一度幸せを感じてしまうと、変化させるのはすごーく怖く思えるみたいだ。
ぼくはまーくんの部屋のベッドの上、見慣れた天井を見つめながら、これからの人生について、なんて大袈裟かもしれないけれどなかなか真剣なことを考えている。
ぼくの部屋の天井と、まーくんの部屋の天井。同じ色で同じ素材だけど、長い築年数でついたちょっとした汚れや傷に個性がある。
その日は午後から、真尋さんが遊びに来た。真尋さんは相変わらず神出鬼没だ。そして相変わらずきれいだ。まーくんと真尋さんはびっくりするぐらいキツい口喧嘩をしょっちゅうしていて、ぼくは以前はハラハラしていたけれど、これがこの兄弟の仲の良さの形なのだな、と気づいたら、すっかり慣れて、安心するようにさえなった。
まーくんが三人分のコーヒーを淹れてくれている間、真尋さんはぼくに聞いた。
「就職、決まった?」
ぼくは「はい」と頷いた。採用連絡が来た時は本当にほっとした。ぼくは卒業したら無事社会人として働き始めることがある。
「おめでと〜」
「ありがとうございます。まーくんも決まったので、お祝いでどこかに行こうと思って」
真尋さんは目を細めて笑い、「昌弘が就職するの、意外だった。実入りのいい、違法と合法の狭間みたいなヤベー仕事して、ぎりぎりグレーな人生で生きていくと思ってたから」と言った。
ぼくはそれを冗談だと思ってケタケタ笑った。真尋さんは、「ホントだぞ。もうきみも薄々気づいているだろうけど、ウチの家族はみんな、こう……まともじゃないから。だからさ、きみがいるからだ。ウチの弟が、まともな道を歩みつつあるのは」と言う。
「こいつに余計なこと言うなよ」
まーくんがコーヒーをテーブルに置きながら、真尋さんを睨んだ。
「は〜い」
「ていうか真尋おまえ、変な仕事して逮捕されたりすんなよ。迷惑だからな、実兄に前科。縁切るからな」
「実兄に実刑かぁ」
「死ね!! 帰れ!!」
「ハァ!? なんだとテメェ兄さんに向かってなんだその口のきき方は!」
コーヒー、おいし〜。
真尋さんはぼくに、「引っ越したらどうすんの? ここ。不便だろ」と聞いた。口喧嘩から流れるように通常の会話に戻っていく、このシームレス。
「はい。でもここ、好きなので。ここに住み続けたいと思って」
ぼくが答えると、真尋さんはうんうん、と頷いた。
「ふ〜ん。昌弘、家買ってやれ。ヤバい仕事で」
「ヤバい仕事で稼いだ金でユーキを養えるわけないだろうが!! そんな汚い金で!! 出ていけ!!」
真尋さんが「仕事行く〜」と言って、マイペースに帰っていく。ぼくはまーくんが注いでくれたコーヒーのおかわりを飲みながら、「でも、社会人になったらお金を貯めて、まーくんと暮らす家を買いたいな」と言った。
近年の物価高騰を考えると、まだ世間を知らない、甘ったれの学生の言うことだなぁ、という感じかもしれないけれど。だって東京に家なんて買ったら、いくら必要なんだっていう……。
まーくんがぼくの作ったご飯を食べるたびに渡してくれる五百円玉貯金も継続されていて、卒業まで続けたらけっこうな大金だ。何しろ、一年生の頃からやっているんだから。まだ使っていない。まーくんはぼくに、好きなものを買えって言うけれど、まーくんのお金だし。
「はっ。あの五百円玉貯金、頭金にしよう!!」
「アッハッハ!!」
まーくんはテーブルに突っ伏して笑ったあと、ぼくの頬っぺたをつまんだ。つまんだあとに、包むみたいに撫でてくれる、いつもの大きな手。
「おまえ、いいのかよ。おれなんかのために、家を買う決断して」
「うん」
「どうする。おれがおまえを閉じ込めて、外に出さなかったら」
