「ユ~キ、ほら、桃剝いたから起きな~」
「ん~~」
 お姉ちゃんの声で、昼寝から起こされた。
 ぼくにはお兄ちゃんの上に、お姉ちゃんもいる。ぼくが末っ子の三兄弟。お姉ちゃんは地元で結婚して、実家のすぐそばに家を買って住んでいるので、帰省すれば毎日のように会うことになる。
 二歳になる姪っ子が、ぼくのお腹の上で寝ていた。かわいいので、背中をぽんぽん、撫でるように叩く。ふと、まーくんもぼくの部屋に泊まっていた時、いつもこうしてくれたな……と思い出す。もしかしてまーくんには、ぼくが赤ちゃんとか二歳とか三歳とかに見えているんだろうか。ありえる。ぼくはもう大学生なのに、高校生はおろか中学生に間違えられることさえあるからだ。
 姪っ子を膝の上で寝かせたまま、お姉ちゃんが剝いてくれた桃を食べる。甘くておいしかった。
「ユウキ、大学どうなの? 都会は楽しいでしょ~」
「うん、お隣が同級生だから、毎日ご飯食べたりして寂しくない」
「いいな~。あたしもしとけばよかったな、結婚前にひとり暮らし。でも気をつけなさいよ、あんた押しに弱いっていうか、お人よしだから……いい人ばっかりじゃないから、騙されないようにね」
「はぁい」
 お姉ちゃんとぼくは十歳違うので、昔から大人と子どもみたいな関係だった。
 まーくんにお姉ちゃんの話をしたことがある。まーくんは、「おれには姉ちゃんいないから、羨ましいな」と笑っていた。

 実家に帰省して、三日目。
 上げ膳据え膳。寝坊し放題で申し訳ないくらい堕落した休日。お母さんはぼくに一通りの家事を仕込んでくれたのに、帰省したらまるでお客さま扱いで何もさせてもらえない。
 ぼくは友だちが少ないほうだけど、ゼロってわけではないので、明日は地元で進学した友だちたちと集まって、ご飯を食べる。
絵に描いたような、すばらしい夏休み。社会人になったら、こうはいかないだろう。
「……」
 スマホを開く。まーくんとのメッセージ画面は、まーくんからの『楽しい? 実家』というメッセージを最後に、ぼくが返信せずに止まっている。昨夜のことだ。
 本当は、まーくんに会えなくて寂しいけど。でもまーくんがカノジョと一緒にいるんなら、あんまり連絡しちゃ悪いような気がして、たくさん返信できないのだ。
 だってまーくんは優しいから、カノジョと一緒にいてもぼくから連絡が来たら絶対に返事してくれる気がする。
 ぼくは嬉しいけど。カノジョは、怒らないかな。ぼくのせいでケンカになったりしたらどうしよう。大きなお世話なのに、そんな妄想を膨らませて遠慮してしまう。
「お父さんがさ、ユウキが帰ってくるからって毎日ご馳走でしょ。今夜お寿司食べに行くって。ダンナも今日は帰り早いから、車出すね」
「えっ、お寿司なの! やった~」
 ぼくは喜びながら、どうしようこの十日間でまんまるに太ってしまったら……と思った。帰った時に、まーくんに「誰だ」って笑われないようにしないとな。
 ぼくは去年の夏と、今年の夏が確かに違うのを感じた。そんなに成長している自覚はないのに、毎日住んでいた時とは実家の空気も違う気がする。
 ぼくの家はもう、あのマンションの五階なんだな、と思う。大学を卒業して、別の場所に住むことになったらまた変わるのかな?
「……大人になるのって、すぐだな……」
 ぼくは爆睡の姪っ子のふくふくした手を触りながら言った。
 麦茶を持ってきてくれたお姉ちゃんは、「ユーキもついこの前までそれくらいちっちゃい気がしてたのに、もう大学生なんて信じられない。あたしも歳とるはずだ」と笑う。

 ぼくは夜、まーくんにお寿司の画像を送った。
『うまそう』
 返信はすぐだ。まーくんは何食べたのかな。聞きたいのに、聞けなかった。すぐにカノジョのことを連想してしまうからだ。外食かな? それとも手料理とか。
「……」
 ぼくって、変なの。いつもこんなこと考えて、やきもち妬いてばっかりで。
 友だちとのグループのメッセージ欄は、明日の計画で溢れている。高校生の頃、しょっちゅう行っていたショッピングモールのフードコートでご飯を食べて、その後ボーリング行って……。
 楽しみ。みんな大学生になって、変わったのかな。
 ぼくはそう考えて、おかしくなった。そんなにすぐ変わんないか。まだ卒業してから半年も経ってないのに!

