春休みから始めた駅前にある、大型書店でのアルバイト。
高校二年生になったのだから、自分でお金を稼いでみる経験もいいだろうと、何気なく始めてみたのだが――これが意外と面白い。
週に三回、長期休み中ということもあり、午前中の十時から午後四時までのシフト勤務だが、今のところ不満はない。お金が貰えて、なおかつ本の社割が利くなんて、夢のようだ。
「あの、本がほしいです」
頭上から声が落ちて来て振り返ると、見知った顔がこちらを覗き込んでいた。彼の美しい緑と青を混ぜた眼差しの中に、湾曲した俺がいる。
「あ、こんにちは」
「こんにちは、シュン」
小学三年生の漢字ドリルの人――勢田アイザ、彼はあれ以降頻繁に、この書店へ足を運んでくれていた。
この書店が大型店ということもあり、洋書の種類も豊富なので、それも目当てに通ってくれているようだった。俺のネームプレートを見つけた時にフルネームを聞かれ、そこから下の名前で呼ばれるようになった。
さすが外国人、いきなり下の名前か……なんて、少し戸惑うところはあったけれど、何とも滑らかな対応につい流されてしまった。
「シュン、シュンのじ、かいた」
そう言いながら、ポケットの中から二つ折りの小さな紙を取り出すと、アイザはそれを俺に差し出した。素直に受け取り、開いてみると、筆圧の強い歪んだ文字で、
『春』
と書かれている。
子どもが育つのを見守る親とは、こういう気分なのだろうか。
一つ一つを丁寧に成長していくアイザの誠実さに、思わず胸がきゅんと、締め付けられてしまう。
「上手じゃん。綺麗に書けてるよ」
「じょうず? へへ、シュンがほめた」
「褒めた、って言葉も、覚えたの?」
「ほめた、わかる。えらい、とか、そういうのかんじ?」
「そうそう、えらいって感じ」
何度も頷くと、アイザは小さな子どものように白い頬を少し血色良くして笑った。俺はもう一度『春』と書かれた自分の名前を眺める。
決して綺麗な字とは言い難い。けれど、何度も書き直したであろう、消しゴムの跡や、筆圧の跡が、天井から注ぐ光に透けて見えて――それが嬉しくて。
「これ、もらっていい?」
「うん、あげる。シュンにあげたいって思ったから」
「ありがとう、大事にする」
俺はそれをまた半分に折り畳むと、制服代わりのエプロンのポケットに忍ばせた。
「今日これさがしてる」
そう言いながらスマートフォンの画面を見せられる。
今日は絵本のようだ。
人間のように洋服を着た二匹の蛙が、岩の上で向かい合いながら、サンドイッチを頬張っているイラスト。俺は見覚えがあるそれに、幾つかのタイトルを思い浮かべる。
「これ知ってる」
思わず口から零れると、アイザが「知ってる!」と嬉しそうに俺の言葉を繰り返した。
「ぼく六歳とか、そういうころよんでた」
「じゃあ、アイザの思い出の絵本だ。日本でも何冊か訳されてるよね。案内するよ」
手招きすると、アイザは喜んで俺の隣に並んだ。ビルの一階から三階までが本屋としてのフロアになっていて、絵本があるのは三階の学習本などが並ぶ棚のそばになっている。
本当は俺は二階を主に担当しているのだけど、お客からの頼みとなれば、移動する事は問題ない。
「ねえ、シュン。どんな本読む?」
「俺はミステリーとか」
「いいね。ぼくも好き、えほんも好き」
「絵本かぁ……おすすめある? えっと、レコメンド?」
「ああ!」
俺が英単語一つ出すと、全てを察したように、アイザは嬉しそうに目を輝かせた。日本語を勉強中とは言え、自分の主とする言語を聞くと、嬉しくなるようだ。
「ある! いっぱいある、教える!」
「ありがとう」
