どうしたら止まるのだろう。目の両端から絶えず溢れゆく雫を。
タップして通信を切ると、また涙が溢れた。大好きだった恋人を失って。
とん、と床に音が響く。そこには指輪が。彼とこれをつけていたときよりも指が細くなってしまったせいで。
彼との当たり前の日常が遠いものになったのだと嫌でも思ってしまう。それを拾い、ゴミ箱へ投げようとするも、結局また細くなった左の薬指にはめることしかできなくて。
これが失恋、なのかな。世の中の失恋した人たちってみんなこんな気持ち?
お別れなんてしたくなかったのに。そう思ったって彼は戻ってこない。ただ彼と過ごした月日が頭の中で蘇るだけ。
寒いなぁ、なんて換気で窓を開けているせいだけれど。
彼との関係が終わったとしても世界は終わらない。肌を滑る空気の冷たさがそれを物語っている。
こたつ出そうかな。
その温もりが今のこの気持ちを溶かしてくれるかもしれない。消えなくても、小さくなってほしい。
立ち上がり、表面の紙が少し剥がれた押し入れを開けて分厚い毛布を腕いっぱいに抱く。
丸いテーブルの天板を外して、脚部分を毛布をかけることで覆いつくし、天板をセットするとあっという間にその様相を見せる。線も通し、いざ電源をつけようとするも手を止めた。
いけない。こたつといったらあれがないとと、私は歩き出す。あれを買おうと外と隔てる扉を開けるために。
「ただいま」
なんて誰もいないのに。わかっていることだけどそれでも口にする。そのほうが寂しさだって紛れるし……。
「ミヤン」
あの動物特有の鳴き声。帰りに見かけなかったけど、きっと遠くのお外で猫が鳴いているんだと思う。それよりも。
マイバッグから、あれを取り出す。丸いから持つと、手の上で何回も転がる。それにとても冷たい。そしてなにより。
手に鼻を近づけようとして、だけどやめる。いけない、彼を思い出してしまう。
みかんを置いてとりあえず冷えた体を温めようと、電源を入れてこたつに足を潜らせると。
「あれ?」
今年最初の炬燵に入って心地よさが足先から伝わるはずなのに、思ってたのとは違う感触が……。
「ミヤン」
え、今近くで猫の鳴き声が聞こえたような。まさかね。
すると、足を動かしていないのにまた足先がなにかに触れる。動くものがこたつの中に? こうなったらもう、気になって仕方ない。こたつから一旦抜け出し、思い切って毛布を上げると。
「ミャン」
「え……」
猫さん。全身真っ黒でどこにでもいるような猫さん。あれ……視界がぼやけて……。
カーペットに一つ黒いしみを作る。
「ミヤン」
ゆっくりと鳴く猫さん。おいで、と言ってないのに猫さんは私に近づいてきて。
「ミヤン」
気づけば腕で猫さんの身体全体を包んでいた。温かい、こたつに入ってたからかな。湯たんぽみたい。
「可愛いね」
可愛すぎる。離さないと言うように私は強く抱きしめた。ぎゅっとすれば、涙も止まる気がして。
「ミヤン」
「あ、ごめんね。苦しかったかな?」
腕の力を緩めると、猫さんが軽くジャンプをしてこたつのテーブルの上に乗った。それから置いてあるみかんに鼻を近づけてヒクヒクし始める。
「それ、食べたいの?」
「ミヤン」
まさにそのみかんが食べたいと言うようにタイミングよく猫さんは鳴く。
「はい、どうぞ」
皮をむいた一切れのみかんを猫さんは長めの舌でなめ始めた。どうしよう、食べているところでさえ可愛い。
「どう、美味しい?」
また返事をしてくれるのかなって少し期待したけど、今度は鳴いてくれなかった。きっとみかんの味に夢中で。あ、また。
こぼれそうな涙を止めるように、私も一つ口に入れた。甘さとちょっとの酸っぱさが口の中で調和し合っていて、いくらでも食べられそうな、とにかく美味しい味。だから飲み込んでしまうと、寂しくなる。寂しくなる……。
私は猫さんの首元に注目した。そこに首輪はなくて。
「猫さんは野良猫?」
「ミヤン」
そうだよ、と聞こえるのは私の都合のいい解釈かな、なんて。でも、そう思ってもいいよね。
「これから一緒に暮らさない?」
「ミヤン!」
今度はきっと都合のいい解釈じゃない。確かに弾んだ鳴き声だった。
石鹸を手で擦り泡を次々に生み出してゆく。それをたっぷり猫の背中に乗せると、びっくりとはせずむしろ目を瞑って心地よさそうにしている。
周りに浮かぶシャボン玉が猫の輪郭をあやふやにする。それがお化粧になって、余計に可愛く視界に映った。
「本当に可愛いね」
「ミヤン」
撫でるように顔や耳。ひげや背中を洗っていると、自分の心まで清くなっていくように癒される。猫の力恐るべし。
びっくりしないようにぬるめの湯をかけてゆく。
タオルで全体を拭き終わる。猫が激しく身体を揺らして、わずかにあった雫を払い落とした。
「ミヤン」
再びこたつにもぐる黒猫。よっぽどのこたつ好きだなぁ。まぁ、そう言いながら入る私も大概だけど。
「ミヤン」
あったかいって言ってるのかな?
「ミヤン」
そうだよ、なんて。腕を伸ばすと黒猫が私のもとへとやってきた。あったかい。そして眠い。
腕を枕にして目を瞑る猫が余計に夢を誘う。
「おやすみ」
「ミヤン」
意識半分の中挨拶して、私の視界は真っ暗になった。
「おはようって……」
唖然とする。でも猫がいたら当たり前にあること。でもこれはさすがに……。いや、怒っちゃいけない。
「もう、こんなことしちゃダメだよ。ペットの持ち込み許可されてるアパートとはいえ」
「ミヤン」
まぁ、仕方ない。きちんと用意していなかった私が悪いから。タンスから色々引き出して。
「はい、ここがトイレで。ここが爪研ぐ場所ね」
事件現場かのような傷ついた壁。強烈な匂いの漂う濡れた箇所から一旦目を背ける。ひとまずごはんを与えねば。
「いっぱい食べてね」
並々にペットフードを盛り、それに飛び込む黒猫の後ろ姿をそっと眺める。
「美味しい」
「ミヤン」
思わず頬が弛む。それからすぐにあの現場の処理へと意識を向けた。壁の傷跡を絆創膏を貼るようにガムテープで補強し、鼻を破壊する力を持つ匂いが漂う箇所を手際よく拭き、最後に消臭剤をしゅっと散らす。
大変だけどその可愛らしい鳴き声と姿を拝めただけで、全部許せる。それにこれだけ大変だと彼のことも自然と思い出さずにすむし。
ふいに時計を見て、目が丸くなる。針は一限の時間をもうすぐ知らせようとしていて……。
私は消臭剤を素早く手放して、自分の支度へと行動を変える。服とズボンは履きやすさを重視した、でもお洒落さは皆無。ヘアセットは、櫛で溶かすだけにして、荷物の入ったリュックを背負う。
家を出ようすると、黒猫がお皿の前にいなくて、不安になる。
「どこいったの?」
もう出ないと行けないし、そもそも昨日どっかから現れた猫だから心配する必要はない。だけどどうしても気になってしまう。いないと寂しいから。その寂しさが彼との別れたときの気持ちをフラッシュバックさせるから。
「あ、いた。よかった」
あの黒猫がいる場所といったら、ここ。って場所にいてくれた。私たちを繋げてくれたこたつに。
「いってくるね」
そう言っても声が返らないしばらく続いたひとりぼっちの生活に幕を閉ざすように中の黒猫は。
「ミヤン」と鳴いてくれた。
「ギリギリ間に合ったよ。よかったねって」
私のために席を取ってくれて、奥へ行かせるために立ち上がったその人は言葉に詰まる。うん、なんとなくその理由はわかる。
「むぎ。白一色ってどこの作業場の人? それに髪も」
「わかってるよ」
「ほら、早く座って」
促されて私は彼女の隣に座る。
「あっち向いたままね」
頭に心地よい刺激。細くてちょっとひんやりしたものが何度も何度も通っていく。そしてどんどん髪はまとめられてゆき。
「はい、即席ポニーテールの完成。これ一応鏡」
「わ〜、すごいお洒落に仕上がってる。ありがとね」
きっちり整えられたポニーテールではないけれど、ちょっと緩めに結われているのがお洒落な感じで。
「どういたしまして。それよりよかったよ、ほんとに」
「うん。危うく遅刻するところだったよ」
「そうじゃなくて」
「うん?」
違うの? 思い当たる節がなくて、でも考えていたら。
「ほら、この間まで落ち込んでたでしょ? 彼の一件で」
「あっ」
「もしかして思い出させちゃった? 忘れてたならごめんね」
「ううん、違うの。ごめんね、今までずっと心配かけちゃって。もう大丈夫なの!」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「なにかあったの? 相当落ち込んでたむぎを大丈夫にした出来事ってなに?」
「ふふ、実はね。新しい家族ができたの!」
「え? この間別れたのに、お付き合いを飛ばして結婚?」
人差し指を素早く口元に立てる。もう、たとえ真実じゃなくても大きな声でそんなこと言わないで。キョロキョロと視線を散らして薄っすら頬を桃色に染めたルナは、「それで、どういうことなの?」と今度はすごく小さい声で聞く。
「猫が家にやってきたの」
「猫、えっ猫! そっかそれで嬉しそうなんだ」
「うん!」
私は大きく頷いた。そしてその猫のことを教えようとしたところである重要なことを忘れていた。
「それで名前は?」
「あっ」
そう、私としたことが名前のことなんてまったく頭になかったのだ。
「あっじゃなくて。名前大事って言ってたのはどこの誰でしたっけ?」
「えっと、私ですね」
「ちゃんとつけてあげないと可哀想だよ?」
「だよね」
名前。ぱっと思いつくわけなくて、うだうだしていたら先生が来てしまった。仕方ない。講義を聴きつつ考えよう。
と思ったらいつの間に講師が話を止めて教室を去ってしまっていて。
「それで思いついた?」
「……まったく」
「もう、講義内容とか私があとで教えてあげるのに」
「そんな講義無視してまで考えることでもないでしょ。ルナこそ、講義聴いてたの?」
うっ、と痛い顔をするルナ。やっぱり。普段の講義も隣で目を瞑ってることが多いから。
「だって、難しい話って眠くなるんだもん。学ぶどころか目を開けることで精一杯だよ」
「まぁ、確かにね。冬場とか特に」
「ムギは寒いの苦手なんだもんね」
「そう。でも、昨日来た猫も寒いの苦手そうなんだよね」
「え、どうして?」
「見つけたのがこたつの中だったから」
「そうなんだぁ。お仲間だね。なら早く名前つけないと」
「そうなの? まぁ、下手な名前つけても可哀想なだけだよ。ゆっくり考えてみる」
「うん。あぁ、今度その例の猫ちゃん見せてね」
「もちろん。あとで写真送っておくね。テスト勉強のときにでも見にきてよ」
「わ~、テスト勉強とか考えたくないよ。はぁ、あの先生の講義もそういえばテストあったよね。むぎ、絶対教えてね!」
「いくらでも教えるけど、猫に気を取られないようにね」
「むぎじゃないんだから。ほんとむぎは異常なほどの猫好きだよね」
「それ、褒め言葉なら嬉しいなぁ」
「もちろん!」
バイバイ、と軽く手を振るルナ。私も同じように振り返した。
扉を開けた瞬間、酸っぱい匂いが鼻の奥を刺した。これは、今朝も仄かに香ったものだからわかる。案の定その香りの主であるボトルがカーペットの上に落ちていて。それを小さくて普段なら愛らしい肉球が転がしているのだけど。
「ちょっと、どういうこと?」
「ミヤン、ミヤン」
身をこたつに隠す。もう、すぐにこたつに潜るんだから。いたずらっ子なのかしら。
毛布をがばっと上げると、奥にいる猫の毛並みが逆立つのが見えた。目を満月みたいに形のいいまん丸にして。
「さすがに猫好きの私でも怒ったから……」
「ミヤン」
潤んだ瞳。猫って泣かないはずなのに。声だって弱々しくて今までで一番可愛らしいもので。
「ずるい……」
おいで、と手を伸ばせばとことことこちらまで歩いてくる。猫の体温を含んだ温かな毛に触れれば、今までの怒りもその理由もすべて忘れてしまって。
すりすり。
擦るたびに頬を撫でる毛がくすぐったい。鼻は柑橘系ううん、みかんの香りでいっぱいになる。
「ミヤン」
「そうだ!」
閃いた。頭の中のミカンの皮がむかれて実という答えに行きついたかのように。
「ミカン」
「ミヤン」
うん、ぴったり。鳴き声もこの香りも神様がそう名付けなさいと思し召しているかのよう。
「ミカン」
「ミヤン」
どうしてかな。さっきよりも腕の中にいる生き物がうんと可愛く見える。名前をつけるって魔法みたい。ルナが言ってたとおり、名付けは大事なことって身に染みてわかった。ううん、きっと昔からわかっていたことだと思うけれど。
顔を、寝気味の耳を、温かい毛をまとった背中を、細くて長い尻尾を撫でていたら、大事なことを思い出す。
急いで大学に持って行っていた鞄からあるものを取り出す。見た目は小さいけど、今を生きる人にとっては一番大事といっても過言ではないもの。
「こっち向いてミカン」
早速名付けたてほやほやのその名前を呼ぶ。お母さんになったみたい。昔を思い出す。
「ミヤン」
「ちょっと、鳴くのも可愛いけど顔も可愛いからこっち向いてほしいなぁ」
なかなかこっちを向いてくれないミカン。人じゃないから言葉ではもちろん伝わらなくて。ううん、伝わるはず。昨日だってミカン美味しいって聴いたとき返事してくれたから。
そう、伝え方を少し変えれば。
「ミヤン」
目の前の生き物が振り向いてくれた。よし、いまだ。
びっくりしないように光と音は出さず、静かに私は一瞬の時を止めた。
「ありがとね」
膝の上に黒いミカンを乗せて円を描くように撫で回す。撫でられるのに十分に満足したらしいミカンはその後、アジトのこたつへとしっぽをふりふりさせながら潜っていった。
私も足を入れて癒される。まるで足から登ってくるように温もりがじんわりと身体中に広がってゆく。
目を合わせてくれたさっきの瞬間をルナへと送る。思いついた名前と一緒に。
ぱっとカーテンを開くと、薄暗かった部屋が一気に光で満ちてゆく。
「ミヤン!」
朝なのに飛び跳ねて狂った声を放つミカン。
「おはよう。もうそんなに驚かなくても」
「ミヤン……」
こたつの中へ急いで潜ったミカンはそう弱々しく鳴く。どうやらミカンは光が苦手みたい。よかった、昨日写真撮るときフラッシュさせなくて。
窓を開けると深まった秋らしい冷え込んだ、でもまだ光を含んだわずかな温もりを乗せた風が、寝癖のある私の髪を揺らした。
見える景色は赤や黄色の暖色が遠くを染めていて。
「綺麗だなぁ。ねぇ、ミカンもちょっとこっち来てよ」
「ミヤン……」
まだこたつの中で鳴くミカン。小学生だったらいい子どもがこたつなんて入ってと言われるやつ。なんて思いながら私は自分とミカンのごはんを用意しようと窓から離れた。
「はぁ、こたつって恐ろしいね」
「ミヤン」
もうミカンに偉そうなこと言えない。だって。
「あぁ、ティッシュが遠いよ〜」
いや、単行本一冊分くらいしか離れていないけれど。だけどこたつから抜け出せなくなってしまった私にとっては果てしなく遠い場所にあるわけで。
「ねぇ、ミカン。あのティッシュ取ってきてくれる?」
「ミヤン」
鳴くだけ鳴いてなんの音沙汰もない。微動だにしない。返事をしてくれたから取ってきてくれるのかと思ったのに。
「はぁ、仕方ない自分で取るしかないかぁ」
何センチか身体を動かし、なるべくこたつから出ないよう工夫する。少しでも暖かさを感じていられるように。
「さむ」
とは言いつつ、やっぱり少しでも出ると寒いものは寒い。こういうとき孫の手とかあったらなぁ。あ、そうだ!
