耳の奥に、子どもたちの笑い声がこだまする。




 光がまだ白く眩しく、意識が完全には現実と結びつかない。



 けれど、確かに感じる木の床の感触、鉛筆の匂い、春の匂い——。

 綾瀬舞は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。





 目の前には「6年A組」の文字が書かれた黒板。





 そこに立つのは、紛れもなく——十八年前の、あの人だった。



 友田誠先生。





 笑いながら、黒板消しで額のチョーク粉をぬぐっている。




 その姿を見た瞬間、舞の心は震えた。






 ——生きてる。









 あの病室で、もう声を失ったはずの人が、今ここにいる。






「伊藤、山田! 君たちがドアに黒板消しを挟んだのか? もう今日から六年生なんだから、少しは大人になりなさい!」






 笑いを含んだ叱り声に、教室中が笑いに包まれる。




 その笑い声が懐かしくて、舞は思わず胸を押さえた。





(夢じゃない……本当に戻ってきたの?)






 窓の外では、春の風が桜の花びらを舞い上げていた。





 雪が降っていたはずの朝から、一転して陽光が降り注ぐ。





 白い世界から、色のある時間へ。





 まるで世界そのものが、舞を迎え入れてくれているようだった。










【教室のざわめき】








「ねぇ、綾瀬さん、顔色悪くない?」





 隣の席から声をかけてきたのは、少し気の強そうな女の子——川口沙織。





 記憶の中にもちゃんといる。仲は悪くなかったけど、深く話したこともない。





「あ、ううん……ちょっと、ぼーっとしてただけ。」





「そう? 始業式だからって緊張してるんじゃないの?」





「あはは…、……そうかも。」





 曖昧に笑って返す。




 この日が、6年生になって最初の始業式の日だったことを思い出す。




 記憶の中の舞は、この頃、ほとんど誰とも深く話せなかった。





 グループにも入れず、放課後はひとりで帰ることが多かった。




(今度こそ、ちゃんと関わろう。友田先生にも、みんなにも……)





 胸の奥でそう小さく誓う。




 未来を変えることができるなら、自分の心から変えたい。





 それが、あの病室で聞いた「自由に生きていい」という言葉への答えだと思った。















【放課後の校庭】



 その日の授業が終わると、教室は賑やかになった。




 サッカーボールを手にした男子たちが、わいわいと校庭へ走っていく。





 その中に——いた。









 宮澤 大樹(ミヤザワ ダイキ)。





 スポーツ万能で、明るくて、クラスの中心的存在だったイケメンの少年。




 黒髪の断髪、快活な笑顔を浮かべている、サッカー少年。
 十八年前と何も変わらない。





(宮澤くんだ……懐かしい。まさか、もう一度この姿を見る日が来るなんて。)





