――俺の願いは届かなかった。
「シュン、見つけた!」
 昼休みに響いたその声に、身体がびくりと反応する。顔を上げれば、穏やかな昼休みの教室の後ろ扉から、見慣れた長身が手を振っていた。目が合うと彼は、嬉しそうに教室の中へと入り駆け寄ってくる。
 学年の違いなど構う事のない清々しさで、周りの視線を一身に纏いながら(ただし当の本人は、全く気付いていない様子で)俺の元へと寄ってくる。
 今更他人の振りをする訳にもいかない。一体なぜ? という俺とアイザを見比べる視線に耐えながら、俺は苦笑いで彼を受け入れた。
 ――目立つ。思ったよりも何倍も、存在感がデカい。
 教室の片隅で静かに過ごしたい、そう安寧を願っていた俺にとって、アイザの存在は俺の理想の正反対を行く。
「シュン、会えた! 制服かわいいね」
「同じ制服だろう?」
 彼は俺の目の前の空席を引くと、そこに腰を落ち着けた。
「同じだけど、かわいい」
「複雑だな……」
「うれしい、見れた。えー……あ、うーん」
 アイザは短い言葉を作る事には慣れてきたようだが、少しでも文章が長くなると、毎度こうして言葉を濁す。区切って伝えてくれてもいいのだけど、それだと癖付いてしまうから嫌らしい――なんとも真面目な性格だ。
 でも、日本語で懸命に何かを伝えようとしてくれているのは、純粋に嬉しいの一言に尽きる。
「学校じゃないところで、会うのは、すごく初めてで……えっと、うれしい」
 アイザはよく嬉しいと言って笑うな、と何となく思うと、心が柔らかくなったような感覚になる。
「あー……っと、うん、日本語は、前より上手なったよね?」
「うん、日本語上手になった」
 たどたどしい単語から、連なる文体へと、確実に変化しているのを褒めると、彼は嬉しそうに頷き、手に持っていた本を開いた。
 小説だろうか、と覗き込めば、小学生向けの児童書だった。小説と言うには幼く、けれど絵本とは呼べない文字の連なりの長い本だ。
「え、今これ読んでるの?」
「そう、昨日買った。もう十五枚読んだよ」
「アイザ、十五ページだよ」
「十五ページ」
 挟んである、恐らく栞代わりだろうレシートのあるページを開いて、
「フリガナもある」
 そう言いながら文字の羅列の漢字の部分に、きちんと振られたルビを指さす。なるほど、児童書だから、難しい漢字にはフリガナが振られ、読み易くなっているのか。
「シュンは?」
 何を読んでる? と問われて、俺は素直に残り十数ページで読み終わってしまうだろう本を机の中から出した。「おお~」と驚きながら、アイザはそれを受け取ると、ぱらぱらと捲り、何かを呟く――が、素に戻っているのか、その呟く言葉が英語なので、何も聞き取りができない。
 彼は本当に外国に住んでいたんだと、改めて実感していると、
「すごい。読めないよ」
 苦笑いをしながら、本を戻された。
「まあ、これは難しいよね」
 フリガナもほとんど振られていないし、一文も長いのが、この作家の特徴でもある。しかもジャンルはミステリー。アイザが読むにはもう少し勉強が必要かもしれない。
「シュン、今日はバイトある?」
「今日はないよ」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
 俺はその何気ない誘いに、一瞬どきりとしてしまった。誰かと一緒に帰るなんて、小学生ぶりのお誘いかもしれない。
「えっと……」
「用事ある?」
「ないよ」
「じゃあ、また来るから」
 そう言うと、アイザは席を立ち、嵐のように周りを目を奪いながら去って行った。
 残された俺は「何であいつと、あいつが……?」というような奇異な的となり、いたたまれずに、文庫本を開いて、読書をするふりをした。
 でも、文字の羅列は文章となる前に、ちりぢりとなり、全然頭に入って来ない。俺は読書も諦めて、机に突っ伏し寝たふりをする。
 ……ちょっとだけ、放課後が楽しみだ。