ぼくは二十一日、二十二日とバイトを入れて、その先は一月の半ばまでお休みすることになっている。
ツリーを置いたまーくんの部屋に、ぼくはずっとお泊りしている。夜じゅうぴかぴかに光るツリーは、とてもきれいだった。そして、もちろん明るい時間もきれい。
二十三日に、真尋さんがぼくにクリスマスプレゼントのお菓子を持ってきてくれた。銀色のシフォンのリボンが巻かれた、お星さまみたいなお菓子の箱だった。
ぼくがすごく喜んでいると、真尋さんは笑って「見捨ててないのか、昌弘のこと」と言った。
見捨てる? どうして?
ぼくがきょとん、としていると、真尋さんは赤い唇、少しタバコのにおいのする指先で触りながら、「でもさ、別に弟の肩持つわけじゃないけど。人間さ、そこまで執着されて愛されるみたいなの、一生で一度、あるかないかかもな。年齢とか環境とかタイミングとか、全部が噛み合ってそうなる。恋愛はこの先、いくらでもできるだろうよ。でもさ、他のどれとも違う大恋愛っていうのは、あるか、ないか……」と呟く。
「真尋さんはあったんですか?」
「何が」
「一生に一度、あるか、ないかの……」
「……」
真尋さんは、ニィ、と笑う。相変わらずきれいで、きらきらのお姉さんにしか見えないけれど、笑うとちょっとまーくんに似ていて、兄弟だな〜とわかって嬉しくなる。
「えっ、ナイショ〜。おれ仕事だから、そろそろ戻るわ。イブもクリスマスも邪魔しませんから、ごゆっくり」
「クリスマスもお仕事なんですか?」
「うん。客の金で高いもん食うっていう大仕事……でもきみと昌弘が予約してるケンタッキー・フライドチキンの味には遠く及ばないな。それじゃ」
真尋さんと入れ違いに、まーくんが戻ってくる。ちょっと出かける、と言って三十分くらいだったので、コンビニでも行ったのかな。
「昌弘おまえ、正月どうすんの。帰る? 実家」
「帰るわけねーだろ」
「だと思った」
そんな会話をしながら、真尋さんが出かけていく。ぼくは、もしかしてもう、次に真尋さんに会うのは来年かも、と今さら気づき、ちゃんと挨拶すればよかったな、と思った。
明日はクリスマス・イブだ。東京で過ごす、初めてのクリスマス。
去年は地元で、遼平と健斗と蓮とパーティーしたな〜。パーティーというか、いつものフードコートでクリスマスメニュー(たこ焼きに、ツリーの形のピックが刺さったもの)食べただけ。でも毎年恒例で楽しかった。夜はそれぞれの家で家族と過ごした。
今年のパーティーは三人でやるけれど、年末の帰省では遊ぼう、という連絡が来た。四人で作っているグループチャットで、健斗と蓮には、イブに間に合うように帰っておいでよ、と言われたけれど、遼平がうまいこと言ってごまかしていた。遼平とまーくんは、会ったら絶対に仲よくなれるだろうとぼくは思っているので、いつか一緒に遊びたいけれど。
「……ねぇ、まーくん」
「ん〜」
「年末、来る? ぼくの実家……」
言ってから、まーくんは自分の実家にも帰省しないって言ってるのに、ぼくのところに来て、なんてワガママだ、と反省した。新幹線も高いのに。
「あ、ごめん、なんでもない……」
「いいなら、行くよ」
「え、」
「おまえがいいなら。行くよ、一緒に」
「……」
ぼくは自分のワガママでまーくんを振り回していることに、心が痛くなる。何も言えなくなって俯くと、まーくんが覗き込んでくる。優しい目。ぼくの鼻の先っぽをくすぐるみたいに触って、「どーした」と笑う。
「ぼ、ぼく……まーくんにね、ぼくの地元の友だち……ほら、遼平と……あとふたり、健斗と蓮っているんだけど、双子でね……紹介したいし、仲よくなってほしいな、って思って……」
「うん」
「お父さんとお母さんもきっと、まーくんを連れて帰ったら喜ぶだろうな、お姉ちゃんも……あ、姪っ子がね、まだ小さいんだけど、かわいいよ」