まーくんがこういうことを言うのはいつものことで、ぼくはすっかり慣れちゃっていたけれど。ふと、本当にそうなったら? と想像してみて、いつも不思議になる。
「まーくん、ぼくいつも思ってたんだけど」
「うん」
「ぼく、逃げないのに?」
「……」
まーくんのぼくを見る目は、いつも優しい。リビングに射しこむ光に包まれているぼくたちは、世界にふたりきりみたいに思える。
ぼくはまーくんと一緒なら、どこにいてもそう思えることができた。恋っていうものは、他の何とも違う特別なものなんだって、知ることができた。
「ユーキ」
「うん」
「おれでいいのか。大事にするよ、一生」
「……」
ぼくは頷いて、うん、と言った。少しだけ目が染みて、眩しい陽射しに涙が光って、余計に眩しくて目を閉じる。まーくんがキスしてくれる。ぼくはこの時間を変えたくないと思う。宝石みたいに固まってしまえばいいのにな。
とは言え、時間は動くし何もしなくても歳はとるのだ。
ぼくが人生最大、といって差し支えないくらいの大失敗を仕出かしたのは、四年生の時。
今時、と驚かれるかもしれないが、ぼくとまーくんの通う大学は、卒論は現物での提出のみしか認められてない。電子提出の仕組みがないのだ。まぁよく考えれば卒論なんて大切なもの、締切日にシステムエラーなんて起きたら一大事だし。セキュリティシステムに侵入されて、全部クラッシュしたりしたら、なんて、考えるだけで怖いし。
だからプリントアウトしたものを、学生課に直接提出、というのは理に適ったことなのかもしれない。アナログ、と揶揄されることにも、ひとつひとつ理由があるものだ。
ぼくが卒論を提出しようと思ったのは、締切日だった。なんでももっと余裕を持たないんだ、と言われたら、それはそうなんだけど。なんか、少し直し始めると小さなところがいつまでも気になっちゃって、結局ギリギリまで直していたのだ。
「まーくんは?」
「もう先週出した。おれはこだわりがないから、卒論をよりよくしよう、なんていう向上心がないんだよ。これでいいや、みたいに見切りつけちゃうんだ。えらいな、おまえは」
いや、大人ってそういうことだと思う。仕事だって、そうやって納期を守らないといけないんじゃないかな……。
ぼくはまーくんが淹れてくれたコーヒーを飲みながらギリギリまで卒論を直して、深夜のコンビニでまーくんと一緒にプリントアウトした。これも大学ですれば安いのに、ギリギリだとこういう余計な出費が嵩むのだ。数千円がかかっちゃう。そうして学校指定のファイルに挟んで、表紙に学部、学生番号、卒論のタイトルを記入した紙を貼る。糊で。
提出期限は正午。それを過ぎたら絶対に受けつけてもらえなくて、問答無用で留年となる。就職活動もやり直し。来年の入社でいいよ、なんていう優しい企業もあるらしいけれど、ほとんどはそうじゃない。社会はそんなに甘くないのだ。毎年そういう学生が何人か必ず出る、とゼミの助手の先生にさんざん脅された。
翌日、ぼくとまーくんはちょっぴり寝坊した。むしろまーくんが起きてくれなかったらぼくは留年決定だった、という時間だった。
ぼくは大急ぎで身支度して、五階分の階段を駆け下りて、新記録くらいの速さで自転車に飛び乗り、大学へ向かった。
学生課のドアを開いたのは十一時五十分。ぼく同様、ギリギリ滑り込みの同級生が列を成している。
「ま、間に合った……危なかった……アレ?」
ぼくはリュックを漁りながら、すぅ、と血の気が引いていくのを感じた。本当に、身体中の血が抜けたんじゃないか、と思うくらいに身体が冷たくなったのだ。
忘れたのだ。完成させた卒論を、マンションの五階にある部屋に。
ぼくはかねてから自分がボーッとしていることも頼りないことも注意力散漫なぽんこつであることも自覚していたけれど、
