あの日から、音羽の過保護は更に悪化してしまった。
朝は家まで迎えに来るし、帰りは当然のように駅までどころか家の前まで送ろうとするし、ちょっとでも「眠い」と言えば保健室直行コース。
気づけば俺は、彼の視線と手のひらの中にいるみたい。
そんな俺のドギマギしたり、しなかったりの日常も普通に過ぎていき、気付けば九月の終わり。
文化祭準備の真っ最中だ。
もうすぐ十月というのにまだ残暑が続いていて、さらにその文化祭準備もピークにさしかかって
教室の空気はいつもよりずっと熱く感じた。
窓を開けても風が通らなくて、笑い声と絵の具の匂いが混ざり合っている。
「藤谷、こっち持って!」
「了解〜!」
クラスみんながそれぞれの仕事をやっている。
授業とは違う、みんなで一つのものを作ってる感じに俺はワクワクしていた。
クラスの出し物はカフェ。
俺は看板担当で、脚立の上で筆を動かしていた。
絵の具を伸ばして、文字の縁を塗って、よし、形になってきた――
って思ったタイミングで、ちょっと足がズルッとなった。
あ、やばいかも――
「っ!」
「藤谷っ」
次の瞬間には、俺は脚立から足が離れて、ふわっと浮いて、重力に引かれていく途中だった。
(落ちる!やばい!絶対痛いやつ!)って目をぎゅってつぶったのに、そんな衝撃はこなかった。
かわりに、ぐっと強い腕に抱き止められた。
目を開けると、俺は音羽の胸の中に倒れ込んでた。至近距離すぎて息が止まる。
「……っ、ありがと」
「危ないだろ」
「あーごめんごめん、バランス崩した。」
「もう少しで落ちてた」
怒ってるみたいな言い方なのに、声はやさしい。
しかもまだ腰を支えた手が離れない。
「……あの、もう大丈夫、平気だから」
「そうか」
返事はしたのに、支える手だけは離れない。
心臓がばくばく鳴って、変な汗が流れてくる。
「おーい、お前らー! そのままいちゃつくなー!」
「ばっ、ち、違うから!」
笑い声を上げてるのは、案の定、成瀬。
その声を聞いた教室の数人がニヤニヤしてこっちを見ている。
俺が慌てて距離を取ると、音羽の眉が少しだけ寄った。
何も言わないけど、表情の奥に何かが沈んだものがある感じで。
(……そんな顔、する?)
胸の奥がちくっとする。
昼休みに、廊下で成瀬がまた話しかけてきた。
「なあ藤谷、お前って音羽に守られすぎじゃね?」
「は? 別に守られてないし!」
「だってさ、さっきだって抱き止めてもらってたし〜。あれ、普通じゃなかなかないぜ?」
「いや、あれは事故だってば」
「ふーん? じゃあ今度、俺が抱きとめてもいい?」
「バカ言うなって!」
ふざけて成瀬が俺の肩を抱いてきた瞬間――
「……やめろ」
低く落ちる声。
音羽が背後から来て、
成瀬の腕をさりげなく外した。
動きは静かなのに、拒否ははっきりしてる感じで。
「おいおい、嫉妬かよ」
「……そうだよ」
「え?……」
俺も成瀬も一瞬固まった。
けど音羽はまったく表情を変えずに、
そのまま俺の手首を軽く掴んで、ずんずんと歩き出す。
ぐいっと引っ張られて、半ば連行みたいに階段のほうへ連れていかれる。
「おい、音羽? ちょ、なに!?」
「……冗談がすぎるだろ」
「成瀬のいつものノリだって」
「それでも、嫌。我慢できない」
最後の言葉だけ胸に残った。
今までだったら「過保護だな」で済ませたはずなのに。
今日は違う。
音羽は苦虫を潰したような顔をして言った。
「お前、ほんとに……気をつけろ、ノリでも。」
その顔がなんか、すごく、困ってるみたいで。
俺も、もう何も返せなかった。
(……え、なにこれ?)