「ねぇ、お散歩しない?」
「……」
ちょっと、返事してよ。まぁ、そうだよね。こたつ好きのミカンにとって酷な話だもん。それでも。
「行こう! 私リードも持ってるし」
名残惜しいけれど私はこたつからぱっと出た。こういうときは潔く。
「ミヤン……」
頑張ってこたつから出た私の覚悟が少し伝わってか、ミカンも顔だけ現してくれて。というか、このミカン、すごい可愛い!
また一枚、ミカンの姿を切り取った。
「ミヤン」
「ほら、こたつから出た甲斐があったでしょ?」
赤や黄色、オレンジの葉たちが踊るように地面へと落ちてゆく。
リードに繋がれたミカンはちょこちょこと歩く。そんな姿さえも愛おしい。
『パシャリ』
また撮っちゃった。紅葉とミカンの組み合わせも最高だったから。ほんとにもう、癒やし。
基本ミカンのことしか見てないけれど、時々周囲の葉にも注目する。一枚一枚、同じようで全然違う色と形をした葉っぱたち。遠くからだと気づけなかった発見ができて、自然と心も舞い上がる。風で渦巻く葉のように。
ミカンと紅葉。交互に眺めていたら徒歩だと大変な場所まで来ていた。でもどうしてか、疲れてなくて。そんな体力あるほうじゃないのに。でもこれはちょっと計算していたわけで。
「よし、孫の手買うよ。あと遠くて普段は行かないところだから、珍しいものもあるかもね」
「ミヤン」
すると一瞬ミカンの前をなにか光るものが横切った気がした。流れ星のように。そんなわけないと、でもミカンがやって来毎日が煌めいたのは事実で。そんな日常が視覚化したのかもしれないって。
いつの間にか、心に彩りを与えてくれた紅葉から、大きな建物が目立つ街並みへと景色は変わっていた。
「わぁ、可愛い写真よりもずっと」
「でしょ」
胸を張る。我が子を自慢する親バカみたいに。
ルナがミカンを抱いて頬同士を擦り合わせる。
「ミヤン」
「ほんとにミカンって言ってるみたい」
「そう。あとたまたまいたずらしてた消臭剤の香りが柑橘類だったからそれで」
「そういうことかぁ」
ミカンと目を合わせてはにこりと笑うルナ。って。
「それより勉強しないと。あの先生の授業の」
「もう、いいムードだったのに。でも、仕方ないか」
ルナは諦めたようにミカンを下ろして、手に持っていた鞄からいくつ参考書を取り出す。もちろん私と同じもの。
机にそれらを広げ、本来の目的を果たしてゆく。二人いるとは思えないくらいここが静かな場所と化す。
「あ、ミカンちゃん」
アナログ時計が一周した頃、ルナがそう呼んだ。
「もう勉強する気ないじゃん」
「しょうがないよ。だいたい、こんな可愛すぎる生物置いてるムギが悪い」
「ミカンのせいにしないの」
「ムギだって、ほんとは疲れてるんじゃないの。さっきから欠伸してるよ?」
「私は夜遅くまで勉強してるの!」
「ムギのことだから、こたつで眠って、でも慌てて起きて勉強するを繰り返して夜遅くなってるだけでしょ?」
「……」
「どう、当たったでしょ?」
「正解です」
きっとこれ以上続けても面倒な話が広がるだけ。ときには素直さも大事。それに私も。
「そろそろ休憩しよ」
シャーペンを置いて、指を組み伸びをする。ルナは頷きながら、だねと声を響かせた。
「飲み物なにがいい?」
「ココアがいいなぁ」
「わかった」
湯を沸かしてコップに茶色っぽい粉を適量入れていく。冷蔵庫から散歩中に買ったバタークッキーを取り出して。
「わぁ、美味しそう」
ココアの入ったマグカップは白い息を吐いていて確かに美味しそう。
「いただきます」
「あちっ」
「ふふ、ムギの猫舌」
そう言ってマグカップを口へ傾けるルナ。熱くても飲めますってアピールするように。
「いいよ、ミカンとおんなじだから。むしろ猫舌じゃないほうが仲間外れな気がするし」
「ちょっと。逆にからかわれてる感じ?」
私の反逆に不機嫌そうにするルナは、マグカップを置いてお皿に盛られているお菓子に手を伸ばした。
「美味しいね、ココアもクッキーも」
「お礼ならミカンに言って。ミカンがいたから買えたんだから」
「ミカンありがと」
素直にルナがお礼を言う。もう、ころっと態度が代わるんだから。もしかしたらミカン以上にルナは単純なのかもしれたい。
「ごちそうさまでした。じゃあ勉強って……」
寝転がり始めたルナに嫌な予感がした。
「眠くなってきちゃった。おやすみ」
ちょっともうすぐテストだよ、と言いかけてやめる。もう寝息を立てていたから。はぁ、私もなんだか瞼が重い。
「ミヤン」
クッキーを食べ終えたミカンが私のそばの毛布へと潜り込んだ。足に触れる毛並みがくすぐったさと眠気を連れてきて。
「私も寝ようかな。ちょっとだけ」
クッションを置いてミカンを抱きしめる。そしたらもう意識はなかった。
「今日はありがとう。テスト頑張ろうね」
「うん」
結局おやつの後はほとんど、というか勉強できなかった。寝ていたらもう空は墨で塗り潰されたかのように闇に包まれていたから。ルナに手を振り、扉を閉めたタイミングを狙ったのか、ミヤンとミカンが鳴く。
「はいはい、ごはんね。今作るから」
さっきおやつ食べたし、頭も使ってないから個人的にお腹は空いてないけどいっか。
「ミヤン」
ごはんできるまで待ってるよ、と言うようにミカンはまたこたつの中へと姿を消した。相変わらずのこたつ好きだなぁ、なんて自分もそうなんだけど。
目の前にあるこたつに入るのを我慢して、まだ仄かにココアの香り漂うキッチンへ向かった。
参考書と空欄の問題集を交互に見てはため息をつく。あと少しでテスト。わかっているけど。
「ミヤン」
いつもより一際大きい鳴き声。夕食を食べてきっとご機嫌だから。
ミカンと足元から迫るこたつの温もりの癒しが、勉強を妨害する。冬に行われる自分のテストの点数が毎回低いのも納得できた。
「おやつ前頑張ったし、やめようかな」
「ミヤン」
まるで賛同するように鳴いてくれたから嬉しくなる。よし、そうと決まれば。
「はぁ、あったかい~」
勉強を放棄した今、こたつライフを邪魔する者はいない。私の動きに合わせてミカンもこたつに潜り込む。私のクッションを半分くらい占領して。
勉強のために控えていたドラマを観ようとリモコンを探す、も残念なことにそれはちょっと離れたところにあり。手を伸ばしても微妙に届かない。
「ミヤン」
ミカンの顔を見てふいに思い出す。そういえばこんなときに役立つアイテムを、私たちは手に入れてたんだ。孫の手という名のアイテムを。
買ってからそれはテーブルの上に置くようにしていたから。
「よし、取れた!」
子どものようにはしゃぐ。大好きなこたつから離れなくても取れることが嬉しくて。
「ミヤン」
「ミカンのおかげで思い出せたよ。ありがと」
黒い両頬をぐるぐる撫でまわす。もう、可愛すぎる。
大きな画面に光を灯す。それからお目当てのドラマを観るも。
「あれ、もう終わってる!」
いつの間にか今観ていたはずのドラマタイトルが放送されている番組上にあって。
「え、ちょっと。よし、今度こそ」
だけど次も、その次も意識は飛んでいて。昨日も遅くまで勉強したし、当然かもしれない。
でも眠るということは、このドラマそんなに面白くないのでは、と思い始める。
「もういいや」
五回目の上映が終わったときに決意した。観ていたドラマタイトルを次々にゴミ箱へと送り出した。
「ミヤン」
「いいのかって? うん、もちろん。だって」
私は再びミカンを抱きしめる。ミカンの温もりを身体すべてで受け止めて。
「ミカン以上に興味の引くこと、私にはないもん!」
ぎゅっと、でも潰れないように加減して。
そのままこたつで私たちは意識を夢に預け続けた。
大学の建物を抜けると灰色の雲が怪しげに左へ流れていた。
「はぁ、全然わからなかったテスト」
ルナが白い息を吐きながら、そうこぼす。まだ雪が降ってないとはいえ、寒いのには変わりない。
「私も」
「ムギも? まぁ、ムギのことだからどうせこたつで居眠りしてたんでしょ」
「うぅ」
図星すぎてなにも言えない。私の吐息は不安定に吐き出される。
「昔からだもんね。普段はしっかりしてるのに冬限定で怠けちゃうんだよね、ムギは」
「そういうルナなんてオールシーズンじゃない」
「失礼な」
ちょっとの沈黙の後、二人して笑う。
びゅっと風が吹く。遠くで枯葉とアスファルトが擦れる音がした。
「ねぇ、ムギ」
「うん?」
笑うのを止めて突然改まったルナに、逆に恐怖を感じた。秒で変わるはずのない気温が狂って、一瞬にして寒さがより深まったような。
「蒸し返すようで悪いんだけど……彼氏のこと、ほんとにもう大丈夫なの?」
「彼氏……あぁ大丈夫だよ」
なんの話かと思えば。ルナが切り出した話題に、空気が少し暖かみを含む。
「だって、長いこと付き合ってたでしょ?」
「そうだけど。もちろん忘れてないよ」
忘れるわけない。ミカンよりも、ルナよりもずっと長く一緒にいた存在だった。
だから失ったときは、もう二度と笑えなくなるんじゃないかって本気で思って……。でも。
「でも、私にはもういるから」
「ミカン?」
「うん!」
私は大きく頷いた。そのとおりだった。
彼を失った悲しみの傷を、ミカンは上手に癒やしてくれるから。
「そっか。ならよかったよ。ほんとに」
ルナはさっきと違う種類の笑みを浮かべる。安心したような、ほっとしたような、そんな表情。
「そんな心配してくれてたの?」
「うん。あのまま病んでるキャラでいくのかと思ったよ」
「なに、病んでるキャラって」
おかしくなって噴き出す。ルナと一緒になって。笑って無駄な筋肉を使ってしまったせいか、寒いはずなのに体はぽかぽかとこたつにいるみたいに暖かかった。
「すっかり葉っぱも落ちちゃったね」
「ミヤン」
道路や歩道は色褪せた葉たちで敷き詰められていた。木も葉っぱという服をなくして寒そうにしている。
この間散歩したときと同じ道を歩いているはずなのにまるでまったく違う場所にいるみたい。
「冷たい」
風もそうだけど今なにか頬に触れたような……。
「ミヤン」
手を伸ばすと白い粉が一雫に変わって。これは。
「初雪、だね」
「ミヤン」
「綺麗」
もう十二月も始まったことだし当たり前。雪は冷たいけど綺麗なのは間違いない。落ちた葉に雪が降り注ぐのは、季節の移り変わりを大胆に見せているかのよう。
綺麗。だけどやっぱり寒い。全身が震えるほどではないけど芯が冷えてるってわかる。
「積もるのかなぁ」
「ミヤン」
積もったらしばらくはお散歩できない。今のうちに満喫しなくてはと意気込んでいると。
「いしや〜きいも〜」
耳と鼻が勝手に動く。甘い香りがちょっとだけ寒さを和らげてくれる。やがて視界にも映り。
「行ってみる?」
「ミヤン」
「いらっしゃい」
「おいも一つください」
「あいよ」
手際よく白い息を吐く焼き芋を新聞紙でくるむおじさん。それはすぐに私の手元へやってきて。
「ありがとうございます」
お礼を言っておじさんに背中を向けると。
「クロ?」
「ミヤン」
目の前のミカンが鳴く。焼き芋の匂いに反応しているのか、それとも後ろの声に……。
「やっぱりクロだ」
「あの、クロってなんですか?」
おじさんのほうへまた身体をくるっとさせる。驚いたような、懐かしむような眼差しをおじさんはミカンに注いでいて。なんだか、とても嫌な予感がする。
「その子、うちのペットショップのなんだ」
「え?」
頭が真っ白になる。今も降る初雪のように。だって、じゃあ。
「それって、ミカンはあなたのものなんですか?」
返さなければならない。その真実がぐさり刺さった。しまった。
「そっか。ミカンってつけたんだ」
おじさんが目尻を下げて優しそうな顔をして恥ずかしくなる。うっかりいつもの癖で名前呼びしてしまったことを。
「随分可愛がってくれてたんだね」
「あ、いえ……」
「散歩させてる時点でそうでしょ。なぁ、クロ。じゃなくてミカン」
「ミヤン」
おじさんはミカンと目を合わせて笑みを浮かべた。それから。
「ちょっと触ってもいい?」
「あ、はい。どうぞ。わざわざ聴かなくても、もとの持ち主なんですから」
「いや、違うよ」
「え?」
もとの持ち主じゃないの? この人は焼き芋を配ってペットショップでも働いてるんじゃないの?
「おいで」
おじさんのほうにリードが引っ張られる、と思いきやミカンはしゃーと鳴いて私の足元に隠れた。
あ、そうだったとおじさんは笑った。そうだったってなに?
