翌朝、目覚ましより早く目が覚めた。
夢の中まで、あの「悠」と呼ぶ声が追いかけてきた気がして、寝起きからすでに心臓が忙しい。

(あぁもう……やばい。昨日のこと思い出しただけで動悸がする)

 制服のボタンをかけながら鏡を見る。顔がまだ少し赤い。
――おと……楓は、今日どんな顔してくるんだろう。
妙に気まずいのか、それとも昨日みたいにサラッとしてるのか。

 ……いや、どうせ平然としてるんだろうな。
俺だけが一人で騒いでるパターン。


 母さんが準備してくれた朝ご飯を済ませ、玄関を出た瞬間、いつもの低い声が聞こえた。

「おはよう」

 ビクッと肩が跳ねた。やっぱり来てる。
門の前に、制服姿の楓がいつもの無表情で立っていた。

「……また迎えに来たの?」
「約束した」
「昨日のあれ、冗談じゃなかったの?」
「俺、冗談言わない」

 さらっと言い切られて、反論できない。
楓は俺のペースを一瞬で奪ってくる。ほんとにもう……。


 並んで歩き出す。
昨日と同じ通学路なのに、なんだか距離感が掴めない。
近いような、遠いような。
心だけが少し置いてけぼりだ。


 途中の信号で、ふと沈黙が落ちた。
赤信号になり2人で足を止めた。

「昨日……その、いきなり名前で呼ばれて、びっくりした」
「嫌だった?」
「いや、びっくりしたって言ったじゃん」
「でも、べつに嫌じゃなかっただろ」
「……まぁ」

 俺の言葉に、楓がふっと笑う。
その笑みが柔らかい。

(もう、ほんと何なのこの人)



 教室に入ると、いつもより少しざわついていた。
文化祭の後だからだろう。昨日の話題で持ちきりだ。

「藤谷〜!ダンスの時の“あれ”やばかったな!」
二つ後ろの席の成瀬が身を乗り出してくる。
 
「え、あれって何?」
「“悠”って呼ばれた瞬間、女子みんな悲鳴あげてたぞ!」
「うそ!? マジで?」
(き、聞かれてたの?)

「マジマジ。音羽のあの顔、完全に恋人ムーブじゃん」
「いや、ちがっ……!」

 思わず声が裏返った。笑いが起こる中、視線の端に楓の横顔。
 何事もないようにノートを開いてるけど、耳がほんのり赤い。

(……おい、照れてる?)

 それを見て心臓がまた忙しくなる。
ついでに顔も熱くなる。
成瀬がニヤリと俺の耳元で囁いた。

「なぁ、あれ本気っぽくなかった?音羽」
「えっ」
「お前さぁ、鈍感もほどほどにしとけよ?」
「……なにそれ」

ごまかすようにペットボトルの水を一口飲んだ。
けど喉が渇いたままで、全然スッキリしない。



 昼休み、パンを食べながら、窓の外の青空をぼーっと見てた。
楓は相変わらず、弁当をひろげ静かに本を読んでる。
でも、ページをめくる指が少しだけゆっくりに見えるのは気のせい?

「おと……楓……、今日は弁当なの?」
「うん。自分で作った」
「え、すご。へぇ〜、見せて」

 つい覗き込むと、手作りの卵焼きとウインナーやミニトマト。
きっちりしてて、楓らしい。

「悠は?」
「俺?今日は購買」
「またパン?」
「う……はい、パンです」
「偏るだろ」
「わかってるけど、朝ギリギリなんだよ」
「今度、俺が作る」
「はぁ!?いやいや、それはさすがに」
「もう決めた」

 淡々と宣言されて、口を開けたまま固まる俺。
周りの女子たちが「いいな〜」「料理男子最高」ってざわつく。
なんか恥ずかしくて顔が熱い。

「なぁ、お前ほんとに、俺のこと――」

 言いかけて、飲み込んだ。
言葉の先が怖かった。
もし“好き”だなんて言われたら、俺どうしたらいいか分からない。



 放課後になって、楓は帰り支度をしながら、ふとこっちを見た。

「今日も一緒に帰る?」
「あ、うん……でも今日はちょっと用事あるから」
「どこか行くの?」
「いや、図書室寄るだけ」
「なら、一緒に行く」

「いや、そういう意味じゃなくてっ!」

 焦って言い訳する俺を見て、楓が小さく笑った。
まるで「わかってる」って顔。

「じゃあ、先に帰る。……無理すんなよ」

 そう言って、教室を出ていった。

(……なんだよ、その言い方。優しすぎるんだよ)



 ちょっと1人で落ち着きたくて図書室に行ったはずなのに、結局本の内容は頭に入らなかった。
ページをめくっても、文字が全部“音羽楓”に見える。
自分でも笑えてくる。

 窓の外はもう夕焼け。
閉館のチャイムが鳴って、ようやくカバンを手に取った。

 廊下を歩いていると、階段の踊り場で誰かの声がした。
――楓だった。まだ帰ってなかったんだ。

女子二人と話している。
少し離れてるけど、声がちゃんと聞こえる。

「音羽くんって、実はほんとに優しいよね〜」
「そんなことない」
「ねぇねぇ、文化祭のとき、藤谷くんと踊ってたのってやっぱ特別?」
「……」

 一瞬の沈黙。
楓は静かに目線を落とした。

「藤谷は、俺にとって大事なやつだよ」

(……っ!)

 胸が一瞬で熱くなる。は、恥ずかし……。

だけど、女子たちが「ふ〜ん、そういう“友達”なんだね?」って笑った瞬間、なぜかスッとと胸が冷えた感じがした。

 “友達”って、そういう意味で言ったのかな。
昨日みたいに「好きになる」って言ったのに。
どうして今日、そうじゃないみたいな言葉を選ぶんだろう。
いや、確かに間違ってる訳ではないけど。

 俺は気づかれないように、足早にその場を離れた。



 その夜、自分の部屋で、机の上に置いたスマホが震えた。
画面には“音羽楓”の名前。

『今日、ちゃんと帰れた?』
『うん。ありがと』
『明日も迎えに行く』
『……もう大丈夫だって。』
『俺が行きたい』

 既読をつけたまま、しばらく返信が打てなかった。
キーボードの上で指が止まる。
何かを言えば、距離がまた変わってしまいそうで。

(昨日はあんなに近かったのに。今日はなんで、少し遠く感じるんだろう)

 打ちかけた文章を消して、画面を伏せた。



 ベッドに横になっても、眠れなかった。
天井の明かりをぼんやり見つめながら、心臓の音だけがいつもより大きく耳に響く。

(俺、何がしたいんだろう)

 楓に優しくされると嬉しい。
でも、なぜか時々苦しくもなる。
あんな風に「大事」って言われて、それが“友達”の線の中に置かれるのが嫌なのか?
それとも、俺が勝手に期待してるだけ?

 枕元のスマホがまた震えた。
小さな通知に、短い言葉が浮かぶ。

 『おやすみ。悠』

 その一行を見た瞬間、体が少し温かくなる。

(……なんだよ、もう)

 届きそうで、届かない。
たった数文字なのに、なんでか距離が遠く感じた。