「三波って、あの一年と仲良いの?」
珍しく声が掛かったと思い、顔を上げると、始業式当日に藤堂明彦について話しかけてきた、橘充希がいた。
あの一年? と自分に後輩などいただろうかと思考を巡らせたところで、アイザが自分の一年後輩だという事実を思い出す。
出会ったのが、書店だったせいで、あまり先輩後輩という気はしないけれど、学校で他の人から見たら、そういう関係性に見えるのかと納得する。
「まあ、よく話すけど……」
俺が読みかけの本に栞を挟むと、橘は俺の前の席に腰を下ろした。
「なんか女子が、あの一年との繋がりほしいみたいなんだわ」
ああ、橋渡ししろということか。
納得して、彼の指さす方へと、ちらりと視線を向けると、四人で固まっている女子が、ちらちらとこちらを伺い見ていた。
……アイザも、ああいう子と話したら、あっちが良いって思うのかな。
そんな事をぼんやりと考えてしまうと、ずん、と気持ちが一瞬沈んでしまった。
「嫌なら適当に言っとくよ?」
思わず顔を上げると、橘は机に肘を置き、うん? と首を傾げる。
「元々望み薄そうだし、適当に断る理由、俺が探しとくよ? ってこと」
「……それだと、有り難い……」
「りょーかい」
橘はそう言うと、席を立った。彼は女子たちに何かを伝えると、彼女たちは一斉に嘆いたが、まあ仕方ないかあという顔で、素直に諦めてくれたようだ。
それにほっとしながら、閉じた文庫本を開いたところで、また橘が俺の机に戻ってくる。
「何読んでんの?」
「先週出た新刊」
そう答えると、彼は俺の本に掛かるカバーを外して、この人か、と呟く。
「これの大学教授シリーズ、微妙で読むのやめた」
「あー、あれね。俺は嫌いじゃないけど、人気狙いって感じだった」
「だよなー」
「これは普通に面白いよ。……貸す?」
「まじ? サンキュ、いつでもいいから貸して」
橘が嬉しそうに声を弾ませると、何だか俺まで嬉しくて、頬が緩んでしまう。
「……なんだ、普通に話せんじゃん」
「え?」
「なんか話しかけんなオーラすげえから」
意外なことを言われて、こちらが驚いてしまうと、やっぱ無意識? と笑われてしまった。橘はそんな俺に「気にすんなよ」と肩を軽く叩くと、
「まあ、そういう時期もあんじゃん? なにせ、俺等青い春真っただ中だし」
そう言って、冗談めかす。
俺にはその軽い言葉があり難くて、素直に「ありがとう」と言うと、
「シュン」
聞き慣れた声が俺を呼んだ。
「……アイザ、お前二年のクラスに来すぎ」
顔を上げると、いつの間にか教室にまで踏み込んできている、アイザが不満気に眉を下げて、俺を見下ろしていた。
「先輩、こんにちは」
……橘には先輩なんだ……。
「はい、こんにちは」
律儀に頭を下げ合う二人を見守っていると、アイザは頭を上げながらこちらを見て、
「一緒に帰る」
と、言い放つ。
前後脈略なく放たれた言葉を受け取り、なんとか首を傾げると、彼は俺の隣の空席に腰を下ろした。それからガタガタと椅子を引きずり、ぴったりと寄り添ってくる。
「どした?」
「勢田、アイザです」
「橘充希です」
何だこの二人。
不機嫌なアイザに、淡々とにこやかに言葉を返す橘のやり取りに、俺は何と言葉を挟めばいいのか分からず、ただ見守る事にした。
すると、アイザはするりと俺の手を取り、ぴったりと掌がくっつくよう指を絡めてくる。――この手の繋ぎ方は、今はちょっとヤバい気がする。
「ぼくは……、あ、俺は一年生です。でも、時々ここに来ます」
「知ってるよ~」
まるで幼稚園児を相手するような感覚で、橘はアイザへとにこやかに言葉を返している。
「先輩は、シュンが好きですか?」
「友達だからね」
……友達なんだ。
それは素直に嬉しいかもしれない。
ここ数年、友達と呼べるような相手は殆どいなかったので、相手からそう言葉にされると、何だか照れ臭い。橘の返事に、アイザの顔色を伺うと、怪訝な目で橘を見つめて、
「わかりました」
と頷いた。
全く何も分かっていないし、納得してませんと表情だ。それを見ていた橘は、吹き出すように笑ってから席を立つと、
「そゆことね、オッケー理解」
そう言いながら、いつもいる一軍男子の元へと行ってしまった。
何だったんだ……?