「あの、ほんとにペットショップの店員さんなんですか?」
怪しくなって失礼ながらにそう聴く。だってもとの持ち主に猫がこんな態度を、それも人懐っこいミカンが取るはずないって。人の家に勝手に上がり込むし、私やルナにだって懐いてたのに。
「ほんとだよ。むしろペットショップのほうが本業だから」
「じゃあ、どうしてミカン嫌がってるんですか?」
「実はその子、男嫌いで」
「男嫌い?」
でも、そういうの聴いたことがあるような。ミカンと出会うずっと前に調べ事でそんな情報を目にした気がする。
「まいったな。苦労してなんとか触らせてもらえるようになったのに。やっぱ離れると、ね」
白いため息を吐くおじさん。指の代わりに眼差しでミカンに触れていると。
「その子、いやミカンはもう君のだよ」
ぽつりそう言った。あまりにも突然で短すぎる一言に理解が追いつかない。
「君にすごい懐いてる」
「え、でも。私ただ家の中にいたミカンをお世話してるだけで……」
「それって飼い主以外の何者でもないよ」
今度ははっきりと響いた。冬の澄んだ空気できっとなおさら。
「飼ってください。飼い主と生き物を繋げることがペットショップの店員の仕事だから」
「なら、お金とか払ったほうがいいですよね」
「いいよ」
今いくらあったっけと鞄を漁っていたらおじさんの声で制される。
「逃がしてしまった僕が悪いから。だからいいです」
「そんな。申し訳ないです」
「いいって。お代なら焼き芋で十分」
「くしゅん」
後ろから可愛らしい音がした。くしゃみをするときまで可愛いなんて反則。
「ほら、ミカンが風邪引いちゃうよ」
おじさんは一歩も引かない様子。このままだと決着はつかなそう。手の中の焼き芋も白い息を吐くのをやめてしまっている。
「わかりました……」
「うん、それでいい。これからも可愛がってあげて」
「はい、ありがとうございます。では」
「あ、待ってよ。焼き芋冷えてるでしょ?」
「冷えてますけど、あとで温めますから大丈夫です。それにお支払いを免除してくださったのに、せめて手間賃くらいは」
「それも商売だから。今温めます」
結局おじさんはもう一度さつまいもを焼き直して、私に手渡してくれた。
カイロ代わりに持っていると、熱々の焼き芋は私の手を自然に暖めてくれる。
分厚いコートを身に纏う人たちが行き交う散歩道。雪は今も追い打ちをかけるようにその人たちへと降り注ぐ。
「ミカン、これからも一緒にいられるね」
「ミヤン」
返さなくてよかった。安心したせいか焼き芋のせいかわからない。でも自信がある。
すれ違ったり、通りすぎたり、同じほうを歩いたり。そんなどんな人たちよりも、今私は暖かいって。
「やっと冬休みだよムギ!」
「そうだね」
「そもそも、クリスマスイブとかクリスマスに学校あるとか、どうかしてない?」
「確かに。というか私は冬中家にいたい派だからクリスマスとか関係ないかも」
「それ正論だと思うよ。生き物って冬眠するものだし」
「私もそんな生き物に生まれたかったなぁ」
「えぇ、ムギは人間のほうが絶対いいって!」
「どうして?」
冬はできるだけぐうたらしたい、眠りたい。強くそう思っているのに。
「だって人間じゃなかったら猫のこと、可愛いって思えないよ」
「そうだよね。猫は人より小さいから可愛く見えるだけで他の小さな生き物だったら、大きくて恐怖の対象でしかないよね」
やっぱり人でよかったのかもしれない。でも冬眠することを夢みることはまだ諦めきれず。
「じゃあ、人に冬眠する性質があればよかったのにね」
「ふふ。どんだけ温々したいの?」
と言いながら笑ってくれるルナ。私もつられて笑ったから、雪が降るキャンパスまでの道のりもあんまり寒く感じない。
「あ、ムギは実家帰る?」
「うん、クリスマスの次の日にするつもり」
「そっかぁ。向き合う決心ついたんだね」
「なにそれ。親と上手くいってない娘みたい」
「ふふ。まぁ、頑張って。それよりクリスマス! どうする?」
「どうするって?」
「私と過ごす? それともミカンちゃんと?」
「う~ん。どっちも、かな」
どっちかなんて決められない。すると身体中に力が込められて。
「ちょっと。人いるんだけど」
「いや、嬉しいなって。ダメ?」
「ううん、私も。それよりクリスマス」
恥ずかしくなって話題を戻す。そうだね、と笑みをこぼしながら抱くのをやめてくれる。
「ケーキ作ろ?」
「そうだね。授業終わったら材料買わないと」
そう考えたら、途端にわくわくしてきた。ミカンにルナに甘いケーキ。大好きなものしか溢れていないその日を。
「ケーキ早く食べたい」
「まだできてないのに。あっ、ミカン。キッチン危ないから居間で大人しくね」
「ミヤン」
家のお気に入りの場所、こたつへと潜るミカン。いいな、私も入りたいなぁ。ケーキも食べたいけど他の生き物みたいに冬眠だってしたい。
「ちょっと、恋しそうにこたつを見ないの!」
「は〜い」
気のない返事をしてから、私は早速クッキングに取りかかった。
ケーキ作りは工程が多い。美味しいものだから仕方ないけど。
「あれ、今気づいたけど指輪は?」
「え? あぁ、本当だ……」
理解するのに時間がかかったけれど、確かに。
「彼氏と別れたから、外したの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
左の薬指をさする。いつからなくなっていたのだろう。
「まぁ、とりあえずケーキ作らないとだよね」
「そうだね」
まずはメレンゲを作るために卵を白身と黄身に分けないといけない、が。
「あ、黄身入っちゃったよムギ」
「こっちも。殻がなかなか取らない」
最初の工程からつまずく私たち。材料は買ったものの、結局まだ作れそうなマフィンに挑戦することに。
「ルナ、小麦粉ふるってくれる? 小麦粉はっと」
「冷蔵庫の中だよ」
「オッケー」
「ミヤン」
ルナが小麦粉を探している途中、キッチンにはもう一人の生命体が。
「や〜、ミカンちゃん! ミカンちゃんもケーキ食べたくなっちゃった?」
「ちょっとルナ。冷蔵庫開けっ放しで喋らないで。冷蔵庫の意味なくなっちゃうよ。あとミカン。ここに来ちゃだめって言った……」
起ころうとしたけれどやめる。ミカンが加えているものを見て。
「よしよし。ミカンちゃんは優しいね。飼い主にスリッパを持ってきてあげるなんて」
「ありがとう、ミカン」
ルナにならって私も撫で回す。ずっと触れているけれど飽きはこなくて。
ミカンを励みに作業を再開させると、ルナの短い悲鳴が台所にとどろく。
「あ」
白い粉が辺りに充満する。家の中で雪が降っているかのように。そして不運にもその辺りには……。
「ミヤン」
「ミカン、その姿」
いつもは真っ黒な身体をまとっているはずのミカン。なのに今は。
「真っ白……」
あれ、涙が。どうして?
「ムギ! もしかして」
心配させちゃってる。きっとあのことに、と思ったら。
「これ、ハンカチで拭いて」
「あ、うん……」
どうして泣いてるんだろう。ううん、わかっているけれど。
「大丈夫?」
「うん。小麦粉が目に入っちゃっただけだから」
なんて誤魔化す。それからハンカチを返して何事もなかったかのようにミカンについた粉を拭き始めた。
暖かい部屋の中、これから大学へ行くために私服に身体を通してゆく。はぁ、面倒くさい。ルナの言うとおり、クリスマスイブに学校なんて行くもんじゃない。
「あ、そうだ。換気しないと」
私は急いで窓を開ける。肌を刺すような風が部屋中を飛び回って暖まっていた身体が一瞬にして冷えてしまう。
「ミヤン……」
「ごめん、寒いよね。でも今日は一時間しかないからすぐ戻ってくるよ。こたつは電源入れとくから」
「ミヤン」
「じゃあ、行ってくるね」
手を振るも、すでにこたつへ潜っていたミカンには届かず。部屋よりもなお寒い世界へと、私は足を踏み入れた。
「ちょっと無用心じゃない?」
「なにが?」
講義が始まる前、そんなお叱りをルナから受けていた。
「なにがって。窓を開けっ放しにすることよ」
「大丈夫だよ。あんなぼろぼろのアパートの一室に入るなんて、馬鹿しかいないでしょ?」
「その馬鹿が来るかもしれないでしょ。まったく戸締まりはちゃんとしないと。どうせ、寒くて換気できなかったとかでしょ?」
「……」
「図星みたいだね。とにかく今度から気をつけて」
「うん、気をつける。もう、心配性だなぁ」
「心配だよ」
声のトーンを落とすルナ。声がちょっと違うだけで別人みたいに見えた。
「心配? なにに」
「昨日のケーキ作りのこと」
それだけ言われてぱっと思い出す。昨日泣いていたことを。でも。
「大丈夫だよ。ほんとに」
「怪しいなぁ。まだ安心できない!」
「そこをなんとか」
昨日のは突然のことすぎて。でも本当に大丈夫で。ルナとマフィンを作っていつもどおり過ごしていたら、気づけば涙なんて跡になっていたから。
「本当に?」
「ほんとほんと」
「わかったよ」
追及をやめてルナは笑ってくれる。そう、大丈夫。私にはミカンがいるから。
「あれ、ミカン?」
いつも帰ってきたら鳴いてくれるのに。リビングや台所、トイレにお風呂。狭いアパートの一室だからすぐに見つかるはずなのに、ミカンの姿は見えない。
こたつを見るもそこにもいなくて。
「ミヤン」
そんな鳴き声が聞こえた気がして、だけどどこにもいない。
「ミカン、どこ行ったの?」
ヒューと口笛のような不気味な音をした冷たい風が髪を不気味に揺らす。その風がどこから来たのか辿ると、窓が開いていて。
もしかして。ううん、もしかしてじゃない。きっとそう。ミカンは、ミカンは……。
「ムギ来たよ! ってまた泣いてるの?」
ルナがきょとんとする。
「ミカンが……」
いなくなってしまった。
クリスマスなのに。私は大人だからプレゼントはいらない。でもだからって、奪うことはしなくていいのに。
知ってる場所を隈無く探した。けれどどこにもいない。無情な雪が、ミカンと歩いた散歩道にただ降り積もってゆくだけ。
「ムギ……」
「ルナの言うとおり窓の開けっ放しはいけないね」
「そんな、無理して笑わないで」
「無理してるわけじゃ……」
あれ、また。目が熱くなる。
「もう、会えないのかな……」
突然来たのだから突然いなくなってもおかしくない。それに、ペットショップで買ったわけでもないし。
「あれ、君は」
そのとき聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
「あのときの」
そこには焼き芋をくれたおじさんがいて。
「ムギ、この人と知り合い?」
ルナが不思議そうに目の前のおじさんの顔を覗く。
「あぁ、ペットショップの店員さんだよ。前のミカンの飼い主」
「え、じゃあ、ミカンはあなたのところにいるんじゃないですか?」
ルナが疑いの目全開でおじさんに問い詰める。そっか、その可能性もあったのか。やっぱり最後には本当の飼い主のもとへ……。だけど。
「もしかして、いなくなったのクロ。じゃなくてえっと」
「ミカンです」
私が教えるとあぁ、そうだったと頷く。そして。
「うちのとこには変わらずいないけど」
求めていた答えは返ってこなくて。ミカン、本当にどこへ。
「まぁ、私のときも突然出ていったし。多分今回も」
猫は気まぐれって聞くけれど本当にそうなんだと思い知らされた。
「ごめんね、お役に立てなくて」
「いえ。あ、でも」
なにかを思い出したのか、目を大きく開けておじさんは。
「木が結構あったところで黒猫を見かけたような」
「ほんとですか?」
ミカンの手がかりかもしれないと思って、力いっぱい聴いてしまう。
「あ、いや。私がちょっと近づいたらすぐ逃げて。それに黒猫なんてたくさんいるし」
「それでも教えてください!」
ミカンという可能性を少しでも秘めているのなら、探す価値は十分にある。それにおじさんが近づいたら逃げたってことは。
「ミカンが男嫌いなら、可能性ありますよね」
「はは、確かにな。わかった、その場所は」
そこは行ったことがある場所だった。ルナと顔を見合わせてから「ありがとうございました」とおじさんに感謝を伝えた。
「いや。でも本当にミカン、だっけ。かわからないよ」
「それでも探します」
「そっか。見つかるといいね」
「はい」
行こ、とルナに促されて私たちはミカン探しの旅を再開した。
おじさんが教えてくれたのは、前に私が孫の手を買いに通った紅葉の綺麗な場所だった。当たり前だけど葉は全部散ってしまっていてあのときよりも殺風景に見えた。
でもそれだけの期間をミカンと過ごしたのだと思うとすごく感慨深い。見つけたい。よりそう強く思った。
だけど手分けして探すも、結局ミカンは見つからなかった。夜が深くなり、さすがにこれ以上外にいたら補導されてしまう時間帯になったとき渋々諦めることに。
「ごめんね、役に立てなくて」
珍しくルナがしょんぼりとする。
「そんな。むしろごめんね。年に一回しかないクリスマスイブにこんなことさせて」
「こんなことじゃない!」
強いルナの口調に驚く。静かな夜を壊すほどの。
「ミカンは私にとっても癒やしだし。それに」
「それに?」
「ムギがまた落ち込むと思って」
「大丈夫だよ」
「出た、また大丈夫って。怪しすぎる」
「本当に大丈夫だから」
本当のこと。ミカンがいなくて、またどん底に突き落とされたのは事実だし、それで辛かったのもある。だけど。
「そっか。うん、なんか伝わってきた」
ルナは納得したように何度も頷いた。それはすごくありがたい。伝わらなかったらくさいことを言うところだったから。
「ムギ……ミカン、戻ってくるといいね」
「うん!」
じゃあね、とお互い手を振って別れる。ミカンのいない家に戻るはずなのに、どうしてか心は綺麗に澄んでいた。
大事なものを一生懸命に探してくれる人がいる。その事実が私の中の曇りをどこまでも晴らしてくれて。
「ミヤン」
これは夢の中? でもどうしてだろう。暖かいとか、寒いとかがわかる。夢の中だったら感じないはずのものなのに。
「ミヤン」
また。またミカンの鳴き声。いなかったはずのミカンの声がどうして……。
「ミヤン」
「ミカン!」
視界が霞む。瞳を覆う水で。だけど腕の中にいる生き物が誰なのか私はわかっていた。迷わず腕に力を込めて抱きしめる。
「すごく、すごく。心配したんだよ……? 寂しかったんだよ……?」
たった数ヶ月一緒にいただけ。ミカンがどこから来てどうして私のそばにいるのかも知らない。でも、もうミカンは私にとって。
「大切な存在だから、もうどこにも行かないで」
