夏の試験を前にして、ぼくのタブレットが壊れた。
お世辞にも新しくなかったし、もう就職したお兄ちゃんからのお下がりだったから、寿命だったとも言える。
しかし、ぼくはレポートの提出などをすべてこのタブレットに頼りきって、入学からの数ヶ月を過ごしていたのだ。幸いにもデータはクラウド上でぴかぴかと輝きながら生存している。じゃあスマホで出しちゃお、と思ったけれど、スマホで作業するのは思った以上に不便だった。大学のシステムっていうのは、講義によって使い方が違ったり、そもそも教授が独自のものを使っていたりで、どうも安定しない。でも大学生は、すべてが自己責任。高校生までは、先生に「タブレット壊れました」と言えば手厚く面倒を見てもらえたかもしれないけれど、大学に上がってしまえばそんなことはない、出せなければ落第なのだ。
実家の両親に、タブレットを買うお金をもらうのも気が引けてしまう。仕送りからちまちまと節約して貯めているお金で買うことを考えたけれど、互換性やら、卒業まで使いたいことやらを考えれば、ちゃんとしたものを買いたいし……。
「わ〜ん! お金ないよ〜! アルバイト探さなくっちゃ〜!」
ぼくは大学のパソコンルームでレポートを整えながら、生きていくことの厳しさを思う。とにかく課題も試験もクリアして、無事に夏休みに入ることが最優先。それまでは大学のパソコンルームやネットカフェでなんとかしよう。夏休みになったらバイトを探して、タブレットを買うお金を貯めるのだ。
ぼくが己の立てた計画に満足して頷いていると、パソコンルームのガラス張りの壁を、コツン、と叩く音がする。
は、と顔を上げると、まーくんが立っていた。ぼくは嬉しくなって、ニコニコで手を振った。まーくんはスマホを出して、ぼくにメッセージを送ってくる。目の前にいるのにSNSでお喋りするなんて、不思議な感じだ。
【何してんの】
『レポートだよ』
【なんでこんなとこでやってんの。なんかあった?】
まーくんがいつもこうやってぼくを気にかけてくれるので、つい甘えた気持ちが出て、弱音を吐きたくなってしまう。
でも、それじゃダメだってわかってる。だって、まーくんがぼくに弱音を吐くことはないから、バランスが悪いというか……。
だからシンプルに、事実だけを伝えることにする。
『タブレット壊れちゃった。でも夏休みに買い直すから、大丈夫!』
【早く言え、そういうことは。レポート、まだかかる?】
『もう終わる』
【外で待ってる】
まーくんはジェスチャーで出口のほうを示して、ソファのあるスペースのほうに歩いて行った。すれ違う女の子たちがまーくんを見て、カッコイイ、と言い合っていたのをぼくは見逃さなかった。口の動きや表情でわかった。今の男の子、カッコイイ、って。
誰から見てもカッコイイ男の子として生きるっていうのは、どういう気持ちだろう?
ぼくはまーくんに憧れるばかりだけど、きっと楽なことばかりじゃない。まーくんの大変さみたいなのも、ぼくはわかってあげたいんだけど。
何しろ、まーくんは大変そうなところを、ぼくにぜんぜん見せないんだよな〜!
