文化祭の週は、校舎の空気がいつもより軽い。廊下の壁にはポスターが増え、教室の扉は色紙で縁取られ、テープのにおいが薄く漂う。図書委員主催の古本市は、準備に手間がかかる。値札、分類札、会計の箱、寄贈者リスト。紙の種類が増えると、音も増える。君の小さなめくり音、わたしのホチキスの短い呼吸。そういう音で一日が組み立てられていく。

 放課後、図書室の扉を開けると、熊谷先生が台車を押しながら「静かにね」といつもの声をくれた。声は静かだけど、今日は少し早口だ。入口近くには寄贈本の段ボールが五つ積まれている。角がすこしへこんで、テープが汗を吸ったみたいに曇っている。

 陽は早めに来ていて、袖をまくって段ボールを一つずつ開けていた。紙の匂いが広がる。古いインクのにおいは、誰かの居間の午後みたいで、少し眠くなる。

 「来た」

 「来た」

 二回目は少し低い。返事の深さで、余裕の度合いが分かる。

 「今日は装飾。切って、貼って、吊るして」

 「了解。紙、どれ」

 「これ。タイトルの帯。古本市の、の部分、少し太めに」

 「帯の太さは標準で?」

 「標準、昨日決めたやつ」

 「延長も可能」

 「またそれ」

 口だけで笑って、色画用紙を机に広げる。俺がはさみを持ち、陽が定規で線を引く。線は迷いがなく、角が正確だ。紙の白い粉が指先につく。はさみの金属の冷たさが、手の内側から少しずつ熱を奪っていく。

 陽の視線が近い。はさみの先を追いかけて、呼吸の間隔まで合わせてくる。

 「危ない」

 「大丈夫」

 「じゃあ、手、貸して」

 言うなり、彼の手が俺の手の外側からそっと包む。はさみを支えて、紙と紙の間に入る角度を微調整する。そんなに難しい作業じゃない。なのに、心臓がすぐ上がるのは、悔しい。

 「湊、手、温かい」

 「陽が冷たい」

 「運動後だから」

 「今は運動してない」

 「緊張してる」

 短いラリーの中で、手は離れない。指と指の間が、紙の粉で少しざらついているのがわかる。ざらつきの感触が、体温の輪郭をはっきりさせる。はっきりするのに、落ち着く。矛盾しているのに、落ち着く。

 切り終えた帯を、陽がまとめる。端を揃える手つきが穏やかだ。俺は糊を手に取って、厚紙に貼っていく。糊の水分が紙に移り、ほんの少し色が濃くなる瞬間を見るのが好きだ。窓際の光の角度が、紙の縁に影を落とす。空は晴れているのに、図書室は白く静かなままだ。

 「ステージのリハ、三時からだって」と熊谷先生が言う。「音出るけど、耐えてね」

 「了解」と陽が答える。俺は頷くだけで、糊のフタを閉めた。糊のフタの回る音は、今日の図書室のテンポに馴染んだ。

 装飾の仕事は手間がかかるが、達成感もある。天井から吊るす旗は、色の順番を決めるのに時間がかかる。赤、青、黄、緑。並べ替えては眺め、少し入れ替える。そのたびに陽が「今のがいい」「前のがいい」と短く言う。どちらも正しい気がして、結局一番最初の並びに戻った。最初の直感が当たる日は、作業がはやい。

 「手、冷えてきた?」

 ふいに陽が聞く。はさみと糊で、指の血の巡りが少し遅くなったのかもしれない。言われて意識すると、たしかに少し冷たい。

 「少し」

 陽が手袋を片方だけ差し出す。「片手は俺、片手は湊」

 「お前、片手で平気か」

 「平気。守るほうは、こっちの手だから」

 冗談の形で差し出されたものが、そのまま守りになってくれることがある。手袋の中は彼の体温でほんのり温かくて、制服の袖の下までぬくもりが伸びてくる。肩の力が落ちる。落ちた肩に、天井の飾りの影がやわらかくかかる。

 休憩の時間になり、熊谷先生が紙コップに麦茶を注いでくれた。氷の音が小さく鳴る。図書室の隅に置かれたスピーカーから、体育館の方角の音が薄く届く。マイクのハウリング、ドラムの試し打ち、誰かの声だし。廊下がざわつきはじめた。ステージのリハでトラブルがあったらしく、先生たちの足音が早くなる。