「ミヤン」
ちょうどいいタイミングで鳴いてくれるミカン。わかったよ、と言ってくれるみたい。
「ありがとう」
恋人を失って空っぽになった私の心を埋めてくれて。私の日常を彩ってくれて。
そしてふとミカンがくわえているきらりと輝くものに気づく。
「それ、指輪?」
「ミヤン」
「もしかして、ミカンは指輪落としたときのこと知ってたの?」
それを探しに外へ。指輪の光が反射してミカンの瞳を綺麗に煌めかせる。
指輪をそっと薬指をはめてみた。ぴったりじゃなくて指輪は今にも外れそう。
それが昔よりやせてしまったこと、ううんルナが言ってたとおり彼のことで落ち込んでいた日々の苦しみを物語っていた。
「ミヤン」
ミカンを見て私は笑う。そしてまたぎゅっと強く抱きしめた。
辛くて苦しかったけれど、もう大丈夫。ミカンの温もりがそう確信させてくれた。
薬指に指輪をはめる。こたつで温々していたからか、前よりもぴたり指輪ははまった。指輪に笑いかけたところで、あ、と思い出した。
小さな画面にミカンを映してそのままパシャリ時を止める。それをメッセージとともに送った。一緒に探してくれたルナへ。
あの出来事ぶりに開ける引き戸ががらがら、と音を立てながら横へずれると見知りすぎた顔が二つ現れて。
「お母さん、お父さん。ただいま」
「おかえり。あ、その子が噂の?」
早速お母さんが反応してくれた。
「うん! ミカンだよ」
どれどれ、とお父さんが近づくと。
「しゃー」
「えぇ、なんで?」
お父さんが漫画みたいに後退りして目を丸くさせた。当然のことのように私は。
「ミカン、男嫌いだから」
なんて解説するとお父さんは肩を下ろしてしょんぼりとした態度を見せる。
「仕方ないわよ。じゃあ、私のところには来るかなぁ」
ミカンは人嫌いじゃない。だから基本呼べば来てくれるのだけど、なぜかミカンはお母さんを素通りしてしまって。
「ちょっと、ムギ。話が違うじゃない」
「あれ、おかしいなぁ」
どんどん家の中を突き進んでゆくミカンに私も困惑する。心当たりがあるとすれば。
「ほら、見て」
お父さんがキャリーケースを運んでくれたおかげですいすいと私は居間へたどり着くことができ、両親を手招きして。
「あ〜、可愛い〜」
「わ、癒される」
二人とも頬を桃色に染めて柔らかな視線を向けている。その先にいるのは。
「ミカンはこたつが好きなんだよ」
こたつの毛布にくるまるミカンが目を瞑って、もうすやすやと眠っていた。
「あ、いけない。これは残さないと」
「俺も」
両親そろってポケットを漁り始め、手に持った四角い電子機器でミカンを含んだ一瞬を切り取る。だけどフラッシュがあったせいでミカンはこたつの中へと隠れてしまう。
「ちょっと、俺まだ撮れてないんだけど」
「ごめん。フラッシュ機能どうやったら止まるのかわからなくて」
「じゃあ、あとで写真送っといて」
「はいはい」
二人して小さな画面に向かっている。一応娘が帰ってきたばかりだというのに。
「それにしてもよかった」
画面を見ながらお母さんがそうこぼす。同調してお父さんも頷く。
「よかったって?」
「決まってるじゃない。こんな可愛い猫と出会えたことだよ。ミカンちゃん、だっけ?」
「あ、うん。それは本当に嬉しかった」
「本当によかったわよ。この間までは絶望の淵にいるみたいで目も当てられなかったんだから」
「いくらなんでも大げさだよ」
「大げさじゃないって。あ、そうだ。ムギ、あの子ならあそこにいるから」
「ありがとう」
私はお母さんの指さした部屋へと歩いてゆく。
和を象徴させる襖を横へ引くと、真っ暗な部屋が広がっていた。中へ入って灯りをつけても、どこか暗さを感じる。外じゃないのに顔をかすむ空気は冷たくて。
奥にはろうそく立てと神様の形をした置物のあるタンスのような箱と、小さな写真があった。そしてきらりと光るもの。私と同じ指輪がそこには置かれていて。
「ただいま。久しぶりだね、オレンジ」
奥へと進んだ私は、目の前の写真にそう挨拶した。
「やった~、こたつだぁ」
ランドセルのふたをぱたぱたとさせながら小さくジャンプする。
「あんまり潜らないでよね。小学生なんだから」
「はぁ~い」
と言われつつ私はランドセルを置いて、早速こたつに足を入れた。
「はぁ、あったかい……」
もう、とお母さんは苦笑いを残してリビングを去ってゆく。
いなくなったのを見計らって、私は潜り込んだ。それから足を伸ばし下のカーペットに擦りつけるように大きく動かしていると。
「あれ?」
足先がなにかに触れた気がした。洗濯物かなにかがあると思って足先をそこから離し、気にしないでいると。
「わっ」
足を動かしていないのにまた足先がなにかに触れる。こうなったらもう、気になって仕方ない。こたつから一旦抜け出し、思い切って毛布を上げると。
「ミャン」
「え……」
猫さん。でもただの猫さんじゃない。
「ね、おかあさん。猫、猫がいるよ。しかも全身オレンジ色なの!」
こんな猫さん、初めて見た。驚きを隠せず興奮の色を含んだ声でお母さんを呼ぶと。
「あら、可愛いじゃない」
頬を桃色に染めるお母さん。それからポケットを漁って四角い電子機器を取り出し。
「そのままでいてね」と猫さんに向かって声をかけながらパシャリと光を放つ。猫さんは大人しくモデルになってくれて。
「よし、いいの撮れたわ。ありがとね、猫ちゃん」
「ミャン」
おいで、とお母さんが手招きすると猫さんは渋々といった様子でこたつの外へ出ようと……。
「あれ?」
そう声を発せずにはいられなかった。だって。
「どうしたの?」
「猫さん、色が変わってる」
出てきたのはどこにでもいる真っ白な猫さんだった。お母さんは招いた手でその猫さんの顎を撫で始める。
「あぁ、こたつの光でそう見えたんだよ」
「えぇ、そんな……」
「そんなって。可愛いのは変わらないじゃない」
「そうだけど」
新種の猫さんを見つけたと思ったのに。頬を膨らませてお母さんのほうを見ると、どうしてか猫さんがこっちにやってきて。
「か、可愛い……」
私の足に猫さんが顔を擦って。すりすりと。
「ほらね。真っ白でもいいでしょ?」
「うん!」
私は大きく頷いた。珍しくなくたっていい。可愛ければすべてよし。そう強く思った。
「おいで」
しゃがむとすぐに猫さんは私の腕の中へ入ってくれた。
指でそっと撫でてみる。顔や耳。ひげや背中を。
「はい、今日のおやつ」
いつのまにおやつを取りに行っていたお母さんに少し驚く。それくらい猫さんに夢中だったんだって。
「みかん?」
「そう。やっぱりこたつにはみかんよね」
確かに。こたつに入りながら食べる、ちょっとひんやりしたみかんって美味しい。ドラマやアニメでもこたつの上に置かれているイメージだし。
しばらくこたつから出ていた足はまた帰ってきたときのように冷え始めていたからちょうどいい。
「はぁ、あったかい」
何度入っても身体に温もりを与えてくれる。あ、そうだ。
「この子も食べれるの?」
猫って食べれないものがあるらしいから。食べれるといいなって祈りながらお母さんの目を見ると。
「うん。みかんは食べれるはずよ」
「そっか。じゃあ一緒におやつ食べれるね」
「ミャン」
同じ鳴き声だけど、喜んでいるように聞こえたのは私の都合のいい解釈かな、なんて。
「はい、どうぞ」
「ミャン」
皮をむいた一切れのみかんを猫さんは長めの舌でなめ始めた。どうしよう、食べているところでさえ可愛い。
「どう、美味しい?」
また返事をしてくれるのかなって少し期待したけど、今度は鳴いてくれなかった。きっとみかんの味に夢中で。
私も一つ口に入れた。甘さとちょっとの酸っぱさが口の中で調和し合っていて、いくらでも食べられそうな、とにかく美味しい味。だから飲み込んでしまうと、寂しくなる。寂しくなる……。
「おかあさん。この猫さん、誰かが飼ってるのかな?」
「う~ん、首輪はつけてないけど。それで?」
「私、この猫さんに一目惚れしちゃったの」
好きになった。触れ合って、おやつ食べて、こたつでぬくぬくして。
もっと一緒にいたい。離れたらきっと寂しくなる。まだ離れてないけど、そう確信できた。
「そっか。じゃあ、飼ってみる?」
「いいの!」
お母さんのあまりに軽いノリに驚きつつ、嬉しくて力いっぱい訊いてみると。
「いいよ。その代わりちゃんとお世話してあげるんだよ?」
「もちろん」
やった。一緒にいられる。はやる鼓動をなんとか落ち着かせようと深呼吸していると。
「じゃあ、名前決めてあげないと」
「そうだよね。えっと、名前名前……」
ちらりと猫さんのほうを見る。猫さんは一生懸命にみかんをなめ続けていて。
「オレンジ、は?」
「いいんじゃない? センスあるよ」
みかんの色と、こたつの色。猫さん、ううん。オレンジにぴったり。
「よろしくね、オレンジ」
「ミャン」
今度は鳴いてくれた。みかんから目をそらして私を見ながら。
「オレンジ……いなくなるなんてやだよ……」
目を固く瞑るオレンジ。少しずつ輪郭がぼやけてゆく。溜まる涙のせいで。
「ムギ、そろそろ」
「いやだ!」
お母さんの声に、子どもみたいな反抗をする。もう大学生なのに。
「ちょっとだけ。もう少ししたら触れることもできなくなるでしょ?」
指でそっと撫でる。顔や耳。ひげや背中を。でも感触が違う。水分がなくなったせいか、ぱさぱさとしていて。それが、命のないことの証だと言っているようで、ますます視界が曇ってゆく。
「長生きしたよな。我が家にきたときは既に大きかったし、それから十年も生きたんだよ?」
お父さんが必死でフォローしてくれる。だけど、今の私には全然響かなくて。
長生きした。そうかもしれない。だいたい猫の寿命は十年前後っていうから、オレンジは長生きしたほうだと思う。だけど。
「十年、あっという間だった」
本当に、いつのまに大学生になっていた。だって、今でもすぐに思い出せるから。オレンジとの日々を。
春は私たちの出会いの場、こたつを解体したね。こたつがなくなったらいなくなるんじゃないかって冷や冷やしたけれど、結局一緒にいてくれて嬉しかった。
夏はぶるぶると震えていたね。エアコンの冷たい風で。オレンジって寒がりなんだって新たな発見ができたよ。
秋はまたこたつをつけたね。あったかいとミャンが共鳴して。
冬はとにかくずっとごろごろしてたよね。転がりすぎて二人してお母さんに怒られて。
そんな季節をただ繰り返していただけ。私もオレンジも。だから私にとっては、どうしても短く感じてしまう。オレンジに一目惚れしたあの日からの年数が。
一目惚れして一緒にいるうち、オレンジは私にとって。
「そろそろ……」
火葬を担当するスタッフさんからの声かけに、私は渋々オレンジから離れた。スタッフさんはオレンジの入ったキャリーバッグを持っていってしまう。
「オレンジ……」
記憶に焼きつけるため、目に力を入れて最後、見守った。スタッフさんの背中と、眠るオレンジを。ううん、恋人を。
「今はまだ受け入れていないかもしれない。でもいつか心の整理ができたら、会ってあげてね」
「うん……」
画面越しのお母さんに大きく頷く。まだそうできるとは思っていないけど。
タップして通信を切ると、また涙が溢れた。大好きだったオレンジという恋人を失って。
これが失恋、なのかな。世の中の失恋した人たちってみんなこんな気持ち?
お別れなんてしたくなかったのに。そう思ったって彼は戻ってこない。ただ彼と過ごした月日が頭の中で蘇るだけ。
寒いなぁ、なんて換気で窓を開けているせいだけれど。
彼との関係が終わったとしても世界は終わらない。肌を滑る空気の冷たさがそれを物語っている。
こたつ出そうかな。
その温もりが今のこの気持ちを溶かしてくれるかもしれない。消えなくても、小さくなってほしい。
立ち上がり、表面の紙が少し剥がれた押し入れを開けて分厚い毛布を腕いっぱいに抱く。
丸いテーブルの天板を外して、脚部分を毛布をかけることで覆いつくし、天板をセットするとあっという間にその様相を見せる。線も通し、いざ電源をつけようとするも手を止めた。
いけない。こたつといったらあれがないとと、私は歩き出す。あれを買おうと外と隔てる扉を開けるために。
そして帰ってきたら、また出会えたんだ。
「ミヤン」
終わりかけていた私の世界に癒しをもたらしてくれる、ミカンに。
目を開けると、視界が赤や黄色にちかちかとした。それが収まり、写真に目を向ける。
やっぱり、そこには白い私の恋人がいるだけ。写真から抜け出してくれたらなって、子どもみたいな期待もすぐに散ってしまう。
今も寂しい。それは変わらないし、きっとこれからだってそう。でもお母さんが言ってた心の整理は自分の中でできたと思いたい。ううん、できた。
仏壇のところには、よく見るとお供え物があった。ふふ、と心の中で笑う。
「ミヤン」
一瞬オレンジだと思い、だけど黒い姿を確認してその思考をすぐに払った。
「おいで」
お父さんのときとは違い、速やかにミカンは腕の中へやってきてくれた。ふわふわもこもこと、触っているだけで癒される毛並み。
「大丈夫?」
今度はミカンが人の言葉を話したと思い、だけど人の姿を確認してその思考をすぐに払った。
「うん。もう、大丈夫だよ、お母さん」
「その子がいるものね」
「うん!」
そう、私にはミカンがいる。だから、きっと。
「そうだ、そのみかん食べてもいいよ。今朝置いたばっかりだから」
お母さんの視線の先はお供え物。オレンジへの贈り物。
「それ、いいの?」
「いいわよ。オレンジも、ムギが美味しくみかんを食べる姿、見たがってると思うよ」
「そうかな」
「そうよ。あ、ミカンちゃんにもあげたら。ミカンって名付けてるくらいだから、みかん好きでしょ?」
「それはもちろんだよ」
「じゃあ食べなよ」
ミカンちゃんまたね、と挨拶してからお母さんは和室を出て行った。
それからじっとお供え物のみかんを見つめた。あれはオレンジのみかん。でももう、オレンジがあのみかんに触れられないのなら。
「食べる?」
「ミヤン」
ゆっくりと確かなミカンの鳴き声が響いた。
タップして通信を切ると、また涙が溢れた。大好きだった恋人を失って。
とん、と床に音が響く。そこには指輪が。彼とこれをつけていたときよりも指が細くなってしまったせいで。
彼との当たり前の日常が遠いものになったのだと嫌でも思ってしまう。それを拾い、ゴミ箱へ投げようとするも、結局また細くなった左の薬指にはめることしかできなくて。
これが失恋、なのかな。世の中の失恋した人たちってみんなこんな気持ち?
