文化祭が終わって、数日が経った。
教室の壁に貼られた飾りの紙がまだ取りきれず、端がひらひらと風に揺れていて。
 あの賑やかだった雰囲気や笑い声がまるで夢みたいで、今はただ、少し物悲しい静けさが残っていた。

 放課後の教室で黒板を見つめながら、俺はぼんやりとノートを閉じる。
ペン先が止まるたびに、どうしてもあの日のことを思い出してしまう。

 ――“悠”。
 あのとき、楓が俺の名前を呼んだ声。
何度思い出しても、胸がふわふわってなる。
文化祭の終盤、ペアダンスの音楽が流れて、二人きりのように見えたあの瞬間。
まるでスローモーションになったみたいだった。

 なのに、あれから少しずつ、何かが変わっていった。
いや、“変わった”というより、“静かに遠のいていく”みたいに。


 翌週あたりから、楓は少し忙しそうだった。
放課後も用事があるみたいで、「先帰るね」と言われることが増えた。
メッセージを送っても、既読はつくのに返信が遅い。
前はすぐに返ってきたのに。

 気のせいかもしれない。
ただ疲れてるだけかもしれない。
そう何度も自分に言い聞かせたけど、やっぱりどこか落ち着かない。


 昼休み、窓際の席から外を見ている楓の姿を見つけた。
隣に誰かが話しかけている。
短く返してはいるけど、表情はあまり変わらない。
それでも、目線の柔らかさに“俺の知らない何か”がある気がして――
なぜか胸がチクリとした。


「どうした?ぼーっとして」

 成瀬が後ろから顔を出す。
昼食のパンを片手に、いつもの笑顔。

「いや、なんでもない」
「また音羽?」
「ちがう!」
「即答だな〜。……顔に出てんぞ」
「出てねーし!」

 俺の抗議を聞き流して、成瀬はパンをもぐもぐと食べながら笑った。
 
「ま、気にしすぎんなよ。音羽ってちょっと不器用だし、機嫌の波わかりづらいタイプだからな」
「……そうかな」
「そうそう。あと“何か隠してるとき”みたいな顔、今ちょっとそんな感じしてるけどな」
「隠してる……?」

 小さくつぶやいたその言葉が、ぼんやり頭に残った。


 放課後、教室を出ようとした時、後ろから名前を呼ばれた。

「悠」

 ドアの前に楓が立っていた。
相変わらず整った顔。だけど、少し疲れてるように見える。

「楓、帰るの?」
「うん。今日、家の用事とかあるから」
「そっか」
「明日、昼からちょっと抜けるかもしれない」
「え?なんか体調悪いとか?」
「いや。家族が帰ってくるんだ」
「……そっか」

 そう答えた楓の横顔は、どこか穏やかで。
“家族”って単語を出した時の声が、少しだけ柔らかかった。
その表情を見て、少し安心したのに――
心の奥では、なぜかじわりと音のない波が立っていた。

 (家族……)


 駅までの帰り道、風が涼しかった。
楓の言葉を何度も繰り返しながら、無意味にスマホをいじる。
 画面の中には、文化祭の時の写真がまだ残っている。
みんなで笑ってる中で、楓が俺を見て笑ってる一枚。
それを見ているだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。

(……やっぱり好きなのかな、俺)

 そんなことを考えては、すぐに首を振る。

ちがう。ちがう。ちがう。

これは“友達”として、だ。
俺たちは男同士だし、そんな風に思うのは変じゃない?
それにあの時、あの女子も言ってた……。

 でも、どんなに言い聞かせても、心臓の音は嘘をついてくれなかった。

 

 翌日の昼、楓は本当にいなかった。
机の上には授業プリントが一枚置かれていて、
「あとで渡す」とだけメモが添えられている。

 何度かスマホを見たけど、連絡は来ない。
俺は授業の内容もあまり頭に入らず、ノートに意味のない線ばかり描いていた。


 放課後も、教室でスマホをチェックしていた。

 誰かがクラスのグループSNSに写真をあげた。
“週末のオフショット集〜”ってタイトルで、
いろんなイベント写真や打ち上げの写真が流れてくる。

 俺もなんとなく眺めていた。
“あー、みんな楽しそうだな”
そう思ってスクロールしたその時――
指が止まった。

 見慣れたシャツ。
そして、その隣で笑っている女性。
なんでこんな写真が?
“買い出しの時に見かけた音羽くん”って書いてある。

 買い物袋を持ったその女性の顔に、どこか引っかかるものがあった。
前に一度だけ、楓が“姉がうるさい”って笑って話していた。
でも、画面の中の彼女の笑い方も、楓の表情も――
顔立ちも似ている雰囲気なのに、なぜか、どうしても“家族”には見えなかった。
(というか、これがもし家族じゃなかったら?)

その瞬間、心臓が小さくドクっとなった。

 胸の奥が、じわっと音を立てた。
本当はわかっているはずなのに、認めたくない。

「……誰?」
口から漏れた声は思ったより小さくて
次に心臓が冷たく沈んでいくような気持ちになった。

 画面の中で、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
――“音羽くん、彼女いたの!?”
コメント欄の文字が、視界の中で滲む。

 確かに二人の距離は、まるで恋人同士のように近かった。
腕が軽く触れて、自然な笑み。
見慣れたはずの彼の笑顔なのに、俺の知らない温度だった。

 指先が冷たくなっていく。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、ぎゅうっと胸が締めつけられる。

 ……彼女?
そう思った瞬間、心の中で何かが崩れた感覚がした。

“そんなの俺に関係ない”って言い訳しようとしても、
言葉が全部、喉の奥で溶けて消える。

 画面を閉じても、胸のざわめきは消えない。
息苦しい。心臓の音がうるさい。


 俺、どうして、こんなに苦しいんだ。
たかが写真一枚で。


(……会いたい)

