ぼくの大学生活は、びっくりするほど順調、と言える。
 地元にいた高校生までの生活も、別に不調じゃなかった。ごく普通に楽しかった。ずっと田舎で育ったから、東京なんか出てきて、しかもひとりで暮らしたりなんかして大丈夫かな、って不安があったけれど、それを思えば超順調。
 毎月親が振り込んでくれる仕送り。ぼくはネット通帳をスマホで見ながら、「バイト、どんなのにしようかなぁ」と呟いた。お父さんとお母さんは、ぼくとお兄ちゃんを大学まで入れてくれたのだ。しかも都会で一人暮らしまでさせてくれる。だから仕送りが足りないなんてことは、絶対絶対あっちゃならない。
 大学は、いよいよ初めての夏休みに入る。まーくんはぼくに、バーベキューに行こうって言ってくれた。いくらぼくが日頃節約して過ごしているからといって、ぼくの予算に合わせてまーくんの予算まで下げさせては申し訳ない。
「東京って、時給高いなぁ。でも接客は緊張するかも……あ、これいい。ファミレスのお皿洗い……ホール業務はございません、だって。お皿なら洗えるし、ぼく」
 最後の試験が今日終わった開放感で、ぼくはベッドでごろごろしながら求人をあれこれ見ている。
 まーくんは今日、試験の後、用事があると言っていた。最近毎日一緒にご飯を食べていたので、久々のひとりご飯はなんだか寂しい。おいしいもの作るぞ、という気分にもなれなくて、卵かけご飯と、冷蔵庫に残っていた野菜を入れたお味噌汁で済ませた。味の素とごま油をかけるとおいしい。
「……」
 まーくん、カノジョとデートかも。ぼくは思った。普段あんまりデートしてる気配がないのは、もしかして年上のカノジョで、もう社会人で忙しいとか?
 ぐるぐる考える。男同士の友達なら、カノジョのこととか自然に聞いたりしてもおかしくないはずなのに。大学のクラスメイトで、最近よく話す子たちとは、普通にそうだ。カノジョと遊園地行ってさ、みたいな話をする。いや、ぼくにカノジョはいないけれど、そういう話を聞くのは好きだ。いつからつき合ってるの? とか、どんな子なの? とか。
 でもどうしてまーくんには聞けないんだろう。一番近くにいる友だちなのに……。
 ぼくはまた、なんだかモヤモヤし始めたのを振り払うように、「面接応募しよ! お皿洗い! 履歴書不要!? 助かる~!」と、スマホの画面の応募ボタンを押した。
 ぼくはそのままちょっとうとうとして、お皿を何千枚も洗う夢を見た。皿洗いする流し場から、ホールが見えている。オシャレなレストラン。そこではまーくんが、ギャルソンエプロンをつけてホールの仕事をしている。テーブルにはすごくきれいな女の子が座っている。あれはまーくんのカノジョだ。まーくんの部屋から出てきた子……。
 ぼくはお皿を洗い続けながら、なんだか悲しくて、涙がぽろぽろ出てきた。でも手が泡まみれだから涙を拭くことなんてできない。ぽろぽろ泣きながら、洗い続ける。まーくんがこちらを見ている。どうしよう、泣いてるところを見られたくないのに。まーくんは優しいから、心配かけちゃうに決まってるのに。
 ほら。カノジョと話すのをやめて、こっちに来てくれる。
 申し訳ないのに、それをどこか喜んでいるぼくがいる。ぼくはそんな自分が、いやでたまらない。

