「すぐ修理できたの? 冷房」
 ぼくは自分の部屋で荷物を片づけると、まーくんの部屋に行った。
 まーくんの部屋の冷房はフル稼働で、汗もいっぺんに乾く涼しさ。
 まーくんは冷蔵庫の中のアイスコーヒーと牛乳を混ぜてくれる。ガラスのマドラーでかき混ぜながら、「なんか、すぐ直ったよ。壊れてなかったのかな。配線とかかもな」と言った。
 ぼくはそれを聞いて、少しホッとした。もし完全に故障で、新しいものにつけ替えるのに時間がかかる、なんてことになっていたら。
 もしそうなっていたら、まーくんはどうしたかな。かなり熱帯夜だったと思うから、ガマンは現実的じゃないし(命に関わる暑さなのだ!)友だちの家に泊まったかな? それとも……。
「ほい、お待たせ」
「ありがと」
「おまえの地元のお菓子、うまいね」
「ホント!? これすごいマイナーなんだけど、おいしいよね〜」
 五階の窓から見える空。ぼくとまーくんの部屋からの景色は、ほとんどおんなじだ。
 ぼくはまーくんに、地元の話をした。
 お姉ちゃん。姪っ子。昔から仲のいい、三人の友だちについて。
 まーくんはすごく聞き上手だ。ぼくはわかりやすく話すのがヘタだなっていつも反省するけれど。
 友だちに、好きな人できただろって言われたことは、内緒にしておくことにした。ぼくは顔に出やすいほうだから、まーくんに隠し事なんてできるとは思えないけれど。
「いいな」
「え?」
「おまえとちっちゃい頃から仲がいいなんて。いいな、って思って」
 まーくんとぼくは、生まれ育った場所が違うのだ。たまたま同じ大学に通うことになって、たまたま同じマンションに住むことになって、たまたま部屋が隣同士。偶然が積み重なって、今まーくんと一緒にいることができる。
 ただの大学の同級生だったら、こんなに毎日長い時間を一緒に過ごすような関係にはなれなかったかもしれない。
 ぼくはきっと、大学で時々見かけるまーくんのことを見つけられると思う。きらきらして、憧れて……こっそり好きになったと思う。
 でもぼくみたいな、どちらかというと大人しくて目立たないタイプは、見つけてもらう自信がない。だからぼくは今のこの状況が、すごくラッキーなことなんだ、ってわかっている。
 今夜からしばらく、まーくんの部屋に泊めてもらう。お互いの部屋で交互に過ごせば、冷房費の節約いなるからだ。
 でも本当は節約より、まーくんと一緒にいられることのほうが嬉しい。
 まーくんの部屋のベッドは、なんだかいい匂いがした。女の子の匂いかな、と思って少しドキッとしたけれど、まーくんが「昨日洗ったんだ。柔軟剤、匂いキツいか?」と言ったので安心する。
「ううん、いい匂い〜」
「そっか。なんか、おまえっぽいと思って買ったんだよな。新しいやつ」
「ぼくっぽい?」
「なんかおまえ、ちょっとミルクっぽいじゃん。匂いとか……」
「まーくん、ぼくのこと二歳だと思ってる? うちの姪っ子が二歳なんだけど、まだ赤ちゃんっぽさあるよ」
「あっはっは、思ってない……いや、どうかな」
「え〜!?」

 大学に入って初めての夏休みは、そんな風に過ぎていった。
 まーくんは夜、ほとんど眠っているぼくの髪を撫でてくれる。ぼくはまーくんの心臓の音を聞きながら、まーくんを好きだと思う。好きで、好きで、もう止められないくらいに。
「……妬けるな、おまえの友だち。おれの知らないおまえのこと、知ってるんだもんな」
 夢の中で、そんな声を聞いた気がした。夢だと思う。ぼくよりもずっと友だちがたくさんいるであろうまーくんが、妬く理由なんてないからだ。
 昔のまーくんは、どんな感じだったんだろう。会いたいと思っても会えない、昔のまーくん。
 昔のまーくんを知っている人たちに、少し嫉妬してしまう。妬けるな、って思ってしまう。
 好きだな。大好き。そう思えば思うほど、ぼくの心はどろどろしてくる。嫌な奴になっていくみたいで、落ち込んでしまう。

