その笑顔、俺限定。

 
 文化祭が終わるころには、窓の外はもう日が沈むところだった。廊下からは、まだ片づけをする音とクラスメイトの笑い声が聞こえてくる。
 俺は黙々と机を拭きながら、今日一日の出来事を何度も胸の中で繰り返していた。

 ――「悠」

 たった一言なのに、胸の奥が何度も波のように広がる。
 音羽の声や手の温度。全部が、まだ身体の中に残っている気がする。
 
 ただ名前を呼ばれただけ。それなのに、あの顔面で言われると、マジでやられる。

 そ、それに「好きになる」とか「ただの友達じゃない」って言ったし。
 それって本気なの? 俺、男の子なんだけど……?
 
「藤谷」
「うわっ」

 驚いて振り向くと、音羽が立っている。
 その綺麗な顔は、昼よりもなんとなく穏やかな表情をしていた。

「びっくりした〜」
「声かけたけど、また聞こえてなかった」
「ごめん、考えごとしてて」
「俺のこと?」
「は? な、なんで??」
「違うなら、いいけど」
「ねぇ、なんで違うって言えないような言い方すんの?」
 
 音羽は少し眉を下げ、机の上の雑巾を俺の手からそっと取った。軽く指が触れ合った。

「片づけ、もう終わるよね?」
「あ、うん、あと少し」
「じゃあ、帰るまで付き合う」
「いや、いいよ、わざわざ」

「家まで送る」
「……なんで?」
「夜道、危ないから」
「はぁ。そういうとこ、ほんと俺を甘やかす」
「悠にだけだもん」

 また「悠」と呼ばれた。その響きを耳にするたび、心臓のリズムが乱れるのを嫌でも自覚してしまう。
 
「俺、男の子だって忘れてない?」
 抗議気味に言えば、音羽はフッと鼻で笑い「知ってるよ」と答えた。

 片付けもすぐ終わり校門を出ると、風が少し冷たかった。
 人通りの少ない坂道を、並んで歩いてると、音羽がぽつりと聞いてきた。

「今日のダンス楽しかった?」
「うん……まぁ、楽しかったけど」
「俺も」

 そう言うと、音羽の顔がまたすぐそこまで近づけてくる。距離は十センチもなく、息を呑む音すら聞こえてしまいそうだった。
 ドキドキしちゃってるのバレそうなんですけど。

「……お前、ほんと最近やたら近いよ」
「そう?」
「そうだよ」
「離れたほうがいい?」
「そうだな……」
「嘘でしょ」
「はあ?」
「離れたくなさそうな顔してる」

(はぁ? 俺、そんな顔してる?)

 否定しようとして、

「なんでお前、そんなことわかるんだよ」
「見てたから」
「いつも見てる、みたいに言うなよ!」
「うん。見てる」
「ほんとに言うなって、そういうの」
「言う。だって本当だもん」

 いや、見てる宣言こわ……もう、なんにも言えない。

「俺のこと、名前で呼んで」
 音羽が急にそんなことを言い出した。
 
「えぇ? なんで?」
「なんでって。俺も悠って呼ぶんだから」

「えっと……(かえで)?」

 自分の口から楓の名前が出たら、なんだか全身がむず痒くなるような、不思議な感覚がした。
 ずっと『音羽』と呼んできた。けれど、一度意識してしまえば、それではもう、足りない気がしてしまい急に恥ずかしくなった。

 楓が僅かに目を開いて立ち止まった。
 俺も足を止めると、彼はゆっくりこちらを向いて目を細めた。

 ほんのわずかな時間、彼は何も言わずに、ただ俺の瞳を覗き込むように見つめていた。
 その沈黙が、息が詰まるほど長く感じた。

「楓って、悠に呼ばれたかった」
「ぷっ! なんだよそれ」
 
 お前、恥ずかしいことさらっと言うなよ。

「お前は、気づいてないかもしれないけど」
「……?」
「俺、もう結構前から名前で呼び合いたかったよ」
「そうなの? 別にそれくらい……」
「ずっと我慢してた。呼びたくて」

 なんか真面目に言ってくるから笑えてきた。

「くくっ、なにそれ、呼び方なんかでそんな真剣に……」
「距離を、間違えたくなかった」

 ……あー、うん。
 その割に今日はグイグイ近づいてない?

