……いなくなっちゃった。
 でも、頭にはまだ、手の温もりが残っている。幻想ではなかったと、自分自身が証明している。
 湯呑みに視線を戻し、星屑のようにきらめく生姜湯を飲み干したあと、ごちそうさまと手を合わせた。

 小学生になって、学校や習い事で来る頻度が減って、高学年になる頃には祖母とほとんど会わなくなっていた。時間を作って、もっと顔を出せばよかったと、後悔していた。
 伝えておきたかったことが言えて、少しだけ気持ちが晴れた気がする。

 一冊の分厚いノートが、カウンターの上へ置かれた。年期の入った黄色の表紙は、まるでお月さまみたいだ。

『カフカ殿。こちら、よろしければ』

 ぽてまろから受け取ったノートのページをめくると、びっしりとレシピが書かれている。飲み物やスープ、ご飯からデザートまで、何十種類と残されていた。
【カフカの大好物。生姜は少なめ、はちみつ多め】
 すべての料理に、コメントがつけられている。
 私が泊まりに来ることを、楽しみにしていてくれたことが痛いほど伝わってきた。
 ノートをギュッと胸に抱きしめて、私は蚊の鳴くような声をもらした。

「……おばあちゃん、ありがとね」


 ぐすんと鼻をすすったとき、視界に人影が入ってきた。隣りの椅子に、誰かいる。
 三十代くらいの女の人だ。ボサッとした茶色の髪を後ろでまとめ、控えめな目元は物憂げ。ほんのりとした桃色の唇からは、カリカリと爪をかじる音が漏れている。

「……どうしよう、どうしましょう。最悪だ……終わりだわ」

 なにやらブツブツとつぶやいている。
 さっきまで誰もいなかったはずだ。あまりの驚きに声も出ず、目をひん剥いてその人を見ていた。

『ようこそ。ご来店いただきまして、ありがとうございます。ちょうど今し方、二年十一ヶ月と二日ぶりに開店いたしましてな』
「ぽてサ〜ン、聞いてくださいよ! 大ピンチなの! 盗まれちゃったんです、大切な我が子ぉ」

 目の前のぽてまろへ泣きつくように、その人が声を荒げた。

「えっ⁉︎」

 思わず私も反応する。だって、とんでもない言葉が耳に入ってきたから。

「あら、どうも。ごめんなさい、うるさくて」

 涙まみれの目をゴシゴシと擦りながら、女の人は頭を抱えた。
 その様子を見て、私は静かに首を横に振る。

「あの、盗まれたって、聞こえて」

 心臓の音が速くなっていく。誘拐──事件──不穏なワードが頭を埋め尽くす。

『ナツメ様。よろしければ、お聞きしますぞ?』

 のほほんとした口調のぽてまろとは対照的に、私は手に汗を握っていた。ここが現実なのかさえ、今だにわからないままだけど。