ぼくがパソコンルームを出ると、まーくんはソファから立ち上がった。まーくんの顔を見て、ぼくは(今日お鍋にしようかなぁ。まーくん、食べるかなぁ)と考える。
ぼくとまーくんは、なんだかんだでほとんど毎日一緒にご飯を食べている。ぼくが作る時もあれば、まーくんが具をめいっぱい乗せたインスタントラーメンを作ってくれることもあるし、時々は外食もする。
ぼくは毎日一緒に遊べて嬉しいけれど、まーくん、カノジョがいるのならいつデートをしているんだろう。どう考えても、カノジョよりもぼくと一緒にいる時間のほうが、長い気がするんだけどいいのかな。
「何食う? 今夜」
「お鍋は? 味噌鍋の素があるよ」
「お、いいね。じゃあ決まり」
一緒にスーパーに行く。鍋なら、材料費は折半すればいいのだ。季節は初夏だけど、ぼくは実家にいた頃から年がら年中鍋を食べる暮らしだった。白菜だってしいたけだってニラだって一年中買える。だから我が家は冬しか食べない、ということもなく、一年中食卓に登場した。まーくんは、冬以外に鍋を食べよう、と言っても、不思議がることも笑うこともない。そしてぼくは、一年中麦茶を作るタイプだ。
「なんで言わないんだ」
「何が?」
「タブレット壊れたって」
「……」
だって言ったら、まーくんパソコン持ってるから使わせてくれたりとかするだろうし、迷惑かけちゃうから……。
ぼくはなるべくまーくんに甘えたくないのだ。すでに甘えまくっているけれど、これ以上は。
ぼくが黙っていると、まーくんはそれ以上詰めてこない。本当に優しいなぁ、って思う。ぼくを理詰めでやり込めることなんて、まーくんにはいくらでもできてしまうはずなのだ。
スーパーで買いものをして、いつものように自転車に積む。重たいぼくの自転車を、まーくんが漕いでくれる。
ぼくは自転車で走る帰り道が、いつもきらきらしているように思えた。自転車は、小さい頃から乗っているのに。地元の田んぼの横をひとりで走って通学していた時の気持ちとは、また違う。見晴らしのいい田舎と、入り組んだ都会。その違いだけじゃない何かが、確かにあるような気がしている。
「あ、牛乳忘れた!」
「コンビニ行くぞ、コンビニ」
温めた牛乳に、まーくんがコーヒーを足してカフェオレを作ってくれるのだ。高校生の頃まではパックのコーヒー牛乳しか飲んだことがなかったのに、なんだかすごくカッコイイ暮らしをしているような感覚。全部、まーくんのおかげだけど。
最初の頃は、やっぱり疲れるな、とか、エレベーターあるとこにすればよかったかな、とか考えたりもしたけれど、まーくんと一緒に競争しながら上ると一瞬だった。一回も勝てたことないけど。
大学生って、きっと人生で一番楽しい時間だよ、と言われたことがある。子どもには子どもの楽しさがあるし、大人には大人の楽しさもあるけれど。でもやっぱり、大学生の自由さは格別だって。
ぼくがうんと大人になった時。大学生の頃楽しかったな~って思う時。その思い出を振り返ると、きっと絶対にまーくんがいるんだ。
それはすごく嬉しいことだけど、この楽しさや嬉しさが永遠には続かないことの証明でもある。それは少し、切なかった。
「ユウキ、真夏になる前に冷房つけてみろよ。壊れてたら管理会社に電話しろ」
「うん。フィルターも最初に掃除しなくっちゃな……」
初夏、ぼくたちは汗だくになりながら味噌鍋を食べた。ベランダの窓を開けると、すごく気持ちのいい風が入ってきて汗を冷やしてくれる。
シメの雑炊を作ろうとして、まーくんが「おれんとこの卵、賞味期限明日なんだけど。持ってきていい?」と言った。
「うん、ありがと」
流しっぱなしの動画サイトで、屋上のバーベキューをしている配信が流れてきた。このマンションの屋上によく似ていた。ぼくは今までバーベキューなんて華やかな遊びはした記憶がない。
ぼくが画面を見つめていると、いつの間にか戻ってきたまーくんが「ほら」と言って、ぼくの頭の上に何かを乗せた。ひんやりとした、硬い感触。
「わっ! なに!?」
「貸してやるよ。おれ、新しくしたばっかりだから」
「……」
それはタブレットだった。ぼくがこの前まで使っていたお兄ちゃんのお下がりよりもずっと新しい機種のやつ。型落ちでも、まだまだ高いやつ。
「え~! 借りられないよ!」
「なんでだよ。使ってねーもん」
「だって下取り出したら高いよ! こんなにきれいなんだもん! ぼくが使って壊したりしたらどーするの!?」
まーくんは笑って、「いーよ。気にすんな」と言った。
「夏に買い替えるまで、ないと不便だろ。別にずっとおまえが持っててもいいけど」