        *

 夏季休暇明け、講義で久々に顔を合わせた大学の友だちと、帰省土産の交換。
「これ、なに〜?」
「いのししジャーキー。硬いよ」
 ぼくはもらったジャーキーを開けて、とんがった歯のところでちょっと齧ってみた。確かに硬いけれどおいしい。
「どうだった? 実家」
 秋良が言った。ぼくと秋良は選択した講義がほぼ被っているので、自然と仲良くなった。
 大学にはいろんなタイプの子がいるけれど、秋良とはなんとなく波長があって、きっと地元が同じでも友だちになったと思う。遼平や、健斗や蓮に混ざって秋良が入る五人組を想像しても、まったく違和感がない。いつか地元に連れて行って、三人に紹介したいような空気感。
「楽しかった。なんか食べ過ぎて太った気がする。実家ってさ、無限に出てくるんだもん。食べものが……」
「ユーキ、何日地元帰ってたの?」
「十日」
 秋良は、「十日だけ? ボクなんか、ほとんどずっと地元にいたよ。ホームシックになっちゃってさ」と笑う。
「……」
 確かに家族にも、もっとゆっくりしていけば、なんて言われたけど。
「バイト始めたから、ちょっとシフト入れてたんだ」
「おっ、何してんの?」
「ファミレスのホール」
「いいじゃん。食べに行くよ」
「来て来て。あ、クーポンあるよ」
「やった〜」
 まだまだ暑いというのに、気づけばバイト先のメニューは秋のラインナップに変更になっている。スマホに届く、最寄りスーパーのデジタルチラシ。いち早く出てきた栗。梨。まだ少し高いな。鮭ときのこが安い。今夜、ホイル焼きにしようかな?
 まーくんが払ってくれる「お食事代五百円」はかなり貯まってきて、瓶の中身は太陽の光を跳ねて銀色に光る。
 あれがいっぱいになったら、まーくんに何かプレゼントを買おう。まーくんはきっとぼくの欲しいものを買えって言うだろうけれど。

「だっておまえ、おれの食費もかなり浮いてるぞ。おれ、自炊あんまりしねーから。外で食ったら五百円じゃ収まんないぞ、こんなうまいもの」
「おいしい?」
「かなり」
「よかった〜」
 夜、予定通りに特売の鮭ときのこでホイルバター焼き。
 もうすぐ柿とか出てくるだろうな。食べたいなぁ、柿。
「ぼくの実家、庭に柿の木があったから食べ放題だったけど、今年はスーパーで買わなくちゃ」
「みかんは?」
「大好き」
「箱で買うか。ひとり暮らしだと腐らせる気がしてたけど、ふたりで食えばいけるだろ」
 残暑が厳しい夜に冷房ガンガンで、冬の果物の話。
 ぼくは楽しくなって、ニコニコで味噌汁を飲んだ。きのこの残りを入れた味噌汁。
 ぼくたちは、一週間おきにお互いの部屋で過ごして、そのまま寝るのが習慣になっている。一緒に過ごすのはいいことがたくさんあるのだ。光熱費だけではなく、いつでもちゃんと掃除して片づけておこうというモチベーションを保つことができるし。
「おまえ、いつも笑ってる」
「んふふ、早くみかん食べたい」
 まーくんは唇を片方だけ持ち上げるいつもの笑い方で(かっこいい。ぼくも真似しようとして、鏡の前でやってみるけどうまくできないのだ)「おまえって、かわいいよな。全部」と言う。
 自分がかわいいかどうかはわからないけれど、まーくんにそう言われるのは嬉しい。まーくんがお皿を洗ってくれて、ぼくはまーくんに借りているタブレットでずっと箱入りみかんがいつから買えるか検索していた。えっ、ぜんぜん夏も買えるんだ。ハウス栽培みかん。でもやっぱり、冬はこたつでみかんって感じだな。ぼくの部屋のテーブル、こたつになるし……。
 バイト代を貯めて、冬くらいにはタブレット買おうと思っているけれど、まーくんにはこれを使えばいいんだから買うな、って止められている。
 ぼくたちふたりで同期して使っている、スケジュール管理アプリ。ぼくは講義のコマの他に、バイトのシフトとか友だちとの約束を入れたりしているけれど、まーくんは講義関連のことだけで、プライベートの予定は入っていない。
「ユーキ、プリン食おうぜ」
「うん!」

