秋良が帰る時に、駅まで送った。秋良はまーくんに嫌われている、と笑っていたけれど、今まで知り合いじゃないし、関わったこともないと言う。
 ぼくはまーくんが、理由もなしに人を嫌うと思えなくて、ぐるぐるといろいろなことを考えてしまう。
「でも、ボクも悪かったな。まーくん、なんて馴れ馴れしく呼んでさ。そういうの、イヤな人もいるじゃん」
「そうかなぁ、そうかもしれないけど、でも……」
「気にすることないって、また遊びに行くから」
「うん」
「こっそり行くよ、まーくんに見つからないように……あ、またまーくんって言っちゃった。じゃーねユーキ、かなり早いけど、よいお年を〜!」
「よいお年を〜」
 手を振りながら、ホームへと続くエスカレーターを上がっていった秋良が見えなくなるまで見送って、自転車に跨った。スーパーに寄って帰ろうかな。気分転換になるし。
 そう思ってスーパーまで行ったけれど、近頃はひとりで買いものすることなんてほとんどなくなっていて、まーくんと一緒に何を食べたいかお喋りしながら食材を選ぶことが増えていたから、カゴを持った時の手のひらに違和感があるまでになっている。カゴはカートに置いたり、まーくんが持ってくれたりで……まーくんは「おれも食うから」と言って買い物の代金を折半してくれることが多いのに、いざ食べると「手間賃。原価だけのレストランなんてないだろ」と言って五百円くれる。しかもしかも食べ終わったらお皿洗ってくれる。
 ぼくは空っぽのカゴを持て余すように抱えながら、ぼく、やっぱりまーくんに甘えすぎじゃないかな。タブレット、借りっぱなしだし……。
 ぼくは結局、何も買わずにスーパーを出た。毎日、まーくんとご飯を食べるのが当たり前になっていたのだ。でも、今夜は? いつもならまーくんが当たり前に部屋に来てくれて、一緒に買いものに行って、一緒に帰ってきて。バイトもない日に、ふつうはひとりでどう過ごすんだろう?
「……」
 まーくん、今夜はどうするのかな。考え過ぎて、五階分の階段がいつも以上に長く感じる。
 重い足取りで、どうにか四階までたどり着く。ぼくは今日この後、まーくんとうまく話す自信がなかった。ちゃんと聞けばいいのに。さっき、どうしたの? って。何があったか知らないけど、困ったことがあるなら相談して、って。
 まーくんにだって、うまくいかない日とか、絶対あるはずだし。相談してもらって、ぼくにできることがあるのかっていうのはさておき。
「ケーキあるんだ、持って行こう、まーくんに」
 何もなかったようにしたほうがいいかな? もしまだ、まーくんが少し機嫌悪そうな感じだったらどうしよう。まーくん、朝は普通だった。何しろまーくんとぼくは一緒に寝て、一緒に起きているのだから。
 だとすればまーくんの様子が変だったのは、やっぱり……。
 今日もすれ違った、まーくんのカノジョ。
 ぼくはまーくんの話を聞くのが怖くなった。まーくんの口から、カノジョの話を聞きたくなかった。そんな理由で、悩んでいるまーくんの力になれないっていうんなら、ぼくって最低じゃないか? 自分のことばっかりで。
 自己嫌悪で、さらに足取りが重くなってしまう。今夜バイトを入れておけばよかったかも、なんて思う。ほらまた、つらいことからは逃げてばっかりで……。
 屋上に出るまでは、共用部は完全に屋根つきの室内だ。もし外階段や外廊下だったら雨の日に大変だから、室内でよかったと思う。窓ガラスを通り抜けてくる光の加減も、毎日違う。その光の上に、影が落ちている。
 顔を上げると、まーくんが立っている。
「おかえり」
「……ただいま」
 あんまり気にしている感を出すのも、変だな。そう思って普通にしようとすればするほど、なんだか声の出し方まで忘れたみたいに静かになってしまう。
 まーくん、怒ってるかな。いや別に、ぼくに怒っているとか、そういうわけじゃないのはわかるんだけど……。
 俯いていた顔を少し上げて、ちらっとまーくんを見る。今までに見たことのない顔をしている。なんかちょっと落ち込んでいるみたいな。
「……まーくん」
「……ごめんな、さっき」
「ううん、あの、秋良も、あ、秋良ってさっきの、ぼくの友だち……気にしてないって、言ってた……」
「……」
「…………まーくん」
「うん」
「なんか、あった?」
「……いや、別に、何も……」
 ウソだよね!? ぼくは、まーくんにほんのちょっとも頼ってもらえないことが、なんだかショックだった。さっきまでカノジョの悩みは聞きたくないだとか、自分勝手なことをぐちゃぐちゃ考えていたのに、いざ言われなければそれはそれで嫌だなんて、ワガママ。
「ウソでしょ」
 ぼくが言うと、まーくんはちょっとびっくりしたような顔をした。それから視線を逸らして、「嘘じゃない。ないよ、なんも」と言う。
 ぼくはなんだか悲しくて、いらいらぐちゃぐちゃもやもやして、ぼくってホントに、ほんっと〜にまーくんのこと好きなんだ、と思った。
 まーくんのことが好きで、今まで自分でも知らなかったぼくが出てきたんだ。ものわかりが悪くて、聞き分けも悪くて、ワガママで強欲な、超イヤな部分が!