「うん」
今喋ってること、全部ぼくひとりに都合のいい話。
しかも、ぼくは本当の動機を隠している。一番自分勝手で、一番の理由。
まーくんは俯いたぼくの頭を片腕で抱き込んで、「うん」と、もう一度言ってくれた。ぼくはもうまーくんの温度もにおいも、すっかりわかっている気分で落ち着いてしまう。
「……まーくん」
「ん?」
「ごめんね、ほんとはぼくが、まーくんと離れるのが寂しいから言ったんだ」
「何がごめんなんだよ」
「……」
「おまえって、えらいよな。家族思いだし。昔からの友だちも大事にしてるし」
まーくんはぼくの頭を抱き込んだまま、そういうのって、案外難しいんだぞ、と囁いて笑った。
「まーくん」
「うん?」
「ぼく、大事だよ……まーくんも……」
まーくんはぼくの頭に顎を乗せたまま笑い、「明日、ケーキ取りに行こうな」と言った。
まるで重大な内緒話みたいな響きだった。世界でふたりだけが知る、重大な秘密、明日、予約のケーキを取りに行く。ぼくたち以外の誰にも知られずに、ふたりっきりでおいしいケーキを食べる。メリークリスマス、のチョコレートプレートが乗った、クリスマスにしか食べられない特別なホールケーキを。
「ふふふ」
「どーした」
「親告罪みたい」
「おまえが訴えたら、おれの全財産おまえのものになるぞ」
「訴えないよ」
ぼくとまーくんは笑って、二十三日は冷蔵庫の残りで鍋になった。明日はもうイブなんだと思うと、なんだかそわそわするのを止められなかった。
クリスマスって、ふしぎだね。普通の日じゃん、っていう考え方もあるし、そう言われれば確かにぜんぜん普通の日なんだけど。
でも、今日が記念日だっていう恋人同士は多いんだろうな。なんだかそういう、魔法の力があるのだ。
*
イブは、薄い雲がかかっているけれどいい天気だった。
冷たい風が、ぴゅう、と吹いて、その薄い雲を飛ばしていく。ぼくとまーくんは早起きして、近所のカフェでモーニングを食べた。窓辺に金色のライトが飾られていて、若い女の子二人組がぬいぐるみを置いて写真を撮っている。
明日は雨の予報なので、ぼくとまーくんはここに来る前に洗濯機を回して、屋上に干してから来た。冬は乾きが悪いけれど、いつだって貸切状態で広々干せる。年内最後だ、と思ってシーツも洗った。
ぼくはこのマンションが大好きで、悪いところなんてひとつもないように思える。エレベーターがないところも。水回り、ちょっと古いところも。高速道路のそばで、窓が汚れやすいところも。全部全部、かわいいところに思える。
ぼくたちがケーキを予約したのは、いつもの洋菓子店だった。何しろ人気だから、クリスマスケーキの予約は早めに打ち切られていたし、当日販売なんてもちろんない。ぼくたちの予約も、けっこう滑り込みだった。一番人気のブッシュドノエル。他のお店なら、白いケーキが人気なのかな。でもこのお店の看板はチョコレートなのだ。どっちもおいしいけれど。
ぼくはまーくんに何かプレゼントをあげたくて、でも何がいいのかなんてぜんぜんわかんなかった。だからまーくんに、「どんなものもらったらうれしい?」と聞いた。その日は曇った朝で、ぼくたちはまだベッドで寝ていて、クリスマスツリーはぴかぴかだった。まーくんはぼくの隣で横になったまま頬杖をついて、寝起きのぼくの前髪に触った。そうして低く静かな優しい声で、「おまえがいいよ。一緒にいてくれ」と言った。その朝から数日経過した今日、ぼくは自分に、クリスマスプレゼントに値するほどの価値があるとは思えずにいる。
でも、じゃあおまえは何が欲しいんだ、と聞かれれば、それはやっぱりまーくんと一緒にいる時間だと思う。それじゃ、いつもと一緒かな? クリスマスはなんてことない普通の日?
