文化祭が終わるころには、日が沈むところだった。
校舎の中には、まだ片づける音と笑い声が残っていて。

 俺は机を拭きながら、今日一日の出来事を反芻していた。

――「悠」。

 たった一言なのに、胸の奥で何度も波紋みたいに広がる。
音羽の声の低さ、近さ、手の温度。
全部が、まだ体の中に残っている気がする。
 
 名前で呼ばれただけなのに、あの偏差値の高い顔面にいわれるの、マジでやられる。

 そ、それに「好きになる」とか「ただの友達じゃない」って言ったし。
それって本気なの?
お、俺、男の子なんだけど……?
 

「藤谷」
「うわっ」

 振り向くと、音羽が立っていた。
教室の灯りに照らされた綺麗な顔は、昼よりも穏やかで、でもその目は、どこか熱をもってる。

「……びっくりした」
「声かけたけど、また聞こえてなかった」
「ごめん、考えごとしてて」
「俺のこと?」
「は!?な、なんで??」
「違うならいいけど」
「ちょ、なんで違うって言えないような言い方すんの!?」
 
 顔が一瞬で熱くなる。
音羽は少し笑って、机の上の雑巾を俺の手から取った。
そのまま指が触れ合って、鼓動が早くなる。

「片づけ、もう終わるよね?」
「う、うん……あと少し」
「じゃあ、帰るまで付き合う」
「え、いや、いいよ、わざわざ」

「家まで送る」
「……なんで?」
「夜道、危ない」
「はぁ……そういうとこ、ほんと俺を甘やかす」
「悠限定」


 また「悠」って呼んだ。
言葉の温度が一瞬で上がる。
名前を呼ばれるたびに、心臓のリズムが乱れるのを自覚してしまう。
 
「俺、男の子だって忘れてない?」
抗議気味に言うと、音羽はフッと鼻で笑って
 
「知ってるよ」
と答えた。


 片付けもすぐ終わり校門を出ると、風が少し冷たかった。
人通りの少ない坂道を、並んで歩く。
音羽がぽつりと聞いてきた。

「……今日のダンス楽しかった?」
「うん……まぁ、楽しかったけど」
「俺も」

 そう言ってまた音羽が顔を近づける。
ほんの十センチもない。
息を飲む音が聞こえそうなほど。
なんかドキドキしちゃってるのバレそうなんですけど。

「……お前、ほんと最近やたら近いよ」
「そう?」
「そうだよ」
「離れたほうがいい?」
「そ、そうだな……」
「嘘」
「は?」
「離れたくなさそうな顔してる」

(はぁ?俺、そんな顔してる……?)

否定しようとして、

「……なんでお前、そんなことわかるんだよ」
「見てたから」
「いつも見てる、みたいに言うな」
「うん。見てる」
「……ほんとに言うなよ、そういうの」
「言う。だって本当だもん」

 音羽の声は穏やかなのに、心の奥まで響く。
横を見ると、音羽はほんの少しだけ笑って口を開いた。

「俺のこと、名前で呼んで」

急にそんなことをいう音羽に顔が熱くなる。
 
「……えぇ?なんで?」
「なんでって。俺も悠って呼ぶんだから」

 

「……(かえで)?」

自分の口から楓の名前が出た瞬間、変な感じがした。
ずっと“音羽”って呼んでたのに。
でも、なんか――急にそれじゃもう、足りない気がしてしまって恥ずかしい。

 楓が僅かに目を開いて立ち止まった。
俺も足を止めると、彼はゆっくりとこちらを向いて目を細めた。

ほんの少しの時間、黙って俺を見た。
その沈黙が、息が詰まるくらい長く感じた。

「楓って、悠に呼ばれたかった。」
「ぷっ!なんだよそれ」
 
お前、恥ずかしいことさらっと言うなよ〜。

「お前は、気づいてないかもしれないけど」
「……?」
「俺、もう結構前から名前で呼び合いたかったよ」
「そうなの?別にそれくらい……」
「ずっと我慢してた。呼びたくて」

その言葉が、鮮やかに響いた。

「くくっ、なにそれ、呼び方なんかでそんな真剣に……」
「距離を、間違えたくなかった」

 ……あ、うん。
その割に今日はグイグイ近づいてない?

