「三波くん、あがっていいよ」
店長の声に俺はエプロンを脱ぎながら バックヤードに入ると、ロッカーから制服の上着を取り出した。ポケットに入れっぱなしだったスマホを見れば、アイザからのメッセージが幾つか入っていた。
『三階の絵本のところにいるね』
『さっきはごめんね』
『女の子嫌だった?』
新しい順にメッセージを読んで、俺は穴が合ったら入りたいと、その場にしゃがみ込んだ。
バレてるんだ。
そりゃそうだ、綾人さんにだってバレたのだから、アイザにバレないわけがない。
俺は長いため息を吐いてから、もう一度画面の中のメッセージを読み返して、スマホの上で文字を打ち込むための親指をさ迷わせた。
『バイト終わった。今から行く』
とりあえず短く、用件だけを送ると、すぐに既読のマークがついて、OKという文字を持った、猫のスタンプが送られてきた。
俺は肩に鞄を掛けながら、ロッカーの扉を閉めると、社員用の出入り口に向かい、まだ親指をゆらゆらと画面の上でさ迷わせる。
なにか、言い訳を。
そう思うのに、言葉が出て来ない。
外に出ると、少し冷たい風が頬を撫でて、通り過ぎていく。もうそろそろ初夏が訪れる季節だというのに、まだ空気には春先の匂いや温度が残しているようだ。
ふっと、浅い息が零れたところで、またスマホが意図せず震える。
『さっき、キスしてごめんね』
アイザからメッセージに、踏み出した脚が止まる。
『シュンが一番って、分かって欲しかった』
『怖がったりしないでね』
連投される言葉に、いつの間にか緊張していた身体が少し解れる。
俺は再び正面入り口から店内に入ると、急いで三階にいるだろう、アイザの元に向かった。さっきよりも足取りが軽くて――なんだか、早く彼の顔が見たい気がして。
エスカレーターを昇り切ると、彼はすぐ目の前にいた。
「シュン、お疲れさま」
俺を見つけた途端、崩れる表情に、胸の奥が淡く温かい色に滲んだ気がした。
アイザの笑顔っていいな。
不意にそんな事を思う。
「待たせてごめん」
「大丈夫、帰ろう?」
そう言って、背中に手が回る。優しく足取りを促されて、来た道を戻るように、エスカレーターに乗り込む。
「なあ、もう大丈夫。一人で帰れるよ?」
念のためにそう言うと、アイザは「だめ」と首を横に振った。
「一回あることは三回あるんでしょ?」
そう得意気に言いきかせられ、俺は反論を失う。しかし、アイザはそんな俺を見下ろしてから、厳しめの顔をふっと緩めて、
「あと、ぼくがシュンと一緒に居たい」
そうはっきりと、真っ直ぐに伝えられた。
「……えっと」
「シュンが留年しないって言うから、時間ないんだよ」
「留年はしねーよ」
拘り強く言われて、俺は思わず気が緩んでしまい、笑ってしまう。
俺達は店を出ると、俺の家に向かってゆっくりと歩いた。
「今日は女の子たちに勉強教えてもらった?」
何となく気になっている事を口にして、勝手に身構えている自分を意識してしまう。
「勉強しなかった」
「そうなんだ」
「勉強しよって言ったけど、今日はしないって」
それが不満だったのか、アイザは「なんでかなあ」と首を傾げる。
「今日何がしたかったんだ?」
「小説でわかんないのあった」
「じゃあ俺が教えるよ」
アイザは嬉しそうに頷くと、鞄から付箋だらけの児童書を出してくる。ページを開けば、分からない言葉に、鉛筆で線引と「?」マークが書かれていた。
本当に勉強熱心だな……。
思わず感心しながら、彼の疑問に一つ一つ答えていく。
街灯が白いページの上を照らしたり暗くしたりしながら、俺達は帰り道を時々立ち止まっては歩き、首を傾げ、笑って、言葉を伝え合う。ページが捲れるごとに、問題が一つ一つ解決するごとに――言葉も、心の距離も、近づいて行く気がするのは、俺だけなのだろうか。
「ありがとう、シュン」
不意にお礼を言われて、俺は首を横に振った。
「俺も教えるの、楽しいから」
そう言うと、アイザは笑った。街灯から降りてくるオレンジ色の温かい光の下で、彼の笑顔が仄かに輝く。
――あ、好きだな。
何の前触れもなく、感情が一滴、心の水面に落ちてきた。小さな波紋は大きく心の隅々にまで広がり、胸の中に響いてく。
俺は、アイザが好きなんだ……。
俺はそんな事を自覚して、彼の笑顔に、笑顔を返した。