「……」
ぼくがタブレットの暗い画面に映った自分の情けない顔を、むう、と見つめていると、まーくんがカセットコンロで鍋を温め直して、雑炊を作ってくれた。シメの雑炊の作り方は、この前ぼくが教えた。鍋は二度目なのだ。
「……いいの?」
「まだ遠慮してたのかよ。いーよ」
「レンタル代払う」
「くっくっく」
卵を落として閉じていた蓋を開けると、ふわ、と湯気が立ち上る。いい感じ。まーくんって、本気で料理したらぼくより絶対うまいと思う。器用なんだもん。
「そんなに言うなら、就職してからの出世払いでなんか奢ってくれ。寿司とか」
「そんなのまだ先だよ~」
そう言いつつぼくは、何年も先のまーくんとの約束ができたような気がして嬉しかった。
絶対傷とかつけないようにしなくちゃ、と気を引き締めて、ありがたく借りることにする。
「この配信者、いっつもバーベキューしてるよな」まーくんが、テレビに映している動画を見ながら言う。
「ね、この屋上、うちの屋上みたいだよね」
「あ~、引っ越してくる時さ、管理会社にすげー言われたよな。屋上は出入り自由ですが、バーベキューと花火だけは禁止です!! って。かなり強めに」
「えっ!? ぼくそんなこと言われなかったよ」
「は~!? あの管理会社、人によって態度変えてんのかよ! おまえがいい子そうだから言わなかったんだろ! おれが事件でもやらかしそうに見えたのかな」
「……というか、ぼくがバーベキューやるようなタイプに見えなかったからだと思う……暗いし……陰キャはバーベキューなんてしないから……」
「おまえは暗くないだろ。大人しいかと思ってたけど、大人しいっていうよりは……」
いうよりは?
ぼくはまーくんの言葉の続きを待った。冷蔵庫には、デザートのプリンがふたつ。
まーくんは立ち上がって、冷蔵庫からプリンを出した。鍋の中は空っぽ。洗い物も、いつもふたりでする。
「夏休みはどこかでバーベキューするか」
「したい! ねぇ、まーくん」
「ん~」
「ぼく、大人しいっていうよりは、何?」
「……」
まーくんはプリンの蓋を、ぺり、と剥がして、少し視線を天井のほうに向けた。これはまーくんが何かを考えている時の癖なのだと、最近気づいた。
「ナイショ」
「え~! 気になるよ~!」
東京の夜って、明るい。そして想像していたよりも、ずっと静かだ。
「明日さ、午後休講なんだ。おまえ、もともと午後ないだろ。どっか行くか」
うん、と言いかけて、ふと思う。
まーくん、ぼくとばっかり一緒にいていいんだろうか。友だちもいっぱいいるだろうし、(よく友だちと歩いているところを大学で見かけるからだ)それにカノジョだって──……。
「……」
まーくん、部屋から出てきた女の子と、いつからつき合ってるのかな。まーくんも上京してきたばっかりだし、大学に入ってから? 入学してすぐカノジョできるのすごいな、ぼくなんか環境に慣れるのに精いっぱいだった。
「ユウキ」
「えっ?」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、まーくんがぼくを覗き込んでいた。近くで覗いた目は、きらきらできれいだ。ぼくがそんなことを考えていると、まーくんが「おまえ、目キレーだな」と言った。心を読まれた気がして、ちょっとだけ驚いてどきどきした。
「おれ、おまえのこと独占しすぎかな」
「え?」
「昨日も今日も明日も、なんて。他のこと、できなくなっちゃうよな。ごめん。他の奴とも遊びたいだろうし」
ぼくは首をぶんぶん横に振って、「そ、そんなことないよ! ぼく、そんなに友だちいないからヒマだし、まーくんのほうが、」と言った。
「おれのほうが?」
ここまで言ったら、もう全部言わなきゃいけない流れだ。
ぼくはつっかえながら、「……まーくんのほうが、ぼく以外の人とも予定あるかな、って……ぼくといるより、楽しいかもしれないし……」と言った。カノジョとか。それについては、聞けない……。
「あっはっは」
まーくんは大きな声で笑った。風が膨らませるレースカーテン。夜はすっかり、深いところまで進んでいる。
「おれが誘ってんじゃん!」
「……」
「おまえがいいなら、遊びたいけど。毎日」
「まーくん」
「うん」
「なんで、ぼくにこんなに優しいの?」
デスクの上に、まーくんから借りたタブレット。充電して、明日からお世話になる。
「……」今度はぼくじゃなくて、まーくんが黙った。ちょっと珍しい。
「お隣りどうしだから?」ぼくは、そう聞いてみた。