お別れなんてしたくなかったのに。そう思ったって彼は戻ってこない。ただ彼と過ごした月日が頭の中で蘇るだけ。
寒いなぁ、なんて換気で窓を開けているせいだけれど。
彼との関係が終わったとしても世界は終わらない。肌を滑る空気の冷たさがそれを物語っている。
こたつ出そうかな。
その温もりが今のこの気持ちを溶かしてくれるかもしれない。消えなくても、小さくなってほしい。
立ち上がり、表面の紙が少し剥がれた押し入れを開けて分厚い毛布を腕いっぱいに抱く。
丸いテーブルの天板を外して、脚部分を毛布をかけることで覆いつくし、天板をセットするとあっという間にその様相を見せる。線も通し、いざ電源をつけようとするも手を止めた。
いけない。こたつといったらあれがないとと、私は歩き出す。あれを買おうと外と隔てる扉を開けるために。
「ただいま」
なんて誰もいないのに。わかっていることだけどそれでも口にする。そのほうが寂しさだって紛れるし……。
「ミヤン」
あの動物特有の鳴き声。帰りに見かけなかったけど、きっと遠くのお外で猫が鳴いているんだと思う。それよりも。
マイバッグから、あれを取り出す。丸いから持つと、手の上で何回も転がる。それにとても冷たい。そしてなにより。
手に鼻を近づけようとして、だけどやめる。いけない、彼を思い出してしまう。
みかんを置いてとりあえず冷えた体を温めようと、電源を入れてこたつに足を潜らせると。
「あれ?」
今年最初の炬燵に入って心地よさが足先から伝わるはずなのに、思ってたのとは違う感触が……。
「ミヤン」
え、今近くで猫の鳴き声が聞こえたような。まさかね。
すると、足を動かしていないのにまた足先がなにかに触れる。動くものがこたつの中に? こうなったらもう、気になって仕方ない。こたつから一旦抜け出し、思い切って毛布を上げると。
「ミャン」
「え……」
猫さん。全身真っ黒でどこにでもいるような猫さん。あれ……視界がぼやけて……。
カーペットに一つ黒いしみを作る。
「ミヤン」
ゆっくりと鳴く猫さん。おいで、と言ってないのに猫さんは私に近づいてきて。
「ミヤン」
気づけば腕で猫さんの身体全体を包んでいた。温かい、こたつに入ってたからかな。湯たんぽみたい。
「可愛いね」
可愛すぎる。離さないと言うように私は強く抱きしめた。ぎゅっとすれば、涙も止まる気がして。
「ミヤン」
「あ、ごめんね。苦しかったかな?」
腕の力を緩めると、猫さんが軽くジャンプをしてこたつのテーブルの上に乗った。それから置いてあるみかんに鼻を近づけてヒクヒクし始める。
「それ、食べたいの?」
「ミヤン」
まさにそのみかんが食べたいと言うようにタイミングよく猫さんは鳴く。
「はい、どうぞ」
皮をむいた一切れのみかんを猫さんは長めの舌でなめ始めた。どうしよう、食べているところでさえ可愛い。
「どう、美味しい?」
また返事をしてくれるのかなって少し期待したけど、今度は鳴いてくれなかった。きっとみかんの味に夢中で。あ、また。
こぼれそうな涙を止めるように、私も一つ口に入れた。甘さとちょっとの酸っぱさが口の中で調和し合っていて、いくらでも食べられそうな、とにかく美味しい味。だから飲み込んでしまうと、寂しくなる。寂しくなる……。
私は猫さんの首元に注目した。そこに首輪はなくて。
「猫さんは野良猫?」
「ミヤン」
そうだよ、と聞こえるのは私の都合のいい解釈かな、なんて。でも、そう思ってもいいよね。
「これから一緒に暮らさない?」
「ミヤン!」
今度はきっと都合のいい解釈じゃない。確かに弾んだ鳴き声だった。
石鹸を手で擦り泡を次々に生み出してゆく。それをたっぷり猫の背中に乗せると、びっくりとはせずむしろ目を瞑って心地よさそうにしている。
周りに浮かぶシャボン玉が猫の輪郭をあやふやにする。それがお化粧になって、余計に可愛く視界に映った。
「本当に可愛いね」
「ミヤン」
撫でるように顔や耳。ひげや背中を洗っていると、自分の心まで清くなっていくように癒される。猫の力恐るべし。
びっくりしないようにぬるめの湯をかけてゆく。
タオルで全体を拭き終わる。猫が激しく身体を揺らして、わずかにあった雫を払い落とした。
「ミヤン」
再びこたつにもぐる黒猫。よっぽどのこたつ好きだなぁ。まぁ、そう言いながら入る私も大概だけど。
「ミヤン」
あったかいって言ってるのかな?
「ミヤン」
そうだよ、なんて。腕を伸ばすと黒猫が私のもとへとやってきた。あったかい。そして眠い。
腕を枕にして目を瞑る猫が余計に夢を誘う。
「おやすみ」
「ミヤン」
意識半分の中挨拶して、私の視界は真っ暗になった。
「おはようって……」
唖然とする。でも猫がいたら当たり前にあること。でもこれはさすがに……。いや、怒っちゃいけない。
「もう、こんなことしちゃダメだよ。ペットの持ち込み許可されてるアパートとはいえ」
「ミヤン」
まぁ、仕方ない。きちんと用意していなかった私が悪いから。タンスから色々引き出して。
「はい、ここがトイレで。ここが爪研ぐ場所ね」
事件現場かのような傷ついた壁。強烈な匂いの漂う濡れた箇所から一旦目を背ける。ひとまずごはんを与えねば。
「いっぱい食べてね」
並々にペットフードを盛り、それに飛び込む黒猫の後ろ姿をそっと眺める。
「美味しい」
「ミヤン」
思わず頬が弛む。それからすぐにあの現場の処理へと意識を向けた。壁の傷跡を絆創膏を貼るようにガムテープで補強し、鼻を破壊する力を持つ匂いが漂う箇所を手際よく拭き、最後に消臭剤をしゅっと散らす。
大変だけどその可愛らしい鳴き声と姿を拝めただけで、全部許せる。それにこれだけ大変だと彼のことも自然と思い出さずにすむし。
ふいに時計を見て、目が丸くなる。針は一限の時間をもうすぐ知らせようとしていて……。
私は消臭剤を素早く手放して、自分の支度へと行動を変える。服とズボンは履きやすさを重視した、でもお洒落さは皆無。ヘアセットは、櫛で溶かすだけにして、荷物の入ったリュックを背負う。
家を出ようすると、黒猫がお皿の前にいなくて、不安になる。
「どこいったの?」
もう出ないと行けないし、そもそも昨日どっかから現れた猫だから心配する必要はない。だけどどうしても気になってしまう。いないと寂しいから。その寂しさが彼との別れたときの気持ちをフラッシュバックさせるから。
「あ、いた。よかった」
あの黒猫がいる場所といったら、ここ。って場所にいてくれた。私たちを繋げてくれたこたつに。
「いってくるね」
そう言っても声が返らないしばらく続いたひとりぼっちの生活に幕を閉ざすように中の黒猫は。
「ミヤン」と鳴いてくれた。
「ギリギリ間に合ったよ。よかったねって」
私のために席を取ってくれて、奥へ行かせるために立ち上がったその人は言葉に詰まる。うん、なんとなくその理由はわかる。
「むぎ。白一色ってどこの作業場の人? それに髪も」
「わかってるよ」
「ほら、早く座って」
促されて私は彼女の隣に座る。
「あっち向いたままね」
頭に心地よい刺激。細くてちょっとひんやりしたものが何度も何度も通っていく。そしてどんどん髪はまとめられてゆき。
「はい、即席ポニーテールの完成。これ一応鏡」
「わ〜、すごいお洒落に仕上がってる。ありがとね」
きっちり整えられたポニーテールではないけれど、ちょっと緩めに結われているのがお洒落な感じで。
「どういたしまして。それよりよかったよ、ほんとに」
「うん。危うく遅刻するところだったよ」
「そうじゃなくて」
「うん?」
違うの? 思い当たる節がなくて、でも考えていたら。
「ほら、この間まで落ち込んでたでしょ? 彼の一件で」
「あっ」
「もしかして思い出させちゃった? 忘れてたならごめんね」
「ううん、違うの。ごめんね、今までずっと心配かけちゃって。もう大丈夫なの!」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「なにかあったの? 相当落ち込んでたむぎを大丈夫にした出来事ってなに?」
「ふふ、実はね。新しい家族ができたの!」
「え? この間別れたのに、お付き合いを飛ばして結婚?」
人差し指を素早く口元に立てる。もう、たとえ真実じゃなくても大きな声でそんなこと言わないで。キョロキョロと視線を散らして薄っすら頬を桃色に染めたルナは、「それで、どういうことなの?」と今度はすごく小さい声で聞く。
「猫が家にやってきたの」
「猫、えっ猫! そっかそれで嬉しそうなんだ」
「うん!」
私は大きく頷いた。そしてその猫のことを教えようとしたところである重要なことを忘れていた。
「それで名前は?」
「あっ」
そう、私としたことが名前のことなんてまったく頭になかったのだ。
「あっじゃなくて。名前大事って言ってたのはどこの誰でしたっけ?」
「えっと、私ですね」
「ちゃんとつけてあげないと可哀想だよ?」
「だよね」
名前。ぱっと思いつくわけなくて、うだうだしていたら先生が来てしまった。仕方ない。講義を聴きつつ考えよう。
と思ったらいつの間に講師が話を止めて教室を去ってしまっていて。
「それで思いついた?」
「……まったく」
「もう、講義内容とか私があとで教えてあげるのに」
「そんな講義無視してまで考えることでもないでしょ。ルナこそ、講義聴いてたの?」
うっ、と痛い顔をするルナ。やっぱり。普段の講義も隣で目を瞑ってることが多いから。
「だって、難しい話って眠くなるんだもん。学ぶどころか目を開けることで精一杯だよ」
「まぁ、確かにね。冬場とか特に」
「ムギは寒いの苦手なんだもんね」
「そう。でも、昨日来た猫も寒いの苦手そうなんだよね」
「え、どうして?」
「見つけたのがこたつの中だったから」
「そうなんだぁ。お仲間だね。なら早く名前つけないと」
「そうなの? まぁ、下手な名前つけても可哀想なだけだよ。ゆっくり考えてみる」
「うん。あぁ、今度その例の猫ちゃん見せてね」
「もちろん。あとで写真送っておくね。テスト勉強のときにでも見にきてよ」
「わ~、テスト勉強とか考えたくないよ。はぁ、あの先生の講義もそういえばテストあったよね。むぎ、絶対教えてね!」
「いくらでも教えるけど、猫に気を取られないようにね」
「むぎじゃないんだから。ほんとむぎは異常なほどの猫好きだよね」
「それ、褒め言葉なら嬉しいなぁ」
「もちろん!」
バイバイ、と軽く手を振るルナ。私も同じように振り返した。
扉を開けた瞬間、酸っぱい匂いが鼻の奥を刺した。これは、今朝も仄かに香ったものだからわかる。案の定その香りの主であるボトルがカーペットの上に落ちていて。それを小さくて普段なら愛らしい肉球が転がしているのだけど。
「ちょっと、どういうこと?」
「ミヤン、ミヤン」
身をこたつに隠す。もう、すぐにこたつに潜るんだから。いたずらっ子なのかしら。
毛布をがばっと上げると、奥にいる猫の毛並みが逆立つのが見えた。目を満月みたいに形のいいまん丸にして。
「さすがに猫好きの私でも怒ったから……」
「ミヤン」
潤んだ瞳。猫って泣かないはずなのに。声だって弱々しくて今までで一番可愛らしいもので。
「ずるい……」
おいで、と手を伸ばせばとことことこちらまで歩いてくる。猫の体温を含んだ温かな毛に触れれば、今までの怒りもその理由もすべて忘れてしまって。
すりすり。
擦るたびに頬を撫でる毛がくすぐったい。鼻は柑橘系ううん、みかんの香りでいっぱいになる。
「ミヤン」
「そうだ!」
閃いた。頭の中のミカンの皮がむかれて実という答えに行きついたかのように。
「ミカン」
「ミヤン」
うん、ぴったり。鳴き声もこの香りも神様がそう名付けなさいと思し召しているかのよう。
「ミカン」
「ミヤン」
どうしてかな。さっきよりも腕の中にいる生き物がうんと可愛く見える。名前をつけるって魔法みたい。ルナが言ってたとおり、名付けは大事なことって身に染みてわかった。ううん、きっと昔からわかっていたことだと思うけれど。
顔を、寝気味の耳を、温かい毛をまとった背中を、細くて長い尻尾を撫でていたら、大事なことを思い出す。
急いで大学に持って行っていた鞄からあるものを取り出す。見た目は小さいけど、今を生きる人にとっては一番大事といっても過言ではないもの。
「こっち向いてミカン」
早速名付けたてほやほやのその名前を呼ぶ。お母さんになったみたい。昔を思い出す。
「ミヤン」
「ちょっと、鳴くのも可愛いけど顔も可愛いからこっち向いてほしいなぁ」
なかなかこっちを向いてくれないミカン。人じゃないから言葉ではもちろん伝わらなくて。ううん、伝わるはず。昨日だってミカン美味しいって聴いたとき返事してくれたから。
そう、伝え方を少し変えれば。
「ミヤン」
目の前の生き物が振り向いてくれた。よし、いまだ。
びっくりしないように光と音は出さず、静かに私は一瞬の時を止めた。
「ありがとね」
膝の上に黒いミカンを乗せて円を描くように撫で回す。撫でられるのに十分に満足したらしいミカンはその後、アジトのこたつへとしっぽをふりふりさせながら潜っていった。
私も足を入れて癒される。まるで足から登ってくるように温もりがじんわりと身体中に広がってゆく。
目を合わせてくれたさっきの瞬間をルナへと送る。思いついた名前と一緒に。
ぱっとカーテンを開くと、薄暗かった部屋が一気に光で満ちてゆく。
「ミヤン!」
朝なのに飛び跳ねて狂った声を放つミカン。
「おはよう。もうそんなに驚かなくても」
「ミヤン……」
こたつの中へ急いで潜ったミカンはそう弱々しく鳴く。どうやらミカンは光が苦手みたい。よかった、昨日写真撮るときフラッシュさせなくて。
窓を開けると深まった秋らしい冷え込んだ、でもまだ光を含んだわずかな温もりを乗せた風が、寝癖のある私の髪を揺らした。
見える景色は赤や黄色の暖色が遠くを染めていて。
「綺麗だなぁ。ねぇ、ミカンもちょっとこっち来てよ」
「ミヤン……」
まだこたつの中で鳴くミカン。小学生だったらいい子どもがこたつなんて入ってと言われるやつ。なんて思いながら私は自分とミカンのごはんを用意しようと窓から離れた。
「はぁ、こたつって恐ろしいね」
「ミヤン」
もうミカンに偉そうなこと言えない。だって。
「あぁ、ティッシュが遠いよ〜」
いや、単行本一冊分くらいしか離れていないけれど。だけどこたつから抜け出せなくなってしまった私にとっては果てしなく遠い場所にあるわけで。
「ねぇ、ミカン。あのティッシュ取ってきてくれる?」
「ミヤン」
鳴くだけ鳴いてなんの音沙汰もない。微動だにしない。返事をしてくれたから取ってきてくれるのかと思ったのに。
「はぁ、仕方ない自分で取るしかないかぁ」
何センチか身体を動かし、なるべくこたつから出ないよう工夫する。少しでも暖かさを感じていられるように。
「さむ」
とは言いつつ、やっぱり少しでも出ると寒いものは寒い。こういうとき孫の手とかあったらなぁ。あ、そうだ!
