽が口を開いた。
「練習、効いた?」
「効いた。押し込まないで言えた」
「俺も。待つ練習、役に立った」
「ありがとう」
「こちらこそ」
短い言葉のやりとりが、今日の最後の確認になる。確認ができると、心は静かだ。静かさは強い。扉を開けて廊下に出ると、外は夕焼けだった。ポスターの端が朱色に染まり、窓ガラスの一枚が火のように光る。風が吹き抜け、テープの端がわずかに揺れる。
校門まで、一緒に歩く。途中でクラスの展示の前を通った。俺が撮った「踊り場の窓」の前で、誰かが立ち止まっている。小さな子が指をさして、母親に何かを言っている。母親はうなずき、子供の頭を撫でた。俺は足を止めず、横目でその光景を飲み込んだ。飲み込んで、ポケットの中の指を軽く握った。陽の視線が横から届く。届いて、俺の握りが少し緩む。
校門の外、人の流れは駅方面へ伸びる。屋台の匂い、笑い声、呼び込みの声。賑やかさの中で、俺たちの速度は落ち着いている。陽が立ち止まり、耳元に唇を寄せる。触れない距離、届く距離。
「今日は、最高」
「俺も」
「明日からも、標準で」
「半分、内緒で」
「半々、了解」
手を振って別れる。陽の手の振りは、いつも通りで、少し長かった。角を曲がって見えなくなるまで、俺は立ち尽くす。音が薄れていく。薄れた音の隙間に、今日の鍵の音がもう一度だけ鳴った気がした。
家に帰って、シャワーの音の中で、俺はさっきの言葉を心の中でなぞった。好き、ちゃんと。俺の口が、あの形を覚えた。覚えて、体のどこかに置いた。置いた場所は、簡単には動かない。タオルで頭を拭きながら、机に向かう。引き出しから白いメモ用紙を出して、ペンを取る。書く。
焦らないで、一緒にいよう。半分は、内緒で。
書いた字は、やっぱり他人行儀だった。けれど、今日はそれでいい。栞に挟む。挟んで、ライトを消す。部屋の暗さがゆっくり降りてくる。まぶたの裏に、図書室の窓際の光が残った。残る光の上に、手の温度と、鍵の音と、短い言葉を置く。置いて、眠りに落ちるまで、今日の午後の速度を心臓の中で何度か再生した。
練習は本番のためにある。本番は、明日からの標準になる。標準になったものは、強い。明日、図書室で彼の目を見る時間を、今日よりもほんの少しだけ長くしよう。合図はもう共有済みだ。回数で強くする。それでいい。それが、俺たちのやり方だ。
クラスのテーマは「思い出とこれから」。壁に貼られた写真の中に、俺が撮った「踊り場の窓」が混じっている。薄い雲と、平らな光。あの日、陽が「ここ、好きなんだよね」と言った窓。その前を通るたび、胸の中の何かが位置を取り直す。
午前中は、来場者の流れが絶えなかった。子供の声が混ざると、空気は軽くなる。パンフレットの角が柔らかくなっていき、受付のメンバーは交代で水を飲んだ。俺がレンズを首から下げて会場の端を回っていると、早乙女が自分のカメラを片手に寄ってくる。
「湊、顔が文化祭じゃない」
「どういう」
「頭の中、午後。図書室。あの鍵。でいっぱい」
図星だった。苦笑いが浮かんで、自分でもそれに驚く。笑う余裕が、少しはあるらしい。
「練習は?」
「練習、って」
「ほら。名前で呼ぶ練習、合図の練習、受け取りの練習。告白も練習しておきなよ、口の形」
「今ここで?」
「裏庭、昼休み。貸す。場所」
早乙女はそれだけ言って、人混みの中に戻っていった。彼女の背中はまっすぐで、肩甲骨の間にある髪の結び目がやけに落ち着いて見えた。
十一時すぎ。クラス展示の客入りはピークを迎え、俺は受付に入ってお釣りを渡す係を一時間だけ担当した。財布のファスナーの金具が小さな音を出すたび、胸の奥の速度が違うところに絡む。昼休み近く、陽が教室の入り口から顔を出した。入口付近の騒ぎが自然に薄くなり、そこだけ音が少し静かになる。