でもまーくんと手をつないでケーキを買いに行くのがクリスマスイブだっていうこの事実は、やっぱりすごく嬉しいものだ。ケンタッキーだって、わざわざ予約してまで食べるのがすごく楽しいのだ。
*
いつも自転車の距離を、ふたりで歩いた。まーくんはぼくにケーキを持たせてくれる。まーくんがチキンを持って、ぼくがケーキの箱を持つ。ホールケーキを食べる機会が、年々減っているような実感。近頃は誕生日でもクリスマスでも、みんな好きなケーキを一切れずつ選ぶのが主流になりつつあるらしい。
ぼくはマンションの階段を、慎重に上る。まーくんのほうが足が速いけれど(長さの違いもある、多分)同じくらいのペースで上る。
晴れたイブの街は、けっこう賑わっていた。繁華街のほうへ近づけば近づくほど、きっともっと混雑しているだろうな。でもマンションのエントランスに戻ってきた時、すごく静かでいつも通り。管理人室に、ツリーが飾られているのが少し見えた。みんなそれぞれ、いつも通りだったり、あんまりいつも通りじゃなかったり、そんな日を過ごして、暮らしは回っている。
三階、一番踊り場に近い手前のお部屋はいつも玄関のドアが開いていて、レースののれんが揺れている。その中から、ラジオで流しているらしきクリスマスソングが聞こえてくる。
ぼくが笑うと、まーくんは「この部屋、いつもセキュリティがガバガバだな。今時ないぞ、玄関常に開けてる家」と言った。
「勝手に入ってくる人が、いるかもしれないもんね」
ぼくが言うと、まーくんは少し気まずそうな顔をした。まーくんはぼくの部屋に、窓から勝手に入ってきたことがあるからだ。
別にまーくんに意地悪言おうとしたわけじゃないんだけど、まーくんは神妙な顔で「もうしない」と言った。まーくんのその顔を見て、ぼくはなんだか複雑な気持ちになる。うまく説明できない、いつもの複雑な感じだ。
ぼくって、けっこうずるいんじゃないかな? これじゃ全部まーくんのせいみたいだ。
ぼくは本当は、まーくんにそんなふうに思ってもらえることが、嬉しかったのかもしれない。だって、もうおまえのことは気にしないよ、なんて放っておかれるほうが、ずっと……。
などと、ぐるぐる考え事をしていたら、階段に派手につまずいた。
「!」
ぼくは「クリスマスケーキを運ぶ」という、重要な任務の最中だったのだ。普段いくら転ぼうとどうってことないけど、今日だけはまずい。一年で唯一、転んではいけない日だった。
「わっ!」
両手でケーキの箱を庇うように掲げたぼくの身体を、まーくんが受け止めてくれる。ぼくはいつも思う。まーくんはこういう時、「当たり前」みたいな感じなのだ。変にかっこつけたり、ちょっと恩着せがましいことを言ったり、みたいなことがほんのちょっともないのだ。
「まーくん」
「ん~」
まーくんが、ポケットから鍵を出して玄関を開ける。まーくんの部屋なのに、なんだか自分の部屋に帰ってきた気分になる。ぼくの部屋に泊まる時、まーくんはどんな気持ちなんだろう。
「ぼく、まーくんに助けてもらわなかったら、今みたいなぼくじゃない気がする」
「おまえはおまえだよ」
まだ出会って一年も経っていないのにな。でもぼくは、本当にそう思っているんだ。
いつもの部屋で、好きになった相手とふたりきりでクリスマスイブを、ケーキとか食べながら過ごすっていうことに、胸がいっぱいになってしまう。ロマンチックだから。
と、言いながらぼくは、お腹いっぱい食べて血糖値が上がり、食後まーくんのベッドで寝ていた。すごくおいしかったな、ケンタッキー……。クリスマスと言わず、しょっちゅう食べたいくらいに……。
「はっ。めっちゃ寝ちゃった」
ぼくが飛び起きると、部屋はもう薄暗かった。あ、洗濯物干しっぱなし、と思い出す。
「まーくん……?」
まーくんがいない。もしかして洗濯物、取り込みに行っているのかな。ぼくは目を擦って、部屋がいつもと違うような気がして、寝ぼけた頭を少し振る。
夜中でも、ぴかぴか光っていたぼくたちのツリーがなかった。ぼくは一気に不安になってしまう。今までのことが、全部夢だったみたいに。
「まーくん」
ぼくが呼ぶと、電気がついた。
まーくんが、「起きたか。ほら」と言って、ハンガーにかけていたぼくのコートとマフラーを渡す。
「まーくん。ツリーない……」
「うん。屋上、持って行った。この前確認しに行ったら、ちゃんと電源生きてたから」
「洗濯物、干したままだね」
「うん。でも、シーツがあったほうがいい。おいで、ユーキ」
