楓と屋上で話をしたあの日から2週間ほどたった日。すぐに学校のイベント、体育祭の準備が始まった。

グラウンドから聞こえる笛の音と、教室のざわめき。
夏の終わりの熱気が、まだ校舎の隅に残っていた。

 文化祭が終わって1ヶ月も経たないこの時期は、どのクラスも少し浮き足立っている。
ポスターを描く班、道具を運ぶ班、記録係、応援係。
俺は装飾班で、紙花を大量に作る作業に追われていた。

「藤谷、テープ取って」
「はいはい、これ?」
「そうそれ」

 のんびりした空気。
けど、その輪の中にいない、一人の姿が気になって、
気づくと視線を探してしまう。

 楓は運営係で、実行委員と一緒にグラウンド側を回っている。
忙しそうで、ここ数日ほとんど話せていなかった。
「昨日も遅くまでのこっていたんだ」と同じ運営係の成瀬が言っていたけど、なんとなく聞き流すしかなかった。

(会わないと、落ち着かないな……)

 そんな風に思う自分が、ちょっと可笑しくて笑ってしまったけど、本当に忙しそうで見守ることに徹した。
 

 昼休み、紙花を抱えたまま廊下を歩いていると、
声の高い後輩たちの笑い声が聞こえてきた。

「おとわ先輩! これ次の資料です!」

「音羽」という言葉に振り向くと、一年生らしい男子が、
封筒を手に笑顔を向けている。

栗色の髪で明るい表情、目が大きくて、どこか愛嬌がある。

「あぁ、ありがとう。助かる」
楓が受け取って礼を言う。

その一瞬の少し柔らかい笑みを、俺は目の端で見てしまった。
隣の一年が照れたように笑う。

「僕、一年の葛原湊人(くずはらみなと)です! 音羽先輩、覚えてくださいね!」
「うん。葛原ね」

(……今、笑った?)

 心の奥が、少しだけきゅっと鳴った。

その後も、廊下ですれ違うたびにその後輩の声を聞くようになった。

「先輩! この前言ってた資料まとめました!」
「音羽先輩、次の練習、見に来てくれますか?」
無邪気な笑顔。
それに対して、楓はいつもより少しだけ穏やかな表情を見せる。

 なんだか胸の奥が騒いでしまう。

(……あの顔、俺以外にもするんだ)

そんなこと、考えたくもないのに。


 翌日の昼休みに、体育館に続く渡り廊下の自販機までジュースを買いに来た。
その自販機の横のベンチの学生の会話が、偶然聞こえてきた。

「なあ葛原、お前さ、音羽先輩のこと好きなんだろ?」
「え、もうばれてる?」
「そりゃあんだけ懐いてたらな!」

 楽しそうな笑い声。
チラと横目で後輩らしき2人組を見る。2人は手にパンを持っていてここで昼食を食べてるらしい。
 
 葛原と呼ばれた男子は茶色の癖毛をふわふわと揺らし、小型犬のような人懐こそうな顔で甘えられたら、みんなが「かわいい」と口に出すだろう。

 湊人は、はむっととパンを一口かじった。
そのあと、少し照れたように言った。

「だって、あんなの好きになっちゃうよ〜、音羽先輩。顔もカッコよくてめちゃくちゃタイプだし。
それに、やさしくてクールな感じだけど時々微笑んでくれるのもたまんないんだよね!
この前、先輩のリストバンドもらっちゃったし」

「え? マジで? それクラス限定のやつだろ?」
「そうなんだけど、僕、欲しいですって言ったら“あげるよ”って」

(……リストバンド?)

 心臓が、嫌な音を立てた。
多分、リストバンドってクラスTシャツと一緒に作ったやつ。俺らのクラスの人だけが持ってるリストバンドのことかな。

湊人が続けた。
「先輩、あんな感じでホント優しいんだよね。
この前放課後残ってた時も手伝ってくれて、“無理するなよ”って言って手伝ってくれてさ」

友達の笑い声。
「それ脈あるかものやつじゃん!」

「いやいや、僕の片想いだよ〜!でももっと近づきたいとは思ってるけど。あ、でもこの前聞いたら、恋人とかいなさそうだったし」

その言葉にぎゅーっと胸が痛んだ。


(……俺以外にも、同じ言葉、言ってるんだ)

頭が熱くなって、何も聞こえなくなった。


「……っ」

 逃げるように廊下を離れて、教室に向かった。
教室のドアを閉めた瞬間、心臓が暴れるみたいに痛かった。

 席に座り机の端をつかんで、深呼吸をする。

(どうしてこんなに、苦しいんだろ)

 初恋を自覚して浮かれて、
たとえこれが片想いだとしても、これからもっと楽しくなるものだと思っていたのに。
なんで苦しいことばかりなの?