エスカレーターに乗り込み、少しだけ背の低くなった彼に振り返ると、アイザは目尻を下げて笑った。彼は見た目に反して、反応が子どもっぽい。
外見で言えば、年齢は恐らく大学生くらいだろうか。百八十センチ以上はありそうな身長に、ファッション誌で見かけるような少しアジアの入った美しい顔立ちと、驚く程小さな頭。黙っていると、何処か西洋の国の王子様なのではないかと、お付き人を探したくなる程の容姿だ。
しかし、一旦笑顔に表情がくずれると、人懐っこい。
しかも舌ったらずな日本語で、一生懸命話しかけてくる――それが子供みたいで、可愛い。
三階に着くと、ふたりで絵本書籍の棚に向かった。
絵本の新刊棚は、子どもが喜びそうな切り絵の装飾がされ、賑やかで親しみやすい空気が漂っている。
「かわいい!」
ねずみが主人公らしいその絵本を手に取り、アイザはぺらぺらとそれを捲った。
絵本は殆どがひらがなと優しい感じで構成されているので、彼にとっては選びやすい教材のようだ。
新刊に夢中になってるアイザを横目に、俺は頼まれてた蛙二匹が主人公の絵本を探す。先ほど見た絵本のタイトルを頼りに、背表紙を一つ一つ確認して行けば、それは簡単に見つかった。
「あったよ」
そう声を掛けると、アイザが隣に飛んで来て、俺の手元を覗き込む。彼の小脇にはすでに新刊である絵本が挟まれており、俺から絵本を受け取れば、それを二冊重ねて、
「ありがとう」
と頷いた。
「それも買うの?」
「うん、よめると思う」
彼は頷くと、一緒にエスカレーターを降りて、二階のレジカウンターへと向かう。
「シュン、ありがと。いつもやさしい」
彼が通うようになって、それ程日は経っていないが、彼は俺を見つければ、母親の顔を覚えたひな鳥のように、手を振ったり、こうして声を掛けて来て、名前まで読んでくる。
それはしっくりと俺の日常の中に溶け込んでいて、今更ありがとうと言われるのは、なんだか気恥ずかしい。
「はい、どういたしまして」
そう言いながら小さく頭を下げると、彼は先にエスカレーターを降りた。
「シュン、初めてからずっとやさしい。シュンとはなすことが好き」
「俺も、楽しいよ」
「シュンとたくさん、話しできるようにがんばる」
そう言うと、アイザはまた言葉よりもずっと大人びた顔をして、手を上げて去って行った。俺はその美しい表情を眺めながら、手を振り返す。
「王子は今日も三波くんご指名かぁ~……」
不意に背後からそんなふうに話し掛けられて、思わず驚いて振り返ると、バイトの先輩――斉藤綾人さんが、アイザの背中を見送りながら、
「好かれてるねえ」
と、呟いた。
綾人さんはエプロンのポケットの中に両手を突っ込みながら、いいなあと、俺の二の腕に軽くぶつかって、にやりと笑いかけてくる。
「羨ましいぞ~、あんなイケメン」
男からしても、あれくらいのイケメンに好かれたら羨ましがられるものなのだろうか。イマイチその感覚にピンとこないまま、俺は首を傾げて考える。
確かに懐かれてはいると思う。
「でも……なんか、きっと親鳥みたいに思ってるんですよ」
「親鳥?」
「この本屋に入って、一番最初に俺に声を掛けたんだと思います」
「あー、ね。そういう」
先輩は「納得しました」という顔で浅く何度か頷くと、俺の隣に並んだ。
「でも、俺は羨ましい~」
「羨ましいですか?」
「悪い気しないじゃん。イケメンなのに、あんなちっこいガキみたいににこにこされたら」
「まあ、確かに……」
その意見は頷けると思い、肯定すると、
「二人とも、搬入来て~」
と、長くパートとして、ここに勤めているおばさまから声が掛かった。俺達は「はぁい」と頷きながら、バックヤードへと向かい、話はそこで終了した。