        *

 いつまでも暑い。
 と、思っていたのに、涼しくなり始めたら寒くなるのは一瞬だ。過ごしやすい季節はあっという間に終わってしまう。
 バイトがない日の夕飯は、鍋。もう、鍋、おでん、鍋、鍋、おでんって感じ。何しろぼくは一年中鍋を食べるのだ。野菜もたくさんとれるし、おいしいのに作るのカンタンだし。
 まーくんは、十一月に入って早々に出したぼくの部屋のこたつを見て、すごいテンションが上がっていた。まーくんの実家は鉄筋のマンションで、すごく暖かいから真冬でも小さなヒーターひとつで済んでいたらしい。
 今住んでいるマンションはやっぱり古いし、すごく暖かいとは言えない。こたつ、ホットカーペットに電気毛布。箱で買ったみかんは、半分ずつまーくんの部屋とぼくの部屋に置いてある。何しろしょっちゅう行き来しているからだ。夏が終わっても、ぼくたちが夜どちらかの部屋で一緒に寝るのは続いている。
「みかんって、こたつで食うほうが気分出るな」
「うん。なんでだろうね。すりこみ?」
 そうそう、話は変わるけれどぼくの大学の友だちである秋良は、ついこの前が誕生日で十九歳になった。
 ぼくの部屋で、ケーキを食べてお祝いしよう、ということになった。秋良は冬期休暇はまたほとんど実家に帰省の予定らしい。今のうちに一緒に遊ぼう、という話だ。