「湊」
呼ばれて、体の重心が整う。便利な言葉だ。俺は親指で自分の胸ポケットを軽く叩いて、合図を返す。陽は短く頷き、手を一度だけ振って消えた。古本市の会場準備に戻ったのだろう。
昼休み。早乙女にラインを送る前に、向こうから「裏庭、今」のメッセージ。教室の喧騒を抜け、廊下を歩く。中庭では演劇部のメイク待ちの子が鏡を覗いている。石畳の角で靴が硬い音を出す。裏庭に回り込むと、体育館の影が細長く芝生に落ちていた。ベンチが一脚、木の匂いを強くしている。早乙女はベンチの上にカメラを置き、両手で顔をあおいでいた。
「はい、練習。横顔の角度は自由。視線の高さは標準。声の大きさは、ここから図書室に届くくらい」
「それ、無理」
「無理って言う人は、本番で足りない分だけが出せない。練習で多めに出しとく。で、言葉は短文で。回りくどいの禁止。湊の標準」
「……分かった」
「じゃ、イメージ。図書室の窓際、午後の光、鍵はここにある。熊谷先生は『静かにね』を置いて出ていった。はい」
早乙女の指示は早口なのに、脳にすっと入ってくる。俺はベンチの背に手をかけ、深呼吸を一度。喉の渇きが消えない。舌の奥が少し熱い。
「神崎」
口に出した瞬間、自分の発音がひどく他人行儀に聞こえて、言い直す。
「陽」
言い直しただけで、胸の奥が少し緩んだ。
「俺、たぶん、じゃなくて、好き。弱いの嫌だから、好き。ちゃんと」
言って、手の甲に汗が滲むのを感じる。早乙女はうん、と頷いた。
「短くていい。力もある。湊の体に合ってる。ただ、たぶん、の前に一回呼吸が上がる。そこ、押し込まないで、流して」
「流す」
「そう。水を流すみたいに。で、最後に確認。相手の呼吸の速さを見る。速ければ、もう一回だけ、遅い言葉を置く」
「遅い言葉」
「例えば、『焦らないで一緒にいよう』とか。湊の言葉にして」
俺はベンチの木目を親指でなぞった。言葉を増やすと恥ずかしさが音を立てる。けれど、増やさずに伝えられるほど、俺は器用じゃない。
「ありがとう」
「礼はいらない。友達として、押しただけ」
「押された」
「正しく押すのが私の長所。ほら、戻れ。午後は古本市。湊の場所」
戻る途中、体育館の扉の隙間から、吹奏楽部の音が漏れてきた。チューニングの不安定な音が、次の瞬間、ふっと揃う。揃った音は、体の芯をまっすぐ通った。
古本市の会場に着くと、入口の看板が昼の光を反射していた。図書室のドアを開けると、人の熱と紙の匂いに包まれる。熊谷先生の視線がこちらに向いて、合図だけ置いていった。「静かにね」。いつもの速度だ。
午後は人の流れが一定で、ずっと忙しかった。おすすめ棚の本が次々と減っていく。陽は入口で動線を調整し、時々カウンターに来て「水」とだけ言う。俺はカップを差し出し、彼の指先に一瞬触れる。触れた温度が、冷たくて真面目だ。
三時半、客足が少し落ち着くと、陽がカウンターの裏側に回ってきた。段ボールの中身を詰め直し、会計台の上の紙をそろえる。子供が落とした小さな栞を拾い、机の端に置く。そういう動きを見ているだけで、落ち着く。落ち着いたところで、熊谷先生が鍵束をカウンターに置いた。
「このあと、ちょっと体育館。十五分で戻る。施錠、任せたよ」
「はい」
「静かにね」
先生は笑って出ていく。ドアが閉まる音がして、図書室の中の音が一段落ちる。残っているのは、紙の擦れる音と、窓の外を通る足音だけ。人影が切れて、入口の表示板の「入場可能」の札が寂しそうに揺れた。
陽が鍵に視線を落として、俺を見る。
「湊」
「陽」