これはもう、いくら急いだとしても間に合わない。どうしよう。ぼくはいっぺんに、お父さんのことやお母さんのことや就職先のことや、いろんなことをぐるんぐるん走馬灯のように考えてふらついたところで、肩を後ろから掴まれて支えられた。
「わ、」
多分ぼくと同じか、それ以上のスピードで階段を降りて自転車に乗ってここまで来たのであろう息を切らせたまーくんが、ぼくに「このばか」と言った。
まーくんの手には、ぼくが忘れてきた卒論があった。
「……まーくん……え……神さま……?」
「おまえ、ホント……いや、出がけでおれが気づいてやればよかったな、おまえ、海外旅行の時にパスポート忘れて飛行機乗れないタイプだろ……いいけど、おれが気をつけるから、これから……」
学生課のスタッフの人が、「次の学生さん、どうぞ〜」と言った。ぼくが卒論を出すと、スタッフさんはキーボードをぱちぱち叩いて、ぼくの名前と学生番号の入った【卒業論文受領証】をプリントアウトして、大学のハンコをばん、と押してくれた。
「はい、確かに受理しました。次の学生さん、どうぞ〜」
ぼくはまーくんにほとんど抱っこされてるみたいにふらふらしながら、学生課を出た。まーくんは今日は講義もないし、卒論もとっくに提出していたから、本当は来る用事なんてなくて、ぼくが卒論出しに行っている間、部屋でのんびりして、洗濯物を干してくれているはずだった。多分洗濯物は今頃洗濯機の中でぐるんぐるん回っている。もしくはそろそろ洗濯の全工程が終了して、冷たいしわくちゃの布として洗濯機の中で取り出されるのを待っているのかもしれない。
「ま、まーくん、うう、」
「泣くな」
「うええええ〜〜〜んうわああ〜〜〜〜ん」
ぼくがあまりに派手に泣くので、通行中の学生たちの視線を独り占めだったけれど、まーくんは「恥ずかしいから泣くな」なんてことはぼくに言わない。ぼくをジャンパーの中に包んで、「かわいーやつ。泣くなよ、もう出せたんだ、無事卒業だ。心配するな」と笑ってくれた。
まーくんの自転車は、大学の正門のど真ん中に乗り捨てられており、盗まれても文句言えない、みたいな状態で放置されていて、まーくんが自転車(しかもけっこう高いやつ)の安全よりぼくの卒論を優先してくれたことがわかって、胸がぎゅうっとなった。
なお、その自転車は幸運なことに、まーくんが乗り捨てて走って行ったのをたまたま見かけたぼくの友人、秋良が見張っていてくれた。端に寄せたりせずに、現状維持したまま。
ぼくが泣き顔でまーくんと現れると、秋良はおにぎりを食べながら正門ど真ん中にしゃがんで自転車をガードしながら、爆笑していた。詳細を聞くと、ますます笑っていた。笑い話で済んでよかったのだ、とぼくは思った。
「まーくん、イケメン〜。ドラマみたいだったよ、走ってさ〜メロ〜」
「うるせえ」
「いやまーくん、相変わらずボクのこと嫌いだね!? 御礼とかないんか! 見張っててやったのに! チャリを!」
まーくんは秋良に悪態をつきながらも、自動販売機でジュースを奢っていた。もう、ぼくが奢るべきなんだけど、まーくんはぼくがお財布を出すのを滅多に許さないタイプのカレシだった。
お昼の日射しが、大学の庭にもたっぷりと降り注いでいる。ぼくとまーくんは自転車を押しながら、マンションへ帰ることにした。
涙が止まって少し気持ちが落ち着くと、今度は落ち込んできた。自分のダメさ加減に。ぼくは昔からダメダメなところがあったけれど、これはもう決定打だ。自分のこの先が不安で仕方がない。まーくんがいなければ、ぼくは留年していたのだから。
「何食いたい、今日」
「……ぼくに晩ご飯を食べる資格があるのかな……」