 陽が立ち上がる。走りそうな体の角度になる。無意識に、俺の指が彼の制服の袖をつまんだ。止めるというより、合図を送るみたいに。ほんの少しだけ。

 「無理しないで」

 陽は半歩進んで、足を止めた。振り向いて、目の形をやわらかくして、小さく頷く。

 「……守られてる感じ、悪くない」

 「守ってるつもりは」

 「感じの話。感じは、それでいい」

 足音の速さは他の誰かの仕事で、陽の今日の役目はこっちだ。彼は腰を落ち着け、机の上の帯をもう一度整えた。整えるだけで、さっきより良く見える。人の手が入ったものは、理由のない形のよさを持つ。

 午後の二時半を過ぎる頃には、装飾はほぼ終わった。掲示用のポスターを貼り、値札の台紙を箱に入れ、会計テーブルの上にお釣りのトレーを置く。熊谷先生が「開場します」と言ったのは三時ちょうど。図書室に人が入る。靴音が増える。紙袋が擦れる音、ページがめくられる音、子供の小さな声。空気が動く。俺はカウンターの横に立ち、シャッターの代わりに視線で流れを追う。陽は入口で案内役になり、来場者の動線を手で示す。手の動きが落ち着いていて、見ているだけで呼吸が整う。

 古本市は盛況だった。山だった段ボールの中身はどんどん減り、おすすめ棚の前には常に人の影がある。陽は時々カウンターに戻って、水を飲み、それからまた入口に戻る。俺の視界の端に、彼の動きがずっとある。見失っても、すぐ見つかる。白いシャツの肩のラインが、図書室の直線に合っているからだ。

 四時半。人の波が一段落して、陽がコップを片手に寄ってきた。袖の端が少し濡れている。入口のドアの結露がついたらしい。息の上がり方は穏やかで、少しだけ頬が赤い。

 「湊のおすすめ、どれ」

 「こっち」

 おすすめ棚の端に並べた、短編集の束を指す。表紙に小さな傷がある。ページの角が丸くなっている。誰かが好きだった形跡が、傷に残っている本が好きだ。

 「買う人、多かった?」

 「多かった。『短いのから』って言う人、意外と多い」

 「長いのの前に、短いのがいると安心する」

 「料理の前菜みたいに言うな」

 「褒めてるのに」

 陽は少し笑って、コップの水を飲みきった。手の甲に一本、紙の粉が白く残っている。指で払おうとして、やめる。そのまま残しておきたくなる種類の白さだった。

 閉館時間が近づくにつれ、図書室の音はまた小さくなった。最後の会計を終えると、熊谷先生が鍵束をそっとカウンターに置いた。

 「施錠、任せたよ。二人なら大丈夫」

 「分かりました」

 先生は「静かにね」といつもの合図を置いてから、出口の人混みに消えた。図書室に残ったのは、俺と陽と、机の上の紙の匂いだけだ。窓の外は夕方の色になり、カーテンの影が長く伸びる。人がいなくなると、空気の密度が戻る。戻った密度の中で、自分の鼓動がよく聞こえる。

 「締める前に、一周」

 陽が静かに言って、棚の間を歩く。落ちている栞を拾い、曲がった帯を直し、椅子を机の下に収める。俺はライトのスイッチの位置を確かめ、窓の鍵を一つずつ閉める。カチ、と小さく鳴る音が、今日という日の最後を順番に固めていく。

 一周を終え、窓際のいつもの席に立つ。ここは、最初に名前で呼ばれた席。栞を挟んだ席。メモを重ねた席。空の色は濃くなり、ガラスに自分たちの影が薄く映る。机の角に手を置くと、紙の粉のざらつきがまだ残っていた。

 「言っていい?」

 陽が先に言う。声は、いつもの高さ。いつもの速さ。いつもの、俺の耳に合うやさしい角度。

 「俺も言いたい」

 同時に言った。どちらの言葉も、空気の中でぶつかって、いったん止まる。止まった先に、二つの呼吸がある。

 俺は口を開いて、閉じた。言葉が出る前に、陽が一歩近づいた。机の角と角の間にできた、ほんの小さな空きに足を置く。手を伸ばす。伸ばした手が、俺の手の上に乗る。重さは軽いのに、確かに重なる。指の温度が、紙の粉を溶かすみたいに広がる。