これは、かなり有力だと思う。たまたまマンションの隣の部屋が、同じタイミングで上京してきた同じ大学の学生だなんて、ドラマみたいだし。まーくんはドラマの主役でもおかしくない、カッコイイから。ぼくがもうちょっとカッコよければ、本当にドラマみたいだったけど。
まーくんはぼくの鼻をきゅう、と摘まんで、「そうかもな」と言った。
その話は、そこで終わった。動画サイトからかわいい猫の動画が流れてきたからだ。まーくんは猫を見ながら、かわいいな、と呟いた後、「夏、行こうな。バーベキュー」と言った。
ぼくは嬉しくて、「ぼく、初めて。バーベキュー」と答えた。
夏はバイトも探さなくちゃ。大学生って、すごくすてきな時間なんだって。ぼくはぼんやりしてるし、不器用だし、うまくいかないことも多いけど。でも自分なりに楽しい時間にしたい。まーくんにも、喜んでもらえるように。
お開きになった後、まーくんから借りたタブレットを立ち上げる。
「まーくん! SNS全部ログインしたままだよ! ぼくが悪者だったら乗っ取られちゃうよ~!」
ぼくが翌日それを伝えると、まーくんはけろっとした顔で「いーよ、おまえなら。見ても」と言った。
よくないよ、と答えて、まーくんの目の前でひとつずつログアウトしながら、「まーくんってけっこう、人を信用しすぎなところない?」と聞いた。
まーくんは首を傾げて、「そうか?」と笑う。
そうだよ、と言いながら、信用されている気がして少しくすぐったい。夏休みはすぐそこだ。大学の夏休みって、信じられないくらいに長い。
タブレットのアプリは、まーくんの意向もあってひとつだけ連携されたままだ。スケジュール管理アプリ。ぼくたちふたりの予定は、まーくんによってそこに書きこまれて更新されていく。
夏が来るのだ。もう来ている。冷房のチェックは、もうばっちりだ。
お世辞にも新しくなかったし、もう就職したお兄ちゃんからのお下がりだったから、寿命だったとも言える。
しかし、ぼくはレポートの提出などをすべてこのタブレットに頼りきって、入学からの数ヶ月を過ごしていたのだ。幸いにもデータはクラウド上でぴかぴかと輝きながら生存している。じゃあスマホで出しちゃお、と思ったけれど、スマホで作業するのは思った以上に不便だった。大学のシステムっていうのは、講義によって使い方が違ったり、そもそも教授が独自のものを使っていたりで、どうも安定しない。でも大学生は、すべてが自己責任。高校生までは、先生に「タブレット壊れました」と言えば手厚く面倒を見てもらえたかもしれないけれど、大学に上がってしまえばそんなことはない、出せなければ落第なのだ。
実家の両親に、タブレットを買うお金をもらうのも気が引けてしまう。仕送りからちまちまと節約して貯めているお金で買うことを考えたけれど、互換性やら、卒業まで使いたいことやらを考えれば、ちゃんとしたものを買いたいし……。
「わ〜ん! お金ないよ〜! アルバイト探さなくっちゃ〜!」
ぼくは大学のパソコンルームでレポートを整えながら、生きていくことの厳しさを思う。とにかく課題も試験もクリアして、無事に夏休みに入ることが最優先。それまでは大学のパソコンルームやネットカフェでなんとかしよう。夏休みになったらバイトを探して、タブレットを買うお金を貯めるのだ。
ぼくが己の立てた計画に満足して頷いていると、パソコンルームのガラス張りの壁を、コツン、と叩く音がする。
は、と顔を上げると、まーくんが立っていた。ぼくは嬉しくなって、ニコニコで手を振った。まーくんはスマホを出して、ぼくにメッセージを送ってくる。目の前にいるのにSNSでお喋りするなんて、不思議な感じだ。
【何してんの】
『レポートだよ』
【なんでこんなとこでやってんの。なんかあった?】
まーくんがいつもこうやってぼくを気にかけてくれるので、つい甘えた気持ちが出て、弱音を吐きたくなってしまう。
でも、それじゃダメだってわかってる。だって、まーくんがぼくに弱音を吐くことはないから、バランスが悪いというか……。
だからシンプルに、事実だけを伝えることにする。
『タブレット壊れちゃった。でも夏休みに買い直すから、大丈夫!』
【早く言え、そういうことは。レポート、まだかかる?】
『もう終わる』
【外で待ってる】
まーくんはジェスチャーで出口のほうを示して、ソファのあるスペースのほうに歩いて行った。すれ違う女の子たちがまーくんを見て、カッコイイ、と言い合っていたのをぼくは見逃さなかった。口の動きや表情でわかった。今の男の子、カッコイイ、って。
誰から見てもカッコイイ男の子として生きるっていうのは、どういう気持ちだろう?