「ふは、あ、あるだろ。元気出せ。その前に昼飯。おまえ、何も食ってないだろ」
「まーくんもでしょ」
「おれはいいんだよ」
よくない。
ぼくは落ち込みながら、今までの自分の失敗がフラッシュバックするのを感じている。そういえば高校の入試では、受験票を忘れかけて家まで戻った。それは自分で気づいたけど、それより前、あれは中学生の頃、修学旅行で京都に出かけた時、観光していたお寺のトイレに、学生証も定期も全部入ったお財布を丸ごと置き忘れて……あの時は……。
「おれは、ちょっと迷ったんだぞ。このまま卒論を届けるのやめようかな、って。おまえを卒業させないで、就職もさせないで、ずっと家に置いておこうかなって一瞬思った」
「まーくん、いつもそういうこと言うけど。絶対助けてくれるくせに」
お財布忘れた時。あの時、ぼくはもうほとんど諦めていた。というか、どこに忘れたかもその時はわかっていなくて、警察に届いていなければもう打つ手がない。遼平がお金を貸してくれるって言ったけれど、修学旅行先で友だちが使えるお金を減らしてまで買いたいものなんてないし、申し訳なくて断った。
でもお財布は戻ってきた。次の日、やはり修学旅行に来ていた別の中学校の子が、清水寺のところでぼくの肩を掴んで、「これ、おまえのだろ」と言ったのだ。中身は全部無事で、ぼくはその子と前日、トイレでちょっと喋ったのだ。というか、ぼくがアイスをこぼして制服を洗っていたらハンカチを貸してくれたので、嬉しくて駅でいっぱい買ったキーホルダーをあげたんだ。それでお財布を忘れて、その子が預かって、見つけてくれた。ぼくを。
ぼくが泣いてお礼を言うと、その子は「おまえ、パスポート忘れて飛行機乗れないタイプだろ。気をつけろよ、海外旅行の時」と言って……。
言って……。
ぼくは「えっ。まーくん、中学校の修学旅行さ、京都だった!?」と叫んだ。
まーくんは笑って、「おまえ、おれはどこに出しても恥ずかしくない本物のストーカーだぞ。一目惚れした相手を調べて、同じ大学に行って隣の部屋に住むくらい、ワケないことだ。おまえは疑う必要があるよ、財布を自分の過失で忘れたのか、それとも……」と言った。
ぼくはもう、あんまり驚かなかった。まーくんがそういう人だということに慣れていたし、偶然の出会いよりもそういう力技のほうが、らしいというか……。
まーくんとぼくは、なるべくしてなったおとなりどうしだ。そして恋人どうし。
「まーくんのおかげだなぁ」
「おまえ、そんなに寛容でいいのか? 一生逃げられないのに、のんきなやつ……そこがかわいいけど……」
言われてみればまーくんがカギにつけてる京都のキーホルダー、あの時ぼくがあげたやつだ。ぼくはなんだか、安心してしまった。この先ずっと、ぼくがどこかで迷子になってもまーくんが見つけてくれる気がして。いつも頼っちゃうけど。いつも甘えちゃうけど。
この気持ちが愛なのだ。愛の形は人それぞれ。人には人の、親告罪……。
ぼくがパスポートを作って、生まれて初めて海外旅行に行くのはきっとまーくんとの新婚旅行だ。忘れないように気をつけて、飛行機に乗る。そしてぼくは旅先でパスポートをなくす。まーくんが見つけてくれる。それが本当に過失なのかそれとも……。
「まーくん」
「ん〜」
「ぼくとまーくん、やっぱり運命だったのかも」
まーくんは笑う。
「おれもストーカーじゃなくて、運命クリエーターって名乗ることにするか」
そしてぼくは五百円玉貯金を頭金にいつかマイホームを買うことを夢見て、あのマンションの五階に住んでいる。まーくんと一緒に。ぼくはこの先きっと、どこで暮らしても、どこで何をしていても、まーくんと一緒にいるのだ。まーくんのおかげで!