「ねぇ、お散歩しない?」
「……」
ちょっと、返事してよ。まぁ、そうだよね。こたつ好きのミカンにとって酷な話だもん。それでも。
「行こう! 私リードも持ってるし」
名残惜しいけれど私はこたつからぱっと出た。こういうときは潔く。
「ミヤン……」
頑張ってこたつから出た私の覚悟が少し伝わってか、ミカンも顔だけ現してくれて。というか、このミカン、すごい可愛い!
また一枚、ミカンの姿を切り取った。
「ミヤン」
「ほら、こたつから出た甲斐があったでしょ?」
赤や黄色、オレンジの葉たちが踊るように地面へと落ちてゆく。
リードに繋がれたミカンはちょこちょこと歩く。そんな姿さえも愛おしい。
『パシャリ』
また撮っちゃった。紅葉とミカンの組み合わせも最高だったから。ほんとにもう、癒やし。
基本ミカンのことしか見てないけれど、時々周囲の葉にも注目する。一枚一枚、同じようで全然違う色と形をした葉っぱたち。遠くからだと気づけなかった発見ができて、自然と心も舞い上がる。風で渦巻く葉のように。
ミカンと紅葉。交互に眺めていたら徒歩だと大変な場所まで来ていた。でもどうしてか、疲れてなくて。そんな体力あるほうじゃないのに。でもこれはちょっと計算していたわけで。
「よし、孫の手買うよ。あと遠くて普段は行かないところだから、珍しいものもあるかもね」
「ミヤン」
すると一瞬ミカンの前をなにか光るものが横切った気がした。流れ星のように。そんなわけないと、でもミカンがやって来毎日が煌めいたのは事実で。そんな日常が視覚化したのかもしれないって。
いつの間にか、心に彩りを与えてくれた紅葉から、大きな建物が目立つ街並みへと景色は変わっていた。
「わぁ、可愛い写真よりもずっと」
「でしょ」
胸を張る。我が子を自慢する親バカみたいに。
ルナがミカンを抱いて頬同士を擦り合わせる。
「ミヤン」
「ほんとにミカンって言ってるみたい」
「そう。あとたまたまいたずらしてた消臭剤の香りが柑橘類だったからそれで」
「そういうことかぁ」
ミカンと目を合わせてはにこりと笑うルナ。って。
「それより勉強しないと。あの先生の授業の」
「もう、いいムードだったのに。でも、仕方ないか」
ルナは諦めたようにミカンを下ろして、手に持っていた鞄からいくつ参考書を取り出す。もちろん私と同じもの。
机にそれらを広げ、本来の目的を果たしてゆく。二人いるとは思えないくらいここが静かな場所と化す。
「あ、ミカンちゃん」
アナログ時計が一周した頃、ルナがそう呼んだ。
「もう勉強する気ないじゃん」
「しょうがないよ。だいたい、こんな可愛すぎる生物置いてるムギが悪い」
「ミカンのせいにしないの」
「ムギだって、ほんとは疲れてるんじゃないの。さっきから欠伸してるよ?」
「私は夜遅くまで勉強してるの!」
「ムギのことだから、こたつで眠って、でも慌てて起きて勉強するを繰り返して夜遅くなってるだけでしょ?」
「……」
「どう、当たったでしょ?」
「正解です」
きっとこれ以上続けても面倒な話が広がるだけ。ときには素直さも大事。それに私も。
「そろそろ休憩しよ」
シャーペンを置いて、指を組み伸びをする。ルナは頷きながら、だねと声を響かせた。
「飲み物なにがいい?」
「ココアがいいなぁ」
「わかった」
湯を沸かしてコップに茶色っぽい粉を適量入れていく。冷蔵庫から散歩中に買ったバタークッキーを取り出して。
「わぁ、美味しそう」
ココアの入ったマグカップは白い息を吐いていて確かに美味しそう。
「いただきます」
「あちっ」
「ふふ、ムギの猫舌」
そう言ってマグカップを口へ傾けるルナ。熱くても飲めますってアピールするように。
「いいよ、ミカンとおんなじだから。むしろ猫舌じゃないほうが仲間外れな気がするし」
「ちょっと。逆にからかわれてる感じ?」
私の反逆に不機嫌そうにするルナは、マグカップを置いてお皿に盛られているお菓子に手を伸ばした。
「美味しいね、ココアもクッキーも」
「お礼ならミカンに言って。ミカンがいたから買えたんだから」
「ミカンありがと」
素直にルナがお礼を言う。もう、ころっと態度が代わるんだから。もしかしたらミカン以上にルナは単純なのかもしれたい。
「ごちそうさまでした。じゃあ勉強って……」
寝転がり始めたルナに嫌な予感がした。
「眠くなってきちゃった。おやすみ」
ちょっともうすぐテストだよ、と言いかけてやめる。もう寝息を立てていたから。はぁ、私もなんだか瞼が重い。
「ミヤン」
クッキーを食べ終えたミカンが私のそばの毛布へと潜り込んだ。足に触れる毛並みがくすぐったさと眠気を連れてきて。
「私も寝ようかな。ちょっとだけ」
クッションを置いてミカンを抱きしめる。そしたらもう意識はなかった。
「今日はありがとう。テスト頑張ろうね」
「うん」
結局おやつの後はほとんど、というか勉強できなかった。寝ていたらもう空は墨で塗り潰されたかのように闇に包まれていたから。ルナに手を振り、扉を閉めたタイミングを狙ったのか、ミヤンとミカンが鳴く。
「はいはい、ごはんね。今作るから」
さっきおやつ食べたし、頭も使ってないから個人的にお腹は空いてないけどいっか。
「ミヤン」
ごはんできるまで待ってるよ、と言うようにミカンはまたこたつの中へと姿を消した。相変わらずのこたつ好きだなぁ、なんて自分もそうなんだけど。
目の前にあるこたつに入るのを我慢して、まだ仄かにココアの香り漂うキッチンへ向かった。
参考書と空欄の問題集を交互に見てはため息をつく。あと少しでテスト。わかっているけど。
「ミヤン」
いつもより一際大きい鳴き声。夕食を食べてきっとご機嫌だから。
ミカンと足元から迫るこたつの温もりの癒しが、勉強を妨害する。冬に行われる自分のテストの点数が毎回低いのも納得できた。
「おやつ前頑張ったし、やめようかな」
「ミヤン」
まるで賛同するように鳴いてくれたから嬉しくなる。よし、そうと決まれば。
「はぁ、あったかい~」
勉強を放棄した今、こたつライフを邪魔する者はいない。私の動きに合わせてミカンもこたつに潜り込む。私のクッションを半分くらい占領して。
勉強のために控えていたドラマを観ようとリモコンを探す、も残念なことにそれはちょっと離れたところにあり。手を伸ばしても微妙に届かない。
「ミヤン」
ミカンの顔を見てふいに思い出す。そういえばこんなときに役立つアイテムを、私たちは手に入れてたんだ。孫の手という名のアイテムを。
買ってからそれはテーブルの上に置くようにしていたから。
「よし、取れた!」
子どものようにはしゃぐ。大好きなこたつから離れなくても取れることが嬉しくて。
「ミヤン」
「ミカンのおかげで思い出せたよ。ありがと」
黒い両頬をぐるぐる撫でまわす。もう、可愛すぎる。
大きな画面に光を灯す。それからお目当てのドラマを観るも。
「あれ、もう終わってる!」
いつの間にか今観ていたはずのドラマタイトルが放送されている番組上にあって。
「え、ちょっと。よし、今度こそ」
だけど次も、その次も意識は飛んでいて。昨日も遅くまで勉強したし、当然かもしれない。
でも眠るということは、このドラマそんなに面白くないのでは、と思い始める。
「もういいや」
五回目の上映が終わったときに決意した。観ていたドラマタイトルを次々にゴミ箱へと送り出した。
「ミヤン」
「いいのかって? うん、もちろん。だって」
私は再びミカンを抱きしめる。ミカンの温もりを身体すべてで受け止めて。
「ミカン以上に興味の引くこと、私にはないもん!」
ぎゅっと、でも潰れないように加減して。
そのままこたつで私たちは意識を夢に預け続けた。
大学の建物を抜けると灰色の雲が怪しげに左へ流れていた。
「はぁ、全然わからなかったテスト」
ルナが白い息を吐きながら、そうこぼす。まだ雪が降ってないとはいえ、寒いのには変わりない。
「私も」
「ムギも? まぁ、ムギのことだからどうせこたつで居眠りしてたんでしょ」
「うぅ」
図星すぎてなにも言えない。私の吐息は不安定に吐き出される。
「昔からだもんね。普段はしっかりしてるのに冬限定で怠けちゃうんだよね、ムギは」
「そういうルナなんてオールシーズンじゃない」
「失礼な」
ちょっとの沈黙の後、二人して笑う。
びゅっと風が吹く。遠くで枯葉とアスファルトが擦れる音がした。
「ねぇ、ムギ」
「うん?」
笑うのを止めて突然改まったルナに、逆に恐怖を感じた。秒で変わるはずのない気温が狂って、一瞬にして寒さがより深まったような。
「蒸し返すようで悪いんだけど……彼氏のこと、ほんとにもう大丈夫なの?」
「彼氏……あぁ大丈夫だよ」
なんの話かと思えば。ルナが切り出した話題に、空気が少し暖かみを含む。
「だって、長いこと付き合ってたでしょ?」
「そうだけど。もちろん忘れてないよ」
忘れるわけない。ミカンよりも、ルナよりもずっと長く一緒にいた存在だった。
だから失ったときは、もう二度と笑えなくなるんじゃないかって本気で思って……。でも。
「でも、私にはもういるから」
「ミカン?」
「うん!」
私は大きく頷いた。そのとおりだった。
彼を失った悲しみの傷を、ミカンは上手に癒やしてくれるから。
「そっか。ならよかったよ。ほんとに」
ルナはさっきと違う種類の笑みを浮かべる。安心したような、ほっとしたような、そんな表情。
「そんな心配してくれてたの?」
「うん。あのまま病んでるキャラでいくのかと思ったよ」
「なに、病んでるキャラって」
おかしくなって噴き出す。ルナと一緒になって。笑って無駄な筋肉を使ってしまったせいか、寒いはずなのに体はぽかぽかとこたつにいるみたいに暖かかった。
「すっかり葉っぱも落ちちゃったね」
「ミヤン」
道路や歩道は色褪せた葉たちで敷き詰められていた。木も葉っぱという服をなくして寒そうにしている。
この間散歩したときと同じ道を歩いているはずなのにまるでまったく違う場所にいるみたい。
「冷たい」
風もそうだけど今なにか頬に触れたような……。
「ミヤン」
手を伸ばすと白い粉が一雫に変わって。これは。
「初雪、だね」
「ミヤン」
「綺麗」
もう十二月も始まったことだし当たり前。雪は冷たいけど綺麗なのは間違いない。落ちた葉に雪が降り注ぐのは、季節の移り変わりを大胆に見せているかのよう。
綺麗。だけどやっぱり寒い。全身が震えるほどではないけど芯が冷えてるってわかる。
「積もるのかなぁ」
「ミヤン」
積もったらしばらくはお散歩できない。今のうちに満喫しなくてはと意気込んでいると。
「いしや〜きいも〜」
耳と鼻が勝手に動く。甘い香りがちょっとだけ寒さを和らげてくれる。やがて視界にも映り。
「行ってみる?」
「ミヤン」
「いらっしゃい」
「おいも一つください」
「あいよ」
手際よく白い息を吐く焼き芋を新聞紙でくるむおじさん。それはすぐに私の手元へやってきて。
「ありがとうございます」
お礼を言っておじさんに背中を向けると。
「クロ?」
「ミヤン」
目の前のミカンが鳴く。焼き芋の匂いに反応しているのか、それとも後ろの声に……。
「やっぱりクロだ」
「あの、クロってなんですか?」
おじさんのほうへまた身体をくるっとさせる。驚いたような、懐かしむような眼差しをおじさんはミカンに注いでいて。なんだか、とても嫌な予感がする。
「その子、うちのペットショップのなんだ」
「え?」
頭が真っ白になる。今も降る初雪のように。だって、じゃあ。
「それって、ミカンはあなたのものなんですか?」
返さなければならない。その真実がぐさり刺さった。しまった。
「そっか。ミカンってつけたんだ」
おじさんが目尻を下げて優しそうな顔をして恥ずかしくなる。うっかりいつもの癖で名前呼びしてしまったことを。
「随分可愛がってくれてたんだね」
「あ、いえ……」
「散歩させてる時点でそうでしょ。なぁ、クロ。じゃなくてミカン」
「ミヤン」
おじさんはミカンと目を合わせて笑みを浮かべた。それから。
「ちょっと触ってもいい?」
「あ、はい。どうぞ。わざわざ聴かなくても、もとの持ち主なんですから」
「いや、違うよ」
「え?」
もとの持ち主じゃないの? この人は焼き芋を配ってペットショップでも働いてるんじゃないの?
「おいで」
おじさんのほうにリードが引っ張られる、と思いきやミカンはしゃーと鳴いて私の足元に隠れた。
あ、そうだったとおじさんは笑った。そうだったってなに?