ぼくはまーくんに憧れるばかりだけど、きっと楽なことばかりじゃない。まーくんの大変さみたいなのも、ぼくはわかってあげたいんだけど。
何しろ、まーくんは大変そうなところを、ぼくにぜんぜん見せないんだよな〜!
ぼくがパソコンルームを出ると、まーくんはソファから立ち上がった。まーくんの顔を見て、ぼくは(今日お鍋にしようかなぁ。まーくん、食べるかなぁ)と考える。
ぼくとまーくんは、なんだかんだでほとんど毎日一緒にご飯を食べている。ぼくが作る時もあれば、まーくんが具をめいっぱい乗せたインスタントラーメンを作ってくれることもあるし、時々は外食もする。
ぼくは毎日一緒に遊べて嬉しいけれど、まーくん、カノジョがいるのならいつデートをしているんだろう。どう考えても、カノジョよりもぼくと一緒にいる時間のほうが、長い気がするんだけどいいのかな。
「何食う? 今夜」
「お鍋は? 味噌鍋の素があるよ」
「お、いいね。じゃあ決まり」
一緒にスーパーに行く。鍋なら、材料費は折半すればいいのだ。季節は初夏だけど、ぼくは実家にいた頃から年がら年中鍋を食べる暮らしだった。白菜だってしいたけだってニラだって一年中買える。だから我が家は冬しか食べない、ということもなく、一年中食卓に登場した。まーくんは、冬以外に鍋を食べよう、と言っても、不思議がることも笑うこともない。そしてぼくは、一年中麦茶を作るタイプだ。
「なんで言わないんだ」
「何が?」
「タブレット壊れたって」
「……」
だって言ったら、まーくんパソコン持ってるから使わせてくれたりとかするだろうし、迷惑かけちゃうから……。
ぼくはなるべくまーくんに甘えたくないのだ。すでに甘えまくっているけれど、これ以上は。
ぼくが黙っていると、まーくんはそれ以上詰めてこない。本当に優しいなぁ、って思う。ぼくを理詰めでやり込めることなんて、まーくんにはいくらでもできてしまうはずなのだ。
スーパーで買いものをして、いつものように自転車に積む。重たいぼくの自転車を、まーくんが漕いでくれる。
ぼくは自転車で走る帰り道が、いつもきらきらしているように思えた。自転車は、小さい頃から乗っているのに。地元の田んぼの横をひとりで走って通学していた時の気持ちとは、また違う。見晴らしのいい田舎と、入り組んだ都会。その違いだけじゃない何かが、確かにあるような気がしている。
「あ、牛乳忘れた!」
「コンビニ行くぞ、コンビニ」
温めた牛乳に、まーくんがコーヒーを足してカフェオレを作ってくれるのだ。高校生の頃まではパックのコーヒー牛乳しか飲んだことがなかったのに、なんだかすごくカッコイイ暮らしをしているような感覚。全部、まーくんのおかげだけど。
最初の頃は、やっぱり疲れるな、とか、エレベーターあるとこにすればよかったかな、とか考えたりもしたけれど、まーくんと一緒に競争しながら上ると一瞬だった。一回も勝てたことないけど。
大学生って、きっと人生で一番楽しい時間だよ、と言われたことがある。子どもには子どもの楽しさがあるし、大人には大人の楽しさもあるけれど。でもやっぱり、大学生の自由さは格別だって。
ぼくがうんと大人になった時。大学生の頃楽しかったな~って思う時。その思い出を振り返ると、きっと絶対にまーくんがいるんだ。