そして文化祭当日になった。
朝から人が多くて、校舎全体が浮き立っている。
俺たちのクラスのカフェは大盛況で、休む暇が全然ない。
「藤谷、あと飲み物二つ追加ー!」
「はーい!了解!」
流し台でグラスを洗っていると、同じクラスだけど全然話さない女子が声をかけてきた。
「ねぇ藤谷くん、ペアダンスの相手決まった?」
「あ、まだ。迷ってる。出ないかもしれないし。」
「そっかー。私、まだ相手いないから、もし――」
「藤谷は、俺と出る予定だから」
突然、背後から音羽の声。
驚いて振り返ると、彼は手をポケットに入れたまま淡々と続ける。
「練習もしてるし、他の人じゃ合わない」
女子が少し驚いた顔をして笑う。
「そっか、じゃあ残念〜」と言って去っていった。
残った俺は、思わず苦笑い。
「音羽、もうちょっと言い方あるでしょ」
「事実を言っただけ」
「練習なんかしてないだろ?……ほんっと独占欲強いな」
「お前が他の誰かと踊るの、見たくない」
そう言って、音羽は軽く俺の手を取った。
まるで「ここにいて」って確かめるみたいに指先で触れる。
(……やばい、また心臓が鳴ってるわ)
忙しくて、あっという間に時間が過ぎていき、気づけば夕方前。
文化祭も終盤に、ペアダンスイベントが始まる。
体育館のライトが落ち、音楽が流れた。
俺はぎこちなく音羽と向き合い、ヘラっと笑った。
「うわぁ、なんか、緊張しちゃう……」
「大丈夫。俺が合わせる」
差し出された手。
その指に触れた瞬間、なぜかもう逃げられないという感覚になった。
音羽の手は温かくて、包み込むみたいに安心させる。
リズムに合わせて一歩踏み出すたびに、視線が絡んで、息が合う。
「……ダンスうまいな」
「お前が軽いから」
「子ども扱いしてる!?」
「扱ってないよ」
目を細めて、ほんの少し笑うように言って、音羽が距離を詰める。
手を繋いだまま、肩と肩が触れる。
ざわめきを遠くに感じながら、目の前には彼の瞳だけ。
「……藤谷」
とろけそうな顔で名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱くなる。
「へ?あ……な、なに」
「お前、ほんとに無防備すぎる」
「な、なんだよそれ」
「……好きになる」
一瞬、時間が止まった。
音羽の声はかすかに震えていて、でも真っ直ぐだった。
(んん?……好き……?)
返事なんてできなかった。
頬が勝手に熱くなって目を逸らせなくて。
肩と肩が触れて、息が混じる近さ。
曲が終わりに近づくほど、時間がゆっくりになる。
そして――
「……悠」
一瞬、頭が真っ白になった。
今まで一度も呼ばれたことがなかった。
「え……いま、名前……?」
「ん」
「なんで……」
「もう“藤谷”じゃ、遠いから。」
その言葉が落ちた瞬間、心臓がひときわ強く鳴った。
(遠い、って……)
名前を呼ばれただけなのに、背筋が熱くて、喉が乾く。
嬉しいとか、照れるとか、そんな単語じゃ追いつかない。
何も言葉に出なくて、ただ見つめ合う。
音楽が止まり、拍手が響いたけど。
それでも音羽は、俺の手を離さなかった。
照明が少し落ちて、夕暮れが差し込みはじめる。
文化祭のざわめきが遠ざかって、二人のあいだだけ静かな時間が残されたみたいになってる。
そのまま二人で体育館を出ると、外の空気が少しひんやりしていた。
チラリと横目で音羽を見た。横顔が綺麗すぎて、息がしにくくなった。
「……お前のことは、俺が守る」
音羽が不意にそう言った。
その言葉がまっすぐ俺の胸に落ちる。
なんで急にそんなこと?と思ったけど、
冗談じゃないって顔だった。
ほんとうにまっすぐで優しかった。
俺は笑ってごまかしたけど、心の奥でずっとその言葉が響いてた。
音羽が小さく笑う。
「これで、もうごまかせないな」
「え?」
「過保護でも、ただの友達でもない。――俺がしたいのは、それとは違うよ」
(“違う”って……)
さっきからの言葉の意味を、ようやく理解しはじめていた。
(これって、俺のこと恋愛感情として、す、好きってこと……なのか??)
また返事はできなかった。
けど、彼の手はまだ俺の手を握っていた。
俺もどうしてか自然と握り返していた。
今日、確かに音羽は「守る」と言ってくれた。
その言葉は、胸の一番あたたかい場所にちゃんと残った。
こんなふうに守られるのが、少し恥ずかしくて、でも――なんか嬉しい。
その日から、俺は彼の「優しさ」に、前よりずっと敏感になった気がする。
それに、名前で呼ばれたときの声も、手の温もりも、頭から離れなかった。

