その笑顔、俺限定。

 
 夜の部屋でスマホの画面を見つめても、コール音だけが響く。

――悠に電話をかけても、出ないな。
  メッセージも返信ないし。

 写真の件は、SNSに上がった時から気づいて削除を頼んでた。
 隣にいたのは「姉」。社会人で、久しぶりに帰省してきてた。
両親が揃うというから買い物を手伝っていただけなんだけど。

 でも、悠の顔が頭に浮かぶ。

 彼になにか誤解されている気がして、どこか胸が、ずっと締めつけられているみたいだった。

眠ろうとしても、目を閉じるたびに浮かぶのはあの笑顔。

『違うよ』って、一言伝えたいだけなのに。
画面の向こうまで、その声は届かないまま。
 

――――――

 
 翌朝の教室は、なんか静かだった。
いつもより少し早く来たからかもしれない。
 
 昨日の夜のことが、まだ頭の中にこびりついてる。
夢みたいにぼやけているのに、胸だけずっと重いな。

 ――“投稿が削除されました”。
 あの文字を見たときの、情けなく笑った自分の声。
思い出すたびに、昨日の夜みたいに息が苦しくなる。

 スマホには、未読のままのメッセージが一つ。
『話したいことがある』
楓からだった。
読んだ瞬間、ドキッとしたけど、返事はできなかった。
『話したい』なんて言葉は、まだ、今の俺には重すぎる。

 教室のドアが開く音がして、思わず息をひそめて顔を上げる。そこに相変わらず整った顔の楓が立ってた。
……でも、よくみるとクマができてる。

 俺の隣の席に来て、鞄を置く。

「……おはよう」
「……おはよ」

 声が、うまく出なかった。たったそれだけの挨拶なのに、その先の言葉が出てこない。結局どっちも黙ったまま。

 チャイムが鳴っても、頭は教科書の文字を全然追わない。黒板の文字も、先生の声も、ずっと遠い。
そのかわりに、隣の席の気配ばかりが気になっちゃう。ペンを持つ指の動きとか、教科書をめくる音とか。それだけで落ち着かなくなるのなんで?

俺のこの気持ちは、どうしたらいいのかな。
やっと自分の気持ちがわかったのに。

 考えたくないのに、何度も頭の中で繰り返してしまう。目を逸らしても、気づけばまた見てしまう。
彼の横顔が、なんだか知らない人みたいに遠くて、なんか寂しい。


 放課後になって、クラスのみんなが次々と帰っていく中、俺はまだ鞄を閉じられずにいた。

「……悠」

 振り向くと、ドアのところに楓がいた。なんとなく必死な顔してる。

「少し、話せる?」
「……いま?」
「うん。屋上、行こ」

 断る理由はいくつか頭に浮かんだ。
でも、声にならなかった。
結局、楓の後をついていくように階段を上がる。


 扉を開けたら、風で前髪が乱れた。屋上には誰もいない。フェンスの向こうの空が、なんだか広くて遠い。


「昨日の写真みた?」
 楓が切り出した。俺は何も言えずに立ち尽くすだけ。
なんて言えばいいんだろう。
手すりを握る手にじんわり汗をかいてる。



「一緒にいたのは……姉さんだよ」

風にかき消されそうになりながら、声が聞こえた。

「久しぶりに帰ってきてて、買い物つき合ってたんだ。紛らわしかったよな」

「うん」

 それだけ返した。頭ではわかってた。あの顔が『家族の顔』だってことも。でも、心が追いつかなかったんだ。

「姉さんが、さ」楓が少し笑った。
「昨日の夜、俺に言ったんだ。『その子のこと、詳しく話してよ』って」
「……その子?」
「お前のこと」

言葉が出ない俺に、楓はふうっと息を吐いて、続けた。

「うん、びっくりした。ほんと勘がよくてさ。
ちょっとお前の話しただけなのに」

「なに、それ……」
 笑おうとしたけど、声が震えちゃう。

「……楓」
「ん?」
「俺さ、昨日あの写真見たとき……お姉さんってわかってたよ。
でも、なんかどうしても、モヤモヤしちゃってさ。
だから……確かめたくてさ」

一つ呼吸をする。

「でもたぶん、最初からわかってたんだ。
 自分の心の中」


「悠」

 名前を呼ばれた声が、また胸に刺さる。
昨日と同じ声なのに、なんか全然違って聞こえる。

「昨日お前泣いてたって、成瀬が言ってた」
「……えっ、泣いてない」
「強がってない?」
「強がってないけど!」

 思わず、目元を手で隠してうつむいた。

「俺、ほんとは昨日の夜、悠の家にすぐに行こうと思ってさ」
「来なくてよかった」
「でも、行きたかったよ? お前に誤解されたままは嫌だったから」

 声、ちょっと震えてる。それに気づいて胸がキリキリした。
楓の手が、そっと俺の手に重ねてくる。
冷たい風の中で、その手だけ熱い。

「ごめん。家族が帰ってくるって聞いてたのに、俺、勝手に……なんか、苦しくなって……」

 風が吹いて、楓の髪が揺れる。その髪の先が、俺の頬をかすめた。

「……かえで」
 楓の顔みたら思わず、名前を呼んでた。
その瞬間、楓がちょっと笑う。
けど、その笑顔はちょっと切なく見えた。

「その呼び方、やっぱ好き」
「……今、言う?」
「だって、ほんとだもん」
「やめてって」

 軽口を言いながらも、どっちも目を逸らせなかった。
少し間があって、楓がぽつりと言った。

「……俺さ、悠の笑顔見てると安心する」
「えっ?」
「だから、泣いてる顔見るの、ほんとにやだ」

 言葉の一つひとつが、胸に刺さる。笑おうとしたけど、涙がまた出そうになって、うつむいたまま、呟いた。


「俺も……お前が誰かに甘い顔で笑うの、やだよ」

楓が、驚いたように目を見開いた。
そのあと、何も言わずに、ただ俺の肩にそっと手を置いた。
もうそれだけで、十分だった。

 
 ちゃんとわかった。
俺、今日、楓のことちゃんと見れてる。
そして、これがどんなに痛くても、この気持ちはちゃんと本物みたい。
  
 隣を見ると、楓は空を見てた。
その横顔が、優しくて、切なくて、どうしようもなく愛しい。

 それでも、手は伸ばせなかった。

これ以上、どうなりたいとか、どうしたいとか、
もういいんだ。
それより離れてしまう方が、怖い。

それでも――
好きでいてもいい?

 もう戻れない時間の中で、
俺は、はじめて恋とその痛みを知った。

 空気に、秋の気配が感じる。
もうすぐ季節が変わる――俺たちも、きっと。