        *

「ユウキおまえ、東京で好きな人できただろ」
「へっ?」
 ぼくはたこ焼きを食べようとして口を大きく開けたまま、友だちの顔をじっと見つめた。
 友だち三人と、ぼく。小学生の頃からつるんでいた四人なので、遠慮も特にない。
 遼平はぼくの反応を見て、「やっぱりな」と言った。他のふたりもぴったりと同じ動きでぼくを見た。というかこのふたり、健斗と蓮は双子なので、動きが似ているのだ。
「「好きな人!?」」
 発言もハモる、昔から。
「え~!? なんで!? いつ!? 誰!? どんな人!?」
「健斗うるさい、でも言われてみればさ、なんかユウキ、顔変わった気がする。大人っぽくなったっていうか……」
「アンニュイ?」
「それだ!」
 ぼくはたこ焼きでパンパンになった頬を触りながら、アンニュイ? と考えた。
 遼平は笑いながら、「ユウキけっこう顔に出るから。白状しろ。おれたちに隠すことないだろ」と言って、ぼくの口周りを紙ナプキンで拭った。ぼくはそこで初めて、口にソースがついていたことに気づいた。
 そりゃ、三人に隠すことなんて何もないけど。でもこの文脈で言う「好きな人」っていうのは、ライクじゃなくてラブだ。友愛じゃなくて、恋愛。
 恋愛……。
 ぼくの頭の中は、一瞬にしてまーくんでいっぱいになった。
 まーくんはいつも、ぼくの中にいるんだけど。ぼくはけっこういつも暇さえあればまーくんのことを考えているんだけど。
 でも今、「好きな人」と言われて思い浮かぶのは、まーくんしかいなかった。
「……!」
 健斗はジュースのカップに刺さっているストローを齧りながら、「ユーキ、顔真っ赤だよ」と言った。
「えっ!? そう!? 冷えたかな、冷房で、ハハ……」
 などと言ってごまかしてみても、つき合いの長い三人のことはごまかせない。
 でもぼくが赤くなって俯いたのを見て、みんな話題を変えてくれた。多分、ぼくが今何も話せるようなことがないのをわかってくれたんだろうと思う。ぼくは別に、親しい友だちに何か隠すようなことはないし。
 まーくんのことを考えると、身体の内側がふわふわするようなぐちゃぐちゃするような、嬉しいような切ないような、混乱するような落ち着くような、矛盾した感情がいくつも生まれる。
 でもいつだって、離れている時間が寂しいと思うのだ。
 夜まで遊んで家に帰る。まーくんに今日食べたものや、行った場所の写真を送る。すぐに既読がついて、いつもの感じの返事が来るのかな、と思っていたら、電話が鳴った。
「もしもし!」
 ぼくがワンコールですぐに出ると、まーくんが『早、出るの』と笑った。
 たかだか一週間くらいしか離れていないのに、まーくんの声を聞いたら涙が出てきた。ちょっとだけ。
「……まーくん」
『どう? 実家。楽しい?』
「うん。あ、でも……」
 まーくんがいないのが、寂しい。ぼくは思った。久しぶりに友だちに会えたのも、家族と過ごすのも楽しいし、嬉しいけど。
 自分の中でまーくんがどれほど大切な存在で、どれほど大きいのか、ぼくははっきりと自覚しまって、言葉が見つからない。
 でも、と呟いたきり黙ってしまったぼくを、まーくんは急かしたりしない。いつもの優しい声で、『おれは寂しい。おまえがいなくて』と言った。
『つまんないし、寂しいよ。早く帰ってこい』
「ぼくも寂しい」
 まーくんが言ってくれたから、ぼくも本音をこぼすことができる。ちょっぴりしか出ていなかったはずの涙も、ほろほろとこぼれる。
「ぼくも寂しいな。会いたい、まーくんに」
『ホントか〜? おまえ、ぜんぜんしないんだもん、返事。心配した』
「だって」
 だって、カノジョといるなら邪魔したくないって思ったんだもん。そう言う代わりに、「まーくん、冷房直った? 暑くない?」と聞いた。
『直った直った。寒いくらい。帰ってきたら、おれんちな』
「ウン」
 ぼくは、すん、と鼻をすすって、喜びや嬉しさと確かに共存している、切なさややるせなさについて見ないフリをすることにした。
 これ以上、まーくんを好きだと思うことが怖かった。もうじゅうぶん好きだけど。まーくんを知らない友だちたちにまで、それが透けていると思うと怖くなったのだ。

