放課後、君の寝顔に恋をした。— 図書室から始まる二人の内緒

放課後の図書室は、静けさのかたまりみたいな場所だ。
窓の外では運動部のかけ声が響いているのに、この空間だけは時間の進み方が遅い。

テスト明けの午後。
最後のページまで終えたノートを閉じると、どうにもまぶたが重たくなった。
春の光は、どうしてこうも人を眠くさせるんだろう。

机にうつ伏せになって、腕を枕にする。
木の匂いと紙の乾いた香り。少し冷たい風が、カーテンの隙間から入ってくる。
意識が沈む瞬間、ページが指の下で擦れる音がした。

——そして、夢と現実の境目が曖昧になっていった。

「……起きた?」

誰かの声で目が覚めた。

視界がぼやけていて、最初は誰なのかわからなかった。
でも、すぐに目の前に見えた黒髪と、柔らかく笑う口元で、思考が一気に覚醒する。

神崎陽。

同じクラスで、図書委員。
たまに挨拶するくらいで、特別仲がいいわけでもない。
けれど——今、その顔が至近距離にあった。

ほんの二十センチ。
呼吸の温度が混ざり合いそうな距離で、彼は俺をのぞきこんでいた。

「ごめん。寝顔、観察してた」

「は?」

反射的に声が裏返る。

冗談だと思いたかった。けれど彼の目は真面目そのものだった。
淡い光を透かしたような茶色の瞳。
嘘を言っているようには見えない。

「なんで……?」

「かわいかったから」

思考が止まる。
一瞬、時間が止まったみたいに世界が静まり返った。

かわいい。
男に言われるとは思ってもみなかった。

「おまえ、そういう冗談やめろ」

「冗談じゃないけど」

また、さらりと笑う。
声が小さくて、でも妙に耳に残る。

熊谷先生の「静かにねー」という声が遠くで響いて、俺は慌てて姿勢を直した。
心臓の鼓動が落ち着かない。
さっきまで夢を見ていたのに、今の方が現実味がない。

神崎陽は、ふつうに人気がある。
男子にも女子にも話しかけられて、部活にも顔を出して、誰とでも距離を取らない。
いわゆる“中心人物”。

一方の俺は、どちらかと言えば壁際の人間だ。
人の輪には入らないし、入れない。
テストが終われば図書室にこもるのがいつもの習慣だった。

「図書委員の仕事、手伝うよ」

「別にひとりでできる」

「じゃあ、見てる」

会話になっているようで、なっていない。
なのに、彼は椅子を引いて、俺の向かいに座った。

カーテンが揺れるたびに、夕日が髪の間を透かして金色に見えた。
ミントの匂いが、近い。

「そんなに俺を見てて、飽きないのか」

「飽きるかも。でも今は平気」

どこまでも素直で、ずるい。
そう思いながら、俺は仕方なく作業を続けた。

本の整理、返却印のチェック、しおりの補充。
どれも単調な仕事だけど、陽が隣にいるだけで集中できなかった。

ペン先が震えて、印字がかすれた。

「……緊張してる?」

「してねぇし」

「ほんとに? 耳、赤いよ」

指摘されて、余計に赤くなる。
彼は楽しそうに笑った。

俺はそっぽを向いた。
それでも、どこかくすぐったくて、嫌じゃなかった。

帰り際、机を「こん」と叩く音。
陽が立ち上がりながら言った。

「明日も、この席?」

「たぶん」

「じゃあ、またね」

その一言が、思ったよりも心に残った。
図書室のドアが閉まる音がして、ようやく息を吐く。

窓の外には、オレンジと群青の境目みたいな空。
あの光の中を、彼は歩いて帰っているのだろうか。

家に帰ると、グループチャットの通知が光っていた。
陽が投稿していた。

《図書室の光、きれいだった》

そこには夕焼けの写真が添えられていて、窓際の席が映っていた。
俺がさっきまでいた、あの席。

指が勝手に「いいね」を押していた。
そのあとで気づいた。
俺の心臓の音が、さっきよりもうるさい。

