ぼくは自分が大学生になったという現実に未だについていけずにいる。
 もしかしたら高校生になった時もついていけず、なんなら追いつけないまま卒業してしまった可能性さえある。周りはやけに大人に思えた。
 でもぼくはもう、地元を出て上京してしまったのだ。いくらぼんやりした性格だからと言って、家に帰ればひとりだし、掃除も買出しも料理もすべて、自分でしなければならない。トイレットペーパーもシャンプーも使えばなくなるのだ。そんな当たり前のことわかってはいたけれど、自分でいざやってみると……。離れてわかる、親のありがたみ。

 特売日だから、と一週間分の買いもの。ぼくが住んでいるマンションは大学までは近いけれど駅からはちょっと遠くて、すごく古い。五階建て。エレベーター、なし。上の階になればなるほど家賃据え置きで広いけれど、階段を上る運動量が増える仕組みだ。ぼくが借りているのは最上階だ。五階には、二部屋しかない。隣人には会ったことがない。最近は引っ越しの挨拶も必要ないですよ、と管理会社に言われた。迷惑に思う人も多いらしい。都会を感じる。
 ぱつぱつに膨れた買い物袋を提げて、五階まで上がる。
「つ、疲れた~~ハッ!! しまった!!」
 鍵を開けて玄関に入ってから、気づく。ぼくは特売品のボックスティッシュ五箱入りを買ったのに、自転車のハンドルのところに引っかけて、そのままにしてしまったということに。
 取りに行かないと。五階分の階段を下りて駐輪場まで行って、ティッシュ五箱を提げてまた五階分の階段を上って……。考えただけで疲労が深まる思いがしたが、忘れた自分が悪いのだ。
 深いため息をつきながら、とりあえず肉を冷蔵庫に入れる。意を決して、玄関のドアを開いた。行くぞ、駐輪場に。その時、階段から誰かが上ってくる気配がした。
 宅配業者さん? ぼくが階段を覗くと、背の高い男の子がいた。彼はこちらを少し見上げて、その瞬間に目が合う。季節はまだ梅雨に入る前で、きらきらとして春の風が、彼の髪を揺らした。ぼくは誰かに見蕩れるのは、生まれて初めての経験だった。まるで時間が止まったみたいに。
「……」
「忘れ物じゃない?」
「えっ?」
 彼は手に、ボックスティッシュ五箱セットを提げていた。
「これ、おまえのじゃね? チャリ置き場に忘れただろ」
「……」
 ぼくはティッシュと彼の顔を交互に見比べ、頷いた。
「はい、忘れました……」
「だと思った。ホラ」
「あ、ありがとうございます」
「いーよ」
 彼はポケットから鍵を取り出して、ぼくの隣の部屋のドアを開けた。
 お隣さんなんだ。ぼくは渡されたボックスティッシュを抱えたまま、もう一度「ありがとうございます」と言った。
「いーって……アッッ!!」
「!?」
 彼が大きな声を出したので、ぼくはビックリして飛び上がってしまった。
「どうしたんですか!?」
 彼はぼくより短く切り揃えた髪をがしがしと掻いて、「おまえのティッシュ持ってきたら、チャリのカゴに忘れたわ。コンビニで買ったチキン」と言った。

 それがぼく、柊 優紀と、隣人で学部違いの同級生、澤木 昌弘くんの出会いだった。
 出会い、というか、昌弘くんはぼくの二日前に入居して、隣人が同じ大学の学生だということも知っていたらしい。だから自転車に、大学の駐輪許可シールが貼ってあるのを見て、ぼくの忘れものだ、と気づいた。
 昌弘くんとぼくは、けっこう真逆だった。高校で同じクラスだったら、ぼくなんかとても相手にしてもらえなさそうな、こう、強さ、というか……。この表現はあんまり好きじゃないんだけど、一軍感、というか……。その例えで言うのなら、ぼくは万年補欠だ。言わずもがな。
 でも昌弘くんは言ってくれた。
「おまえ、大人しそうだし。なんか困ったことあったら、言えよ」
 これが世に言う、メロいという感情だろうか。ぼくはどきどきしてしまって、(できるだけ迷惑かけないようにしなくちゃ)と思うばかりであった。

