春の風が、桜の花びらを連れて舞い込んできた。
教室の窓を少し開けていたせいだ。
ひとひらが、舞のノートの上に落ちる。
——風のにおいが、懐かしい。
この世界に来たばかりのころ、桜はまだ蕾だった。
季節がめぐるほどに、舞はこの時代の「生」を感じていた。
けれど、その温もりは、もう長くは続かない。
【 予兆 】
放課後のチャイムが鳴り終わるころ。
舞はまた、ふいに世界の“揺らぎ”を感じた。
黒板が波打ち、机の線がふわりと歪む。
「っ……!」
思わず机を掴んだ。
心臓が、ドクンと不規則に跳ねる。
視界が白くかすむ。
「綾瀬!? またか!」
駆け寄ってきた大樹の声が、遠くで響く。
「だ、大丈夫……」
「大丈夫じゃねぇだろ!」
彼の手が、震えながら舞の頬に触れた。
その温もりで、ようやく息を吸える。
——だけど、わかっていた。
これはもう、“帰りのサイン”だ。
この世界に、長くはいられない。
【 教室の屋上 】
次の日。
舞は放課後、屋上に向かった。
フェンス越しに見える夕焼けは、どこか現実味が薄い。
まるで絵の中にいるようだった。
「綾瀬!ここにいたのか。」
背後から声がした。
振り向くと、大樹が立っていた。
手には二つの缶ジュース。
「オレンジとリンゴ、どっちがいい?」
「……オレンジ。」
「だと思った。」
プシュッ、と小さな音。
炭酸の泡が弾ける。
「なぁ」
「ん?」
「この前、言ってたこと……先生の未来が変わったって、ほんとに思うか?」
舞はしばらく黙って、空を見上げた。
ゆっくりと、頷く。
「うん。きっと、変わった。
——でも、そのぶん、私はここにいられなくなるんだと思う。」
「……どういう意味だよそれ。」
「この世界は、未来とつながってる。
先生を救ったことで、未来が“上書き”された。
だから、私の存在が……必要じゃなくなるんじゃないかな。」
大樹の手から、缶が落ちた。
転がったジュースが、カランと乾いた音を立てる。
「なんだそれ、ふざけんなよ。そんなの……そんなの、認めねぇ!」
「大樹くん……」
「だって、やっと……綾瀬とっ…、ちゃんと笑い合えたのにっ…!」
彼の声が震える。
その瞳の奥に、涙が溜まっていた。
舞はその手を握りしめた。
「ありがとう。
でもね、私、この世界を生きられたことが、本当に幸せだったよ。」
「幸せとか……そんな言葉で片づけんなよ!」
風が吹き、桜の花びらがふたりの間に舞い落ちる。
夕陽がフェンスを赤く染めた。
【 別れの約束 】
日が沈むころ。
二人はグラウンドの中央にいた。
サッカーゴールの白いフレームが、オレンジに輝いている。
「最後に、ここに来たかったの。」
「……サッカーの練習、いつもここでしてたから?」
「うん。それに、大樹くんに声をかけられたのもこの場所があってこそだから、、、。」
舞の瞳が、柔らかく微笑む。
その笑顔が、痛いほどにまぶしい。
「なぁ、綾瀬。」
大樹が静かに言った。
「未来に戻っても……俺のこと、覚えててくれる?」
「もちろん。忘れるわけないでしょ!」
「じゃあさ、いつか……未来で、また会おうな。」
「……うん。必ず会えるよ。」
ふたりは指切りをした。
その瞬間、光がふわりと舞い上がった。
花びらが光に変わり、空へと吸い込まれていく。
「大樹くん……本当に、ありがとう。」
「やめろよ、そんな顔で言うなよ!」
「大丈夫。もう怖くないから。」
舞の身体が、少しずつ透け始めた。
腕の輪郭が淡く光る。
「綾瀬!ま、待ってよ……!」
大樹がその手を掴もうとする。
けれど、触れるたびに指先がすり抜けていく。
「……さよなら、じゃないよ。」
「……え?」
「また、未来の同窓会できっと、必ず——」
その言葉を最後に、舞の姿は光の粒となって消えた。
春風が、静かに吹き抜ける。
【 空を見上げて 】
それから、しばらく経った。
グラウンドには大樹だけが立ち尽くしていた。
空は一面、朱に染まり、雲が流れていく。
——まるで、あの日のように。
風に吹かれながら、大樹は呟いた。
「俺、信じるからな。
奇跡とか、そんな言葉、今まで信じたことなかったけど……
綾瀬、お前が教えてくれたんだもんな。」
空を見上げる。
その瞳に、涙が一筋流れた。
「また会おうな。どんな未来でも。」
そして、大樹は笑った。
その笑顔は、夕陽よりもまぶしかった。