 ぼくはまーくんの、特別でもなんでもないのに。それなのにまーくんのことをひとり占めしたいとか、考えていること全部知りたいとか、誰にも取られたくないとか考えているんだ! 身の程知らず!
 まーくんにそんな部分を知られるのは、もちろん嫌だ。嫌なのに、どうしても自分のことをうまくコントロールできなくて、「ウソだ、だって秋良は、さっきのぼくの友だち、まーくんと喋ったことないって言ってた。関係ない人にいきなり嫌な態度取るわけないし、でももしかして何かあって機嫌悪いのかな? って心配して……」と、思っていることをそのまま言う、みたいなまとまりのないことを喋ってしまう。
 まーくんはしばらく黙ってぼくの話を聞いていたけれど、やがてすごく言いづらそうに、「……それは……おまえが、おれ以外の奴を部屋に呼んだり、仲よくしてるのが、嫌だったから……おまえのせいでも、おまえの友だちのせいでもない、本当に悪かった」と呟いたけれど、ぼくはそれを信じられなかった。
 と、いうか。まるで騙している恋人を丸め込むみたいな、そんな言い方で、ぼくは、(まーくんって、ぼくがまーくんのこと好きなの、気づいてるんだ)と思ってしまった。
 ぼくはなんだか恥ずかしくて、どうしたらいいかわかんなくなって、「なんで。まーくんは、カノジョいるじゃん」と言った。
「は?」
「まーくん、カノジョいるじゃん。それなのに、なんでぼくのこと、特別な子みたいな言い方するの」
「いねーよ、カノジョなんて」
 いや、絶対ウソじゃん!! ぼくはついに、「いつも背の高くてきれいなお姉さん、部屋から出てくるじゃん!! カノジョじゃなかったら、なんなの!!」と叫んだ。
 五階フロア。もはや、修羅場だった。ぼくは恋愛経験がないため、修羅場なんてもちろん経験したことがないから、正しくこの状態がそうであるのかは、ちょっとわからないけれど。
 まーくんは、まっすぐぼくを見られない。まーくんらしくない狼狽え方で、目線がふよふよ、金魚みたいに泳いでいて、「……カノジョじゃない。あれは……」と口ごもった後に、「あれは、ねーちゃん」と言った。
「まーくんのウソつき!! お姉ちゃんいないって言ってたじゃん!! ぼくがバカだからそんなんで騙されると思ったんでしょ!! 知らないよもう!!」
「ユ、」
 ぼくは自分の部屋に飛び込むと鍵をかけて、べしょべしょに零れてくる涙をそのままに、玄関のタイルにめっちゃ鼻水が落ちてくるのをしゃくりあげながら睨みつけていた。
「う、うっ、ぐすっ、ひっ、」
 ぼ、ぼく、なんでこんなに怒ってるの?
