「暑~い!」
屋上で、洗ったシーツを干す。よく晴れた空に、薄い雲が流れていくのが見える。マンションよりも背の高いビルや、少し見下ろせば高速道路も見える。よく動画で、夜の高速道路のマンション夜景を見る、というドライブものがあったりする。もしかしたらぼくとまーくんのつけている電気も、その夜景の一部になっているのかもしれない。
部屋にはベランダもあるけれど、シーツや布団カバーを一気に干せる屋上があるのは、このマンションのいいところだと思う。
「もう一日中冷房つけっぱなしじゃないと死んじゃうかも」
「……」
まーくんは、何も言わずにハンガーにかけたシャツの皺を伸ばしていた。ぼくはシーツの横からまーくんを覗いた。まーくんが黙ったまま何も答えないっていうのは、珍しいことだ。
「まーくん、どうしたの?」
「……」
「……もしかして、具合悪い……? 熱中症……?」
夏の屋上は、カンカン照り。乾いた風が吹いて洗濯物を膨らませたり、揺らしたりするけれど、涼しいなんてことはちっともない。熱風。これなら洗濯物も、一瞬で乾くだろう。突然の雨にさえ注意すれば。
ぼくはまーくんが心配になって、そばに駆け寄った。熱、ないかな。大丈夫かな。
「早くお部屋戻ろう」
「……恥ずかしくて、おまえに言えなかったんだけどさ」
「うん」
「おまえに、夏本番になってから冷房壊れてると、業者がなかなか来てくれないから、確認しとけよ、とか言ったんだけどさ」
「うん」
まーくんのおかげだ。しかもまーくんは、ぼくのエアコンのフィルターも一枚洗ってくれた。屋上にはホースがあるから、喋りながら一緒に洗ったんだ。まーくんのフィルターも洗おうよ、と言った時に雨が降ってきて、おれのは暇な時にテキトーに洗うからいいよ、って断られた。ぼくはまーくんに、してもらってばかりなのだ。
「……おまえに偉そうなこと言ったくせに……自分のは確認してなくてさ……」
「うん……」
「暑いから冷房つけようとしたら、つかなくてさ。どうがんばっても動かなくてだな」
「うん…………」
「管理会社に昨日、電話したんだけど。やっぱ業者もさ、今はハイシーズンだから。混んでて、すぐには来られないって」
ぼくは驚いて、「なんで言わないの~!?」と叫んだ。ひときわ熱い風が吹き抜け、ぼくの干したシーツを、まるでお姫さまのドレスみたいに膨らませていった。
まーくんはきまり悪そうな顔で、「だってカッコ悪いだろ!! おまえには確認しとけ、なんて偉そうなこと言ったのに、自分はしてないなんて」と言った。
「そんなの気にしないでいいよ! こんなに暑いのに冷房つけてなかったら死んじゃうよ! ゆうべとかどうしてたの!?」
「水のシャワー浴びて、窓全開で寝たよ」
ぼくは自分が情けなくなった。まーくんはきっと、ぼくに遠慮しているのだ。ぼくはまーくんに頼ってばかりなのに、まーくんはぼくに頼れないのだ。それはきっと、ぼくが頼りないせいで……。
「まーくん!」
「おう」
「修理業者さんが来るまで、ぼくの部屋に泊まりなよ!」
ぼくはまーくんがどんなに遠慮しても譲らない気持ちで、そう申し出た。まーくんが、わかった、と言うまで離さないぞ、と思い、手をぎゅうっと握った。まーくんはぼくの手を握り返してくれる。暑いので、汗をかいてTシャツが濡れてくる気がした。
「……いいのかよ。しょっちゅうおまえの作ったメシ食ってるのに、泊まるまでして……」
「まーくん、いらないって言ってもお金払ってくれるじゃん。いいよぉ、何日泊まったって……」