「ハッ」
 スマホに、新着メッセージの通知が入る。ぼくはそれで目を覚ました。
 夢の中で泣いていたせいか、現実でもほっぺたが濡れている。
「……まーくん」
 画面にはまーくんからの、【ケーキあるけど、食う?】というメッセージが表示されている。
 ぼくが、『食べる!』と返信すると、ものの数十秒でインターホンが鳴った。
 玄関を開けると、ケーキの箱を提げたまーくんが立っている。顔を見たら、なんだかすごくホッとしたけれど、いつもと違うにおいがする。
 香水だ。多分、さっきまで一緒にいた誰かの。
 それに気づくと、胸がぎゅーっと苦しくなる。
「おまえ、目、赤くね? どうした」
「えっ!?」
 まーくんに顔を覗き込まれて、ぼくは目を擦る。
「寝てたからかも」
「擦るなよ、大丈夫か?」
「だいじょぶ」
 まーくんは保温ポットに入れたコーヒーも持ってきてくれた。牛乳を温めてぼくはカフェオレにして、まーくんはブラックで飲む。いつも通り。
「晩飯、何食った?」
「卵かけご飯。まーくんは?」
「ファミレス~なんか鶏肉焼いたやつ……でも前におまえが焼いてくれたやつのほうがうまかったな」
「……」
 ぼくの鼻はすぐに慣れて、香水の移り香を感じなくなる。
 これはヤキモチだ、と思った。ぼくの知らないまーくんを知っている、カノジョという特別な存在の女の子への嫉妬。
 ぼくはその感情を振り払うように、「バイトしようと思って、面接申し込んだんだ」と、話題を変えた。
「何すんの」
「受かるかわかんないけど、ファミレスの皿洗い」
「ふ〜ん。おまえ人当たりいいから、接客でもっと時給いいとこあるんじゃねーか。このへん、けっこう高い求人あるぞ」
「接客緊張するもん~クレーム入れられたりしたらどうしよ~」
「ないない。おまえにクレームつけるような客がいたら、客のほうがおかしい」
 まーくんはテーブルの上にあるぼくの手を、やわらかく握るみたいに触った。
「……皿洗いって、手袋できんの? 荒れるぞ、赤ん坊みたいな手なのに」
「…………」
 ぼくは自分の顔が熱くてびっくりしてしまった。まーくんの手はぼくより大きい。厚みも、指の長さも骨の太さも、何もかも。
 ぼくが赤くなって黙り込んだのを見て、まーくんは手を離した。
「ごめん」
「えっ、ううん、ぜんぜん」
 どうしよう、変な空気にしたかも。友だち同士なら、ふざけて手に触るのなんてちっともおかしくないのに。
 ぼくが俯いてケーキをフォークでつついていると、まーくんが呟いた。
「いや、無許可で触るっていうのは、よくないよな」
 無許可? ぼくがケーキを一口食べながら言葉の意味を考えていると、まーくんが「触っていいか、手」と聞いた。
 ぼくはさっき、ほんの一瞬握られたまーくんの手の感触が、もう恋しくなっている。
 知ってしまったことを、知らなかった前に戻すっていうのは不可能だ。なくしたものを惜しむのも、仕方のないこと……。
「……うん」
 ぼくが頷くと、まーくんはさっきとは違うやり方で、ぼくの手を握ってくれた。
「おまえ、バイト皿洗いにするなら絶対手袋しろよ」
「ぼくの手、そんなに弱そう?」
「弱そうっていうか、赤ん坊みたい」
「弱そうじゃん!」
 ぼくが笑うと、まーくんも笑った。握り返すと、まーくんの手の厚みがよくわかった。
「まーくん、手おっきいね。背も高いもんね。足のサイズも大きいし」
「……」
「まーくん?」
「えい」
「うわ、強い! 力! あはははっ」
 ぼくたちは手を繋いだまま、リビングの床に笑い転げて、それでも手は離さなかった。
「ユウキ」
「うん」
「いつにする? バーベキュー。いくつか調べたんだ」
「ホント!? 嬉しい! 明日でもいいよ、いつでも!」
「明日じゃ予約取れないぞ。キャンプして泊まるか? 電車で二時間。レンタカー借りてもい」
「キャンプ、したことない!! テント?」
「や、おまえをテントに寝かすのは気が引けるっつーか……コテージのほうがいいだろ」
 まーくんは、ぼくがまーくんに借りているタブレットを手に取った。学期末の課題提出ラッシュを乗り切ったのは、このタブレットのおかげ。
 タブレット操作のために、自然と手を離すことになる。すごく寂しい気がしたけれど、パスワードはまーくんが設定したままのタブレットを立ち上げて、バーベキュー設備のあるキャンプ場のサイトを見ていたら、楽しくなってくる。
「こっち、千葉。海が見える。こっち、埼玉。川がある」
「おお~~。えっ、安いね~」
「埼玉のほうが便利かもな、駅前にデカい業務スーパーがあって、キャンプ場からそんなに遠くない」
 そう言ってまーくんは、またぼくの手を握った。あったかい。
 ぼくが手、離して寂しかったこと、気づいてくれたのかな。ぼくは思った。まーくんは優しい。ぼくはなんだか、まーくんの一番近くにいるような気がした。自惚れだ。わかっているけど、こうしてそばにいられることが嬉しい。
「予約しよう。おまえ、バイトの面接いつなの」
「次の土曜日」
「じゃあ、月曜から二泊は? 週末明けるとさらに安いんだよな」
「うん!」
 タブレットの中のスケジュール管理アプリに、新たにバーベキューの予定が記入される。
 夏は日に日に速度を増していくけれど、まだそんなに暑くなくて、夜はサーキュレーターの風でなんとかなっている。でもひとたび夏本番に足を踏み入れると、外を歩くのも辛いくらいの酷暑になるだろう。
「バイト、受かるかなぁ。他にも探しておこうかなぁ」
 ぼくが言うとまーくんは笑い、「受かるわ! おまえ落とす店って、何考えてんだよ。あ、でも絶対ホールの接客はどうですか? って聞かれると思うぞ。時給ちょっといいから、って」と言った。
 まーくんに、受かる、と断言されると、なんだか自信が出てくる。
 そうして事実、まーくんの言ったとおりになった。
 土曜日、皿洗いの面接を受けたぼくは、「ホールのバイトはどうですか? そちらのほうが、時給もいいですし」と勧められた。
 ぼくは自信がなかったけれど、何度も勧められると断れない性格なので、つい了承してしまい、「ファミレスのホール」という実に大変そうなアルバイトにつくことになった。きっと人手不足なんだろうな、と思った。
 まーくんはぼくが面接を終えるまで、ファミレスでコーヒーを飲みながら待っていてくれて、「どうだった?」と聞かれる。
「まーくんの言ったとおりになった。ホールになった」
「あっはっは。だと思った」
「なんでわかったの?」
「さぁ、なんででしょう」
「できるかな、ホール」
「できるよ。おまえがバイトの日は絶対ここでメシ食うわ」
「ぼく、バイトするの初めて。まーくん、バイトしたことある?」
「あるよ。単発だったり。おれも何か探そうかな、デリバリーとか」
「いいかも、まーくん自転車漕ぐの超速いし」
「おまえのママチャリで鍛えてるからな」
 店を出ると、もう日が暮れかけているのに熱い風が吹いた。
 これはそろそろ、冷房入れなきゃかも。電気代とにらめっこの日々が始まる。