(まーくんとぼくはおとなりどうし)
ぼくはまーくんの部屋のベッドの上、見慣れた天井を見つめながら、これからの人生について、なんて大袈裟かもしれないけれどなかなか真剣なことを考えている。
ぼくの部屋の天井と、まーくんの部屋の天井。同じ色で同じ素材だけど、長い築年数でついたちょっとした汚れや傷に個性がある。
その日は午後から、真尋さんが遊びに来た。真尋さんは相変わらず神出鬼没だ。そして相変わらずきれいだ。まーくんと真尋さんはびっくりするぐらいキツい口喧嘩をしょっちゅうしていて、ぼくは以前はハラハラしていたけれど、これがこの兄弟の仲の良さの形なのだな、と気づいたら、すっかり慣れて、安心するようにさえなった。
まーくんが三人分のコーヒーを淹れてくれている間、真尋さんはぼくに聞いた。
「就職、決まった?」
ぼくは「はい」と頷いた。採用連絡が来た時は本当にほっとした。ぼくは卒業したら無事社会人として働き始めることがある。
「おめでと〜」
「ありがとうございます。まーくんも決まったので、お祝いでどこかに行こうと思って」
真尋さんは目を細めて笑い、「昌弘が就職するの、意外だった。実入りのいい、違法と合法の狭間みたいなヤベー仕事して、ぎりぎりグレーな人生で生きていくと思ってたから」と言った。
ぼくはそれを冗談だと思ってケタケタ笑った。真尋さんは、「ホントだぞ。もうきみも薄々気づいているだろうけど、ウチの家族はみんな、こう……まともじゃないから。だからさ、きみがいるからだ。ウチの弟が、まともな道を歩みつつあるのは」と言う。
「こいつに余計なこと言うなよ」
まーくんがコーヒーをテーブルに置きながら、真尋さんを睨んだ。
「は〜い」
「ていうか真尋おまえ、変な仕事して逮捕されたりすんなよ。迷惑だからな、実兄に前科。縁切るからな」
「実兄に実刑かぁ」
「死ね!! 帰れ!!」
「ハァ!? なんだとテメェ兄さんに向かってなんだその口のきき方は!」
コーヒー、おいし〜。
真尋さんはぼくに、「引っ越したらどうすんの? ここ。不便だろ」と聞いた。口喧嘩から流れるように通常の会話に戻っていく、このシームレス。
「はい。でもここ、好きなので。ここに住み続けたいと思って」
ぼくが答えると、真尋さんはうんうん、と頷いた。
「ふ〜ん。昌弘、家買ってやれ。ヤバい仕事で」
「ヤバい仕事で稼いだ金でユーキを養えるわけないだろうが!! そんな汚い金で!! 出ていけ!!」
真尋さんが「仕事行く〜」と言って、マイペースに帰っていく。ぼくはまーくんが注いでくれたコーヒーのおかわりを飲みながら、「でも、社会人になったらお金を貯めて、まーくんと暮らす家を買いたいな」と言った。
近年の物価高騰を考えると、まだ世間を知らない、甘ったれの学生の言うことだなぁ、という感じかもしれないけれど。だって東京に家なんて買ったら、いくら必要なんだっていう……。
まーくんがぼくの作ったご飯を食べるたびに渡してくれる五百円玉貯金も継続されていて、卒業まで続けたらけっこうな大金だ。何しろ、一年生の頃からやっているんだから。まだ使っていない。まーくんはぼくに、好きなものを買えって言うけれど、まーくんのお金だし。
「はっ。あの五百円玉貯金、頭金にしよう!!」
「アッハッハ!!」
まーくんはテーブルに突っ伏して笑ったあと、ぼくの頬っぺたをつまんだ。つまんだあとに、包むみたいに撫でてくれる、いつもの大きな手。
「おまえ、いいのかよ。おれなんかのために、家を買う決断して」
「うん」
「どうする。おれがおまえを閉じ込めて、外に出さなかったら」
まーくんがこういうことを言うのはいつものことで、ぼくはすっかり慣れちゃっていたけれど。ふと、本当にそうなったら? と想像してみて、いつも不思議になる。