呼び合う声が、部屋の真ん中に落ちる。鍵が机の上で小さく鳴った。それが合図に聞こえた。俺はカウンターから出て、いつもの窓際の席に立つ。陽が反対側に回ってきて、机の角に指を置く。指先はあの日の紙の粉の記憶をまだ持っているみたいに、落ち着いて見える。
深呼吸を一回。早乙女が言っていた練習のことを思い出す。たぶん、の前に呼吸が上がる。押し込まない。流す。流してから、言う。
「好き、だと思う。……思う、じゃ弱い。好き。ちゃんと」
言葉は短くした。短くしたから、音がはっきり聞こえた。自分の声なのに、誰かに読まれているみたいな感じがした。陽は目を見た。目を見るのが合図だと決めたのは俺たちだ。合図の通り、彼のまぶたが一瞬だけゆっくり動く。
「俺はずっと、好き。焦らないで来て良かった」
返ってきた言葉が、練習よりも深くて、遅かった。遅い言葉は、心臓の下の方にやさしく沈む。その沈み方に、体が勝手に安堵する。陽が机の角から一歩近づいて、抱きしめられた。頬と頬の間に、窓からの光が薄く入る。制服の布と布の摩擦の音が、ほとんど聞こえないくらい小さい。合図の確認をひとつずつやっていくみたいに、彼は耳元で息を整えた。
「触れていい?」
「……うん」
合意の確認。大事なやつ。俺はうなずく。うなずきの角度は、練習よりも少し大きい。陽の手が、背中の上で迷わず止まる。止めてから、力をほんの少しだけ抜く。抜いた力のぶん、温度が近づく。頬に軽く触れるものがあって、驚くほど自然に目を閉じる。頬に、キス。音はない。音がないくせに、世界は盛大に静かになった。図書室の外の喧騒が遠ざかり、鍵の存在だけがここに残る。
「ありがとう」
言う俺の声が、図書室の壁にやわらかく跳ね返った。陽は笑って、もう一度だけ抱きしめた。抱きしめる強さは軽くて、でもそれで十分だった。
「これで、内緒じゃなくてもいいけど」
陽が少し離れて、目の端で笑う。
「二人の内緒も、残そう」
「半々で」
「半々、了解」
半分は、外に見せる名前。半分は、ここに置いておく温度。二人で決めた配分は、ちょうど良かった。俺は机の角に触れて、さっきまでの緊張がそこにまだ残っていることを確かめる。残っていてもいい。残りは、役に立つ。
時間を見て、俺たちは鍵束を手に取る。扉の鍵を一度回して、すぐ戻す。試すみたいに。音が小さく鳴って、部屋の空気が変わらなかったのを確かめ、扉を開ける。廊下に出ると、人の声が一度に戻ってきた。文化祭の午後の音。笑い声、呼び込みの声、吹奏楽の遠い響き。陽が並んで歩く。いつもの距離、いつもの速度。だけど、見える景色は少し違っている。色が濃い。匂いがわずかに強い。世界の輪郭が太い。
階段を下りる途中、早乙女が踊り場で待っていた。自販機の横、柱の影。片手に缶コーヒーを二本。
「おめでとう」
「見てた?」
「音で全部わかった」
「音?」
「鍵の音。息の音。出る音、消える音。編集は得意」
からかわれているのに、腹が立たなかった。むしろ嬉しい。早乙女は缶を一本ずつ渡して、俺たちの顔を見比べる。
「湊、顔が文化祭になった」
「どういう」
「ちゃんと今をやってる顔」
陽が缶を開ける。俺も続く。炭酸じゃないのに、開けた瞬間に少しだけ胸が弾ける。苦い。苦いのに、喉を通るのはやさしい。三人でしばらく何も言わず、踊り場の窓から差す光を見た。午前に比べて角度が低く、窓枠の影が階段の段にくっきり落ちる。人が通るたびに影が切れて、また繋がる。
「午後、古本市は?」
「盛況。短編集が効いてる」
「前菜理論、ね」
「それはお前が言った」
「言った。正しかった」
早乙女は空になりかけた缶を両手で包み、息を吹きかけた。
「で、いつ言うの。外に向けて」
「半分だけ、まだ内緒にする」