 週が明ければ、二泊三日でバーベキューとキャンプ。
 ぼくは友だちと旅行なんてしたこともなかったから、なんとなく緊張する。大丈夫かな、とか、あんまり任せっきりにしちゃダメだ、とかいろいろ考えて、心配になるところだけど、まーくんは気にしなくていい、と言う。
「おれ、こういうの割と得意だから。おまえは到着して、鉄板を温めてからが仕事だ。おれとおまえ、焼きそばを作るのがうまいのはどっちだ? おまえだろ。適材適所」
 レンタカーもまーくんが手配してくれた。最寄り駅のそばでレンタカーを借りられることを、初めて知った。免許は、まーくんもぼくもふたりとも持っている。取りたてだけど。交代で運転しよう、と言ったのに、まーくんは笑っている。
 ぼくは最初助手席で、まーくんとぽつぽつ話しているうちに寝てしまった。言い訳するわけじゃないけど、楽しみで眠れなかったから。
 目を覚ますと、風景はかなり山の感じになっていた。
「えっ!?」
「もうすぐ業スーです、坊ちゃん」
「爆睡!! どうしよう!! ごめん!!」
 まーくんは笑い、「おまえ、寝てないだろ!」と言った。
「まーくん、ゆうべ寝た?」
「寝たよ」
 楽しみで眠れなかったのはぼくだけなんだ。そりゃ、そうだけど。
 恥ずかしくなって、ごまかすように窓を開ける。
「まーくん、運転うまいね」
「爆睡だったな、ユウキ」
「いびきかいてた?」
「いや。なんか、謎の言語発してたけど……」
 謎の言語? ぼくはますます恥ずかしくなって、ほっぺたのあたりを揉んだ。
 まーくんとは夜遅くまで喋ったり、映画や動画を見たりするけれど。一晩中一緒にいるのは、これが初めてだ。
 ぼくはこの前見た夢のことを思い出す。どうしよう、泣いたり変な寝言言ったら。
「まーくん、夜は寝つきいいほう?」
「何心配してんだ、おまえは。なんか言っても忘れてやるから」
 なんでぼくの心配してることがわかるの? 不思議だったけど、まーくんがそう言うならいいや、と思った。
 スーパーで買い出しを済ませると、後部座席は荷物でいっぱいになる。
「ぼく運転する」
「あとちょっとだからいいよ。帰り、頼むわ」
 そっか、帰りはまーくんも疲れてるもんね。帰りに交代したほうがいっか。
 ぼくは納得し、ニコニコ顔で助手席を満喫したけれど、帰りもまーくんが運転することになるのをこの時はまだ知らない。

 ぼくはまーくんが野菜や肉を焼いてくれる横で、焼きそばを作った。
 もうじゃんじゃん、ありったけの麺と肉とソースで焼きまくった。外で焼きそば作るの、楽しすぎ!
 ぼくがあまりにも楽しそうにしていたせいか、まーくんは笑っていた。
 その時ぼくは気づいた。こんなに楽しいのは、外で焼きそばを作っているからじゃない。
 まーくんとふたりでいるからだ。ぼく、まーくんと一緒にいるとすごく楽しいんだ。
「旅行とかするとさ、わかるだろ」
「え?」
「一緒にいてつらいか、そうじゃないか」
 まーくんの言葉に、ぼくは頷いた。
 まーくんは「でもまぁ、おれは別におまえがどんな感じでもつらくないけど」と言った。
 ぼくも、そうかも。そう思える誰かに会えるのって、けっこう奇跡的なことなのかもしれない。

 ぼくとまーくんは、出会ってまだほんの少しだ。
 それでもこんなに仲よくなれるんだから、すごいな。

 コテージにはお風呂もあったし、ちゃんとベッドもある。
 まーくんと一晩中お喋りするの嬉しいな、と思っていたのに、ぼくはまーくんより先に寝て、まーくんより後に起きてしまった。
 まーくんはぼくが起きるまで、笑ってそばで見ていたらしい。
 なんで笑ってたんだろ? 教えてもらえなかったけど、変な寝言言ってたのかもしれない。昼に作りまくった、焼きそばのレシピだとか……。