        *

 東京に戻る日、お父さんが車で駅まで送ってくれた。
 身体には気をつけるんだぞ、なんて言われると、ちょっと寂しくて泣きそうになってしまうけれど、「うん、ありがと」と答えた。
 ぼくはもともと泣き虫だ。けっこう涙もろくて感激屋で、すぐ泣くなよ、なんて呆れられることも今までの人生で多かった。泣くつもりじゃないのに、なんでここで涙が出るんだろうな!? って、自分でもわからないくらいのタイミングで涙が出てしまったり。
 泣かずにいるぼくを見て、お父さんはなんだか安心したような顔をした。
「やっぱりひとり暮らしすると、しっかりするんだなぁ」
 そうかな? ぼくは相変わらず甘ったれだけど。東京では、まーくんに頼ってばかりな気がするし。まーくんは、そんなことないって言ってくれるけど。でもなんとなく、精神的な部分で寄りかかってしまっているのを感じる。だめだ、って自分ひとりの力でしっかり立とうとしても、まーくんが、いいよ、って引き戻してくれる。
 ぼくは毎日、まーくんと同じベッドで眠った夜のことを考える。抱きしめてくれる腕は、ぼくひとり支えたくらいじゃなんともないみたいだ。
『東京、何時着?』
 新幹線の席に座ると、まーくんからメッセージが来ている。
【五時十分!】
 ぼくがすぐに返信すると、まーくんは『迎えに行くから、メシ食おうぜ』と即レスしてくれる。
 ぼくは嬉しくて、まーくんのことが大好きでたまらない気持ちがあふれそうになる。抑えようとしても、勝手にあふれる。でも、おさえる。
 まーくんには、カノジョがいるんだと思う。ぼくのことは、ちょっとトロくてほっとけない友だち、としか思っていないんだと思う。ぼくは臆病だし、傷つくのも怖いと思う。恋なんて、したことないから……。
 憧れの友だち。その関係のままっていうのも、すてきだと思う。
「……ぼく、強くなりたいな……もうちょっと……」
 新幹線の窓。地元の風景はすぐに遠ざかり、今はトンネルの中だ。自分の顔が映っている。ちょっと子どもっぽくて、思っていることがすぐに顔に出る。まーくんとは正反対みたいだ。

 東京に戻ってきて、ぼくがお土産の入った袋を抱えて改札でもたもたしていると、「ユーキ」と、まーくんの声がぼくを呼んだ。改札と柱に挟まれた低い柵のそばに、まーくんが立っている。
「どーした」
「切符、どっか行った~」
「電子じゃないのか」
「うん、駅でね、お父さんが買ってくれたから……」
「おまえ、さてはパーカー脱いだだろ。パーカーのポケットは?」
「はっ! あった!」
 恥ずかしい。ほんとボーッとしてる……。ぼくが自己嫌悪しながら改札を出ると、まーくんが言った。
「おかえり」
「…………」
 ぼくはその瞬間、これは明確に恋だとわかってしまった。
 駅にはこんなたくさんの人がいるのに。まーくんの姿しか見えなくて、まーくんの声しか聞こえない。そんな気持ちだった。
 ただいまって言いたいのに、声が喉のところに、ぺたん、と貼りついているみたいだ。駅は蒸し暑くて、早くどこか涼しいところに行っておいしいものを食べて、まーくんといつもみたいにおしゃべりしたいのに。
「……まーくん」
「うん」
 また変なタイミングで泣いているぼくを見ても、まーくんは驚かないし困らないし笑わないし、なんだかそれが自然なことで、特別なことじゃないみたいに受け入れてくれる。そうしてぼくを腕の中に抱き込んで、Tシャツのあたりが涙で濡れても気にしないで、もう一回言った。
「おかえり。おまえいなくて、寂しかったわ」
「ぼくも……ただいま……」
 あまりにたくさんの人が行き交っているので、泣き虫のぼくがまーくんにぎゅっと抱きしめられていても、目立たなかったかもしれない。
 まーくんはぼくの頭をぽんぽん撫でながら、「ラーメンとオムライス、どっちがいい?」と聞いた。
「ラーメン!」
「よし」

 ぼくとまーくんは、人気のラーメン屋さんに三十分並んだ。でもふたりでおしゃべりしているとすぐだから、不思議だった。
 ぼくが買ってきた地元のお土産のお菓子を見て、まーくんは言った。
「今日からおれんち泊まるだろ。夜、食おうか」
 ぼくは悲しいことも、気になることも、しばらく忘れることに決めた。
 まーくんと一緒にいるのが幸せだから。まーくんもぼくと同じくらい、楽しい気持ちでいてくれたらいいな。