ぼくとまーくんは、手を繋いだまま五階までの階段を下りた。ぼくはまーくんに頼ってもらえなかったことが情けなくて、なんだかしょんぼりしていた。
ぼくの部屋は、ゆうべから冷房つけっぱなしだ。まーくんはぼくの部屋に入って、「うわ、すずし~!」と言った。グラスに氷を入れて、麦茶をそそぐ。ぼくの部屋はまーくんがいることが当たり前になっていて、まーくんが近くにいると、ぼくはすごく落ち着く。
まーくんは麦茶を飲みながら、「……でもやっぱ悪いから、せめて冷房代は払うわ」と言った。
「なんでぇ? まーくんが泊っててもそうじゃなくても、電気代おんなじだよぉ」
「でも気が引けるだろ! おまえの金で!」
「え~~」
まーくんはこういうところが律儀なのだ。ぼくは考えながら、でも確かに、冷房代が嵩むこの季節、一緒に過ごせば半分で済むということ? と気づいた。
「まーくん!」
「おう」
「確かに節約になる! まーくんの冷房が直ったら、一週間おきにお互いの部屋に泊まるってどう!?」
まーくんは笑って、「頭いいなぁ、おまえ」と言った。
ぼくはタブレットを買うためのお金も貯めたいのだ。電気代が浮くのは、確かに助かる。
来週、実家に帰省するための新幹線代を払ったら、節約しなきゃなぁって気持ちが強まった。生きていくって、楽しいけれどお金がかかる。
「ユウキ、おまえ今日バイト?」
「うん、五時から十時まで」
「じゃあメシ食いに行くから。一緒に帰るか」
「うん」
窓から見える東京の空は、いかにもじりじりと暑そうだ。一歩外に出れば、アスファルトをゆらゆら揺らす蜃気楼。でも冷房の効いた部屋の中は、静かで涼しい。
できるかどうか不安だったファミレスのホールのアルバイトも、何回か行くうちに少しずつ慣れてきた。
やっぱり何事も、やらないうちからできないって思ってちゃダメだな。まーくんも、ぼくなら大丈夫って言ってくれたし、本当に大丈夫だった。
「ぼく、パフェとか作るんだよ~」
「パフェってホールが作んの!? 大仕事じゃん。時給上げてもらえよ」
「上がんないよ~」
おしゃべりしながら笑ったり、ゲームしたりしていたら、あっという間にバイトの時間だ。
「まーくん、ぼくの部屋にいていいよ。カギ渡すよ」
「ばか、それはダメだろ」
「ダメじゃないけど」
「ちょっと買うもんあったから、出かけるわ。九時前くらいに行くから」
「あ、洗濯もの干しっぱなしだ!」
「忘れてた。入れとく」
結局またまーくんに甘えてしまった。ぼくは階段を駆け下りて、愛用のママチャリでバイト先のファミレスに向かう。
「おはようございま~す」
仕事場では、何時であっても挨拶は「おはようございます」なのが不思議だ。なんでもすごく器用にできる、ってわけじゃないけど。でもぼくなりになんとかがんばれていることが嬉しかった。
*
「や、床でいいよ、おれ」
店にご飯を食べに来てくれたまーくんとマンションに戻る。ぼくはまーくんが取り込んでくれたシーツを敷きながら、「えっ!?」と言った。
ぼくのベッドは、思う存分寝返りを打ちまくるためにセミダブルなのだ。だからまーくんが一緒に寝ても大丈夫なくらいの広さはある。まーくんはぼくより大きいから、ちょっと窮屈な思いはさせてしまうかもしれないけれど。
まーくんは自分の部屋でお風呂に入ってから、枕とタオルケットを持ってぼくの部屋に来た。冷房はキンキン。ぼくもすぐにシャワーを浴びたので、後はもう寝るだけ。修学旅行みたいなワクワク感。
「床じゃ、身体痛くなっちゃうよ」
「でもベッドはおまえが寝るだろ」
ぼくは、今度こそまーくんに遠慮させないぞ、と思った。