寝顔を見られたのに、なんで——
少しだけ、嬉しいんだろう。

次の日。

朝の教室で、陽がこちらに手を振った。
「おはよ」
その一言で、数人の女子がざわめいた。
いつものことらしい。

「昨日の、本。もう整理終わった?」

「まあな」

「ちゃんと寝た?」

「うるせぇ」

陽はまた笑った。
その笑い方が、どこか人を和らげる。
それがずるい。

授業中、黒板の文字を追いながらも、ふと横顔が頭に浮かんだ。
陽の視線。
陽の声。
陽の距離。

放課後、図書室に向かうと、もう彼がいた。

「今日は俺の方が先」

「……毎日来る気?」

「うん。図書委員だし」

「おまえ、こないだまで来てなかっただろ」

「気分」

その“気分”が、なぜか俺に向いているらしい。

本棚の影に並んで歩く。
ふたり分の足音が、床に吸い込まれていく。
ページをめくる音と、外の風の音だけが、世界のBGMみたいだった。

「ねえ、熊谷先生ってさ、昔小説書いてたらしいよ」

「マジで?」

「うん。生徒にバレてやめたんだって」

「なんで?」

「恋愛ものだったらしい」

「……うわ」

「うわってなに」

「いや、熊谷先生に恋愛とか想像できねえ」

笑いながら、俺たちは棚の端まで歩いた。
陽が急に立ち止まり、俺の肩を軽く叩く。

「じゃあ、もし俺が小説書いてたら、読む?」

「読まねぇよ」

「即答すぎ」

「どうせ変な話だろ。寝顔観察とか」

言ってから、しまったと思った。
陽の顔が少し近づく。

「俺のこと、意識してる?」

「してねぇ」

「ほんとに?」

そのとき、図書室の窓が風で大きく鳴った。
ブラインドの隙間から光がこぼれて、陽の輪郭を照らした。
冗談めかした表情の奥に、どこか真剣な目が見えた。

「嘘つき」

その一言だけを残して、陽は背を向けた。
心臓がまた早くなる。

俺はその背中を見ながら、言葉を探した。
でも、見つからなかった。

家に帰っても、なんとなくスマホを見てしまう。
グループチャットには、陽の新しい投稿。

《今日の風、すこし冷たかった》

それだけ。
写真は、図書室のカーテン。
風に揺れて、光を吸い込んでいる。

その奥のぼやけた机。
そこに俺の教科書が写り込んでいた。

いいねを押そうとして、指を止めた。
何かが変わり始めている。
まだ名前のつけられない、微妙な距離感。

俺はベッドに沈みながら、考える。

寝顔を見られた瞬間から、俺の中で何かがズレ始めた。
見られることが怖かったはずなのに、
あの視線だけは、不思議と心地よかった。

窓の外には、同じ夕暮れの色。
明日も、また図書室に行く。
たぶん、それだけで十分だった。

次の放課後。

窓際の席に座ると、陽が本を読んでいた。
彼が顔を上げて、笑う。

「寝ないの?」

「もう寝ねぇよ」

「じゃあ、今日は俺が寝る番だね」

「は?」

「寝顔、見せてあげる」

その瞬間、俺は息をのんだ。

夕日が彼の横顔を照らして、
笑っているはずなのに、どこか切なかった。

俺はページを閉じて、静かに言った。

「勝手に寝ろ」

「うん」

そう言って、彼は机に腕を置き、目を閉じた。

まつ毛が長い。
風が吹いて、髪が少しだけ揺れた。
その頬を撫でた光の粒が、やけにまぶしかった。

気づけば、俺は目を逸らせなかった。

寝顔を見られるのは恥ずかしかったのに、
見るのは——こんなにも、息が詰まる。

「……ずるいな」

誰にも聞こえないように、つぶやいた。

陽の寝顔は、静かで、
それでいて俺の世界を確かに変えていった。

あの日から、放課後の図書室は二人の居場所になった。
言葉は少なくても、空気の温度で伝わることがある。

きっと、これが始まりだった。

寝顔から始まる恋なんて、
ありふれているようで、
俺たちだけの物語だ。