手をつなぐ。いつもぼくの手のほうが冷たいのに、今は寝起きのぼくの手のほうが温かい。まーくんは外にいたからだ。
「まーくん、ぼくも手伝えばよかった。ツリー」
「おれがやるから、いいんだよ」
「まーくん、いつもそう言う。一緒にやろうよ。一緒に……」
屋上に出る。干しっぱなしのシーツが、冬の夜風に膨らんで、ぼくたちのツリーの輝きを映している。すごくきれいだ。
「すごい!!」
まーくんは笑って、「シーツ干しっぱなしでよかっただろ」と言った。
「映画みたい!!」
「うん」
「まーくん」
「ん?」
「来年はぼくが寝てても、起こしてね」
「起こせない、かわいくて」
「それじゃ、やだ。ぼくはまーくんと一緒にしたいのにな、なんでも……この先ずっと……」
うまく言葉が見つからない。まーくんの瞳に、ツリーのピカピカが染み込んでいるみたいに見える。
ぼくはまーくんは好きだ。まーくんじゃなきゃイヤなこと、まーくんだから嬉しいこと、ぼくの心の全部が、埋め尽くされているみたいだ。
「……まーくん」
目に、ツリーが映ってきれいだよ。
そう言おうとすると、まーくんはぼくの瞳を覗いて、「きれいだな」と囁く。ぼくはそれを聞いて、自分の瞳にもツリーが映っていることを知る。風が揺らすシーツに光が跳ねて、滲む。ぼくは今、まーくんとふたりで、世界で一番クリスマスイブのまんなかにいるような気がしている。うぬぼれ。でも、それくらいの気持ちなのだ。
「まーく、」
まーくんがぼくの頭を手のひらで引き寄せて、そのまま唇にキスをした。まーくんって、いつもそう。おれがやるからいいよ、って言って、なんでもしてくれるし。起こしてって言っても、起こせない、って言うし。キスしていい? って聞かないでキスするし。それから、それから……。
ぼくたちは何度かキスして、ぼくは洗濯物を取り込まなくちゃ、なんて考えて、ほんの少しだけ出た涙を、まーくんの指先が拭った。
けっこう長く、こうしていた気がする。ひときわ強い風に雲が飛ばされて、月が冴え冴えと光っている。
「クシュン」
「寒いか。戻るか」
「洗濯物」
「後で入れとく」
「またそう言って~、今入れようよ、わっ、」
まーくんはぼくを、多分クリスマスツリーを運ぶ時くらいに軽々担ぎ上げて、きらきらピカピカで、SNSに載せたらバズっちゃいそうな屋上にほんの少しも未練を見せずに、階段を下りた。
*
「……んぅ」
雨の気配。ぼくはまーくんのベッドの中で、雨だ、と思った。何か忘れている気がする。なんだっけ……。
「ハッ! 洗濯物」
「入れといた」
「……」
飛び起きたぼくの隣にまーくんがいる。いつもみたいにベッドで頬杖をついて、ぼくを見ている。ツリーも、昨夜の屋上が夢だったみたいに、元の場所でピカピカしている。
ぼくはまた不安になる。昨夜のキスも、あれもこれもあんなこともこんなことも、夢だったんじゃないか、って……。
まーくんはぼくの顔を覗き込んで、「昨夜、言おうと思ってて、言いそびれたんだ。おまえ、寝ちゃったからな」と言った。
「起こしてよ」
「かわいそうで起こせない。なぁ、ユーキ」
「うん」
窓ガラスを、雨がぱしぱし叩く音。クリスマスの朝だ。クリスマスの……。
「おれとつき合ってくれ」
「…………」
「いや、本当は昨夜言おうとしたんだ」
まーくんは、正式におつき合いを始める前にぼくに触った。
ぼくが、「まーくん、今までもつき合う前にエッチなことしたの?」と聞くと、まーくんはむう、とした顔で、「してない。おまえだけ。おまえにしか……」と、まーくんらしくない、歯切れの悪い言い訳をしている。まーくんは気づいていない、ぼくも同罪だということを……。
まーくんはぼくが悪いことやずるいことを考えることもある、なんて、想像もしないみたいだ。
「でも、親告罪だから」
「判決は?」
「イエス」
まーくんは笑って、「おれの全財産、おまえのものだな」と言う。
ぼくは全財産もらうより、クリスマスの朝にキスしてもらうほうが、ずっと嬉しいと思う。ツリーの下に、プレゼントが置いてあるみたいに。ツリーを片づけるの、イヤだな。
ツリーを置いたまーくんの部屋に、ぼくはずっとお泊りしている。夜じゅうぴかぴかに光るツリーは、とてもきれいだった。そして、もちろん明るい時間もきれい。
二十三日に、真尋さんがぼくにクリスマスプレゼントのお菓子を持ってきてくれた。銀色のシフォンのリボンが巻かれた、お星さまみたいなお菓子の箱だった。
ぼくがすごく喜んでいると、真尋さんは笑って「見捨ててないのか、昌弘のこと」と言った。
見捨てる? どうして?