「まーくんが床で寝るならぼくも床で寝る」
「なんでそうなるんだよ」
「えっ、なんでって、それは……」
ぼくは一生懸命頭を絞り、まーくんを説得できそうな言葉を探した。
眉間にしわを寄せて目を閉じているぼくのおでこを、まーくんが突いた。ぼくはそれがおかしくて、思わず笑ってしまう。
「キャハハ」
「赤ん坊みたいに笑いやがって」
「だって~」
ぼくは洗いたてのシーツを敷いたベッドの上に、ころん、と横になって言った。
「だって、まーくんと一緒に寝たいんだもん」
「……」
あんなに熟考したのに、けっきょく本音をそのまま言ってしまった。
ぼくはまーくんと一緒に寝たいのだ。キャンプの時もそうだったけど、お喋りしながら寝落ちして、そのまま朝おはよう、ってする。それは別にベッドと床でもできるってまーくんは思うかもしれないけれど、同じ目線、同じ高さで寝るほうが、なんとなく楽しい気がする。
「まーくん」
「……うん」
「ぼく、まーくんよりぜんぜん頼りないけど」
「そんなことねーだろ」
「でももし冷房壊れてたのがぼくだったら、まーくん絶対にぼくのことベッドに寝かせてくれるもん。だからまーくんも、一緒にベッドに寝よ」
「どんな理屈だよ」
まーくんはぼくに向けて、持っていた枕を放った。ぼくはそれをキャッチして、ぼくの枕の横に並べる。
「やった~! 決まり! 狭くてもガマンしてね」
まーくんはぼくの横に座った。ベッドのスプリングが、ぎし、という聞いたことのない音を立てる。
ちょっと強引だったかな。気を悪くしたかな。ぼくは心配になって、上半身を起こそうとした。まーくんが嫌だって言うなら、無理強いしちゃダメだし。
「まーくん、うわっ!」
身体を起こしかけたぼくの腕をまーくんが掴んで、ぼくをベッドに倒した。まーくんのほうが力が強いのはもちろんだけど、ぼくは抵抗する気も理由もないので、されるがまままーくんのことを下から見上げていた。
「……まーくん?」
「……おまえなぁ、変なとこで我が強いんだから……」
「まーくんが嫌なら、うわっ、きゃははは、やめてよくすぐったいよ~!」
まーくんはぼくの脇腹を軽く擽ると、そのまま上半身をぼくの身体の上に重ねるみたいに倒れ込んだ。衝撃はなかった。まーくんが両腕でうまく体重を逃がして、ぼくの上に乗っかってきたからだ。
冷房で冷やされた空気と対照的に、まーくんの身体は温かかった。心臓の音が、けっこう大きく響いていた。
温かくて気持ちよくて、ぼくの鼓動もつられて大きくなっていくのがわかる。どきどきするのに不思議と落ち着いて、安心できる。
まーくんの大きな手が、ぼくの頭を包むみたいに撫でた。ぼくは心が、圧力鍋で煮た角煮みたいにほろほろにほどけていくのを感じる。
「……まーくん」
「ん?」
「嫌じゃない? ぼくと寝るの……」
まーくんはぼくの耳元で笑って、「やじゃない」と言った。ぼくは嬉しくて、ほっとして、なんだか眠くなってくる。
「……よかった……」
まーくんの手が、ぼくの頭や、胸やおなかのあたりを、ぽんぽん、と優しく叩いてくれる。眠くなる。これじゃ寝かしつけされてる赤ちゃんみたいだ。まーくんはいつもぼくのことを、赤ん坊みたいだ、って言うし……。
「……おまえ、おれが悪い奴だったら、どーすんの」
ぼくが寝てしまう寸前、まーくんがそんなことを言ったのが聞こえたような気がした。夢でなければ。
まーくんが悪い奴なんてこと、あるわけない。もしぼく以外の世界のすべてが、まーくんを悪者だって言う日がきても、ぼくはそうは思わないな。まーくんが悪者だっていうんなら、助けてもらってばかりのぼくも同じだと思う。ぼくにとっては世界一やさしくて、ヒーローみたいな男の子なんだから……。