「まーくん、ぼくいつも思ってたんだけど」
「うん」
「ぼく、逃げないのに?」
「……」
まーくんのぼくを見る目は、いつも優しい。リビングに射しこむ光に包まれているぼくたちは、世界にふたりきりみたいに思える。
ぼくはまーくんと一緒なら、どこにいてもそう思えることができた。恋っていうものは、他の何とも違う特別なものなんだって、知ることができた。
「ユーキ」
「うん」
「おれでいいのか。大事にするよ、一生」
「……」
ぼくは頷いて、うん、と言った。少しだけ目が染みて、眩しい陽射しに涙が光って、余計に眩しくて目を閉じる。まーくんがキスしてくれる。ぼくはこの時間を変えたくないと思う。宝石みたいに固まってしまえばいいのにな。
とは言え、時間は動くし何もしなくても歳はとるのだ。
ぼくが人生最大、といって差し支えないくらいの大失敗を仕出かしたのは、四年生の時。
今時、と驚かれるかもしれないが、ぼくとまーくんの通う大学は、卒論は現物での提出のみしか認められてない。電子提出の仕組みがないのだ。まぁよく考えれば卒論なんて大切なもの、締切日にシステムエラーなんて起きたら一大事だし。セキュリティシステムに侵入されて、全部クラッシュしたりしたら、なんて、考えるだけで怖いし。
だからプリントアウトしたものを、学生課に直接提出、というのは理に適ったことなのかもしれない。アナログ、と揶揄されることにも、ひとつひとつ理由があるものだ。
ぼくが卒論を提出しようと思ったのは、締切日だった。なんでももっと余裕を持たないんだ、と言われたら、それはそうなんだけど。なんか、少し直し始めると小さなところがいつまでも気になっちゃって、結局ギリギリまで直していたのだ。
「まーくんは?」
「もう先週出した。おれはこだわりがないから、卒論をよりよくしよう、なんていう向上心がないんだよ。これでいいや、みたいに見切りつけちゃうんだ。えらいな、おまえは」
いや、大人ってそういうことだと思う。仕事だって、そうやって納期を守らないといけないんじゃないかな……。
ぼくはまーくんが淹れてくれたコーヒーを飲みながらギリギリまで卒論を直して、深夜のコンビニでまーくんと一緒にプリントアウトした。これも大学ですれば安いのに、ギリギリだとこういう余計な出費が嵩むのだ。数千円がかかっちゃう。そうして学校指定のファイルに挟んで、表紙に学部、学生番号、卒論のタイトルを記入した紙を貼る。糊で。
提出期限は正午。それを過ぎたら絶対に受けつけてもらえなくて、問答無用で留年となる。就職活動もやり直し。来年の入社でいいよ、なんていう優しい企業もあるらしいけれど、ほとんどはそうじゃない。社会はそんなに甘くないのだ。毎年そういう学生が何人か必ず出る、とゼミの助手の先生にさんざん脅された。
翌日、ぼくとまーくんはちょっぴり寝坊した。むしろまーくんが起きてくれなかったらぼくは留年決定だった、という時間だった。
ぼくは大急ぎで身支度して、五階分の階段を駆け下りて、新記録くらいの速さで自転車に飛び乗り、大学へ向かった。
学生課のドアを開いたのは十一時五十分。ぼく同様、ギリギリ滑り込みの同級生が列を成している。
「ま、間に合った……危なかった……アレ?」
ぼくはリュックを漁りながら、すぅ、と血の気が引いていくのを感じた。本当に、身体中の血が抜けたんじゃないか、と思うくらいに身体が冷たくなったのだ。
忘れたのだ。完成させた卒論を、マンションの五階にある部屋に。
ぼくはかねてから自分がボーッとしていることも頼りないことも注意力散漫なぽんこつであることも自覚していたけれど、