ぼくがきょとん、としていると、真尋さんは赤い唇、少しタバコのにおいのする指先で触りながら、「でもさ、別に弟の肩持つわけじゃないけど。人間さ、そこまで執着されて愛されるみたいなの、一生で一度、あるかないかかもな。年齢とか環境とかタイミングとか、全部が噛み合ってそうなる。恋愛はこの先、いくらでもできるだろうよ。でもさ、他のどれとも違う大恋愛っていうのは、あるか、ないか……」と呟く。
「真尋さんはあったんですか?」
「何が」
「一生に一度、あるか、ないかの……」
「……」
真尋さんは、ニィ、と笑う。相変わらずきれいで、きらきらのお姉さんにしか見えないけれど、笑うとちょっとまーくんに似ていて、兄弟だな〜とわかって嬉しくなる。
「えっ、ナイショ〜。おれ仕事だから、そろそろ戻るわ。イブもクリスマスも邪魔しませんから、ごゆっくり」
「クリスマスもお仕事なんですか?」
「うん。客の金で高いもん食うっていう大仕事……でもきみと昌弘が予約してるケンタッキー・フライドチキンの味には遠く及ばないな。それじゃ」
真尋さんと入れ違いに、まーくんが戻ってくる。ちょっと出かける、と言って三十分くらいだったので、コンビニでも行ったのかな。
「昌弘おまえ、正月どうすんの。帰る? 実家」
「帰るわけねーだろ」
「だと思った」
そんな会話をしながら、真尋さんが出かけていく。ぼくは、もしかしてもう、次に真尋さんに会うのは来年かも、と今さら気づき、ちゃんと挨拶すればよかったな、と思った。
明日はクリスマス・イブだ。東京で過ごす、初めてのクリスマス。
去年は地元で、遼平と健斗と蓮とパーティーしたな〜。パーティーというか、いつものフードコートでクリスマスメニュー(たこ焼きに、ツリーの形のピックが刺さったもの)食べただけ。でも毎年恒例で楽しかった。夜はそれぞれの家で家族と過ごした。
今年のパーティーは三人でやるけれど、年末の帰省では遊ぼう、という連絡が来た。四人で作っているグループチャットで、健斗と蓮には、イブに間に合うように帰っておいでよ、と言われたけれど、遼平がうまいこと言ってごまかしていた。遼平とまーくんは、会ったら絶対に仲よくなれるだろうとぼくは思っているので、いつか一緒に遊びたいけれど。
「……ねぇ、まーくん」
「ん〜」
「年末、来る? ぼくの実家……」
言ってから、まーくんは自分の実家にも帰省しないって言ってるのに、ぼくのところに来て、なんてワガママだ、と反省した。新幹線も高いのに。
「あ、ごめん、なんでもない……」
「いいなら、行くよ」
「え、」
「おまえがいいなら。行くよ、一緒に」
「……」
ぼくは自分のワガママでまーくんを振り回していることに、心が痛くなる。何も言えなくなって俯くと、まーくんが覗き込んでくる。優しい目。ぼくの鼻の先っぽをくすぐるみたいに触って、「どーした」と笑う。
「ぼ、ぼく……まーくんにね、ぼくの地元の友だち……ほら、遼平と……あとふたり、健斗と蓮っているんだけど、双子でね……紹介したいし、仲よくなってほしいな、って思って……」
「うん」
「お父さんとお母さんもきっと、まーくんを連れて帰ったら喜ぶだろうな、お姉ちゃんも……あ、姪っ子がね、まだ小さいんだけど、かわいいよ」
「うん」
今喋ってること、全部ぼくひとりに都合のいい話。
しかも、ぼくは本当の動機を隠している。一番自分勝手で、一番の理由。