 体育祭当日は朝から空はまぶしいほどに晴れていた。
秋といってもまだ日差しは強く、グラウンドの熱気がじんわりと感じる。

「藤谷、そっちの旗お願い!」
「了解〜!」

 俺は、数日前に聞いた後輩たちの会話は、なかったことにした。
 完全にそうできたというわけではないけれど、
あのままだと胸の奥がモヤモヤしてしまって、楓とゆっくり話せてない今は、落ち込んでいく気がしたから。
 

 掛け声が飛び交い、クラスのTシャツを着たみんなが走り回っている。
体育祭独特の高揚した空気に包まれながら、俺は手伝いの係であちこち動き回っていた。

 ――そのとき、

「藤谷……先輩、ですよね?あの、これ預かっておいてもらえますか?」

 声をかけてきたのは、同じ学年じゃなくて、運営委員の一年生。
たしか名前は……葛原湊人(くずはらみなと)
あの時、「音羽先輩に片想い」とか言ってた子だ……

「あ、あぁ、いいよ。あ、これ、リストバンド?」

「はい。あの、音羽先輩のです。落としちゃったの見てて」
「え、楓の?」
「そうです。僕、前に音羽先輩に一緒のいただいたんです!クラスのやつ。ペアで」

「えっ?」

 思わず声が裏返る。
周りの歓声にかき消されそうだったけど、今の言葉は確かに聞こえた。

(……楓が?リストバンド”あげた”?しかもペア?)

 確かに2つ目のリストバンドを希望する人はもらえるのだけど。
楓はそんなタイプじゃない。
それに誰かに軽々と物をあげるようなやつじゃないし、ましてや後輩相手にペアなんて――。

「えっと……そっか。預かっとくね」

「ありがとうございます! あ、じゃあ僕、直接渡したかったんですけど今から自分の競技あるんで藤谷先輩から音羽先輩に渡してもらえますか?」

「あー、えと、わかった。」

 にこっと笑って頭を軽く下げ、湊人は軽やかに走り去っていった。
その背中を見送る俺の胸の奥で、何かがちくりと刺さる。

(いやいや、考えすぎだって。たまたま、余ってたとか……)

 そう思って笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。

 
 昼過ぎ、リレーが始まる時間。
観客席からクラスメイトの歓声が飛ぶ中、俺たちのチームはバトンをつないでいた。

 楓の姿が見えたのは、アンカーの一つ前。
黒髪が風に揺れて、シャツの袖をまくった腕が汗で光ってる。
走る姿が、やたら絵になってて、思わず目を奪われる。

(……かっこよ……)

 気づけば、そんな言葉が心の中で漏れてた。
バトンを受け取る姿勢ひとつに、余裕と真剣さが混ざってて、見ているだけで鼓動が速くなる。

 ゴールした瞬間、歓声が上がり、クラスメイトが一斉に駆け寄る。
その輪の中で、楓が軽く息を整えながら笑っている。
普段あまり見ない表情――ほんの少しだけ、無防備な笑顔。

「楓、ナイスラン!」

 俺が声をかけると、彼は振り向いて「ありがと」と短く返した。
汗を拭いながら、いつもの無表情とは違う、柔らかな目をしている。

 その瞬間、視線が合った。
ほんの一秒のはずなのに、時間が止まったみたいに感じる。

「おいおい、また藤谷がロックオンされてるぞ」

 成瀬の茶化す声で現実に戻る。

「違うって!」
「いや、違わねぇだろ。あの目、どう見ても……」
「ちょっ、やめろって!」

 俺が焦って言葉を濁すと、成瀬がニヤリと笑う。
そのとき、横からスッと影が差した。

「成瀬、あんまりからかうな」

 振り向くと、楓がいつの間にか後ろに立っている。
さっきより低い声。
けど、目の奥は穏やかじゃなさそう。

「おー、悪い悪い。冗談冗談」

成瀬は手を上げて笑いながら離れていった。
けど、楓は俺のそばから動かない。


「……さっきの一年、葛原湊人って子。話してたけど、何の用?」
「え? あ、ああ。リストバンド落としたから預かっただけで……」
「リストバンド?」
「うん。クラスで作ったやつ。ほら、これ。お前のだって。」

 ポケットから取り出して見せると、楓の表情が少し曇った気がした。
 それから、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。

「……俺の、だな」

「……そう。その湊人くんが、“前に音羽先輩にもらった”って……」

「――あー、うん」

短く息をついて、少し黙る。
その沈黙が重かった。


「……あげたの?」

「別に深い意味はない。あいつが欲しいって言うから、あげただけ」

「そっか……」

 言葉はそれだけだったのに、胸の奥が騒いだ。
“深い意味はない”――そう言われたのが、なんだか寂しくて。

 楓は何か言いかけて、結局やめたように小さく息をついた。

「悠、午後の競技、無理すんなよ。顔赤い」
「え、うそ……?」
「日焼けかもな」

 そう言って、指先で俺の頬を軽く触れる。
その指が熱くて、頭の奥が真っ白になった。

 手を引っ込める前に、ふっと微笑んだ。

「……大丈夫。どこにいても、俺はお前だけは見失わないから」
「え?」
「――なんでもない。行こ」

 歩き出す背中を見ながら、なんだか胸が痛くなって俺は片手で胸を押さえた。
そして無意識のうちに
空いているもう片方の手で楓のジャージの袖の裾をつまんで引っ張った。

ハッと我に返って、指先をすぐに離した。


(やば、俺……)


――「好き」とか、言いそうになった……。
 

でも言葉にしてしまったら、何かが変わってしまいそうで怖かった。