そして、そりゃあもうぐっすり寝た。
贅沢だけどぼくは、冷房でうんと涼しく冷やした部屋で、布団にくるまってぬくぬく寝るのが大好きなのだ。今夜はまーくんの体温で、それがより一層心地よかった。
「……」
夏は朝も早い。小窓を突き抜けるみたいに、太陽の光が部屋を照らしている。
「……んぅ」
「おはよ」
「…………」
ぼくは現状の把握に時間がかかった。
ゆうべはまーくんがぼくの部屋に泊まって、それから……。
ぼくはどんな寝相だったのか、まーくんの身体をマットレスみたいにして爆睡していたようだ。なんなら、よだれもちょっとこぼしていた。まーくんの部屋着のTシャツの、胸のあたりに……。
「おまえって、何しても起きないよな」
「ええ~? ぼく、寝言言った?」
「さぁ~。言ったような、言ってないような……」
まーくんはぼくを抱きしめるみたいな恰好で腕を回して、背中をぽんぽん叩いてくれる。それが気持ちよくて、また寝てしまいそうだ。
「う~、これ以上寝ちゃダメだ、絶対ホットケーキ焼くって決めたんだから!」
ぼくが身体を起こすと、冷房のきいた室内の空気がいつも以上にひんやりとして思えた。
なんだか、寂しかった。このまままーくんに、ぎゅっとしてもらっていつまでも寝ていたいような……。
「……まーくん」
「ん?」
「今日も明日も、こうやって寝てくれる?」
まーくんは目を細めて笑って、「おまえが嫌になって逃げないなら、そうするよ」と言った。
「逃げないよ」
「うん」
まーくんの手が、起こしたぼくの上半身を、また寝かせるみたいに引き戻す。
ぼくはまーくんの胸の中で、もう一度小さく、「逃げない、まーくんから……」と呟いた。まーくんももう一度、「うん」と言ってくれた。
結局そのまま二度寝してしまって、ホットケーキを焼き始めたのは正午を過ぎてからだった。
*
ぼくが実家に帰省する日、まーくんの部屋に冷房の修理業者さんが来てくれることになったそうだ。まーくんは、夏は帰省する予定がないらしい。ご両親は仕事で忙しく、誰もいないから、と言っていた。
「おまえが帰ってきたら、今度はおれの部屋な」
ぼくは嬉しくなった。一週間くらいずっとまーくんと一緒に寝ていたから、これからひとりで寝るなんて寂しい、って思っていたから。
別にぼくは極端に寂しがりやなわけじゃない。ひとりでいるほうが気が楽だったはずなのに、どうしてかな。
帰省は十日間。大体のものは実家にあるので、荷物は少ない。
ぼくが小さなボストンバッグを抱えて階段を下りていくと、二階のあたりで、誰かが上ってきた。住んでいる人だろうな、と思い、脇にそれる。背の高い女の人だ。
「……」
目が合って、あ、と思った。まーくんの部屋から出てきた女の人。まーくんからは聞いたことないけれど、部屋に行くってことはつまり、カノジョってことで……。
女の人は、にこ、ときれいに笑って、ぼくに会釈をすると、そのまま階段を上っていった。
ぼくはその後姿をしばらく見送っていたけれど、他にどうすることもできなくて、とぼとぼと残りの階段を下り、管理人さんに挨拶をしておやつをもらい、マンションを出た。
振り返ると、五階は遥か上に思えた。ぼくとまーくんが住んでいる五階。階段でしか行けないせいで、まるでふたりの世界みたいに思っていた。
でも現実は、そんなわけない。わかってるはずなのに、どうしてこんなに悲しくなっちゃうんだろうな?
