季節は冬ーーーー。



雪は、朝から静かに降っていた。





 ひとつひとつの白い結晶が、音もなく地面に落ち、街の輪郭を柔らかく消していく。





 バスの窓から外を見つめながら、綾瀬 舞(アヤセ マイ)は指先でスマートフォンの画面をなぞった。





 日付は◯月◯△日。彼女の三十歳の誕生日。



自分へのご褒美も、誰かと祝う予定もなく、気づけばこの総合病院に立っていた。



目的は——お見舞い。



 けれど、胸の奥にあるのは“お祝い”とは正反対の、鈍い痛みのような感情だった。



1ヶ月前のスマホの通知欄には「6年A組同窓会・□□□□年◯月✕日(△)19時〜」と表示されていた。



 けれど、その文字を見ても胸は弾まなかった。




 むしろ、心の奥に小さな重石が沈んでいくような感覚だった。





 ——行くべきなのだろうか。




 懐かしい顔ぶれ。





けれど、あの頃の私は誰ともうまく馴染めなかった。




舞は鞄の中で花束を抱え直す。白いカスミソウと淡いピンクのガーベラ。





 目的地は総合病院の五階、502号室。





 そこに、小学校6年生のときの担任——友田誠先生がいる。




 会社を出たとき、雪はまだ小降りだった。





 仕事終わりの駅前はクリスマスのイルミネーションで光に包まれ、行き交う人々の笑顔が白い息の向こうで弾けていた。



けれど舞には、それがまるで別の世界のように見えた。





 心のどこかが空洞になったまま、電車に揺られ、病院へ向かう。






 同じ病院に入院していた母から聞いたのは一週間前だった。





 「病院で偶然会ったのよ。友田先生、もうあまり長くないんだそうよ……悲しいわよね…」





その一言が、胸の奥で鈍く響いた。



 舞はその夜、久しぶりに泣いた。



 涙を流すのは、いつ以来だろう。




社会人になってからは、泣く暇すらなかったというのに。





人の命はなんてこんなにも呆気ないんだろう。




なんて儚いものなのだろうか。






 病院の自動ドアをくぐると、暖房のぬくもりと消毒液の匂いが鼻をついた。



一番近くにある、受付横の案内板の「5F 内科・緩和ケア」の文字を追いながら、足が自然と重くなる。



 エレベーターの鏡に映る自分の顔は、どこか強張っていた。


 髪をまとめ、淡いグレーのコートを着ているのに、
 昔と変わらない内気な少女がその中に見える気がした。




花束を抱え、舞は病院の白い廊下を歩いていた。





502号室の前で、舞は足を止める。







 手に持つ花束——淡いカスミソウと白いユリの香りが、わずかに震える指先を慰めるように広がっていた。



(……行かなきゃ)




 心の奥で小さく呟き、深呼吸をひとつ。
 ノックをして、そっと扉を開いた。





 ノックをして、ゆっくりと扉を開けた。






 そこには、モニターや点滴のチューブが垂れ下がっており、顔には酸素マスクをつけた友田先生がベッドに横たわっていた。





「友田…先生…。」







 白くなった髪。頬は少しこけているけれど、
銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、かつてのままの優しい光を宿している。