 そう思った瞬間、俺は走り出していた。

 別に追いかけたいわけじゃない。
ただ、あの背中を見失ったら、なんだか俺が俺じゃなくなりそうで。
気づけば、俺は学校を飛び出していた。

 
 駅までの道を駆け抜ける。
秋の風が頬を切るように冷たい。
電車に飛び乗ると、心臓がどくどくと音を立てている。

楓の家の最寄駅しか知らない。

どこに行くのかもはっきりしていないのに、
会ってどうするかも、なにもわからない。なのに
“会わなきゃ”という思いだけが体を動かしていた。


 その人が家族であっても、彼女であっても、
どうして俺は反応してしまうのか。

自分のこの感情がなんなのか。
だから――。

楓に会って、確かめなきゃ――。

 電車の揺れの中、視界の端で制服のシャツが動いた気がして顔を上げる。
 ホームの向こう側、改札を抜けていく見覚えのある後ろ姿。

 ――楓だ。

 その隣には、写真に写っていた女性。
笑いながら何かを話している。
楓の表情は穏やかで、優しくて。
俺の知らない顔だった。

 その一瞬で、体の芯が凍りつく。

 人混みの中、気づけば二人を追いかけていた。
電車が発車する。
俺は同じ車両に飛び乗る。
距離は離れているのに、彼らの笑い声だけがやたら鮮明に聞こえた気がした。

 女性が何かを話し、楓が頷いて微笑む。
その微笑みが、あまりにも優しくて、
胸の奥が痛む。

(……俺、何してんだろ)

 わかってる。
俺は別に楓のなにでもない。
“友達”に過ぎないんだけど。
なのに、どうしてこんなにも息が詰まるの。

 電車が停まり、二人が降りた。
俺も反射的に立ち上がる。
冷静になろうと何度も深呼吸するのに、足が勝手に動いていた。

 
 駅の改札を抜けて、街路樹の並ぶ通りを二人が歩く。
女性が笑って、楓の腕を軽く引く。
その仕草の柔らかさが、見ていられなかった。

 信号が青に変わる。
横断歩道を渡り、角を曲がると、
二人は高層マンションの前で立ち止まった。

 女性がエントランスの鍵をかざす。
ピッという音。
楓が一歩、彼女の後ろに続く。

 ――扉が、閉まる。

 周りの音が、ふっと消えた感覚がした。

 足が止まる。
呼吸も、思考も、全部。
冷たい風が吹いて、頬を撫でた。

(……家族なのかな)

俺は誰でもない。
ただの友達。
でも――あの目で、あの声で、名前を呼んでくれた。
“悠”って、あんな優しい声で。
その瞬間を、何度も何度も思い出しては救われていたけど。

「なんで、俺……」
喉がかすれた。
声に出したら、涙がこぼれた。

「……なに、これ……」
涙を手の甲で拭っても、次々とこぼれ落ちていく。

止められなかった。
もう、止めたくもなかった。

 胸の奥が焼けるように痛い。
目の前のマンションの扉が、ただの壁みたいに遠い。
もう、そこに楓はいないのに。
 

 ……そっか。やっぱり。
俺、いつの間にか、こんなにも楓のことを……。

――好きだったんだ。


初めて会ったとき、冷たいと思ってた。
話しかけるたび、ちょっと緊張した。
でも、少しずつ近づいて、名前を呼ばれて、守られて。
嬉しかった。

認めてなかっただけで、わかってた。

でも、俺たちは男同士で。
……なんだ。最初からだめじゃん。


楓だって、きっと“放っておけないだけ”で――

「人を好きになるって、
うれしくて楽しいもんじゃないの?
なんで俺、苦しいんだよ」

 声に出した途端、止まらない涙と胸の痛みが強くなる。
空は曇り始めて、冷たい風が吹く。
街の喧騒が遠くに霞んで、ただ自分の声にならない嗚咽だけが響いていた。
 

空が、沈む。
街の灯りがにじむ。
涙で、色がぼやけていく。

 歩き出そうとしても、足が動かなかった。
泣くつもりなんてなかったのに。
どうしても、涙が止まらなかった。

 

――その夜。

 ベッドに沈み込んだまま、何も手につかない。
スマホの画面が、やけに眩しくて。
SNSの通知がまた鳴る。

《投稿が削除されました》

 短いその文字を見た瞬間、
思わず笑ってしまった。
苦くて、少し乾いた笑いだった。

「……もう、いいよ」

 呟いて、スマホを伏せる。
天井を見上げると、目の奥が熱くなった。
心臓が、うるさい。
痛い。息ができない。

 何度も深呼吸しても、涙が滲んで視界が滲む。

 思い出すのは、楓の声。
名前を呼ばれた時の、あの穏やかで真っ直ぐな瞳。
その全部が、焼きついて離れない。

 好きって、こういうことなんだ。
触れたいと思って、
笑ってほしいと思って、
離れたくないって思うたびに、こんなにも苦しくなるものなのか。

俺は今日、初めて自分の”恋”を知ったのに、
その瞬間に、それが叶わない”苦しさ”を知った。

 涙の音が静かに落ちる。
窓の外で夜が沈んでいく。

 

 翌朝、目覚ましの音が遠くで鳴っていた。
枕元のスマホが震える。
画面には、“音羽 楓”の名前。

 でも、指は動かなかった。
画面が何度も点滅して、
やがて静かに消えた。

 カーテンを開けると、朝日が差し込んできた。
昨日までと同じ空なのに、
まるで全然違う色が変わってしまったみたいに感じた。

その朝の色が眩しくて、胸の奥だけ痛いほどに沈んでいた。