「三波くん、レジのヘルプ行ける?」
 三台あるレジカウンターの前には長蛇の列ができており、俺はげんなりしながらも、言われるままにそこへと向かった。
 今日は人気作家の新刊発売日だったか? なんて暢気に考えながらレジに入ると、いきなり一発目で文庫本七冊へのカバー掛けを依頼される。
 幾度も練習と経験を積み重ね、ようやく皆のように折り目の違和感なく包めるようにはなったけれど、得意というわけではない。苦戦しながらもなんとか体裁を整えて、最後に紙袋に入れて渡す。
 次の方、と手を上げる拍子に顔を上げると、レジに並ぶ客の向こう側に、ひょろりと背の高い知った顔を見つけてた。
 あ、と思って、僅かな喜びが無意識に込み上げてくる反面。その光景に一瞬目を奪われる。
 彼の隣には、女の子がいた。
 アイザは女の子の表情や口元を、真剣に見つめながら何か頷き、何かそれに反応返せば、二人は密やかに笑い合った。
「すみません、いいですか?」
「……あ、すみません。いらっしゃいませ」
 怪訝な声を出されて、慌てて会計をし、言われるままに本にカバーをかけて行く。その間も、ちらちらと上がってしまう視線は、三階へと向かうエスカレーターで前後に並び合う二人を追いかけていた。
 彼女が一段高い場所に上り、アイザはその一段下にいるのか、先程よりも身長差はなく、綺麗に向かい合いながら、何かを話している。会話の内容はもちろん聞こえない。
 けれど、二人が楽しそうなのは、雰囲気だけではっきりと分かった。
 ――そりゃそうだよね、アイザはいい子だし、かっこいいから。
 そう思いながら視線を伏せて、ハードカバーの新刊に紙のカバーをかけていく。
 ――ダサ、何裏切られた気分になってんだよ、俺。
 そう自身を叱咤しながら、俺はわざとらしいくらいの笑顔で、ありがとうございます、と出来上がった本を客に渡した。
「次の方どうぞ」
 バイトを始めて以降、一番の良い人の顔をして、俺は接客に徹した。レジからは十分程で解放された。もう大丈夫だよ、と言われたので、持ち場に戻ると、
「おっかえり~」
 と、綾人さんが手をひらりと上げた。
「今日何時からですっけ?」
「七時」
 壁掛けの時計を見れば、七時五分前を指していた。
 綾人さんって意外と律儀なんだよね、ちゃらんぽらんな印象があるけど――なんて、軽い口調で話す彼を眺めながら、俺は彼の前に摘み上がっている漫画本を棚の中に仕舞っていく。
「平積み持っていきます?」
 丁度この漫画はテレビ紹介されたばかりで、問い合わせや売り上げが伸びている。だから、この書店でも売り出しの為に、平積みスペースが設けられていた。
「あー、ね。結構減ってたから持ってってくれる?」
 持てる? と聞かれて、女じゃないんですよ、とその言葉をあしらい、話題や新作の棚へと移動する。
 夕方に一度高く積み上げたと思っていたが、漫画は明らかにその高さを失っていた。
 何だかんだ、テレビの影響ってすげえ、なんて安っぽい感動を覚えながら、俺は丁寧に本を積み上げた。
「すみません」
 呼ばれて顔を上げると、中年の男性が、小さな紙を持って立っていた。恐らく店内での検索結果表のレシートだろう。
「お探しですか?」
と首を傾げると、そのままレシートを差し出される。
 それは俺があまり足を踏み入れた事のない、パソコン専門関係の専門書だった。俺はどうしようと思いつつも、棚の番号と作者名があるんだから、どうにでもなるだろうと、三階へどうぞと促した。
 専門書になると、人気が一気に減るので、最上階の隅へとどうしても追いやれてしまう。まだ教科書の類であれば、受験などもあるので、わりと大きな範囲のスペースを取るけれど……。
 人気の少ない専門関連の書籍棚を眺めながら、背表紙に指先をなぞらせた。
「……あの、春くらいからいるよね」
 不意にそう尋ねられて、質問の意図が伺えずに、曖昧に言葉を濁すと、
「僕ずっとここに通っていて」
 と、男が話し出す。
 その言葉に対し、殆ど反射的にぞわりと、背筋に嫌な悪寒が走った――なんだかよく分からないけれど、警戒しろと、身体の中で警報が鳴るような、そんな違和感が溢れ出す。
「えっと、本ですよね……?」
 口元が引き攣ってしまうのが分かる。声が震えてる――三階の隅の隅、人気のない場所である事を再確認して、心臓がばくばくと鳴り始めた。
「ちょっと話してみたくて」
「え?」
 ――なんで?