新幹線の中で、まーくんからメッセージが届いているのに気づいた。
無事実家ついたら連絡しろ、って。優しい。
今カノジョと一緒なのかな、と思うと、ぼくはうまく返事を返せなかった。
まーくんと十日も会わないなんて、知り合ってから初めてのことだ。
屋上で、洗ったシーツを干す。よく晴れた空に、薄い雲が流れていくのが見える。マンションよりも背の高いビルや、少し見下ろせば高速道路も見える。よく動画で、夜の高速道路のマンション夜景を見る、というドライブものがあったりする。もしかしたらぼくとまーくんのつけている電気も、その夜景の一部になっているのかもしれない。
部屋にはベランダもあるけれど、シーツや布団カバーを一気に干せる屋上があるのは、このマンションのいいところだと思う。
「もう一日中冷房つけっぱなしじゃないと死んじゃうかも」
「……」
まーくんは、何も言わずにハンガーにかけたシャツの皺を伸ばしていた。ぼくはシーツの横からまーくんを覗いた。まーくんが黙ったまま何も答えないっていうのは、珍しいことだ。
「まーくん、どうしたの?」
「……」
「……もしかして、具合悪い……? 熱中症……?」
夏の屋上は、カンカン照り。乾いた風が吹いて洗濯物を膨らませたり、揺らしたりするけれど、涼しいなんてことはちっともない。熱風。これなら洗濯物も、一瞬で乾くだろう。突然の雨にさえ注意すれば。
ぼくはまーくんが心配になって、そばに駆け寄った。熱、ないかな。大丈夫かな。
「早くお部屋戻ろう」
「……恥ずかしくて、おまえに言えなかったんだけどさ」
「うん」
「おまえに、夏本番になってから冷房壊れてると、業者がなかなか来てくれないから、確認しとけよ、とか言ったんだけどさ」
「うん」
まーくんのおかげだ。しかもまーくんは、ぼくのエアコンのフィルターも一枚洗ってくれた。屋上にはホースがあるから、喋りながら一緒に洗ったんだ。まーくんのフィルターも洗おうよ、と言った時に雨が降ってきて、おれのは暇な時にテキトーに洗うからいいよ、って断られた。ぼくはまーくんに、してもらってばかりなのだ。
「……おまえに偉そうなこと言ったくせに……自分のは確認してなくてさ……」
「うん……」
「暑いから冷房つけようとしたら、つかなくてさ。どうがんばっても動かなくてだな」
「うん…………」
「管理会社に昨日、電話したんだけど。やっぱ業者もさ、今はハイシーズンだから。混んでて、すぐには来られないって」
ぼくは驚いて、「なんで言わないの~!?」と叫んだ。ひときわ熱い風が吹き抜け、ぼくの干したシーツを、まるでお姫さまのドレスみたいに膨らませていった。
まーくんはきまり悪そうな顔で、「だってカッコ悪いだろ!! おまえには確認しとけ、なんて偉そうなこと言ったのに、自分はしてないなんて」と言った。
「そんなの気にしないでいいよ! こんなに暑いのに冷房つけてなかったら死んじゃうよ! ゆうべとかどうしてたの!?」
「水のシャワー浴びて、窓全開で寝たよ」
ぼくは自分が情けなくなった。まーくんはきっと、ぼくに遠慮しているのだ。ぼくはまーくんに頼ってばかりなのに、まーくんはぼくに頼れないのだ。それはきっと、ぼくが頼りないせいで……。
「まーくん!」
「おう」
「修理業者さんが来るまで、ぼくの部屋に泊まりなよ!」
ぼくはまーくんがどんなに遠慮しても譲らない気持ちで、そう申し出た。まーくんが、わかった、と言うまで離さないぞ、と思い、手をぎゅうっと握った。まーくんはぼくの手を握り返してくれる。暑いので、汗をかいてTシャツが濡れてくる気がした。
「……いいのかよ。しょっちゅうおまえの作ったメシ食ってるのに、泊まるまでして……」