まーくんは俯いたぼくの頭を片腕で抱き込んで、「うん」と、もう一度言ってくれた。ぼくはもうまーくんの温度もにおいも、すっかりわかっている気分で落ち着いてしまう。
「……まーくん」
「ん?」
「ごめんね、ほんとはぼくが、まーくんと離れるのが寂しいから言ったんだ」
「何がごめんなんだよ」
「……」
「おまえって、えらいよな。家族思いだし。昔からの友だちも大事にしてるし」
まーくんはぼくの頭を抱き込んだまま、そういうのって、案外難しいんだぞ、と囁いて笑った。
「まーくん」
「うん?」
「ぼく、大事だよ……まーくんも……」
まーくんはぼくの頭に顎を乗せたまま笑い、「明日、ケーキ取りに行こうな」と言った。
まるで重大な内緒話みたいな響きだった。世界でふたりだけが知る、重大な秘密、明日、予約のケーキを取りに行く。ぼくたち以外の誰にも知られずに、ふたりっきりでおいしいケーキを食べる。メリークリスマス、のチョコレートプレートが乗った、クリスマスにしか食べられない特別なホールケーキを。
「ふふふ」
「どーした」
「親告罪みたい」
「おまえが訴えたら、おれの全財産おまえのものになるぞ」
「訴えないよ」
ぼくとまーくんは笑って、二十三日は冷蔵庫の残りで鍋になった。明日はもうイブなんだと思うと、なんだかそわそわするのを止められなかった。
クリスマスって、ふしぎだね。普通の日じゃん、っていう考え方もあるし、そう言われれば確かにぜんぜん普通の日なんだけど。
でも、今日が記念日だっていう恋人同士は多いんだろうな。なんだかそういう、魔法の力があるのだ。
*
イブは、薄い雲がかかっているけれどいい天気だった。
冷たい風が、ぴゅう、と吹いて、その薄い雲を飛ばしていく。ぼくとまーくんは早起きして、近所のカフェでモーニングを食べた。窓辺に金色のライトが飾られていて、若い女の子二人組がぬいぐるみを置いて写真を撮っている。
明日は雨の予報なので、ぼくとまーくんはここに来る前に洗濯機を回して、屋上に干してから来た。冬は乾きが悪いけれど、いつだって貸切状態で広々干せる。年内最後だ、と思ってシーツも洗った。
ぼくはこのマンションが大好きで、悪いところなんてひとつもないように思える。エレベーターがないところも。水回り、ちょっと古いところも。高速道路のそばで、窓が汚れやすいところも。全部全部、かわいいところに思える。
ぼくたちがケーキを予約したのは、いつもの洋菓子店だった。何しろ人気だから、クリスマスケーキの予約は早めに打ち切られていたし、当日販売なんてもちろんない。ぼくたちの予約も、けっこう滑り込みだった。一番人気のブッシュドノエル。他のお店なら、白いケーキが人気なのかな。でもこのお店の看板はチョコレートなのだ。どっちもおいしいけれど。
ぼくはまーくんに何かプレゼントをあげたくて、でも何がいいのかなんてぜんぜんわかんなかった。だからまーくんに、「どんなものもらったらうれしい?」と聞いた。その日は曇った朝で、ぼくたちはまだベッドで寝ていて、クリスマスツリーはぴかぴかだった。まーくんはぼくの隣で横になったまま頬杖をついて、寝起きのぼくの前髪に触った。そうして低く静かな優しい声で、「おまえがいいよ。一緒にいてくれ」と言った。その朝から数日経過した今日、ぼくは自分に、クリスマスプレゼントに値するほどの価値があるとは思えずにいる。
でも、じゃあおまえは何が欲しいんだ、と聞かれれば、それはやっぱりまーくんと一緒にいる時間だと思う。それじゃ、いつもと一緒かな? クリスマスはなんてことない普通の日?