「この本、お探しじゃないんですか?」
 喉を締めて声を出しているつもりでも、震えてしまう。内側から滲み出てくる恐怖心に抗えない。どうしよう。けれど、足が竦んで一歩が踏み出せなかった。
 手の中で受け取ったレシートが、くしゃりと潰れた。
「僕は本じゃなくて、君と」
「すいません」
 壁際にまで追い詰められたところで、男の背後から声が聞こえてきた。
「何してるの?」
 振り返った男は、びくりと身体を揺らした。そこには、明らかに自分よりも高身長で、威圧感のあるアイザがいた。虎に睨まれた兎、と言うべきか。その緊張が男の小さな背中から伝わってくる。
 アイザはにこりともせず、突然男に向かい英語で何か言い捲し立て始める。所々、あまり人に向けてはならないような単語が聞こえてくるから、恐らくは怒ってくれているのだろう。
 身振りで、エスカレーターを指差し、さっさと出ていけ、というジェスチャーをすると、
「す、すみません……っ」
 男はアイザの身体を押し退けるようにして、その場から足早に立ち去った。
 一瞬空白のような沈黙が降りて、気が抜けると、俺はその場に思わずしゃがみ込んでしまった。情けないほどに、指先にまで血が通っていないような、貧血にも似た眩暈がしている。
「シュン、大丈夫?」
 慌てて駆け寄ってくれるアイザが、背を優しく撫でてくれた。
「ごめん、ありがと」
「何もされてない?」
「されてないよ、びっくりした……」
 自分がこんな目に遭うなんて、誰が予想できるものか。俺は男だぞ……男なのに――驚いて、少しだけ怖かった。
 自分の右手を見下ろせば、微かに震えているのが分かった。
「シュン、大丈夫。だいじょうぶ」
 そう言いながら、アイザの長い腕が俺の身体を抱き寄せる。その温かい腕の中には、不思議と嫌悪はなくて、俺は長い息をゆっくりと吐き出した。大きな手の平が、ゆっくりと俺の背中を往復し、落ち着くように、優しく叩いてくれる。
「三階に来きたの見えた。でもお客さんと一緒で、そのお客さんがきょろきょろしてて、変だった。だから、ぼくは見てたよ」
 アイザの腕が強く俺を抱いて、彼の頬が右耳を擦った。
 守られているという感覚が、身体に染みてきて、ゆっくりと指先まで血が戻って行くのが分かる。
「良かった、嫌な事なかったね」
「うん……」
 後ろ髪を撫でられてから、身体を離すと、ゆっくりと立ち上がるのを手伝ってもらう。俺は彼と一緒に二階に降りると、綾人さんのところへと向かった。
 事情を話すと、綾人さんはすぐに店長へと、報告に行ってくれた。そして慌てた様子で出て来た店長に、事情を説明すると、警察、という言葉が出てきて、俺は慌ててそこまでじゃないです! と首を振った。
「今回は彼がいてくれたからよかったけど……」
 申し出を渋る店長に、大丈夫ですと念を押して、俺は今日はもう帰りたいと申し出た。
「家まで帰れる? タクシー代出そうか?」
「大丈夫ですよ、俺の家は大通り沿いですし」
「ぼくと帰ります」
 話の間に割るようにして、アイザが入ってくる。その言葉に店長と綾人さんの三人でアイザを見つめた。
「大丈夫、一緒に帰ろう。シュン」
 邪気のないその誘いに、俺はこのまま周りを心配させるよりはいいだろうと、打算を働かせて頷いた――アイザには迷惑をかけてしまうけれど。