 楓がゆっくりと手を伸ばす。
頬に触れた指先が熱い。

「けど、もう限界、もっと近づきたい」

「……」

 喉が鳴る音が聞こえて、息をするのも忘れる。
ボンっと音がしそうなくらいに顔に熱が集まった。
そ、そんな甘い顔で俺に何いってんの!


「……俺、どうしたらいいの?」
「このままでいい」
「……でも、俺――」
「“でも”いらない」

 楓の手のひらが頬をなぞる。
指が耳の後ろに触れて、くすぐったいのに逃げられない。
視線が絡んで、まるでどちらも解けなくなった。

 沈黙の中、楓が少しだけ顔を寄せる。
お互いの息がかかる距離で。

「……悠」

また、名前で呼ばれた。
その瞬間、もう何も考えられなかった。
両手を伸ばし楓の身体を離す。

「っ……もう、ダメだって……」
「なにが?」
「その呼び方とか!」
「気に入らない?」
「……気に入らない、わけじゃ、ないけど!」
「じゃあ、これからも呼ぶ」
「勝手に決めるなって……」
「じゃあ、止める?」

 色々とキャパオーバーで涙目になっている自分がわかる。
腰が抜けそうなのをなんとか堪えて立っていた。
 
「……勘弁して」

 じっと楓の目を見て言葉が零れた瞬間、
楓の目がかすかに揺れた。

「……今のかわいい顔、覚えとく」

 楓の口角がそっと上がり、手が髪を撫でた。
指先が首筋をかすめて、鳥肌が立つ。

「今日みたいに名前を呼ばれて、そんな顔してくれたら
 やっと悠と同じ場所にいる感じがする」

その言葉が、夜の冷たい風よりもまっすぐに刺さった。

「……マジで、反則なんだけど」
「なにが」
「そんなこと言われたら、もう……」
「もう?」
「顔、見れないだろっ!」

 たぶん、真っ赤であろう顔を見られまいと、プイッと反対側を向く。
楓が小さく笑う。
その笑い方が、誰よりも優しくて、やっぱ、ずる……。

「じゃあ、見なくていい」
「……は?」
「俺が見てるから」

 言葉の意味を理解するより先に、楓の手がまたそっと俺の頭に触れた。
軽く髪を撫でて、指先が首筋をかすめる。
それだけで体がびくりと反応した。

「……お前、そういうの簡単にするな」
「簡単じゃない。悠だから、した」
「…………」
 
も、もう!
な、なに、なんかすごい恥ずかしいんですけど……!
 
 風が鳴って、どちらも黙る。
沈黙が妙に甘くて、逃げる言葉が見つからない。


家の前まで来て、足を止めて、自分の家を指差す。

「ここ、うち。」
「わかってる」
「あー……今日はありがとう」
「ううん。こっちこそ」

少し間があって、楓がもう一度、俺を見た。

「ねえ、悠」
「ん?」
「次、名前呼ぶとき……」
「……うん」
「今みたいに“照れてる声”で呼んで」
「なっ、は?……そんなの無理!」
「できる」
「はぁ?できない!」
「俺はめちゃくちゃ聞きたい」
楓はちょっと意地悪そうな顔して言う。

「知らない! もう家入るから!じゃあね!」

背を向ける俺の手を、楓がそっと掴んだ。
ほんの一瞬の触れ合いなのに、息が詰まる。

「じゃあ、また明日。……悠」

 その名前の呼び方が、まるで触れるみたいに優しくて、振り返れなかった。
 

家のドアを閉めて、玄関でへなへなと座り込んだ。
「〜〜〜っ!!!なんなんだよぉ、もう、調子おかしい!甘すぎだろ」


 部屋に入って着替えを済ませても、頬の熱はまったく冷めない。

(うわぁ……俺、なんか、なんか、やばいかもしれない)

そう思った瞬間、鼓動がうるさいほど鳴った。