でもまーくんと手をつないでケーキを買いに行くのがクリスマスイブだっていうこの事実は、やっぱりすごく嬉しいものだ。ケンタッキーだって、わざわざ予約してまで食べるのがすごく楽しいのだ。
*
いつも自転車の距離を、ふたりで歩いた。まーくんはぼくにケーキを持たせてくれる。まーくんがチキンを持って、ぼくがケーキの箱を持つ。ホールケーキを食べる機会が、年々減っているような実感。近頃は誕生日でもクリスマスでも、みんな好きなケーキを一切れずつ選ぶのが主流になりつつあるらしい。
ぼくはマンションの階段を、慎重に上る。まーくんのほうが足が速いけれど(長さの違いもある、多分)同じくらいのペースで上る。
晴れたイブの街は、けっこう賑わっていた。繁華街のほうへ近づけば近づくほど、きっともっと混雑しているだろうな。でもマンションのエントランスに戻ってきた時、すごく静かでいつも通り。管理人室に、ツリーが飾られているのが少し見えた。みんなそれぞれ、いつも通りだったり、あんまりいつも通りじゃなかったり、そんな日を過ごして、暮らしは回っている。
三階、一番踊り場に近い手前のお部屋はいつも玄関のドアが開いていて、レースののれんが揺れている。その中から、ラジオで流しているらしきクリスマスソングが聞こえてくる。
ぼくが笑うと、まーくんは「この部屋、いつもセキュリティがガバガバだな。今時ないぞ、玄関常に開けてる家」と言った。
「勝手に入ってくる人が、いるかもしれないもんね」
ぼくが言うと、まーくんは少し気まずそうな顔をした。まーくんはぼくの部屋に、窓から勝手に入ってきたことがあるからだ。
別にまーくんに意地悪言おうとしたわけじゃないんだけど、まーくんは神妙な顔で「もうしない」と言った。まーくんのその顔を見て、ぼくはなんだか複雑な気持ちになる。うまく説明できない、いつもの複雑な感じだ。
ぼくって、けっこうずるいんじゃないかな? これじゃ全部まーくんのせいみたいだ。
ぼくは本当は、まーくんにそんなふうに思ってもらえることが、嬉しかったのかもしれない。だって、もうおまえのことは気にしないよ、なんて放っておかれるほうが、ずっと……。
などと、ぐるぐる考え事をしていたら、階段に派手につまずいた。
「!」
ぼくは「クリスマスケーキを運ぶ」という、重要な任務の最中だったのだ。普段いくら転ぼうとどうってことないけど、今日だけはまずい。一年で唯一、転んではいけない日だった。
「わっ!」
両手でケーキの箱を庇うように掲げたぼくの身体を、まーくんが受け止めてくれる。ぼくはいつも思う。まーくんはこういう時、「当たり前」みたいな感じなのだ。変にかっこつけたり、ちょっと恩着せがましいことを言ったり、みたいなことがほんのちょっともないのだ。
「まーくん」
「ん~」
まーくんが、ポケットから鍵を出して玄関を開ける。まーくんの部屋なのに、なんだか自分の部屋に帰ってきた気分になる。ぼくの部屋に泊まる時、まーくんはどんな気持ちなんだろう。
「ぼく、まーくんに助けてもらわなかったら、今みたいなぼくじゃない気がする」
「おまえはおまえだよ」
まだ出会って一年も経っていないのにな。でもぼくは、本当にそう思っているんだ。
いつもの部屋で、好きになった相手とふたりきりでクリスマスイブを、ケーキとか食べながら過ごすっていうことに、胸がいっぱいになってしまう。ロマンチックだから。
と、言いながらぼくは、お腹いっぱい食べて血糖値が上がり、食後まーくんのベッドで寝ていた。すごくおいしかったな、ケンタッキー……。クリスマスと言わず、しょっちゅう食べたいくらいに……。
「はっ。めっちゃ寝ちゃった」
ぼくが飛び起きると、部屋はもう薄暗かった。あ、洗濯物干しっぱなし、と思い出す。
「まーくん……?」
まーくんがいない。もしかして洗濯物、取り込みに行っているのかな。ぼくは目を擦って、部屋がいつもと違うような気がして、寝ぼけた頭を少し振る。
夜中でも、ぴかぴか光っていたぼくたちのツリーがなかった。ぼくは一気に不安になってしまう。今までのことが、全部夢だったみたいに。
「まーくん」
ぼくが呼ぶと、電気がついた。
まーくんが、「起きたか。ほら」と言って、ハンガーにかけていたぼくのコートとマフラーを渡す。
「まーくん。ツリーない……」