 「……手、温かい」

 陽の声が近い。息の熱で、言葉の端がやわらかくなる。

 「陽が、冷たい」

 「緊張してる」

 「俺も」

 手のひらに、今日までのいろんな温度が集まってくる。はさみの金属の冷たさ、糊の水気、麦茶の氷、結露の湿り、紙の粉のざらつき。全部が、手の温度に混ざっていく。混ざって、ちょうどよくなる。

 古本市の看板が、窓の外に反射して揺れる。遠くで体育館の片付けの音がする。ドアの向こうの廊下に、遅れて笑い声が流れていく。図書室の中は、静かだ。静かだから、手の温度だけが残る。

 「言葉にするの、今は、まだ遅い」

 俺が言う。自分の声が、自分の耳にやさしく届く。言い訳じゃなく、合図にしたい。

 「うん」

 陽は短く頷く。頷く動きで、手の重さが少しだけ変わる。変わった分だけ、温度が深くなる。

 「でも、次、ちゃんと言う」

 「待つ。何度でも」

 合図はもう決めてある。うなずきと、目線の長さ。紙に書いたメモ。キッチンで交わした約束。今日、ここで増えたのは、手の重ね方だ。重ね方だけで分かる何かがある。分かるから、急がなくていい。急がないことが、逃げじゃないと、やっと思える。

 「手、離す?」

 「まだ」

 「了解」

 笑いながら、離さない。笑いの音は小さいのに、長く残る。窓の鍵を閉めたときの音よりも、今日の終わりにふさわしい。黒板の横の時計はもうすぐ六時を指す。ライトを順番に消していく。最後に窓際の灯りだけ残して、机の上を見た。紙の粉がうっすら光って見えた。粉は、明日の朝には掃除で消える。消えるけれど、今日の温度はどこかに残る。残り方は、名前のつけ方次第だ。

 鍵束を手に取る。鉄の冷たさが指に移る。扉の前で、陽が少しだけ手を強く握った。合図。俺も握り返す。合図の返事。鍵を回す音が、廊下に小さく響く。扉を引き、最後の灯りを消す。暗さがゆっくり入ってきて、図書室は一日の形を畳む。

 昇降口までの廊下は、紙の切れ端が少し落ちていて、テープの端が靴にくっつく。外に出ると、空は淡い群青で、風が少し冷たい。校門の外を通る自転車のライトが、地面に細い線を引く。

 「今日の温度、名前で保存」

 陽が言う。いつものふざけと、いつもの真面目の配分。

 「フォルダ名、長くなりそう」

 「長いのでいい。湊の手、図書室の粉、糊の匂い、麦茶の氷」

 「それ、タグじゃなくて?」

 「タグもつける」

 「万能か」

 「万能じゃない。回数で強くなるタイプ」

 「分かる」

 門の前で、立ち止まる。別れの合図を最小限にする日もあれば、少しだけ長くする日もある。今日は、少し長くする日に決めた。名前で呼ぶ練習は、呼ばなくてもできる。手の温度を覚える練習は、手を離してからが本番だ。

 「また明日」

 「また明日。湊」

 名前は、今日の終わりにも、明日の始まりにも使える言葉だ。便利で、強い。呼ばれるだけで、体の位置が整う。整った体で、家に向かう。ポケットの中で、鍵が小さく鳴る。鳴る音に合わせて、心臓の音が少し落ち着く。

 家に帰って、手を洗う。指の間に残っていた紙の粉が、水に溶けて消える。消えるのに、ざらつきの記憶だけが残る。机に座って、今日のメモを探す。何も書いていない小さな紙を取り出し、ペンを置く。書く。ゆっくりでいい。急がないでいい。

 手の温度に、これからの全部の下書きがある。

 書いて、栞にはさむ。はさみの跡のついた手で、そっと押さえる。窓の外は静かで、天井の白は柔らかい。目を閉じると、図書室の鍵の音と、紙コップの氷の音と、あのときの短い笑いが、順番に戻ってくる。戻ってきた順番のまま、俺は眠りに落ちる。夜が深くなるまでに、明日の言葉のはじまりだけを、胸の中で確かめておく。呼吸の標準と、合図の標準と、手の温度。全部そろったところで、ようやく目が軽く閉じた。