        *

「おまえ、こんなに買ってどうすんだよ」
「一週間分の作り置きする」
 ぼくは昌弘くんに、「ぼくのような陰キャにはとても釣り合わない」という第一印象を抱いていたけれど、それからあっさりと仲よくなった。人にレッテルを貼るのはよくない、と反省。
それどころかぼくたちは、わずか数日で「ユウキ」「まーくん」と呼び合う関係になっていた。お互い上京組で同い年なのだ。まーくんもこんなしっかりしていそうに見えて、ぼくと同様心細いところもあったのかもしれない。
 大学からの帰り道に偶然会うと、ふたりで寄り道した。最寄りのスーパーの隣にはおしゃれなカフェがあって、コーヒー豆が量り売りされている。まーくんは、ミルで豆を挽いてコーヒーを淹れるらしい。
 コーヒーの味がよくわからないどころか、苦くて飲めないぼくとまーくんはぜんぜん違う。
「なんで作り置きすんの」
「節約もあるけど。嫌いじゃないから、作るの」
「おまえって、えらいよな。月の食費、いくらなんだよ。外食も込みで」
 ぼくは家計簿のアプリを開いて、先月分を確認した。まーくんに「見ていい?」と聞かれたので、「いいよ」と頷く。背の高いまーくんが、ぼくの肩から覗き込むように、画面を見た。
「えっ、これガチで一ヶ月分?」
「うん」
「安すぎね? すげーな、おまえ。えらいな」
 まーくんはしないのかな、料理。そう聞こうとして、なんとなくやめてしまった。ぼくは昨日、まーくんの部屋からきれいな女の子が出てくるところを見てしまったのだ。多分、彼女だと思う。
 料理しないの? と聞いたら、カノジョが作ってる、とか言うのかもしれない。なんとなく、それは聞きたくなかった。
 ……なんで聞きたくないんだろ? ぼくはひき肉の並んでいる冷蔵棚の前で、少し考える。昨日はなんだか眠れなかったし。
 それは多分、大学生の男子としてぼくより圧倒的にレベルが上のまーくんに対する、嫉妬とか劣等感かもしれない。そう考えるのが、一番自然。
 自然、だけど。なんだか情けなくて、自己嫌悪がある。自分よりカッコイイ子を妬むなんて、みっともないな……。
 なんだかいつもより買い過ぎてしまった気がするけど、まーくんが運ぶのを手伝ってくれる、と言った。まーくんの自転車は、ぼくの搭載量を重視して購入したママチャリとは違う、カゴの小さなオシャレなやつ。
「まーくん、うちでご飯、食べる?」
 カノジョと約束がないなら。という余計な一言は飲み込む。
「食う~」
 ペダルを踏みこむと、少しだけ雨が降りそうなにおいがした。ぼくたちの暮らすマンションには、屋上に物干しスペースがある。もちろん、住人は誰でも使うことができるけれど、前述の通りエレベーターがないので、洗い上がった洗濯物を抱えて上り下りする必要がある。それはかなり大変だ。だから使っているのは、最上階の五階に住むぼくとまーくんだけ。
 帰ったら洗濯物、入れなくちゃ。
 ぼくが考えていると、まーくんが言った。
「雨降るぞ。急げ」
「うん」
 まーくんは、自転車を漕ぐのを代わってくれた。ぼくのママチャリは荷物を積み過ぎて、それはそれは重い。いつもより安い、と調子に乗って買った、二リットルのミルクティーのペットボトルだとか、いろいろ。まーくんのほうが身体が大きくて力があるので、ずっと早く漕げる。ぼくはカッコイイ自転車に乗せさせてもらって、ちょっといい気持ちになる。
「まーくん、速い!」
「これ、筋トレになるな。電動自転車にしないの?」
「高いもん~電動自転車~」
 高速道路の高架下を少し走り、道を曲がると嘘みたいに静かだ。雲はどんどんぶ厚く、濃い灰色になる。ぼくは屋上に、どんな洗濯物を干していたか思い出している。朝干している時に、ちょうどまーくんも上がってきた。屋上の片隅には、もう長いこと使われていない、丸くて細長い銀色の灰皿が雨ざらしになって置かれている。昔はここでタバコを吸っていた住人がいたのかもしれない。ぼくはまだ十八歳だけど、二十歳になってもタバコを吸うことは絶対にないと思う。まーくんはどうだろう?
 マンションの敷地内に入り、駐輪場に自転車を停める。買い物した荷物が詰まったエコバッグを持って、ふたりで階段を駆けのぼる。
「速いよ~!」
 ぼくがまーくんの後ろで叫ぶと、まーくんは笑う。まーくんはすぐに見えなくなってしまって、ぼくは置いていかれてしまう、がんばって走ると、三階と四階の間の踊り場で、まーくんが待っていた。管理会社の人が週に一回掃除をしてくれている、タイルが貼られた踊り場。窓のガラスの向こう側は、道路一本挟んだ別のマンションで、さほど眺望がいいわけでもないけれど、明るくてすごくすてきな階段だとぼくはいつも思う。
「おまえ、醬油とか味噌とか塩とか、重いもん買う時。絶対ひとりで行くなよ」
「うん」
「持ってやるから」
「うん」