「うん。屋上、持って行った。この前確認しに行ったら、ちゃんと電源生きてたから」
「洗濯物、干したままだね」
「うん。でも、シーツがあったほうがいい。おいで、ユーキ」
手をつなぐ。いつもぼくの手のほうが冷たいのに、今は寝起きのぼくの手のほうが温かい。まーくんは外にいたからだ。
「まーくん、ぼくも手伝えばよかった。ツリー」
「おれがやるから、いいんだよ」
「まーくん、いつもそう言う。一緒にやろうよ。一緒に……」
屋上に出る。干しっぱなしのシーツが、冬の夜風に膨らんで、ぼくたちのツリーの輝きを映している。すごくきれいだ。
「すごい!!」
まーくんは笑って、「シーツ干しっぱなしでよかっただろ」と言った。
「映画みたい!!」
「うん」
「まーくん」
「ん?」
「来年はぼくが寝てても、起こしてね」
「起こせない、かわいくて」
「それじゃ、やだ。ぼくはまーくんと一緒にしたいのにな、なんでも……この先ずっと……」
うまく言葉が見つからない。まーくんの瞳に、ツリーのピカピカが染み込んでいるみたいに見える。
ぼくはまーくんは好きだ。まーくんじゃなきゃイヤなこと、まーくんだから嬉しいこと、ぼくの心の全部が、埋め尽くされているみたいだ。
「……まーくん」
目に、ツリーが映ってきれいだよ。
そう言おうとすると、まーくんはぼくの瞳を覗いて、「きれいだな」と囁く。ぼくはそれを聞いて、自分の瞳にもツリーが映っていることを知る。風が揺らすシーツに光が跳ねて、滲む。ぼくは今、まーくんとふたりで、世界で一番クリスマスイブのまんなかにいるような気がしている。うぬぼれ。でも、それくらいの気持ちなのだ。
「まーく、」
まーくんがぼくの頭を手のひらで引き寄せて、そのまま唇にキスをした。まーくんって、いつもそう。おれがやるからいいよ、って言って、なんでもしてくれるし。起こしてって言っても、起こせない、って言うし。キスしていい? って聞かないでキスするし。それから、それから……。
ぼくたちは何度かキスして、ぼくは洗濯物を取り込まなくちゃ、なんて考えて、ほんの少しだけ出た涙を、まーくんの指先が拭った。
けっこう長く、こうしていた気がする。ひときわ強い風に雲が飛ばされて、月が冴え冴えと光っている。
「クシュン」
「寒いか。戻るか」
「洗濯物」
「後で入れとく」
「またそう言って~、今入れようよ、わっ、」
まーくんはぼくを、多分クリスマスツリーを運ぶ時くらいに軽々担ぎ上げて、きらきらピカピカで、SNSに載せたらバズっちゃいそうな屋上にほんの少しも未練を見せずに、階段を下りた。
*
「……んぅ」
雨の気配。ぼくはまーくんのベッドの中で、雨だ、と思った。何か忘れている気がする。なんだっけ……。
「ハッ! 洗濯物」
「入れといた」
「……」
飛び起きたぼくの隣にまーくんがいる。いつもみたいにベッドで頬杖をついて、ぼくを見ている。ツリーも、昨夜の屋上が夢だったみたいに、元の場所でピカピカしている。
ぼくはまた不安になる。昨夜のキスも、あれもこれもあんなこともこんなことも、夢だったんじゃないか、って……。
まーくんはぼくの顔を覗き込んで、「昨夜、言おうと思ってて、言いそびれたんだ。おまえ、寝ちゃったからな」と言った。
「起こしてよ」
「かわいそうで起こせない。なぁ、ユーキ」
「うん」
窓ガラスを、雨がぱしぱし叩く音。クリスマスの朝だ。クリスマスの……。
「おれとつき合ってくれ」
「…………」
「いや、本当は昨夜言おうとしたんだ」
まーくんは、正式におつき合いを始める前にぼくに触った。
ぼくが、「まーくん、今までもつき合う前にエッチなことしたの?」と聞くと、まーくんはむう、とした顔で、「してない。おまえだけ。おまえにしか……」と、まーくんらしくない、歯切れの悪い言い訳をしている。まーくんは気づいていない、ぼくも同罪だということを……。
まーくんはぼくが悪いことやずるいことを考えることもある、なんて、想像もしないみたいだ。
「でも、親告罪だから」
「判決は?」
「イエス」
まーくんは笑って、「おれの全財産、おまえのものだな」と言う。
ぼくは全財産もらうより、クリスマスの朝にキスしてもらうほうが、ずっと嬉しいと思う。ツリーの下に、プレゼントが置いてあるみたいに。ツリーを片づけるの、イヤだな。