「半々か。じゃあ、私の口も半分閉めとく」
「半分は開くのか」
「開くよ。だって写真は撮るでしょ」
「撮るのか」
「撮るよ。記録と記憶、両方。どちらも薄まるから、混ぜる」
早乙女はそれだけ言って、缶をゴミ箱に入れた。「午後の光、逃さないようにね」と言い残して、走るように去っていった。彼女の背中は、さっきより少し軽かった。
図書室に戻ると、熊谷先生が鍵を返してくれた。「静かにね」と、いつもの合図。俺たちは同時に「はい」と返す。奇妙にうれしいユニゾンだった。古本市の後半は、午前ほど賑やかではなかったが、人は途切れなかった。陽は入口に立ちながら、ときどきこちらを見て微笑む。微笑みの角度が、以前よりゆっくりで、長かった。合図の練習が、もう標準になっている。
閉館の時間。最後の会計が終わり、来場者が帰る。図書室の中に静けさが戻って、紙の匂いだけが残る。椅子を机の下に収め、ポスターを外し、値札の束を箱に入れる。今日の残像を少しずつ畳む作業。畳みながら、俺は心の中に一枚だけ折り目を増やした。午前の練習、午後の本番。その境目に、鍵の小さな音がある。あの音が、今日を分けた。
すべて片付いたあと、俺たちは扉の前に立った。先生の鍵束はカウンターに置いたまま。廊下の向こうから、吹奏楽の最後の曲が薄く聞こえる。陽が口を開いた。
「練習、効いた?」
「効いた。押し込まないで言えた」
「俺も。待つ練習、役に立った」
「ありがとう」
「こちらこそ」
短い言葉のやりとりが、今日の最後の確認になる。確認ができると、心は静かだ。静かさは強い。扉を開けて廊下に出ると、外は夕焼けだった。ポスターの端が朱色に染まり、窓ガラスの一枚が火のように光る。風が吹き抜け、テープの端がわずかに揺れる。
校門まで、一緒に歩く。途中でクラスの展示の前を通った。俺が撮った「踊り場の窓」の前で、誰かが立ち止まっている。小さな子が指をさして、母親に何かを言っている。母親はうなずき、子供の頭を撫でた。俺は足を止めず、横目でその光景を飲み込んだ。飲み込んで、ポケットの中の指を軽く握った。陽の視線が横から届く。届いて、俺の握りが少し緩む。
校門の外、人の流れは駅方面へ伸びる。屋台の匂い、笑い声、呼び込みの声。賑やかさの中で、俺たちの速度は落ち着いている。陽が立ち止まり、耳元に唇を寄せる。触れない距離、届く距離。
「今日は、最高」
「俺も」
「明日からも、標準で」
「半分、内緒で」
「半々、了解」
手を振って別れる。陽の手の振りは、いつも通りで、少し長かった。角を曲がって見えなくなるまで、俺は立ち尽くす。音が薄れていく。薄れた音の隙間に、今日の鍵の音がもう一度だけ鳴った気がした。
家に帰って、シャワーの音の中で、俺はさっきの言葉を心の中でなぞった。好き、ちゃんと。俺の口が、あの形を覚えた。覚えて、体のどこかに置いた。置いた場所は、簡単には動かない。タオルで頭を拭きながら、机に向かう。引き出しから白いメモ用紙を出して、ペンを取る。書く。
焦らないで、一緒にいよう。半分は、内緒で。
書いた字は、やっぱり他人行儀だった。けれど、今日はそれでいい。栞に挟む。挟んで、ライトを消す。部屋の暗さがゆっくり降りてくる。まぶたの裏に、図書室の窓際の光が残った。残る光の上に、手の温度と、鍵の音と、短い言葉を置く。置いて、眠りに落ちるまで、今日の午後の速度を心臓の中で何度か再生した。
練習は本番のためにある。本番は、明日からの標準になる。標準になったものは、強い。明日、図書室で彼の目を見る時間を、今日よりもほんの少しだけ長くしよう。合図はもう共有済みだ。回数で強くする。それでいい。それが、俺たちのやり方だ。