 それからは、ふたりで並んで五階まで上った。荷物を玄関の前に置いて、(不用心と思うかもしれないけれど、ぼくたちだけなのだ。わざわざ上ってくるのは)屋上までもうひと上り。雨は今にも降り出しそうだったけど、急いで取り込んでぎりぎりセーフ。
「何作るんだ、今夜」
「何がいい? 鮭ときのこのホイル焼きか、肉じゃがか、キーマカレー」
 ぼくが言うと、まーくんは笑った。まーくんはぱっと見は怖そうだけど、笑うとなんだかかわいかった。
「すげーな、おまえ。店じゃん」
「そんなに凝ったやつじゃないけど」
「カレーがいい。手伝うから、待っとけ」
「……」
 やさしい。
 ぼくがそう思っていると、まーくんは洗濯物を入れたカゴを抱えて玄関に入って行った。
 ぼくも入ろうとして、鍵を探す。ポケットの中。洗濯物を抱えているので、うまくいかない。
「えっと~、あれ……? あ、あった。うわっ、おっと……」
 もたもたしていたら、まーくんが出てくる。
「何してんだ」
「鍵、出てこなかった」
「貸してみ」
 ようやく取り出した鍵をまーくんに渡して、何も洗濯カゴを抱えっぱなしにしないで、一回地面に置いてもよかったんだ、と気づく。ぼくはいつもこうだ。要領が悪いというか、なんというか……。
 まーくんは、置きっぱなしだった食材入りのエコバッグを持ってくれる。ぼくたちはここ最近、お互いの部屋を行き来することに慣れてきた。間取りは1LDK。ひとり暮らしには十分すぎる、悠々自適だ。各所のちょっとした古さも、なんだかエモい。
 同じ間取りでも、インテリアの趣味がぜんぜん違う。まるで雑誌に出てくるみたいなモノトーンのインテリアでかっこいいまーくんの部屋に対して、ぼくはごちゃごちゃしたものが大好きで、ちょっとレトロだ。まーくんは、「おまえの部屋、いいよな」と褒めてくれる。ぼくもまーくんの部屋を、いいな、って思う。
 ベランダには仕切りがあるけれど、すごく低くてスカスカの仕切りだ。これは多分、昔は洗濯機を置いて仕切っていたのだろう。今は部屋に洗濯機置き場がある。だからぼくたちは、その気になればベランダから行き来できるくらいなのだ。
「米、炊くか。おれんち、実家から送ってきたのあるから」
「ありがと」
 炊飯器をセット。まーくんは三合も米を持ってきてくれた。ぼくもたくさんカレー作ろう、と思う。窓の外、大粒の雨が降り出してきた。キッチンにも、窓がある。ガラスをばしばしと叩く雨音。
 ぼくとまーくんは、キッチンに並んで立って、たまねぎを刻んだ。にんにくをすり下ろして、たまねぎと炒める。ひき肉、カレー粉、トマト缶。コンロはふたくち。スーパーで買った、コーンポタージュの紙パック。
 ぼくは嬉しかった。このままずっと友だちができなかったらどうしようって、不安だったから。まーくんがぼくに優しくて、ぼくを助けてくれた。まーくんと仲よくなってから、ぼくの東京での大学生活は、急にきらきらと輝きだした。
 空は真っ暗になり、雷も鳴る。ぱっ、と空が一瞬明るくなり、大きな雷鳴が割れるように響き、暗くなり、を何回か繰り返す。
夕飯スタートは、六時きっかり。牛乳を加えてかき混ぜた、小鍋の中のポタージュ。
食べ終わった後、まーくんはぼくに五百円玉を一枚渡してくれる。
「なに?」
「材料費」
「五百円もかかってないよ」
ぼくが返そうとすると、まーくんは「店だったら、五百円じゃ済まないぞ。この先も何回も食うもん。メニューによっては、値上げしろよ」と笑った。
「……ありがと」
 まーくんは律儀だ。確かに、いっつもぼくの食費でご飯食べられたら、いくら仲よしでもモヤッとしてしまうかもだし。長く友だちとしてうまくつき合っていくためには、こういうことが必要なんだ。
 ぼくもまーくんのこと、モヤモヤさせたくないな。気をつけないと。
 人づきあいって、難しいけれど。大事なのはやっぱり相手への思いやりだ。自分ひとりが得をしようなんて、考えたりせずに。
 ぼくはまーくんからもらった五百円を、クッキーが入っていた透明の瓶の中に入れた。ごく普通の五百円玉なのに、なんだか銀色の宝石みたいにぴかぴかとして見える。
「おまえ、コーヒー飲めないんだよな。カフェオレは?」
「飲める!」
 まーくんは目を細めて笑い、「わかった」と言った。
 その顔がかっこよくて、どきどきしてしまう。かっこよくて、いいな。男の子っぽくて、背も高くて、いいな。羨ましいな……。
 そう思うけど、なんか、それだけじゃないような。憧れ? うん、それも確かに、あるんだけど……。

 その夜はけっこう遅くまで、ぼくの部屋で一緒に映画を観た。
「また明日。おやすみ」
「うん、おやすみ~」
 そう言って、まーくんは隣の部屋に帰っていく。
 ぼくたちの間取りは左右対称で、偶然壁を挟んだ同じ場所にベッドを置いている。たまに、コツン、って音がする。
それが聞こえるとぼくは嬉しくて、コツン、って叩き返すのだ。また、明日ね。