 怒り慣れていないから、なんでこんなことになってしまったのか、も謎である。
 これからどうしよう。こんなに怒ることないのに。どうして。どうして……。
「で、でもまーくん、あの女の人がおねーちゃんっていうのは、ウソじゃん」
 う、鼻水。きたない。

        *

 部屋でひとりで過ごすのは久しぶりで、泣きすぎと鼻のかみすぎで目の奥や頭の中が痛んだ。布団に潜り込むと、ちょっと寝た。悲しすぎて、お腹なんて空かなかった。
 何度か、ピンポンが鳴ったけど無視した。
 このまま、まーくんと気まずいままになったらどうしよう。ぼくはぐるぐると後悔やら、悲しさやらやるせなさやら、そういったありとあらゆる感情──ほぼ初めてのものばかり──に押しつぶされて、ベッドの上でぺっしゃんこだった。
 そうして泣き疲れて、食欲はないけどお腹が空いてきて目が覚める。さっきまでは「悲しすぎて、お腹なんて空かなかった」と言ったけれど、心と身体はそういう時あんまり関係ないみたいで……。
 電気がついている。ぼくが泣きまくって腫れて重くなった目蓋を開くと、ベッドの横にまーくんが座って、ぼくを見ていた。
「……まーくん」
「……腹鳴ってるぞ。今日はおれが、なんか作るから……」
「……」
 ぼくは、「えっ、なんでぼくの部屋にいるの」と、まーくんに言った。
「ベランダ、繋がってるだろ。おまえ、いつも窓開けっぱなしだぞ」
「なんで勝手に入るの!」
「おまえが出てこないからだろ!」
「なんで! へん! 勝手に入ってこないで! だめ!」
 まーくんがぼくに何もしないってことはわかってるけれど、それはそれ、これはこれ。
 ぼくが暴れると、まーくんはぼくのほっぺたを大きな手のひらで包んで、「おまえ、言っとくけどな。おまえが思ってる以上に、おれはモラルがないぞ。おまえが聞いたらいっぺんに嫌いになるような倫理の男だぞ、おれは。でもな!」と言った。
「……でも、おまえに嫌われんの嫌だから。話聞いてくれ」
「……」
 ぼくが、すん、と鼻を啜ると、まーくんはぼくを担いで、ベランダへ移動した。窓からまーくんの部屋に行くのだ。
 ぼくは毎晩眠る時にそうしてもらっているみたいに、まーくんの腕に包まれると安心してしまう。ささくれ立った心が、落ち着くみたいだ。
「……ウソついたのは謝る。おまえが言ってた、アレは確かにねーちゃんじゃない。おれにねーちゃんはいない」
「……かのじょ?」
「それも違う」
 まーくんの部屋に入ると、例の「カノジョ」がまーくんの部屋のリビングで、ゲームをしていた。そうして顔を腫らしたぼくを見て、笑った。
「おまえが言ってたカノジョって、コイツだろ」
「え……うん、そうだけど……」
 まーくんはぼくをクッションの上に下ろして、「隠してて悪かったよ。おまえがそんな誤解するなんて、思ってなかったから……」と言った。
 そんなに改まった雰囲気を出されると、緊張してしまう。
 え、でもカノジョじゃなくて、お姉ちゃんでもないんなら、なんだろう。
 まさか。ぼくは、「えっ、まさか……めちゃくちゃ若く見える、おかあさま……!?」と言った。どう見ても、まだ二十代半ば。うちのお母さんとはぜんぜん違うけど、でも、家に普通に上げられる関係で恋人じゃないんなら!?
 カノジョ(名前を知らないので、こう呼ぶしかなかった)は、「あはははは!」と豪快に笑った。そうしてカッコイイハスキーボイスで、ぼくに言った。
「昌弘の兄です。うちの愚弟が、ごめんね~」
 ぼくは、今まで自分がいかに狭い世界で生きてきたのかを思い知った。



 まーくんのお兄ちゃんは、まーくんより二歳上。すでに就職していて、女の人の恰好は仕事でしているらしい。名前は真尋さん。まひろと、まさひろ。まーくんがぼくのためにカレーを作っている間、ぼくにいろいろと教えてくれた。
「すごい。ほんとに、女の人にしか見えない……」
「趣味じゃなくて仕事だからねぇ。それに、昌弘は父親似なんだけど、おれは母親似でさ。骨格も華奢だから。昌弘なんかデカくってさ、あれはどうがんばっても女の人には見えないもんな~」
 まーくんは炊き立てのご飯を皿に盛りながら、「オイ真尋! ユーキの前でタバコなんか死んでも吸うなよ!」と言った。
「オマエ、兄ちゃんに向かってなんだよその口の利き方は! てか、おれのカレーは?」