これはもう、いくら急いだとしても間に合わない。どうしよう。ぼくはいっぺんに、お父さんのことやお母さんのことや就職先のことや、いろんなことをぐるんぐるん走馬灯のように考えてふらついたところで、肩を後ろから掴まれて支えられた。
「わ、」
多分ぼくと同じか、それ以上のスピードで階段を降りて自転車に乗ってここまで来たのであろう息を切らせたまーくんが、ぼくに「このばか」と言った。
まーくんの手には、ぼくが忘れてきた卒論があった。
「……まーくん……え……神さま……?」
「おまえ、ホント……いや、出がけでおれが気づいてやればよかったな、おまえ、海外旅行の時にパスポート忘れて飛行機乗れないタイプだろ……いいけど、おれが気をつけるから、これから……」
学生課のスタッフの人が、「次の学生さん、どうぞ〜」と言った。ぼくが卒論を出すと、スタッフさんはキーボードをぱちぱち叩いて、ぼくの名前と学生番号の入った【卒業論文受領証】をプリントアウトして、大学のハンコをばん、と押してくれた。
「はい、確かに受理しました。次の学生さん、どうぞ〜」
ぼくはまーくんにほとんど抱っこされてるみたいにふらふらしながら、学生課を出た。まーくんは今日は講義もないし、卒論もとっくに提出していたから、本当は来る用事なんてなくて、ぼくが卒論出しに行っている間、部屋でのんびりして、洗濯物を干してくれているはずだった。多分洗濯物は今頃洗濯機の中でぐるんぐるん回っている。もしくはそろそろ洗濯の全工程が終了して、冷たいしわくちゃの布として洗濯機の中で取り出されるのを待っているのかもしれない。
「ま、まーくん、うう、」
「泣くな」
「うええええ〜〜〜んうわああ〜〜〜〜ん」
ぼくがあまりに派手に泣くので、通行中の学生たちの視線を独り占めだったけれど、まーくんは「恥ずかしいから泣くな」なんてことはぼくに言わない。ぼくをジャンパーの中に包んで、「かわいーやつ。泣くなよ、もう出せたんだ、無事卒業だ。心配するな」と笑ってくれた。
まーくんの自転車は、大学の正門のど真ん中に乗り捨てられており、盗まれても文句言えない、みたいな状態で放置されていて、まーくんが自転車(しかもけっこう高いやつ)の安全よりぼくの卒論を優先してくれたことがわかって、胸がぎゅうっとなった。
なお、その自転車は幸運なことに、まーくんが乗り捨てて走って行ったのをたまたま見かけたぼくの友人、秋良が見張っていてくれた。端に寄せたりせずに、現状維持したまま。
ぼくが泣き顔でまーくんと現れると、秋良はおにぎりを食べながら正門ど真ん中にしゃがんで自転車をガードしながら、爆笑していた。詳細を聞くと、ますます笑っていた。笑い話で済んでよかったのだ、とぼくは思った。
「まーくん、イケメン〜。ドラマみたいだったよ、走ってさ〜メロ〜」
「うるせえ」
「いやまーくん、相変わらずボクのこと嫌いだね!? 御礼とかないんか! 見張っててやったのに! チャリを!」
まーくんは秋良に悪態をつきながらも、自動販売機でジュースを奢っていた。もう、ぼくが奢るべきなんだけど、まーくんはぼくがお財布を出すのを滅多に許さないタイプのカレシだった。
お昼の日射しが、大学の庭にもたっぷりと降り注いでいる。ぼくとまーくんは自転車を押しながら、マンションへ帰ることにした。
涙が止まって少し気持ちが落ち着くと、今度は落ち込んできた。自分のダメさ加減に。ぼくは昔からダメダメなところがあったけれど、これはもう決定打だ。自分のこの先が不安で仕方がない。まーくんがいなければ、ぼくは留年していたのだから。
「何食いたい、今日」
「……ぼくに晩ご飯を食べる資格があるのかな……」
「ふは、あ、あるだろ。元気出せ。その前に昼飯。おまえ、何も食ってないだろ」