「まーくん、いらないって言ってもお金払ってくれるじゃん。いいよぉ、何日泊まったって……」
ぼくとまーくんは、手を繋いだまま五階までの階段を下りた。ぼくはまーくんに頼ってもらえなかったことが情けなくて、なんだかしょんぼりしていた。
ぼくの部屋は、ゆうべから冷房つけっぱなしだ。まーくんはぼくの部屋に入って、「うわ、すずし~!」と言った。グラスに氷を入れて、麦茶をそそぐ。ぼくの部屋はまーくんがいることが当たり前になっていて、まーくんが近くにいると、ぼくはすごく落ち着く。
まーくんは麦茶を飲みながら、「……でもやっぱ悪いから、せめて冷房代は払うわ」と言った。
「なんでぇ? まーくんが泊っててもそうじゃなくても、電気代おんなじだよぉ」
「でも気が引けるだろ! おまえの金で!」
「え~~」
まーくんはこういうところが律儀なのだ。ぼくは考えながら、でも確かに、冷房代が嵩むこの季節、一緒に過ごせば半分で済むということ? と気づいた。
「まーくん!」
「おう」
「確かに節約になる! まーくんの冷房が直ったら、一週間おきにお互いの部屋に泊まるってどう!?」
まーくんは笑って、「頭いいなぁ、おまえ」と言った。
ぼくはタブレットを買うためのお金も貯めたいのだ。電気代が浮くのは、確かに助かる。
来週、実家に帰省するための新幹線代を払ったら、節約しなきゃなぁって気持ちが強まった。生きていくって、楽しいけれどお金がかかる。
「ユウキ、おまえ今日バイト?」
「うん、五時から十時まで」
「じゃあメシ食いに行くから。一緒に帰るか」
「うん」
窓から見える東京の空は、いかにもじりじりと暑そうだ。一歩外に出れば、アスファルトをゆらゆら揺らす蜃気楼。でも冷房の効いた部屋の中は、静かで涼しい。
できるかどうか不安だったファミレスのホールのアルバイトも、何回か行くうちに少しずつ慣れてきた。
やっぱり何事も、やらないうちからできないって思ってちゃダメだな。まーくんも、ぼくなら大丈夫って言ってくれたし、本当に大丈夫だった。
「ぼく、パフェとか作るんだよ~」
「パフェってホールが作んの!? 大仕事じゃん。時給上げてもらえよ」
「上がんないよ~」
おしゃべりしながら笑ったり、ゲームしたりしていたら、あっという間にバイトの時間だ。
「まーくん、ぼくの部屋にいていいよ。カギ渡すよ」
「ばか、それはダメだろ」
「ダメじゃないけど」
「ちょっと買うもんあったから、出かけるわ。九時前くらいに行くから」
「あ、洗濯もの干しっぱなしだ!」
「忘れてた。入れとく」
結局またまーくんに甘えてしまった。ぼくは階段を駆け下りて、愛用のママチャリでバイト先のファミレスに向かう。
「おはようございま~す」
仕事場では、何時であっても挨拶は「おはようございます」なのが不思議だ。なんでもすごく器用にできる、ってわけじゃないけど。でもぼくなりになんとかがんばれていることが嬉しかった。
*
「や、床でいいよ、おれ」
店にご飯を食べに来てくれたまーくんとマンションに戻る。ぼくはまーくんが取り込んでくれたシーツを敷きながら、「えっ!?」と言った。
ぼくのベッドは、思う存分寝返りを打ちまくるためにセミダブルなのだ。だからまーくんが一緒に寝ても大丈夫なくらいの広さはある。まーくんはぼくより大きいから、ちょっと窮屈な思いはさせてしまうかもしれないけれど。
まーくんは自分の部屋でお風呂に入ってから、枕とタオルケットを持ってぼくの部屋に来た。冷房はキンキン。ぼくもすぐにシャワーを浴びたので、後はもう寝るだけ。修学旅行みたいなワクワク感。
「床じゃ、身体痛くなっちゃうよ」
「でもベッドはおまえが寝るだろ」
ぼくは、今度こそまーくんに遠慮させないぞ、と思った。