「あの、ほんとにペットショップの店員さんなんですか?」
怪しくなって失礼ながらにそう聴く。だってもとの持ち主に猫がこんな態度を、それも人懐っこいミカンが取るはずないって。人の家に勝手に上がり込むし、私やルナにだって懐いてたのに。
「ほんとだよ。むしろペットショップのほうが本業だから」
「じゃあ、どうしてミカン嫌がってるんですか?」
「実はその子、男嫌いで」
「男嫌い?」
でも、そういうの聴いたことがあるような。ミカンと出会うずっと前に調べ事でそんな情報を目にした気がする。
「まいったな。苦労してなんとか触らせてもらえるようになったのに。やっぱ離れると、ね」
白いため息を吐くおじさん。指の代わりに眼差しでミカンに触れていると。
「その子、いやミカンはもう君のだよ」
ぽつりそう言った。あまりにも突然で短すぎる一言に理解が追いつかない。
「君にすごい懐いてる」
「え、でも。私ただ家の中にいたミカンをお世話してるだけで……」
「それって飼い主以外の何者でもないよ」
今度ははっきりと響いた。冬の澄んだ空気できっとなおさら。
「飼ってください。飼い主と生き物を繋げることがペットショップの店員の仕事だから」
「なら、お金とか払ったほうがいいですよね」
「いいよ」
今いくらあったっけと鞄を漁っていたらおじさんの声で制される。
「逃がしてしまった僕が悪いから。だからいいです」
「そんな。申し訳ないです」
「いいって。お代なら焼き芋で十分」
「くしゅん」
後ろから可愛らしい音がした。くしゃみをするときまで可愛いなんて反則。
「ほら、ミカンが風邪引いちゃうよ」
おじさんは一歩も引かない様子。このままだと決着はつかなそう。手の中の焼き芋も白い息を吐くのをやめてしまっている。
「わかりました……」
「うん、それでいい。これからも可愛がってあげて」
「はい、ありがとうございます。では」
「あ、待ってよ。焼き芋冷えてるでしょ?」
「冷えてますけど、あとで温めますから大丈夫です。それにお支払いを免除してくださったのに、せめて手間賃くらいは」
「それも商売だから。今温めます」
結局おじさんはもう一度さつまいもを焼き直して、私に手渡してくれた。
カイロ代わりに持っていると、熱々の焼き芋は私の手を自然に暖めてくれる。
分厚いコートを身に纏う人たちが行き交う散歩道。雪は今も追い打ちをかけるようにその人たちへと降り注ぐ。
「ミカン、これからも一緒にいられるね」
「ミヤン」
返さなくてよかった。安心したせいか焼き芋のせいかわからない。でも自信がある。
すれ違ったり、通りすぎたり、同じほうを歩いたり。そんなどんな人たちよりも、今私は暖かいって。
「やっと冬休みだよムギ!」
「そうだね」
「そもそも、クリスマスイブとかクリスマスに学校あるとか、どうかしてない?」
「確かに。というか私は冬中家にいたい派だからクリスマスとか関係ないかも」
「それ正論だと思うよ。生き物って冬眠するものだし」
「私もそんな生き物に生まれたかったなぁ」
「えぇ、ムギは人間のほうが絶対いいって!」
「どうして?」
冬はできるだけぐうたらしたい、眠りたい。強くそう思っているのに。
「だって人間じゃなかったら猫のこと、可愛いって思えないよ」
「そうだよね。猫は人より小さいから可愛く見えるだけで他の小さな生き物だったら、大きくて恐怖の対象でしかないよね」
やっぱり人でよかったのかもしれない。でも冬眠することを夢みることはまだ諦めきれず。
「じゃあ、人に冬眠する性質があればよかったのにね」
「ふふ。どんだけ温々したいの?」
と言いながら笑ってくれるルナ。私もつられて笑ったから、雪が降るキャンパスまでの道のりもあんまり寒く感じない。
「あ、ムギは実家帰る?」
「うん、クリスマスの次の日にするつもり」
「そっかぁ。向き合う決心ついたんだね」
「なにそれ。親と上手くいってない娘みたい」
「ふふ。まぁ、頑張って。それよりクリスマス! どうする?」
「どうするって?」
「私と過ごす? それともミカンちゃんと?」
「う~ん。どっちも、かな」
どっちかなんて決められない。すると身体中に力が込められて。
「ちょっと。人いるんだけど」
「いや、嬉しいなって。ダメ?」
「ううん、私も。それよりクリスマス」
恥ずかしくなって話題を戻す。そうだね、と笑みをこぼしながら抱くのをやめてくれる。
「ケーキ作ろ?」
「そうだね。授業終わったら材料買わないと」
そう考えたら、途端にわくわくしてきた。ミカンにルナに甘いケーキ。大好きなものしか溢れていないその日を。
「ケーキ早く食べたい」
「まだできてないのに。あっ、ミカン。キッチン危ないから居間で大人しくね」
「ミヤン」
家のお気に入りの場所、こたつへと潜るミカン。いいな、私も入りたいなぁ。ケーキも食べたいけど他の生き物みたいに冬眠だってしたい。
「ちょっと、恋しそうにこたつを見ないの!」
「は〜い」
気のない返事をしてから、私は早速クッキングに取りかかった。
ケーキ作りは工程が多い。美味しいものだから仕方ないけど。
「あれ、今気づいたけど指輪は?」
「え? あぁ、本当だ……」
理解するのに時間がかかったけれど、確かに。
「彼氏と別れたから、外したの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
左の薬指をさする。いつからなくなっていたのだろう。
「まぁ、とりあえずケーキ作らないとだよね」
「そうだね」
まずはメレンゲを作るために卵を白身と黄身に分けないといけない、が。
「あ、黄身入っちゃったよムギ」
「こっちも。殻がなかなか取らない」
最初の工程からつまずく私たち。材料は買ったものの、結局まだ作れそうなマフィンに挑戦することに。
「ルナ、小麦粉ふるってくれる? 小麦粉はっと」
「冷蔵庫の中だよ」
「オッケー」
「ミヤン」
ルナが小麦粉を探している途中、キッチンにはもう一人の生命体が。
「や〜、ミカンちゃん! ミカンちゃんもケーキ食べたくなっちゃった?」
「ちょっとルナ。冷蔵庫開けっ放しで喋らないで。冷蔵庫の意味なくなっちゃうよ。あとミカン。ここに来ちゃだめって言った……」
起ころうとしたけれどやめる。ミカンが加えているものを見て。
「よしよし。ミカンちゃんは優しいね。飼い主にスリッパを持ってきてあげるなんて」
「ありがとう、ミカン」
ルナにならって私も撫で回す。ずっと触れているけれど飽きはこなくて。
ミカンを励みに作業を再開させると、ルナの短い悲鳴が台所にとどろく。
「あ」
白い粉が辺りに充満する。家の中で雪が降っているかのように。そして不運にもその辺りには……。
「ミヤン」
「ミカン、その姿」
いつもは真っ黒な身体をまとっているはずのミカン。なのに今は。
「真っ白……」
あれ、涙が。どうして?
「ムギ! もしかして」
心配させちゃってる。きっとあのことに、と思ったら。
「これ、ハンカチで拭いて」
「あ、うん……」
どうして泣いてるんだろう。ううん、わかっているけれど。
「大丈夫?」
「うん。小麦粉が目に入っちゃっただけだから」
なんて誤魔化す。それからハンカチを返して何事もなかったかのようにミカンについた粉を拭き始めた。
暖かい部屋の中、これから大学へ行くために私服に身体を通してゆく。はぁ、面倒くさい。ルナの言うとおり、クリスマスイブに学校なんて行くもんじゃない。
「あ、そうだ。換気しないと」
私は急いで窓を開ける。肌を刺すような風が部屋中を飛び回って暖まっていた身体が一瞬にして冷えてしまう。
「ミヤン……」
「ごめん、寒いよね。でも今日は一時間しかないからすぐ戻ってくるよ。こたつは電源入れとくから」
「ミヤン」
「じゃあ、行ってくるね」
手を振るも、すでにこたつへ潜っていたミカンには届かず。部屋よりもなお寒い世界へと、私は足を踏み入れた。
「ちょっと無用心じゃない?」
「なにが?」
講義が始まる前、そんなお叱りをルナから受けていた。
「なにがって。窓を開けっ放しにすることよ」
「大丈夫だよ。あんなぼろぼろのアパートの一室に入るなんて、馬鹿しかいないでしょ?」
「その馬鹿が来るかもしれないでしょ。まったく戸締まりはちゃんとしないと。どうせ、寒くて換気できなかったとかでしょ?」
「……」
「図星みたいだね。とにかく今度から気をつけて」
「うん、気をつける。もう、心配性だなぁ」
「心配だよ」
声のトーンを落とすルナ。声がちょっと違うだけで別人みたいに見えた。
「心配? なにに」
「昨日のケーキ作りのこと」
それだけ言われてぱっと思い出す。昨日泣いていたことを。でも。
「大丈夫だよ。ほんとに」
「怪しいなぁ。まだ安心できない!」
「そこをなんとか」
昨日のは突然のことすぎて。でも本当に大丈夫で。ルナとマフィンを作っていつもどおり過ごしていたら、気づけば涙なんて跡になっていたから。
「本当に?」
「ほんとほんと」
「わかったよ」
追及をやめてルナは笑ってくれる。そう、大丈夫。私にはミカンがいるから。
「あれ、ミカン?」
いつも帰ってきたら鳴いてくれるのに。リビングや台所、トイレにお風呂。狭いアパートの一室だからすぐに見つかるはずなのに、ミカンの姿は見えない。
こたつを見るもそこにもいなくて。
「ミヤン」
そんな鳴き声が聞こえた気がして、だけどどこにもいない。
「ミカン、どこ行ったの?」
ヒューと口笛のような不気味な音をした冷たい風が髪を不気味に揺らす。その風がどこから来たのか辿ると、窓が開いていて。
もしかして。ううん、もしかしてじゃない。きっとそう。ミカンは、ミカンは……。
「ムギ来たよ! ってまた泣いてるの?」
ルナがきょとんとする。
「ミカンが……」
いなくなってしまった。
クリスマスなのに。私は大人だからプレゼントはいらない。でもだからって、奪うことはしなくていいのに。
知ってる場所を隈無く探した。けれどどこにもいない。無情な雪が、ミカンと歩いた散歩道にただ降り積もってゆくだけ。
「ムギ……」
「ルナの言うとおり窓の開けっ放しはいけないね」
「そんな、無理して笑わないで」
「無理してるわけじゃ……」
あれ、また。目が熱くなる。
「もう、会えないのかな……」
突然来たのだから突然いなくなってもおかしくない。それに、ペットショップで買ったわけでもないし。
「あれ、君は」
そのとき聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
「あのときの」
そこには焼き芋をくれたおじさんがいて。
「ムギ、この人と知り合い?」
ルナが不思議そうに目の前のおじさんの顔を覗く。
「あぁ、ペットショップの店員さんだよ。前のミカンの飼い主」
「え、じゃあ、ミカンはあなたのところにいるんじゃないですか?」
ルナが疑いの目全開でおじさんに問い詰める。そっか、その可能性もあったのか。やっぱり最後には本当の飼い主のもとへ……。だけど。
「もしかして、いなくなったのクロ。じゃなくてえっと」
「ミカンです」
私が教えるとあぁ、そうだったと頷く。そして。
「うちのとこには変わらずいないけど」
求めていた答えは返ってこなくて。ミカン、本当にどこへ。
「まぁ、私のときも突然出ていったし。多分今回も」
猫は気まぐれって聞くけれど本当にそうなんだと思い知らされた。
「ごめんね、お役に立てなくて」
「いえ。あ、でも」
なにかを思い出したのか、目を大きく開けておじさんは。
「木が結構あったところで黒猫を見かけたような」
「ほんとですか?」
ミカンの手がかりかもしれないと思って、力いっぱい聴いてしまう。
「あ、いや。私がちょっと近づいたらすぐ逃げて。それに黒猫なんてたくさんいるし」
「それでも教えてください!」
ミカンという可能性を少しでも秘めているのなら、探す価値は十分にある。それにおじさんが近づいたら逃げたってことは。
「ミカンが男嫌いなら、可能性ありますよね」
「はは、確かにな。わかった、その場所は」
そこは行ったことがある場所だった。ルナと顔を見合わせてから「ありがとうございました」とおじさんに感謝を伝えた。
「いや。でも本当にミカン、だっけ。かわからないよ」
「それでも探します」
「そっか。見つかるといいね」
「はい」
行こ、とルナに促されて私たちはミカン探しの旅を再開した。
おじさんが教えてくれたのは、前に私が孫の手を買いに通った紅葉の綺麗な場所だった。当たり前だけど葉は全部散ってしまっていてあのときよりも殺風景に見えた。
でもそれだけの期間をミカンと過ごしたのだと思うとすごく感慨深い。見つけたい。よりそう強く思った。
だけど手分けして探すも、結局ミカンは見つからなかった。夜が深くなり、さすがにこれ以上外にいたら補導されてしまう時間帯になったとき渋々諦めることに。
「ごめんね、役に立てなくて」
珍しくルナがしょんぼりとする。
「そんな。むしろごめんね。年に一回しかないクリスマスイブにこんなことさせて」
「こんなことじゃない!」
強いルナの口調に驚く。静かな夜を壊すほどの。
「ミカンは私にとっても癒やしだし。それに」
「それに?」
「ムギがまた落ち込むと思って」
「大丈夫だよ」
「出た、また大丈夫って。怪しすぎる」
「本当に大丈夫だから」
本当のこと。ミカンがいなくて、またどん底に突き落とされたのは事実だし、それで辛かったのもある。だけど。
「そっか。うん、なんか伝わってきた」
ルナは納得したように何度も頷いた。それはすごくありがたい。伝わらなかったらくさいことを言うところだったから。
「ムギ……ミカン、戻ってくるといいね」
「うん!」
じゃあね、とお互い手を振って別れる。ミカンのいない家に戻るはずなのに、どうしてか心は綺麗に澄んでいた。
大事なものを一生懸命に探してくれる人がいる。その事実が私の中の曇りをどこまでも晴らしてくれて。
「ミヤン」
これは夢の中? でもどうしてだろう。暖かいとか、寒いとかがわかる。夢の中だったら感じないはずのものなのに。
「ミヤン」
また。またミカンの鳴き声。いなかったはずのミカンの声がどうして……。
「ミヤン」
「ミカン!」
視界が霞む。瞳を覆う水で。だけど腕の中にいる生き物が誰なのか私はわかっていた。迷わず腕に力を込めて抱きしめる。