「ねぇよ、食いてぇならテメェで作れや」
「ハァ~!? ま~くんよぉ、おまえがそんな態度なら兄ちゃんにも考えがあるからな、なぁユウキくん。昌弘なんかに目ェつけられてかわいそうに。おいち? カレー。目が腫れてかわいそう。そうだ、おれが買ってきたアイスやるからな」
 ぼくはまーくんの作ってくれたカレー、まーくんは辛口が好きなのに、ぼくの好みに合わせて中辛で作ってくれたカレーを食べながら、世の中いろんな兄弟がいるんだなぁ、と感心しながらふたりの兄弟げんかを見ていた。
 まーくんの部屋、あったかい。
 夏の間は壊れていたエアコンは、修理した甲斐あって暖房の効きもいいみたいだ。
「大体昌弘、おまえさぁ、やってることがストーカーなんだよ。キモいって。ツラがいいからってなんでも許されると思うなよ、倫欠野郎が……なぁユウキくん、いいこと教えてあげる」
「ハイ」
 真尋さんは、冷凍庫からぼくのために高級なカップアイスを取り出してくれた。うれし~。ぼく、これ好きなんだ。バニラ。
「昌弘が、エアコン壊れたって言ってユウキくんの部屋に転がり込んでたみたいだけど。あれ、ウソだから」
「へ?」
 まーくんが、「オイ!!」と叫んで真尋さんを止めようとしたけれど、もう遅い。
「この部屋、ぜんぜんクーラー効きまくってたから。きみとお近づきになりたいからって、そういうウソを平気でつく男なんだ、昌弘は~。人の心がない、我が弟ながら~!」
 ぼくは驚いて、手のひらで包んでやわらかくしているアイスクリームの冷たさも、ほとんど感じないくらいだった。
「え、えっ? なんで!?」
「それだけじゃない。これは一発アウトだから、遠慮なく縁を切っていいと思うんだけどな、ユウキくん。昌弘のタブレット、あるだろ。あれな」
 まーくんはもう観念したのか、床に正座して俯いていた。なんか、武士みたいだった。切腹する前の……。
「ユウキくん、きみ、SNSをスマホと連携させてるだろ。友だちとのラインとか。昌弘、それ全部見てるから! それでさ~、きみと仲のいい友だちに嫉妬してさ~バカだろ? 見捨てていいからね~警察に通報してもいい。犯罪だよなぁ、そう思うだろユウキくん」
「……まーくん……」
 ぼくは、切腹する前の武士みたいになっているまーくんに、「それ……ホント……?」と聞いた。
「……ホント……」
「な、なんでそんなこと……」
 ぼくのドン引きした声が、まーくんにグサグサ刺さっているようだった。
 まーくんは、ほとんど床にくっつくくらい、頭を下げていた。
「ぼく、まーくんに言えないことなんて何もないのに。言ってくれれば……」
「……ユウキ」
「なんで?」
 まーくんは言った。
「……おまえのこと、好きだから……いや、マジで悪いと思ってる、思ってるんだけど、おまえが好きで、誰にも取られたくない」
 ぼくは、まーくんのつむじを見ている。
 まーくんが悪い。まーくんが悪いけど、なんか今まで思っていたまーくんとは違う、ちょっとダメで不器用なところとか、かわいいな、と思ってしまう。
 まーくん、ぼくのこと好きなの? ぼくと同じように? でもさ、それならさ、それなら……。
「それならウソつくより、そう言った方が早くない!?!?」

 それからぼくとまーくんは、長い話し合いに入った。
 それはそれは長い。一晩かかるような話し合いだった。
 真尋さんは、我関せずでゲームをしていたけれど、夜中に連絡が来て、お客さんと会う、と言って出かけて行った。
 話し合ううちに眠くなって、いつものようにまーくんのベッドでくっついて眠った。
 一晩かけて話し合った割に、ぼくたちの関係はさほど進展していない。お互い好きどうしだってことが、わかっただけだった。
 その頃にはぼくはもう怒っていなかったけど、まーくんはぼくの信頼を取り戻すために、これからなんでもする、と言った。もうすでにまーくんになんでもしてもらっていたぼくは、これ以上どうなってしまうのだろうか。
「……おはよ。もう夕方」
「……まーくん」
「うん」
 ぼくはまーくんに抱きしめられて、昨夜のカレーの残りが食べたいって思った。
 ぼくはまーくんに甘えてばかりだ。でもまーくんも、ぼくが甘えると嬉しいって思うって、言ってくれた。
「……まーくんって、恋するといつもこうなの?」
「わかんねー。おまえが最初だし……」