「まーくんが床で寝るならぼくも床で寝る」
「なんでそうなるんだよ」
「えっ、なんでって、それは……」
ぼくは一生懸命頭を絞り、まーくんを説得できそうな言葉を探した。
眉間にしわを寄せて目を閉じているぼくのおでこを、まーくんが突いた。ぼくはそれがおかしくて、思わず笑ってしまう。
「キャハハ」
「赤ん坊みたいに笑いやがって」
「だって~」
ぼくは洗いたてのシーツを敷いたベッドの上に、ころん、と横になって言った。
「だって、まーくんと一緒に寝たいんだもん」
「……」
あんなに熟考したのに、けっきょく本音をそのまま言ってしまった。
ぼくはまーくんと一緒に寝たいのだ。キャンプの時もそうだったけど、お喋りしながら寝落ちして、そのまま朝おはよう、ってする。それは別にベッドと床でもできるってまーくんは思うかもしれないけれど、同じ目線、同じ高さで寝るほうが、なんとなく楽しい気がする。
「まーくん」
「……うん」
「ぼく、まーくんよりぜんぜん頼りないけど」
「そんなことねーだろ」
「でももし冷房壊れてたのがぼくだったら、まーくん絶対にぼくのことベッドに寝かせてくれるもん。だからまーくんも、一緒にベッドに寝よ」
「どんな理屈だよ」
まーくんはぼくに向けて、持っていた枕を放った。ぼくはそれをキャッチして、ぼくの枕の横に並べる。
「やった~! 決まり! 狭くてもガマンしてね」
まーくんはぼくの横に座った。ベッドのスプリングが、ぎし、という聞いたことのない音を立てる。
ちょっと強引だったかな。気を悪くしたかな。ぼくは心配になって、上半身を起こそうとした。まーくんが嫌だって言うなら、無理強いしちゃダメだし。
「まーくん、うわっ!」
身体を起こしかけたぼくの腕をまーくんが掴んで、ぼくをベッドに倒した。まーくんのほうが力が強いのはもちろんだけど、ぼくは抵抗する気も理由もないので、されるがまままーくんのことを下から見上げていた。
「……まーくん?」
「……おまえなぁ、変なとこで我が強いんだから……」
「まーくんが嫌なら、うわっ、きゃははは、やめてよくすぐったいよ~!」
まーくんはぼくの脇腹を軽く擽ると、そのまま上半身をぼくの身体の上に重ねるみたいに倒れ込んだ。衝撃はなかった。まーくんが両腕でうまく体重を逃がして、ぼくの上に乗っかってきたからだ。
冷房で冷やされた空気と対照的に、まーくんの身体は温かかった。心臓の音が、けっこう大きく響いていた。
温かくて気持ちよくて、ぼくの鼓動もつられて大きくなっていくのがわかる。どきどきするのに不思議と落ち着いて、安心できる。
まーくんの大きな手が、ぼくの頭を包むみたいに撫でた。ぼくは心が、圧力鍋で煮た角煮みたいにほろほろにほどけていくのを感じる。
「……まーくん」
「ん?」
「嫌じゃない? ぼくと寝るの……」
まーくんはぼくの耳元で笑って、「やじゃない」と言った。ぼくは嬉しくて、ほっとして、なんだか眠くなってくる。
「……よかった……」
まーくんの手が、ぼくの頭や、胸やおなかのあたりを、ぽんぽん、と優しく叩いてくれる。眠くなる。これじゃ寝かしつけされてる赤ちゃんみたいだ。まーくんはいつもぼくのことを、赤ん坊みたいだ、って言うし……。
「……おまえ、おれが悪い奴だったら、どーすんの」
ぼくが寝てしまう寸前、まーくんがそんなことを言ったのが聞こえたような気がした。夢でなければ。
まーくんが悪い奴なんてこと、あるわけない。もしぼく以外の世界のすべてが、まーくんを悪者だって言う日がきても、ぼくはそうは思わないな。まーくんが悪者だっていうんなら、助けてもらってばかりのぼくも同じだと思う。ぼくにとっては世界一やさしくて、ヒーローみたいな男の子なんだから……。
