夜の部屋に、街の灯がぼんやりと揺れている。
スマホの画面を見つめても、コール音だけが空しく響く。
――悠に電話をかけても、出ない。
写真の件は、SNSに上がった時から気づいて削除を頼んでいた。
隣にいたのは「姉」だ。社会人で、久しぶりに帰省してきていた。
両親が揃うというから買い物を手伝っていただけ――。
それでも、悠の顔が頭に浮かぶ。
彼になにか誤解されている気がして、
胸の奥が、ずっと締めつけられているみたいだった。
窓の外の風がカーテンを揺らす。
眠ろうとしても、目を閉じるたびに浮かぶのはあの笑顔。
”違うよ”って、一言伝えたいだけなのに。
画面の向こうまで、その声は届かないままだった。
――――――
翌朝の教室は、静かだった。
いつもより少し早く来たせいかもしれない。
窓の外では、雲の切れ間から朝日がのぞいている。
でも、それはまぶしいというより、痛かった。
昨日の夜のことが、まだ頭の奥でこびりついている。
夢みたいにぼやけているのに、胸の奥だけがずっと重い。
――“投稿が削除されました”。
その短い文字列を見たときの、自分の情けない笑い声。
思い出すたびに、あの夜の息苦しさが戻ってくる。
スマホの画面には未読のままのメッセージが一つ。
“話したいことがある。”
楓からだった。
読んだ瞬間に胸が鳴ったけど、返事はできなかった。
“話したい”なんて言葉は、
まだ、今の俺には重かった。
教室のドアが開く音。
息をひそめるようにして顔を上げると、そこに楓が立っていた。
相変わらず整った顔。
でも、その目の下には少し疲れた影が落ちている。
俺の隣の席に来て、鞄を置く。
「……おはよう」
「……おはよ」
声が、上手く出なかった。
たったそれだけの挨拶なのに、どちらもそれ以上続けられずに、沈黙が落ちた。
チャイムが鳴っても、心は教科書の文字を追わない。
黒板の文字も、先生の声も、遠くにある。
そのかわりに、隣の席の気配ばかりが気になる。
ペンを持つ指の動き、ページをめくる音が聞こえて、
それだけで落ち着かなくなる。
(俺は、この気持ちをどうしたらいいんだろう。やっと自分の気持ちがわかったのに)
考えたくないのに、何度も頭の中で繰り返してしまう。
目を逸らしても、気づけばまた見てしまう。
彼の横顔が、なんだか知らない人みたいに遠く感じる。
放課後になって、クラスのみんなが次々と帰っていく中、俺はまだ鞄を閉じられずにいた。
教室の空気が少しずつ薄くなっていく。
そのとき――
「……悠」
振り向くと、ドアのところに楓がいた。
光のない瞳で、それでもどこか必死な顔をしている。
「少し、話せる?」
「……いま?」
「うん。屋上、行こ」
断る理由はいくつか頭に浮かんだ。
でも、声にならなかった。
結局、楓の後をついていくように階段を上がる。
屋上の扉を開けると、風で前髪が乱れる。
ビルの向こうでもう太陽が沈もうとしている。
誰もいない空間。
フェンスの向こうに広がる空が、なんだか広くて遠い。
「昨日の写真みた?」
楓が切り出す。
俺は何も言えずに立ち尽くしたまま、手すりを握る。
「昨日、一緒にいたのは――姉だ」
その声が、風の音に溶けていく。
「久しぶりに帰ってきてて、買い物つき合ってただけ。……紛らわしかったよな」
「……うん」
それだけを返した。
頭ではわかってた。あの笑顔が“家族の顔”だってことも。
でも、心が追いつかなかった。
「姉さんが、さ」楓が少し笑った。
「昨日の夜、俺に言ったんだ。『その子のこと、詳しく話してよ』って」
「……その子?」
「お前のことだよ」
鼓動の音が、自分でもうるさかった。
言葉が出ない俺に、楓は小さく息を吐いて、続けた。
「正直、驚いた。本当に勘がいいんだ。
少しだけお前の話をしただけなのに。」
「なんだよ、それ……」
笑おうとしたけど、声が震えた。
「……楓」
「ん?」
「俺さ、昨日、あの写真見たとき……“お姉さん”ってわかってたのに、
なんかどうしても、モヤモヤしちゃって。だから……確かめくて。
でもたぶん、最初からわかってたんだ。自分の心の中。」
「悠」
名前を呼ばれる声が、また胸を刺す。
昨日と同じ声なのに、なんだかまるで違って聞こえる。
「俺、昨日お前が泣いてたって、成瀬から聞いた」
「……っ、別に泣いてないし!」
「強がんな」
「強がってない!」
目元を手で覆って俯く。
「俺、ほんとは昨日の夜、悠の家にすぐに行こうと思った」
「来なくてよかった」
「でも、行きたかった。お前に誤解されたままは嫌だった」
その声の震えに気づいた瞬間、胸がきゅっと締まった。
楓の手が、そっと俺の手の上に重なる。
冷たい風の中で、その手だけが熱い。
「ごめん。家族が帰ってくるって聞いてたのに、俺、勝手に……なんか、苦しくって……」
風が吹いて、楓の髪が揺れる。
その髪の先が、俺の頬にかすかに触れた。
沈みかけた光が、二人の間に静かに落ちていく。
「……楓」
思わず、名前を呼んでいた。
その瞬間、楓が微かに笑う。
けど、それは少しだけ切ない笑顔。
「その呼び方、やっぱ好きだな」
「……言うなよ」
「ほんとに可愛い」
「……うるさい」
軽口を叩きながらも、どちらも目を逸らせなかった。
少しの沈黙のあと、楓が静かに言う。
「……俺さ、悠の笑顔見てると安心する」
「え?」
「だから、泣いてる顔見るの、ほんとに嫌なんだ」
言葉の一つひとつが、やさしく胸に刺さる。
俺は笑おうとしたけど、涙がまた零れそうになって、
うつむいたまま、小さく呟いた。
「俺も……お前が誰かに甘い顔で笑うの、やだよ」
風が止まった。
楓が、驚いたように目を見開いた。
そのあと、何も言わずに、ただ俺の肩にそっと手を置いた。
それだけで、十分だった。
太陽が完全に沈み、街の灯がひとつずつ点いていくのを見ていた。
その灯がゆっくり夜に溶けていく中で、
俺は自分の胸の奥で確かに感じていた。
――俺は今日、楓のことちゃんと見れてる。
そして、これがどんなに痛くても、
この気持ちは本物。
隣を見ると、楓も同じように空を見ていた。
その横顔が、優しくて、切なくて、どうしようもなく愛しかった。
それでも、手は伸ばせなかった。
どうなりたいとか、どうしたいとか、
もういいんだ。
それより離れてしまう方が、怖い。
――沈んでいく光の中で、
俺は、はじめて“恋”の痛みを知った。
空の端に、秋の気配が少しだけ滲んでいた。
もうすぐ季節が変わってしまう――俺たちの関係も、きっと。