疑問だけが残り、アイザに腕を引かれて、真横に居る彼を見れば、
「あいつは、たぶん嘘つき」
そう耳打ちしてくる。
「なんで」
「男の勘」
「女の勘、だよ」
「ぼくは男だから」
性別を変えればいい言葉、という訳でもないのだが――まあ、いいか。そんな厳しく取り締まらないでも。なんて思いながら、そうかあ、と肩に寄り掛かってくる頭を撫でてみる。
思った以上に、ふわふわとした触り心地に感心すると、
「シュンも一年生だったらいいのに」
とアイザが小さく呟いた。
子どものような拗ね方を見せるアイザに、俺は少し笑ってしまうと、
「シュンも、そう思う?」
と聞かれた。
「どうかなあ……」
なんだか、意地悪してみたくて、話をはぐらかしてみると、
「一緒がいいよ、楽しい」
と、アイザがせがむように、握る手に力を込める。
「そうかなぁ」
「そうだよ、シュンは留年だよ」
「どこで仕入れてきた、ンな言葉」
突拍子のない単語に思わず笑ってしまうと、アイザもつられたように笑う。
――アイザと一緒にいると落ち着く。目の前の景色が何となく、柔らかくなるような、あたたかい世界にいるような気がして心地良い。何故だか分からないけど、アイザがそばにいると、心が落ち着いて、いつもよりもどこか無防備にさせられるような気になってしまう。
いいような、悪いような、怖いような、落ち着くような……。
なんだろ、この気持ち。
「ねえ、アイザくん……?」
聞き慣れない声がして、反射的に繋いでいた手を離してしまうと、アイザは驚いたように、声の主の方ではなく、俺を見た。
何で離すの?
そう言いたげな幼い目を、真っ直ぐと見れなくて、俺が俯くと、
「アイザくんってハーフ?」
と女の子が言った。落とした視線の先には、二人分の細く可憐な足首が見えていた。
「ハーフじゃないよ、おばあちゃんが日本人」
アイザの愛想の良い、優しい声が聞こえる。俺は何となく肩身が狭い気がして、下唇を軽く噛んだ。
一瞬前の感情から、じわりと黒ずんだ感情が、滲み出てくる違和感。
俺は感情の急変に対応できず、ただ彼らの足元を見つめた。
「アイザくん、すっごいかっこいいよね、瞳の色もきれー!」
「ありがと」
「日本語も上手なんだねー」
「うん、シュンがたくさん教えてくれた」
その言葉に、思わずちらりと視線を持ち上げると、アイザが覗き込むようにして、顔を近づけてきた。驚いて身体をわずかに引くと、
「シュンは、日本来て、初めてのやさしい人」
女の子達に言っているはずの言葉なのに、まるで、俺に言い聞かせるみたいに見つめてくるから、思わず顔がかあっと熱くなってしまう。
「日本語むずかしいから、ひとりずっと勉強してた。でも、本屋さんで、シュンと話したのうれしかった」
目の前の彼が目をゆっくりと細めて、大切そうに笑う。それが妙に胸に沁みて、嬉しくて、滲んだ黒いものが僅かに引いて行く。
その代わりに、甘い香りみたいなそういう類の感情が、胸の奥に広がった。
「俺が初めてだったんだ……」
「うん、シュンはやさしい」
――きみは、やさしい。
彼が初めて俺に言ってくれた、真っ直ぐな言葉が胸の奥で浮かび上がる。
「アイザくん、私たちも日本語教えられるよ」
女の子の優しい声がして、ようやくアイザが視線を逸らす。俺の視線の先から消えた眼差しの空白が、また胸を冷たくさせた。
「ありがとう」
アイザが笑って彼女を見上げていた。
それだけの事で、置いてきぼりをくらったような気持ちになる。
「私、結構現国得意なんだ」
「私も英語も得意だし、話す言葉、合わせられるよ」
弾む会話の中、どんな顔をすればいいのか分からず、俺は苦笑いを浮かべて、視線を黒板へと逸らした。
「じゃあ、今度一緒に帰ろうよ」
そう女子の声が黄色く華やいだところで、予鈴が鳴る。今日はやけに耳に響く、鐘の音の放送に、何だか苛々が募った。
「ほら、予鈴だよ。アイザ、教室戻って」
そう肩を叩くと、彼は「うん!」と頷いて、席を立つ。あっさりと手を振りながら去って行く彼を見送ってから、何となく溜息を零して机の中から教科書を取り出すと、
「ねえ、アイザ君の連絡先聞いても良い?」
と、聞かれてしまう。顔を上げれば、期待に満ちた女の子二人分の眼差しが、俺を射抜く。
俺は少し迷ってから、
「ごめん、勝手にはできないかな……。個人情報は本人から聞いてくれない?」
と、冷たい声にならないように気を付けて、苦笑いを浮かべて逃げた。彼女たちは「そっか、そうだよね」と嬉しそうに呟きながら、席へと戻って行く。
「あとで放課後一年の教室行こ」
「そしよ~」
二人の可愛らしい会話が、また胸の内を濁らせた。
「席つけよ~」
教室に入ってきた教師の声を合図に、号令がかかるのを聞きながら、俺は胸の中で頭を掻きむしった。
何だこの気持ち。
なんだこの黒くて、みっともない感情は。
怒りとも苛立ちともつかない感情で、俺は地団駄を踏みたい気持ちにかられる。
でも、どんなふうに受け止めればいいのか分からなくて、ただどこにもぶつけようなない苛立ちにため息を吐いた。