        *

「ここのケーキ、有名なんだよ。チョコが。絶対チョコ!」
 ぼくのバイト先のファミレスからさほど離れていない場所に、有名な洋菓子店がある。フランスの有名なコンテストで賞をとったというパティシエがやっているお店で、売り切れたら即終了。もちろん買うためには並ばないといけない。
 ぼくと秋良は一緒にケーキのための列に並んだ。
「絶対チョコ」
「モンブランおいしそう。チーズケーキも」
 まーくんのぶんも買って行こう、と思った。店の扉には、『本年度のクリスマスケーキのご予約は終了いたしました』というポスターが貼りつけられている。まだ一ヶ月以上先なのに、すごいなぁ。
「ユーキんち、楽しみ」
「エレベーターないからね」
「本当に毎日五階分上り下りしてんの? 足腰鍛えられるな。忘れ物したことある?」
「何回もしてる。スマホでしょ、財布でしょ……自転車のカゴに買ったもの置きっぱなしなんてしょっちゅうだし……」
 マンションのエントランスは暗くて天井が低い。つやつやとしたタイルが壁一面に敷き詰められていて、レトロな銀色のポストが鈍い光を放ちながら鎮座している。
 秋良と一緒に五階を目指す。途中、制服を着た宅配業者さんとすれ違う。すごく重たい荷物がある時、やっぱりエレベーターがないと大変だと思う。
 最寄りのスーパーは、米や調味料がなかなか安い。いつもまーくんと一緒に買いに行って、ふたりで手分けして運ぶ。通販してもいいけれど業者さんに悪いなと思うし、それにぼくはまーくんと一緒に階段を上り下りする時間が好きなのだ。
「冷蔵庫とか洗濯機も運んでもらったの?」
「そう、申し訳ないことに……でも業者さんは、階段の幅も問題ないし、五階くらいなんてことないですよって笑ってくれたけど……」
「幅が平気なら、確かにそっか。たまにさ、すご〜い狭い路地からしか入れないようなアパートとかあるけど、どうしてんだろうね、ああいうところ。秘密基地っぽくてさ、住んでみたいって憧れるけどな〜」
 雑談しながら、上る。大切なケーキを持っているのだから、慎重に歩く。
 四階にさしかかる。上から下りてくる人がいる。上の階はもう、まーくんとぼくしか住んでいないフロアだ。屋上を使わない限り、ぼくたちや宅配業者さん以外の誰かが下りてくることは滅多にないんだけど……。
「……あ」
 まーくんのカノジョ。最後に見かけたのは、夏休みにぼくが帰省した日だ。
「こ、んにちは」
 ぼくが頭を下げると、彼女も微笑んで、会釈を返してくれた。すらっと背が高くて、(ぼくよりも高い)まるでモデルみたいなコートを着ていて、すごく似合っていた。すれ違いざまに香る香水。まーくんからも、したことがある香水の匂い。
「おっ、やっと五階〜! この上が屋上? ドラマみたいなマンションだな〜」
 秋良が、踊り場でぼんやりしていたぼくを振り返って呼ぶ。
「ユーキ? どーした?」
「なんでもない! すぐ行く」
 ぼくが五階のフロアまで上がると、秋良が屋上への階段を覗いていた。
「エレベーターさえあれば、言うことなしって雰囲気。よく使うの? 屋上」
「うん。洗濯物干すから」
「ビルの屋上に洗濯物って、ドラマじゃん。昔の……」
 その時、ぼくの隣の部屋の扉が開いた。まーくんだった。まーくんが隣の部屋から出てくるのは当たり前だ。だって、住んでいるんだから。
 でもぼくは、さっきカノジョとすれ違ったせいで、ああ、部屋で一緒にいたんだ、なんて当然のことに傷ついてしまって、まーくんがいつもぼくに優しいのは特別な意味なんて何もない、ただの友情でしかないんだっていう真実に打ちのめされてしまう。
「あ、まーくん」
 秋良が言った。秋良は人懐っこいタイプだし、ぼくがしょっちゅうまーくんの話をしているからそう呼ぶのが移っただけで、悪気なんてぜんぜんない。
 でもまーくんは、なんだか機嫌が悪そうだった。ぼくが知る限り、まーくんがこんなにピリピリしていたことなんて一度もない。
「……誰だよおまえ。うるせえな、さっきから」
 秋良はちょっと首を傾げて、「それは失礼いたしました。ボク、ユ~キくんの大学の友だちの秋良です。よろしくね」と笑った。明らかに友好的ではない空気が、見慣れた共有部に充満している。
 ぼくはまーくんが秋良に対してメチャクチャ当たりが強くてメチャクチャ怖くて感じが悪いことにびっくりしてしまって、しばらく呆然としてしまった。
 だって、まーくんはそんな人じゃないのだ。ぼくはそれをよく知っている。パッと見は怖そうでも本当に優しいし、理由もなしに他人を威嚇するわけがないってことを、よく知っているのに。
「まーくん、」
 どうしたの、とぼくが言うより先に、まーくんは扉を閉めてしまった。けっこう大きな音で。ぼくの肩が、びくっ、とするくらいの攻撃力。
「……」
 ぼくがショックで立ち尽くしていると、秋良がぼくの背中を叩いた。
「気にしてないって。それよりルームツアーしてよ、ユーキの部屋」
 秋良を部屋に上げた後、紅茶を淹れるための湯を沸かす。三切れ買ったケーキは、一切れだけ冷蔵庫へ。これは本当は、まーくんに買ってきたものなのだ。本当は秋良を紹介して、まーくんの予定さえ大丈夫なら、三人でケーキを食べたってよかった。
「……まーくん、どうしたのかな……」
 秋良はけろっとした声で、「あ~でも、ボク嫌われてるな~って思ってたんだよな~。まーくんに」と言った。
「えっ? だって、知り合いじゃないでしょ?」
「喋ったことはなかったけど。でも大学で見かけるじゃん。イケメンだから目立つし。ユーキは気づいてなかったかもしれないけど、おれとユウキが大学で一緒にいる時にさ、何回か睨まれたし」
「……そ、それは……まーくんは理由もなしに、そんなことする人じゃないよ……さっきのあれは、どうしたんだろ、何かイヤなことがあったとか……」
 階段ですれ違ったカノジョ。
 もしかして、ケンカでもしたんだろうか。だから……。
 ぐるぐると思い悩むぼくを、秋良は笑い飛ばしてくれる。
「どっちにしろユーキが気にすることじゃないって! ケーキ食べようケーキ! 後で屋上にも連れて行って!」
「うん」
 こたつテーブルの上に置かれているみかん。
 ぼくは、秋良がケーキの後にみかんを剥いて食べているのを見ながら、この後、どんな顔でまーくんに会えばいいのかわからなかった。いつも通りの顔で? それとも、何かあったの、って聞いたほうがいい?

 考えたところで、結局何も思いつかなかった。
 そうしてぼくは昔、イライラしたり悲しかったりした時に、家族や友だちに八つ当たりしてしまったことを思い出す。
 その時ぼくは、何を考えていただろう。何を求めていただろう。
 でも、ぼくとまーくんは違う人間なんだから、何を求めているかも違うんだろう。
 ぼくがどれだけまーくんを好きでも、それはぼくの勝手な感情なんだ。勝手に好きになっている。勝手に……。
「ケーキ、おいしいね」
「うん」
 並んだ甲斐があった。
 冷蔵庫の中の、イチゴのショートケーキ。秋良が帰った後は、どうすればいいかな。