 「…あぁ…綾瀬…、…来てくれた…んだね。」





 その一言に、胸の奥が締めつけられた。

 あの日と同じ声。

 運動会の朝、緊張していた自分を励ましてくれた声。







「はい。……先生、どうして、何も言ってくれなかったんですか」





 かすかに震える声で問う。




 友田先生は、目を細めて、少し笑った。



「心配…かけたく、なかったんだよ…。六年A組のみんなには…、楽しい思い出のままで…いてほしかった。……綾瀬にもね…。」





 酸素マスクの曇りの向こうで、先生は咳をしながら時折苦しそうに息を整えた。






 その姿に、舞の喉が詰まる。





涙が、頬を伝いそうになるのを必死に堪えていた。







「先生、みんな、きっと心配してますよ。明日には……6年A組の同窓会なんです。先生がいなきゃ、意味がないのに……」





「同窓会か……。そうだったね、君たちが30になったらやろうって、約束してたっけなあ…。」



 苦しそうな息の合間に、先生の目が柔らかく光る。



 その瞳には、過ぎ去った時間が静かに映っていた。






「綾瀬、覚えてるかい…? 運動会の前の、あの“いろは節”。みんなで踊ったね…。」







 舞は一瞬きょとんとしたあと、口元を少し緩めた。
 懐かしさが胸を締めつける。







「覚えてます。……でも、私、踊りが苦手で、恥ずかしくて
、そして笑われてばかりでした。」





「はは……そうだったね。でも君は、最後まで一生懸命だった。それでよかったんだよ。」





 窓の外に夕日が沈みかけている。





 茜色の光がカーテンの隙間から差し込み、先生の頬を淡く染めた。




 その光景が、どこかこの世のものではないような儚さを帯びていた。




 ——もう、時間があまりない。





 舞はその現実を、先生の指先の細さで悟った。





「綾瀬、……君は、今……幸せかい?」





 突然の問いに、舞は視線を落とした。




 答えを探そうとしても、喉の奥で言葉が消えていく。




「……正直、よく分かりません。仕事はそれなりに頑張ってるけど、楽しいって思える瞬間が少なくて。小学校の頃みたいに、素直に笑えない気がして……。」





 先生は、しばらく黙ってから、ゆっくりと右手を伸ばした。




 ベッド脇の引き出しを開け、古びたお守りを取り出す。
 焦げ茶色の布が少し擦れている。





「綾瀬…、これを、持っていなさい。……実はね、ちょっとした…おまじないがかかっているんだ。」





「おまじない……?」





「昔に…、地元の神社で仕事の帰りに買ったんだ…。『また皆と会えるように』って…願いを込めてね。——君が来た時に、渡そう…と思っていたんだよ。」





 舞は震える手でそれを受け取った。




 指先に伝わるぬくもりが、あまりにも現実的で、そして切なかった。




「ありがとうございます、先生……。」





「綾瀬。君は……自分を責めすぎる。昔からそうだった。周りに溶け込めないことを、気にしてばかりいた。でもね——もっと自由に生きていいんだよ。」





 酸素マスク越しの声は、ゆっくりと薄れていくようだった。




 その言葉が胸の奥に深く突き刺さる。





「……自由に、生きなさい。」





 友田先生は、静かに微笑んだ。




 その笑顔が、痛いほどやさしかった。











 ——その翌日。









 同窓会の前日に、友田先生は息を引き取った。





 雪の降る朝。






 舞は黒いコートの襟を立てながら、凍てつく空気を吸い込んだ。





 手には、あの古びたお守りが握られている。









 同窓会の日。






 約束された日。



 でも——友田先生の姿は、もうない。




 白く霞んだ空を見上げると、雪の粒がゆっくりと舞い落ちてくる。





 まるで誰かが、空の上からこの世界をそっと見守っているようだった。







(……先生、私……どうすればよかったんですか。もっと早く、何かできたんじゃないかって……)





 校門が見えてくる。




 懐かしい鉄製の門。





 かつてここで、笑いながら走り抜けていった友達たちの声が、耳の奥で蘇る。






 舞は足を止め、お守りを胸に当てた。





「先生っ……」








 声にならないほどの小さな呟きが、雪の中に溶けた瞬間——
 世界が、揺れた。

 視界が、ぐにゃりと歪む。
 雪が逆流するように空へ昇り、耳鳴りが響く。
 身体が倒れる感覚とともに、意識が遠のいていく。

 ——そして。

 まぶしい光の中で、誰かの笑い声が聞こえた。
 鈴のような子どもの声。
 黒板を引っ掻くチョークの音。
 それは、確かに知っている音だった。







 目を開けると、そこは——教室。








 木の机、日焼けした掲示板、窓際の桜の木。
 全てが懐かしい。





「……うそ。ここ、って——」




 舞は立ち上がり、頬をつねった。




 痛い。夢じゃない。


舞はこれでもかというくらい目を見開く。






 教室の前では、やんちゃな男子——伊藤と山田が、黒板消しをドアに仕込んで笑っている。





 ——そうだ、この光景、知ってる。




「これ……あの日だ。6年A組の……始業式の朝!」






 息を呑む。






 ドアが開く音。





 黒板消しが、ぱふっと落ちる。

「こら、伊藤! 山田! 何をしてるのかな……!」





 聞き慣れた声。




 友田先生——若い姿のままの彼が、そこに立っていた。






 白いシャツの袖をまくり、頬に黒板のチョーク粉をつけながら笑っている。





 それは、まさしく十八年前の春。





 あの頃のままの先生だった。





「友…田…、先生……?」





 小さく呟いたその瞬間、胸の奥で何かが震えた。






 世界が、確かにもう一度、動き始めていた。