 二人は一瞬躊躇うような顔を見せたが、渋々承諾してくれると、俺は身支度を済ませて、いつもよりも一時間早くバイト先を後にした。
 こんな事でクビになったりしないよな……と、少し不安に感じながらも、書店の出入り口で待ってくれているアイザの元に駆け寄る。
「甘えてごめん」
「ううん、甘えて」
 アイザはそう言うと、促すように俺の背に手を添えた。まるでお姫様をエスコートする紳士のような仕草に、気恥ずかしくなってしまう。
「危ないから、手をつなごう」
 そう言って俺の手を取ると、しっかりと俺の手を握りしめてくる。親が子供の手を握る程度の仕草だと分かっているのに、心臓がいつもと違う音を立てた。
「……そう言えば、あの……、レジやってる時に見えちゃったんだけど、誰かと来てたんじゃないの?」
「まって、もう一回」
 思わず早口になってしまったのか、聞き取れないとアイザが眉を下げる。
「一緒にいた、女の子」
 搔い摘んで言葉にすると、何だか嫉妬しているみたいに聞こえないかと、不安になってくる。
「ああ、うん。ばいばいした。シュンに会いに来たから」
 そう言いながら軽く手を揺らして歩く。
 既に日が沈んで、街灯が灯る駅前を二人で歩きながら、その言葉に俺は「そっか」と短く返すしかできなくて。それ以上何か言葉が思い浮かばず、ただ心臓がとくとくと、早まっていくのだけを感じていた。
「俺のこと、待ってた……?」
「うん、シュンだけ待ってた」
 ――俺、だけ。
 繋がった指先が汗を掻きそうで、少し恥ずかしい。けれど、間違いなくアイザの中で、特別な場所にいるんじゃないかという予感に、さっきまでの不安が嘘のように、胸の中が甘いもので満たされる――心臓が、妙な音を立てる。
 地面に足がちゃんとついてないみたいな、僅かな浮き立ち。
「学校で、シュンに会えないから」
 確かに、アイザは一つ学年が下になるので、気軽に会えるような距離でもない。
「だから、放課後とかバイトで、シュンの顔見たい」
「……な、なんで?」
「あー……、うん。えっと、シュンが大事で……えっと……ごめん、日本語難しい……」
 適切な言葉が思い浮かばない、掴めないと苦悩するアイザを見上げて、俺は嫌悪どころか、そんな彼の戸惑う仕草を見て、かわいいと思ってしまう。――ダメじゃん、俺。こんなの良くないじゃん。
 無意識な理性が、壊れかけたブレーキを思い切り引っ張る。
 俺は下唇を軽く噛んで、息を整えた。繋いだ手の指先が汗を掻いているのが分かる。恥ずかしい。
「シュン、顔赤い」
「そ、そんなことない……っ」
「かわいいよ」
 左耳から聞こえてくるアイザの一言に、息を飲む。肌がちりちりと粟立つ。ちらりと彼を見れば、男の俺なんかに向けるには勿体ない、笑みを浮かべていた。
「可愛くない」
「かわいいよ、シュンは世界一かわいい」
「なんだそれ、揶揄うなよ。バカタレ」
「ばかたれ?」
 アイザは首を傾げて、バカタレ、ってなに? と聞いてくる。俺はそれに「教えない」とそっぽ向いて、何度も引かれる指先に、繋がっている事を実感しながら、高鳴る胸の音を止めることができなかった。
 ――どうしよう、なんか、ちょっとやばいかも……。