「すごく、すごく。心配したんだよ……? 寂しかったんだよ……?」
たった数ヶ月一緒にいただけ。ミカンがどこから来てどうして私のそばにいるのかも知らない。でも、もうミカンは私にとって。
「大切な存在だから、もうどこにも行かないで」
「ミヤン」
ちょうどいいタイミングで鳴いてくれるミカン。わかったよ、と言ってくれるみたい。
「ありがとう」
恋人を失って空っぽになった私の心を埋めてくれて。私の日常を彩ってくれて。
そしてふとミカンがくわえているきらりと輝くものに気づく。
「それ、指輪?」
「ミヤン」
「もしかして、ミカンは指輪落としたときのこと知ってたの?」
それを探しに外へ。指輪の光が反射してミカンの瞳を綺麗に煌めかせる。
指輪をそっと薬指をはめてみた。ぴったりじゃなくて指輪は今にも外れそう。
それが昔よりやせてしまったこと、ううんルナが言ってたとおり彼のことで落ち込んでいた日々の苦しみを物語っていた。
「ミヤン」
ミカンを見て私は笑う。そしてまたぎゅっと強く抱きしめた。
辛くて苦しかったけれど、もう大丈夫。ミカンの温もりがそう確信させてくれた。
薬指に指輪をはめる。こたつで温々していたからか、前よりもぴたり指輪ははまった。指輪に笑いかけたところで、あ、と思い出した。
小さな画面にミカンを映してそのままパシャリ時を止める。それをメッセージとともに送った。一緒に探してくれたルナへ。
あの出来事ぶりに開ける引き戸ががらがら、と音を立てながら横へずれると見知りすぎた顔が二つ現れて。
「お母さん、お父さん。ただいま」
「おかえり。あ、その子が噂の?」
早速お母さんが反応してくれた。
「うん! ミカンだよ」
どれどれ、とお父さんが近づくと。
「しゃー」
「えぇ、なんで?」
お父さんが漫画みたいに後退りして目を丸くさせた。当然のことのように私は。
「ミカン、男嫌いだから」
なんて解説するとお父さんは肩を下ろしてしょんぼりとした態度を見せる。
「仕方ないわよ。じゃあ、私のところには来るかなぁ」
ミカンは人嫌いじゃない。だから基本呼べば来てくれるのだけど、なぜかミカンはお母さんを素通りしてしまって。
「ちょっと、ムギ。話が違うじゃない」
「あれ、おかしいなぁ」
どんどん家の中を突き進んでゆくミカンに私も困惑する。心当たりがあるとすれば。
「ほら、見て」
お父さんがキャリーケースを運んでくれたおかげですいすいと私は居間へたどり着くことができ、両親を手招きして。
「あ〜、可愛い〜」
「わ、癒される」
二人とも頬を桃色に染めて柔らかな視線を向けている。その先にいるのは。
「ミカンはこたつが好きなんだよ」
こたつの毛布にくるまるミカンが目を瞑って、もうすやすやと眠っていた。
「あ、いけない。これは残さないと」
「俺も」
両親そろってポケットを漁り始め、手に持った四角い電子機器でミカンを含んだ一瞬を切り取る。だけどフラッシュがあったせいでミカンはこたつの中へと隠れてしまう。
「ちょっと、俺まだ撮れてないんだけど」
「ごめん。フラッシュ機能どうやったら止まるのかわからなくて」
「じゃあ、あとで写真送っといて」
「はいはい」
二人して小さな画面に向かっている。一応娘が帰ってきたばかりだというのに。
「それにしてもよかった」
画面を見ながらお母さんがそうこぼす。同調してお父さんも頷く。
「よかったって?」
「決まってるじゃない。こんな可愛い猫と出会えたことだよ。ミカンちゃん、だっけ?」
「あ、うん。それは本当に嬉しかった」
「本当によかったわよ。この間までは絶望の淵にいるみたいで目も当てられなかったんだから」
「いくらなんでも大げさだよ」
「大げさじゃないって。あ、そうだ。ムギ、あの子ならあそこにいるから」
「ありがとう」
私はお母さんの指さした部屋へと歩いてゆく。
和を象徴させる襖を横へ引くと、真っ暗な部屋が広がっていた。中へ入って灯りをつけても、どこか暗さを感じる。外じゃないのに顔をかすむ空気は冷たくて。
奥にはろうそく立てと神様の形をした置物のあるタンスのような箱と、小さな写真があった。そしてきらりと光るもの。私と同じ指輪がそこには置かれていて。
「ただいま。久しぶりだね、オレンジ」
奥へと進んだ私は、目の前の写真にそう挨拶した。
「やった~、こたつだぁ」
ランドセルのふたをぱたぱたとさせながら小さくジャンプする。
「あんまり潜らないでよね。小学生なんだから」
「はぁ~い」
と言われつつ私はランドセルを置いて、早速こたつに足を入れた。
「はぁ、あったかい……」
もう、とお母さんは苦笑いを残してリビングを去ってゆく。
いなくなったのを見計らって、私は潜り込んだ。それから足を伸ばし下のカーペットに擦りつけるように大きく動かしていると。
「あれ?」
足先がなにかに触れた気がした。洗濯物かなにかがあると思って足先をそこから離し、気にしないでいると。
「わっ」
足を動かしていないのにまた足先がなにかに触れる。こうなったらもう、気になって仕方ない。こたつから一旦抜け出し、思い切って毛布を上げると。
「ミャン」
「え……」
猫さん。でもただの猫さんじゃない。
「ね、おかあさん。猫、猫がいるよ。しかも全身オレンジ色なの!」
こんな猫さん、初めて見た。驚きを隠せず興奮の色を含んだ声でお母さんを呼ぶと。
「あら、可愛いじゃない」
頬を桃色に染めるお母さん。それからポケットを漁って四角い電子機器を取り出し。
「そのままでいてね」と猫さんに向かって声をかけながらパシャリと光を放つ。猫さんは大人しくモデルになってくれて。
「よし、いいの撮れたわ。ありがとね、猫ちゃん」
「ミャン」
おいで、とお母さんが手招きすると猫さんは渋々といった様子でこたつの外へ出ようと……。
「あれ?」
そう声を発せずにはいられなかった。だって。
「どうしたの?」
「猫さん、色が変わってる」
出てきたのはどこにでもいる真っ白な猫さんだった。お母さんは招いた手でその猫さんの顎を撫で始める。
「あぁ、こたつの光でそう見えたんだよ」
「えぇ、そんな……」
「そんなって。可愛いのは変わらないじゃない」
「そうだけど」
新種の猫さんを見つけたと思ったのに。頬を膨らませてお母さんのほうを見ると、どうしてか猫さんがこっちにやってきて。
「か、可愛い……」
私の足に猫さんが顔を擦って。すりすりと。
「ほらね。真っ白でもいいでしょ?」
「うん!」
私は大きく頷いた。珍しくなくたっていい。可愛ければすべてよし。そう強く思った。
「おいで」
しゃがむとすぐに猫さんは私の腕の中へ入ってくれた。
指でそっと撫でてみる。顔や耳。ひげや背中を。
「はい、今日のおやつ」
いつのまにおやつを取りに行っていたお母さんに少し驚く。それくらい猫さんに夢中だったんだって。
「みかん?」
「そう。やっぱりこたつにはみかんよね」
確かに。こたつに入りながら食べる、ちょっとひんやりしたみかんって美味しい。ドラマやアニメでもこたつの上に置かれているイメージだし。
しばらくこたつから出ていた足はまた帰ってきたときのように冷え始めていたからちょうどいい。
「はぁ、あったかい」
何度入っても身体に温もりを与えてくれる。あ、そうだ。
「この子も食べれるの?」
猫って食べれないものがあるらしいから。食べれるといいなって祈りながらお母さんの目を見ると。
「うん。みかんは食べれるはずよ」
「そっか。じゃあ一緒におやつ食べれるね」
「ミャン」
同じ鳴き声だけど、喜んでいるように聞こえたのは私の都合のいい解釈かな、なんて。
「はい、どうぞ」
「ミャン」
皮をむいた一切れのみかんを猫さんは長めの舌でなめ始めた。どうしよう、食べているところでさえ可愛い。
「どう、美味しい?」
また返事をしてくれるのかなって少し期待したけど、今度は鳴いてくれなかった。きっとみかんの味に夢中で。
私も一つ口に入れた。甘さとちょっとの酸っぱさが口の中で調和し合っていて、いくらでも食べられそうな、とにかく美味しい味。だから飲み込んでしまうと、寂しくなる。寂しくなる……。
「おかあさん。この猫さん、誰かが飼ってるのかな?」
「う~ん、首輪はつけてないけど。それで?」
「私、この猫さんに一目惚れしちゃったの」
好きになった。触れ合って、おやつ食べて、こたつでぬくぬくして。
もっと一緒にいたい。離れたらきっと寂しくなる。まだ離れてないけど、そう確信できた。
「そっか。じゃあ、飼ってみる?」
「いいの!」
お母さんのあまりに軽いノリに驚きつつ、嬉しくて力いっぱい訊いてみると。
「いいよ。その代わりちゃんとお世話してあげるんだよ?」
「もちろん」
やった。一緒にいられる。はやる鼓動をなんとか落ち着かせようと深呼吸していると。
「じゃあ、名前決めてあげないと」
「そうだよね。えっと、名前名前……」
ちらりと猫さんのほうを見る。猫さんは一生懸命にみかんをなめ続けていて。
「オレンジ、は?」
「いいんじゃない? センスあるよ」
みかんの色と、こたつの色。猫さん、ううん。オレンジにぴったり。
「よろしくね、オレンジ」
「ミャン」
今度は鳴いてくれた。みかんから目をそらして私を見ながら。
「オレンジ……いなくなるなんてやだよ……」
目を固く瞑るオレンジ。少しずつ輪郭がぼやけてゆく。溜まる涙のせいで。
「ムギ、そろそろ」
「いやだ!」
お母さんの声に、子どもみたいな反抗をする。もう大学生なのに。
「ちょっとだけ。もう少ししたら触れることもできなくなるでしょ?」
指でそっと撫でる。顔や耳。ひげや背中を。でも感触が違う。水分がなくなったせいか、ぱさぱさとしていて。それが、命のないことの証だと言っているようで、ますます視界が曇ってゆく。
「長生きしたよな。我が家にきたときは既に大きかったし、それから十年も生きたんだよ?」
お父さんが必死でフォローしてくれる。だけど、今の私には全然響かなくて。
長生きした。そうかもしれない。だいたい猫の寿命は十年前後っていうから、オレンジは長生きしたほうだと思う。だけど。
「十年、あっという間だった」
本当に、いつのまに大学生になっていた。だって、今でもすぐに思い出せるから。オレンジとの日々を。
春は私たちの出会いの場、こたつを解体したね。こたつがなくなったらいなくなるんじゃないかって冷や冷やしたけれど、結局一緒にいてくれて嬉しかった。
夏はぶるぶると震えていたね。エアコンの冷たい風で。オレンジって寒がりなんだって新たな発見ができたよ。
秋はまたこたつをつけたね。あったかいとミャンが共鳴して。
冬はとにかくずっとごろごろしてたよね。転がりすぎて二人してお母さんに怒られて。
そんな季節をただ繰り返していただけ。私もオレンジも。だから私にとっては、どうしても短く感じてしまう。オレンジに一目惚れしたあの日からの年数が。
一目惚れして一緒にいるうち、オレンジは私にとって。
「そろそろ……」
火葬を担当するスタッフさんからの声かけに、私は渋々オレンジから離れた。スタッフさんはオレンジの入ったキャリーバッグを持っていってしまう。
「オレンジ……」
記憶に焼きつけるため、目に力を入れて最後、見守った。スタッフさんの背中と、眠るオレンジを。ううん、恋人を。
「今はまだ受け入れていないかもしれない。でもいつか心の整理ができたら、会ってあげてね」
「うん……」
画面越しのお母さんに大きく頷く。まだそうできるとは思っていないけど。
タップして通信を切ると、また涙が溢れた。大好きだったオレンジという恋人を失って。
これが失恋、なのかな。世の中の失恋した人たちってみんなこんな気持ち?
お別れなんてしたくなかったのに。そう思ったって彼は戻ってこない。ただ彼と過ごした月日が頭の中で蘇るだけ。
寒いなぁ、なんて換気で窓を開けているせいだけれど。
彼との関係が終わったとしても世界は終わらない。肌を滑る空気の冷たさがそれを物語っている。
こたつ出そうかな。
その温もりが今のこの気持ちを溶かしてくれるかもしれない。消えなくても、小さくなってほしい。
立ち上がり、表面の紙が少し剥がれた押し入れを開けて分厚い毛布を腕いっぱいに抱く。
丸いテーブルの天板を外して、脚部分を毛布をかけることで覆いつくし、天板をセットするとあっという間にその様相を見せる。線も通し、いざ電源をつけようとするも手を止めた。
いけない。こたつといったらあれがないとと、私は歩き出す。あれを買おうと外と隔てる扉を開けるために。
そして帰ってきたら、また出会えたんだ。
「ミヤン」
終わりかけていた私の世界に癒しをもたらしてくれる、ミカンに。
目を開けると、視界が赤や黄色にちかちかとした。それが収まり、写真に目を向ける。
やっぱり、そこには白い私の恋人がいるだけ。写真から抜け出してくれたらなって、子どもみたいな期待もすぐに散ってしまう。
今も寂しい。それは変わらないし、きっとこれからだってそう。でもお母さんが言ってた心の整理は自分の中でできたと思いたい。ううん、できた。
仏壇のところには、よく見るとお供え物があった。ふふ、と心の中で笑う。
「ミヤン」
一瞬オレンジだと思い、だけど黒い姿を確認してその思考をすぐに払った。
「おいで」
お父さんのときとは違い、速やかにミカンは腕の中へやってきてくれた。ふわふわもこもこと、触っているだけで癒される毛並み。
「大丈夫?」
今度はミカンが人の言葉を話したと思い、だけど人の姿を確認してその思考をすぐに払った。
「うん。もう、大丈夫だよ、お母さん」
「その子がいるものね」
「うん!」
そう、私にはミカンがいる。だから、きっと。
「そうだ、そのみかん食べてもいいよ。今朝置いたばっかりだから」
お母さんの視線の先はお供え物。オレンジへの贈り物。
「それ、いいの?」
「いいわよ。オレンジも、ムギが美味しくみかんを食べる姿、見たがってると思うよ」
「そうかな」
「そうよ。あ、ミカンちゃんにもあげたら。ミカンって名付けてるくらいだから、みかん好きでしょ?」
「それはもちろんだよ」
「じゃあ食べなよ」
ミカンちゃんまたね、と挨拶してからお母さんは和室を出て行った。
それからじっとお供え物のみかんを見つめた。あれはオレンジのみかん。でももう、オレンジがあのみかんに触れられないのなら。
「食べる?」
「ミヤン」
ゆっくりと確かなミカンの鳴き声が響いた。