それはすごく嬉しいことだけど、この楽しさや嬉しさが永遠には続かないことの証明でもある。それは少し、切なかった。
「ユウキ、真夏になる前に冷房つけてみろよ。壊れてたら管理会社に電話しろ」
「うん。フィルターも最初に掃除しなくっちゃな……」
初夏、ぼくたちは汗だくになりながら味噌鍋を食べた。ベランダの窓を開けると、すごく気持ちのいい風が入ってきて汗を冷やしてくれる。
シメの雑炊を作ろうとして、まーくんが「おれんとこの卵、賞味期限明日なんだけど。持ってきていい?」と言った。
「うん、ありがと」
流しっぱなしの動画サイトで、屋上のバーベキューをしている配信が流れてきた。このマンションの屋上によく似ていた。ぼくは今までバーベキューなんて華やかな遊びはした記憶がない。
ぼくが画面を見つめていると、いつの間にか戻ってきたまーくんが「ほら」と言って、ぼくの頭の上に何かを乗せた。ひんやりとした、硬い感触。
「わっ! なに!?」
「貸してやるよ。おれ、新しくしたばっかりだから」
「……」
それはタブレットだった。ぼくがこの前まで使っていたお兄ちゃんのお下がりよりもずっと新しい機種のやつ。型落ちでも、まだまだ高いやつ。
「え~! 借りられないよ!」
「なんでだよ。使ってねーもん」
「だって下取り出したら高いよ! こんなにきれいなんだもん! ぼくが使って壊したりしたらどーするの!?」
まーくんは笑って、「いーよ。気にすんな」と言った。
「夏に買い替えるまで、ないと不便だろ。別にずっとおまえが持っててもいいけど」
「……」
ぼくがタブレットの暗い画面に映った自分の情けない顔を、むう、と見つめていると、まーくんがカセットコンロで鍋を温め直して、雑炊を作ってくれた。シメの雑炊の作り方は、この前ぼくが教えた。鍋は二度目なのだ。
「……いいの?」
「まだ遠慮してたのかよ。いーよ」
「レンタル代払う」
「くっくっく」
卵を落として閉じていた蓋を開けると、ふわ、と湯気が立ち上る。いい感じ。まーくんって、本気で料理したらぼくより絶対うまいと思う。器用なんだもん。
「そんなに言うなら、就職してからの出世払いでなんか奢ってくれ。寿司とか」
「そんなのまだ先だよ~」
そう言いつつぼくは、何年も先のまーくんとの約束ができたような気がして嬉しかった。
絶対傷とかつけないようにしなくちゃ、と気を引き締めて、ありがたく借りることにする。
「この配信者、いっつもバーベキューしてるよな」まーくんが、テレビに映している動画を見ながら言う。
「ね、この屋上、うちの屋上みたいだよね」
「あ~、引っ越してくる時さ、管理会社にすげー言われたよな。屋上は出入り自由ですが、バーベキューと花火だけは禁止です!! って。かなり強めに」
「えっ!? ぼくそんなこと言われなかったよ」
「は~!? あの管理会社、人によって態度変えてんのかよ! おまえがいい子そうだから言わなかったんだろ! おれが事件でもやらかしそうに見えたのかな」
「……というか、ぼくがバーベキューやるようなタイプに見えなかったからだと思う……暗いし……陰キャはバーベキューなんてしないから……」
「おまえは暗くないだろ。大人しいかと思ってたけど、大人しいっていうよりは……」
いうよりは?