 舞は思わず、窓際からその姿を見つめた。




 サッカーボールを蹴り上げる足の動き、仲間に声をかける声、風に揺れる制服の袖。




 その一つひとつが鮮やかに焼きついていく。





「おい、大樹! もう一試合やろーぜ!」




「よし、次は俺がキーパーな!」





 その瞬間、ボールが高く跳ね上がり——
 舞の方へと飛んできた。





「わっ!」




 咄嗟に顔の前で両手を構えたが、受け止めることはできず、ボールは机に当たって床を転がる。





 慌てて拾い上げると、大樹がこちらへ駆け寄ってきた。






「ごめん! 当たんなかった? 大丈夫?」




 近くで見ると、幼さの残る顔立ちの中に、すでに芯の強さがあった。




 昔の、初恋だった人。




 心臓がドクンと跳ねた。





「う、うん……大丈夫。ありがとう」




「そっか、よかった。あ、えーと…——綾瀬だよな?」




「えっ、うん……覚えててくれたんだ。」




「当たり前じゃん。席近かったし。」





 彼の笑顔に、一瞬だけ胸があたたかくなる。





 だが次の瞬間、彼はボールを持ち直して「じゃ、またな!」と手を振って去っていった。






 その軽やかな後ろ姿を見送りながら、舞は思った。






 ——今度こそ、ちゃんと向き合いたい。





 ただの“クラスメート”じゃなくて。









【 帰宅 】








 放課後の帰り道、舞はランドセルを背負って歩いていた。





 見た目は大人の身体ではなく、十二歳の小さな手足。



 家の並びも昔のままだ。



 道端に咲く水仙の花、遠くで鳴くカエルの声。踏切。






 すべてが懐かしい。





 角を曲がると、そこには若い頃の母が立っていた。




 エプロン姿で、買い物袋を抱えている。





「舞、早かったのね。今日は始業式でしょ?」




「う、うん……」





 声が少し震える。




 再び会えた母の姿に、涙が出そうだった。



 でも、それを悟られないように笑う。





「今日のごはん、カレーにしようと思ってるの。舞、好きでしょ?」




「うん……好き。」





 それは本当に懐かしい味の記憶だった。




 もう二度と食べられないと思っていたのに。




 夕食のテーブルで、母が笑いながら話す。




「舞、六年生なんだから、クラスで委員とかやってみたら?」



「えっ、委員……?」




「人の前に立つのは苦手かもしれないけど、少しずつ慣れていけばいいのよ」





 母の優しい声を聞きながら、舞は胸の奥で何かが灯るのを感じた。




 ——そうだ。今度は逃げない。





 勇気を出して、誰かと関わろう。







【 夜の独白 】






 夜。







 布団に入っても、眠れなかった。


 天井を見つめながら、現実と記憶の境界が曖昧になる。




(夢でも見てるのかな?)


(夢にしては長すぎる…)






「やっぱり、タイムスリップ?ってやつだよね?」






(どうして、私……戻ってきたんだろう)






(先生が言ってた「自由に生きろ」って言葉が関係してるの?)





 手に握ったままの古びたお守りが、ほんのりと温かい。



 時間を越えてここにあることが、不思議でならなかった。






 ——もし、先生の病気を早く見つけられたら。

 ——もし、彼の未来を変えることができたら。





 心の奥から、ひとつの希望が芽生える。




(今度こそ、誰かを救いたい。後悔しないように。)




 そう思った瞬間、涙が頬を伝った。



 静かな春の夜、外では虫の声が鳴いている。





 舞は目を閉じながら、そっとお守りを胸に押し当てた。













【 翌朝 】






 翌朝の教室は、春の光に包まれていた。




 窓際の席に座り、舞はノートを広げる。



 すると、前の席から顔を出した大樹が言った。




「綾瀬、字、きれいだよなー。」




「え? あ、ありがとう。」



「昨日のボールのこと、ほんとごめんな。あれ、伊藤が変なスピンかけたせいでさー。」




「ふふ、大丈夫だよ。……でも、今度は当てないでね。さすがに痛いよ。」



「了解、気をつける!」





 その笑顔に、舞は思わず微笑み返した。



 こんな風に自然に話したことなんて、前の人生では一度もなかった。




 心のどこかで、運命が少しだけ変わった気がした。




 放課後、廊下を歩くとき、舞はふと立ち止まった。





 職員室のドアが少し開いていて、中から先生の声が聞こえる。






「——検査? いや、大丈夫です。ちょっと膝が痛むだけですし…。」





 その言葉に、息を呑んだ。





 友田先生の病の始まり。







 確か、右膝の腫瘍が最初だった。






(そうだ……きっとこのときから、始まってたんだ!)






 舞は拳を握りしめた。




 心臓が早鐘のように鳴る。





 未来を知っているのは自分だけ。






 ——なら、何かできるはず。






 夕暮れの光が職員室のガラスに反射し、舞の瞳を照らす。





 決意の色が、静かに宿っていた。






 教室へ戻る途中、窓の外を見上げると、流れる雲が見えた。





 白く、ゆっくりと流れていく。





 あの日と同じ雲。






「——あの日、流れ行く曇を追いかけた。私は、もう一度……ここから始める。」






 小さく呟いたその声を、誰も聞いていなかった。







 けれど、その瞬間、世界は確かに少しだけ変わっていた。