そして、そりゃあもうぐっすり寝た。
贅沢だけどぼくは、冷房でうんと涼しく冷やした部屋で、布団にくるまってぬくぬく寝るのが大好きなのだ。今夜はまーくんの体温で、それがより一層心地よかった。
「……」
夏は朝も早い。小窓を突き抜けるみたいに、太陽の光が部屋を照らしている。
「……んぅ」
「おはよ」
「…………」
ぼくは現状の把握に時間がかかった。
ゆうべはまーくんがぼくの部屋に泊まって、それから……。
ぼくはどんな寝相だったのか、まーくんの身体をマットレスみたいにして爆睡していたようだ。なんなら、よだれもちょっとこぼしていた。まーくんの部屋着のTシャツの、胸のあたりに……。
「おまえって、何しても起きないよな」
「ええ~? ぼく、寝言言った?」
「さぁ~。言ったような、言ってないような……」
まーくんはぼくを抱きしめるみたいな恰好で腕を回して、背中をぽんぽん叩いてくれる。それが気持ちよくて、また寝てしまいそうだ。
「う~、これ以上寝ちゃダメだ、絶対ホットケーキ焼くって決めたんだから!」
ぼくが身体を起こすと、冷房のきいた室内の空気がいつも以上にひんやりとして思えた。
なんだか、寂しかった。このまままーくんに、ぎゅっとしてもらっていつまでも寝ていたいような……。
「……まーくん」
「ん?」
「今日も明日も、こうやって寝てくれる?」
まーくんは目を細めて笑って、「おまえが嫌になって逃げないなら、そうするよ」と言った。
「逃げないよ」
「うん」
まーくんの手が、起こしたぼくの上半身を、また寝かせるみたいに引き戻す。
ぼくはまーくんの胸の中で、もう一度小さく、「逃げない、まーくんから……」と呟いた。まーくんももう一度、「うん」と言ってくれた。
結局そのまま二度寝してしまって、ホットケーキを焼き始めたのは正午を過ぎてからだった。
*
ぼくが実家に帰省する日、まーくんの部屋に冷房の修理業者さんが来てくれることになったそうだ。まーくんは、夏は帰省する予定がないらしい。ご両親は仕事で忙しく、誰もいないから、と言っていた。
「おまえが帰ってきたら、今度はおれの部屋な」
ぼくは嬉しくなった。一週間くらいずっとまーくんと一緒に寝ていたから、これからひとりで寝るなんて寂しい、って思っていたから。
別にぼくは極端に寂しがりやなわけじゃない。ひとりでいるほうが気が楽だったはずなのに、どうしてかな。
帰省は十日間。大体のものは実家にあるので、荷物は少ない。
ぼくが小さなボストンバッグを抱えて階段を下りていくと、二階のあたりで、誰かが上ってきた。住んでいる人だろうな、と思い、脇にそれる。背の高い女の人だ。
「……」
目が合って、あ、と思った。まーくんの部屋から出てきた女の人。まーくんからは聞いたことないけれど、部屋に行くってことはつまり、カノジョってことで……。
女の人は、にこ、ときれいに笑って、ぼくに会釈をすると、そのまま階段を上っていった。
ぼくはその後姿をしばらく見送っていたけれど、他にどうすることもできなくて、とぼとぼと残りの階段を下り、管理人さんに挨拶をしておやつをもらい、マンションを出た。
振り返ると、五階は遥か上に思えた。ぼくとまーくんが住んでいる五階。階段でしか行けないせいで、まるでふたりの世界みたいに思っていた。
でも現実は、そんなわけない。わかってるはずなのに、どうしてこんなに悲しくなっちゃうんだろうな?
新幹線の中で、まーくんからメッセージが届いているのに気づいた。
無事実家ついたら連絡しろ、って。優しい。
今カノジョと一緒なのかな、と思うと、ぼくはうまく返事を返せなかった。
まーくんと十日も会わないなんて、知り合ってから初めてのことだ。