「まーくんもでしょ」
「おれはいいんだよ」
よくない。
ぼくは落ち込みながら、今までの自分の失敗がフラッシュバックするのを感じている。そういえば高校の入試では、受験票を忘れかけて家まで戻った。それは自分で気づいたけど、それより前、あれは中学生の頃、修学旅行で京都に出かけた時、観光していたお寺のトイレに、学生証も定期も全部入ったお財布を丸ごと置き忘れて……あの時は……。
「おれは、ちょっと迷ったんだぞ。このまま卒論を届けるのやめようかな、って。おまえを卒業させないで、就職もさせないで、ずっと家に置いておこうかなって一瞬思った」
「まーくん、いつもそういうこと言うけど。絶対助けてくれるくせに」
お財布忘れた時。あの時、ぼくはもうほとんど諦めていた。というか、どこに忘れたかもその時はわかっていなくて、警察に届いていなければもう打つ手がない。遼平がお金を貸してくれるって言ったけれど、修学旅行先で友だちが使えるお金を減らしてまで買いたいものなんてないし、申し訳なくて断った。
でもお財布は戻ってきた。次の日、やはり修学旅行に来ていた別の中学校の子が、清水寺のところでぼくの肩を掴んで、「これ、おまえのだろ」と言ったのだ。中身は全部無事で、ぼくはその子と前日、トイレでちょっと喋ったのだ。というか、ぼくがアイスをこぼして制服を洗っていたらハンカチを貸してくれたので、嬉しくて駅でいっぱい買ったキーホルダーをあげたんだ。それでお財布を忘れて、その子が預かって、見つけてくれた。ぼくを。
ぼくが泣いてお礼を言うと、その子は「おまえ、パスポート忘れて飛行機乗れないタイプだろ。気をつけろよ、海外旅行の時」と言って……。
言って……。
ぼくは「えっ。まーくん、中学校の修学旅行さ、京都だった!?」と叫んだ。
まーくんは笑って、「おまえ、おれはどこに出しても恥ずかしくない本物のストーカーだぞ。一目惚れした相手を調べて、同じ大学に行って隣の部屋に住むくらい、ワケないことだ。おまえは疑う必要があるよ、財布を自分の過失で忘れたのか、それとも……」と言った。
ぼくはもう、あんまり驚かなかった。まーくんがそういう人だということに慣れていたし、偶然の出会いよりもそういう力技のほうが、らしいというか……。
まーくんとぼくは、なるべくしてなったおとなりどうしだ。そして恋人どうし。
「まーくんのおかげだなぁ」
「おまえ、そんなに寛容でいいのか? 一生逃げられないのに、のんきなやつ……そこがかわいいけど……」
言われてみればまーくんがカギにつけてる京都のキーホルダー、あの時ぼくがあげたやつだ。ぼくはなんだか、安心してしまった。この先ずっと、ぼくがどこかで迷子になってもまーくんが見つけてくれる気がして。いつも頼っちゃうけど。いつも甘えちゃうけど。
この気持ちが愛なのだ。愛の形は人それぞれ。人には人の、親告罪……。
ぼくがパスポートを作って、生まれて初めて海外旅行に行くのはきっとまーくんとの新婚旅行だ。忘れないように気をつけて、飛行機に乗る。そしてぼくは旅先でパスポートをなくす。まーくんが見つけてくれる。それが本当に過失なのかそれとも……。
「まーくん」
「ん〜」
「ぼくとまーくん、やっぱり運命だったのかも」
まーくんは笑う。
「おれもストーカーじゃなくて、運命クリエーターって名乗ることにするか」
そしてぼくは五百円玉貯金を頭金にいつかマイホームを買うことを夢見て、あのマンションの五階に住んでいる。まーくんと一緒に。ぼくはこの先きっと、どこで暮らしても、どこで何をしていても、まーくんと一緒にいるのだ。まーくんのおかげで!
(まーくんとぼくはおとなりどうし)