 楓がゆっくり手を伸ばし、俺の頬に触れて続けた。

「けど、もう限界、もっと近づきたい」
「……」

 喉が鳴る音が聞こえ、息をするのも忘れた。
 ボン、と音がしそうなほど、一気に顔に熱が集まるのがわかった。
(そ、そんな甘い顔で俺に、な、何いってんの!)

「……俺、ど、どうしたらいいの?」
「このままでいいよ」
「でも、俺――」
「でも、いらない」

 楓の手のひらが俺の頬をなぞる。
 指が耳の後ろに触れて、くすぐったいのに逃げられない。
 目が合って、逸らせなくなった。

 う、うわぁ……。

 黙ったまま、楓が顔を寄せて、お互いの息の当たるくらい近くで口を開いた。

「……悠」

 また、名前で呼ばれた。
 もう何も考えられなかった。
 このままではまずいと、反射的に両手を伸ばして楓の身体を押し返した。

「っ……もう、ダメだって!」
「なにが?」
「その呼び方とか!」
「気に入らない?」
「……気に入らない、とかじゃ、なくて!」
「じゃあ、これからも呼ぶ」
「俺の意見どこいったの……」
「じゃあ、やめる?」

 色々な感情が押し寄せてキャパオーバーになったのだろう、視界が滲んで涙目になっている自分がわかった。腰が抜けそうなのを、必死に堪えて立つ。
 
「……勘弁して」

 楓の瞳をじっと見詰めたまま、思わず言葉が漏れた瞬間、彼の目が僅かに揺れたのを見逃さなかった。

「……今のかわいい顔、覚えとこ」

 楓の口元が緩み、そのまま髪を撫でられて、指先が首筋をかすめて、ぞわっと鳥肌が立つ。

「今日みたいに名前を呼ばれて、そんな顔してくれたらやっと同じ場所にいる感じがする」

 その言葉が、まっすぐ刺さった。

「……マジで、困るんだけど」
「なにが」
「そんなこと言われたら、もう……」
「もう?」
「顔、見れないだろ!」

 たぶん、真っ赤であろう顔を見られまいと、わざと反対を向いた。
 楓がくすっと笑う。
 その笑い方が、なんだか優しくて、……やば。

「じゃあ、見なくていい」
「……は?」
「俺が見てるから」

 言葉の意味とかを考える前に、楓の手がまたそっと俺の頭を触る。
 軽く髪を撫でられて、指が首にあたり、思わず体がびくりと反応する。

「お前さ、そういうの簡単にするな」
「別に簡単じゃない。悠だからした」
「……」
 
 ほ、ほんとにやめて!
 恥ずかしすぎるんですけど!
 
 風がひゅうっと鳴って、二人とも黙った。

 それから、どちらも口を閉ざした。何を話せばいいのかわからず、気まずい沈黙だけが二人を包んだまま、あっという間に家の前に着いてしまった。
 足を止め、自分の家を指差す。

「ここ、うち。」
「わかってる」
「あー……今日はありがとう」
「ううん。こっちこそ」

 少し間があって、楓がもう一度、俺を見た。

「ねえ、悠。次、名前呼ぶときさ」
「ん?……うん」
「さっきみたいに照れてる声で呼んでよ」
「なっ、は?……そんなの無理でしょ!」
「できる」
「はぁ? できない!」
「俺、めちゃくちゃ聞きたい」
 楓は、今まで見たことのないような、少し意地悪な笑みを浮かべて言った。

「知らない! もう家入るから! じゃあね!」

 背を向ける俺の手を、楓がそっと掴む。ほんの一瞬のなのに、息をとめてしまう。

「じゃあ、また明日。……悠」

 その声で呼ばれた名前は、まるで頭を撫でられてるかのように優しくて、俺は振り返ることができなかった。
 
 家のドアを閉めて、玄関でへなへなと座り込んだ。
「〜〜〜っ!! なんなんだよぉ、もう、調子おかしい! 急に甘すぎ! 攻めすぎ!」


 部屋に入って着替えを済ませても、顔の熱はまったく冷めない。

 うわぁ……俺、なんか、なんか、やばいかもしれない〜!!

 そう思った瞬間、心臓がうるさいほどに高鳴り続けた。