ぼくはまーくんの言葉の続きを待った。冷蔵庫には、デザートのプリンがふたつ。
まーくんは立ち上がって、冷蔵庫からプリンを出した。鍋の中は空っぽ。洗い物も、いつもふたりでする。
「夏休みはどこかでバーベキューするか」
「したい! ねぇ、まーくん」
「ん~」
「ぼく、大人しいっていうよりは、何?」
「……」
まーくんはプリンの蓋を、ぺり、と剥がして、少し視線を天井のほうに向けた。これはまーくんが何かを考えている時の癖なのだと、最近気づいた。
「ナイショ」
「え~! 気になるよ~!」
東京の夜って、明るい。そして想像していたよりも、ずっと静かだ。
「明日さ、午後休講なんだ。おまえ、もともと午後ないだろ。どっか行くか」
うん、と言いかけて、ふと思う。
まーくん、ぼくとばっかり一緒にいていいんだろうか。友だちもいっぱいいるだろうし、(よく友だちと歩いているところを大学で見かけるからだ)それにカノジョだって──……。
「……」
まーくん、部屋から出てきた女の子と、いつからつき合ってるのかな。まーくんも上京してきたばっかりだし、大学に入ってから? 入学してすぐカノジョできるのすごいな、ぼくなんか環境に慣れるのに精いっぱいだった。
「ユウキ」
「えっ?」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、まーくんがぼくを覗き込んでいた。近くで覗いた目は、きらきらできれいだ。ぼくがそんなことを考えていると、まーくんが「おまえ、目キレーだな」と言った。心を読まれた気がして、ちょっとだけ驚いてどきどきした。
「おれ、おまえのこと独占しすぎかな」
「え?」
「昨日も今日も明日も、なんて。他のこと、できなくなっちゃうよな。ごめん。他の奴とも遊びたいだろうし」
ぼくは首をぶんぶん横に振って、「そ、そんなことないよ! ぼく、そんなに友だちいないからヒマだし、まーくんのほうが、」と言った。
「おれのほうが?」
ここまで言ったら、もう全部言わなきゃいけない流れだ。
ぼくはつっかえながら、「……まーくんのほうが、ぼく以外の人とも予定あるかな、って……ぼくといるより、楽しいかもしれないし……」と言った。カノジョとか。それについては、聞けない……。
「あっはっは」
まーくんは大きな声で笑った。風が膨らませるレースカーテン。夜はすっかり、深いところまで進んでいる。
「おれが誘ってんじゃん!」
「……」
「おまえがいいなら、遊びたいけど。毎日」
「まーくん」
「うん」
「なんで、ぼくにこんなに優しいの?」
デスクの上に、まーくんから借りたタブレット。充電して、明日からお世話になる。
「……」今度はぼくじゃなくて、まーくんが黙った。ちょっと珍しい。
「お隣りどうしだから?」ぼくは、そう聞いてみた。
これは、かなり有力だと思う。たまたまマンションの隣の部屋が、同じタイミングで上京してきた同じ大学の学生だなんて、ドラマみたいだし。まーくんはドラマの主役でもおかしくない、カッコイイから。ぼくがもうちょっとカッコよければ、本当にドラマみたいだったけど。
まーくんはぼくの鼻をきゅう、と摘まんで、「そうかもな」と言った。
その話は、そこで終わった。動画サイトからかわいい猫の動画が流れてきたからだ。まーくんは猫を見ながら、かわいいな、と呟いた後、「夏、行こうな。バーベキュー」と言った。
ぼくは嬉しくて、「ぼく、初めて。バーベキュー」と答えた。
夏はバイトも探さなくちゃ。大学生って、すごくすてきな時間なんだって。ぼくはぼんやりしてるし、不器用だし、うまくいかないことも多いけど。でも自分なりに楽しい時間にしたい。まーくんにも、喜んでもらえるように。
お開きになった後、まーくんから借りたタブレットを立ち上げる。
「まーくん! SNS全部ログインしたままだよ! ぼくが悪者だったら乗っ取られちゃうよ~!」
ぼくが翌日それを伝えると、まーくんはけろっとした顔で「いーよ、おまえなら。見ても」と言った。
よくないよ、と答えて、まーくんの目の前でひとつずつログアウトしながら、「まーくんってけっこう、人を信用しすぎなところない?」と聞いた。
まーくんは首を傾げて、「そうか?」と笑う。
そうだよ、と言いながら、信用されている気がして少しくすぐったい。夏休みはすぐそこだ。大学の夏休みって、信じられないくらいに長い。
タブレットのアプリは、まーくんの意向もあってひとつだけ連携されたままだ。スケジュール管理アプリ。ぼくたちふたりの予定は、まーくんによってそこに書きこまれて更新されていく。
夏が来るのだ。もう来ている。冷房のチェックは、もうばっちりだ。

