翌朝、インターホンが鳴った。
まだ寝ぼけた頭で時計を見ると、登校時間より二十分早い時間。

(え、まさか……)

 玄関を開けると、やっぱり音羽がそこにいた。
いつもの制服。一番上のボタンは外して、ネクタイはゆるく結んでる。
ちゃんとしてるのに、ちょっとだけ崩してて、やっぱりなんかカッコイイ。


「おはよ、藤谷。」
「お、おはよ。」
「じゃあ行こ」

「……本当に迎えに来たんだ?」
「見たらわかるだろ。昨日言った」
「音羽の家からだと遠回りじゃん、ほんとに来ると思わなかったよ。いくら心配だからって……」
「言ったことはする」

 まっすぐな声に、またドキッとする。

(ねぇちょっと待って。こういうの普通に”かっこいいやつ”のすることじゃん?)

 ていうか、すごく遠回りなんだけど。そこまでする?横目でチラチラ見つつ考える。


 2人で並んで歩く道、
音羽はいつものようにほぼ無言だけど、歩幅をさりげなく俺に合わせてくれる。

「音羽って、歩くの早いくせに、俺に合わせてるだろ」
「そう見える?」
「いや、そうとしか」
「……じゃあそうかもな」

わずかに笑った横顔が眩しくて、思わず視線を逸らした。
(やめてくれ、朝からこんなの!)
 

 少しして音羽がポツリと言った。

「文化祭のダンス、ペア決まってる?」

「あ、ペアねぇ。決まってないけど、参加するかどうかも悩んでるとこ。」
「そっか、参加するなら俺とペアになってくれない?」
「えっ」
予想外すぎて、変な声出た。
 
「いや、まぁ……いいけど。まだ参加するとは決めてないからな。考えとく。」
 
 忘れてた、文化祭のペアダンス。
うちの学校は毎年恒例で学年ごとにイベントがある。俺たち二年は“ペアダンス”。
男女でも、友達同士でも自由に組んで、輪になって踊るやつ。
嫌な人は裏方に回ればいい。

(……音羽とペア、ね。なんか目立ちそうで普通にこわいわ)


 信号が赤に変わって立ち止まる。
俺が前髪を直していると、ふいに音羽が手を伸ばしてきた。

「髪、寝ぐせ」
「え、うそ……!」

急いで支度したから気にしてなかった。
指が俺の髪にそっと触れる。
ふわっと撫でられて、距離が一気にゼロになる。

「……なおった」
「あ、ありがと」
「気にしないで」

 何事もなかったような顔。
こっちは鼓動がうるっさいんですけど。顔も熱いし。

(なに普通の朝みたいな顔してんのこの人……俺だけ置いていく天才?)


 学校に着いても、さっきの感触がまだ頭に残ってる気がして。
(この距離バグ、いつ慣れんの俺……)

 席に座って、顔の火照りを冷ましていると、後ろから声が飛んできた。

「おっ、藤谷〜! 今朝お前、音羽と登校してたよな?」

 振り返ると、友達の成瀬(なるせ)がニヤニヤしていた。
同じクラスのやつで、休日も時々遊ぶくらいには仲がいい友達。なんでも面白がるやつ。

「う、うん。まぁ、たまたま。」

「へぇ〜? たまたま〜?」
 
成瀬は耳元でわざとらしい笑顔で話しかけてくる。
 
「お前さ、音羽と一緒にいるときだけ顔ゆるんでるんだよなぁ」
「はっ?そんなことない!」
「いや、あるって。うわ、自覚してないの?ほら、今も!」

成瀬が笑いながら俺の顔を覗き込んで、思わずのけぞる。

「ちょ、近い近い近い!顔近いって!」
「おいおい、照れてる〜? かわい〜」

(こいつ、なんでそんな営業スマイルみたいな顔で煽ってくんの。先生に見つかったら俺が怒られそうじゃん)

「マジでやめろ、顔近いってば!離れろって」
「おっ、照れた照れた!」
 
「……成瀬」

 そのとき、教室の空気が一段ひんやりした。
隣の席からの低い声と視線。
音羽がこっちを見ていた。
表情はほぼ動いてないのに、目の奥だけが静かに光っている感じ。

「な、なに?」と成瀬が苦笑する。
「……藤谷が嫌がってる」
「え、あ、いや、そう? ごめんごめん〜!」

あっけらかんと笑って成瀬は自分の席に戻っていった。
その背中を見送りながら、俺はため息をつく。

(ほんと、からかいが過ぎるんだよなあ……)

 でも、その横で音羽がまだじっと俺を見てた。

「……なに?」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「……あいつ、距離近い」
「え、いや、成瀬はいつもあんな感じだよ。
冗談だって。
いや、音羽も最近めちゃ近いんだぞ?」

「冗談でも、あいつのはやだ」

 ん?
今の声、ちょっと低い。

「な、なにそのセリフ。過保護通り越して独占欲じゃん」
「そうかも」
「へ?……」

真顔のまま言うなって。照れさせにくるな。
こっちの処理能力のことも考えてほしい。

 そのまま音羽はノートを開きながら、
「……あいつの冗談、俺には笑えない」と小さくつぶやいた。

 返す言葉が見つからない。
耳だけがその声の低さを覚えてる。
 
そのとき、教室の後ろの方から女子が声をかけてきた。

「藤谷くん、ちょっと!」と手招きしている。
「なに?」
「文化祭のダンスのペア決まった?」
「あ、まだ。音羽に誘われてるけど、どうしようかって」
「へぇ〜音羽くんと一緒にやるの?いいなぁ」

 その瞬間、背後から低い声。

「……”いいな”って?」

振り返ると、音羽が立っていた。
静かなのに、なんかほんの少しだけ棘がある。

「ちょ、音羽。怖い顔すんなよ」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「……話してただけ?」
 
女子がバタバタと手を振り答える。
 
「う、うん。文化祭のこと」

音羽はしばらく黙ったまま、俺と女子を交互に見て、
「そう」とだけ言って自分の席に戻った。

(……今の、もしかしなくても邪魔しにきた? いやいやいや、そんな理由ないだろ)
 

 昼休み。昼ごはんを食べ終えて机に伏せていたら、
肩をポンっと叩かれた。

「具合悪いの?」
「音羽……いや、眠いだけ」
「顔赤い」
「えっ!?」

 額に手が当てられる。ゆっくり髪を押さえる、やさしい手つき。
それだけで一気に体温が上がるの、しょうがなくない?

「……熱っぽくない?」
「な、ない! たぶん!」
「行くよ」
「え、どこ!?」
「保健室」

有無を言わせない手の力。
手首を引かれながら歩くこの感じ、完全に保護者なんだけど。
俺もう高校生だよ? あ、いや高校生だからか。


 保健室のカーテンの向こうで、ベッドに座らされる。
もちろん、体温計は平熱。
俺は全然元気なんだけど、それでも寝かされて、氷枕までセットされたんだけど。

「……ほんとに優しいよね」
「うるさいな」
「え、照れた?」
「照れてない」

言葉はそっけないくせに、耳がほんのり赤い。
(あ〜〜やっぱり赤い。かわ……って何考えてんだ)

 ベッドで横になる俺。
そのすぐそばの椅子に音羽が座って、ずっとこっちを見ている。
カーテンの向こうから聞こえる昼休みの足音が、遠く聞こえた。
 
「なあ、音羽」
「ん」
「俺さ、音羽がいてくれると安心するよ」
「……そうか」
「でも、なんか最近ちょっと変じゃない?」
「どこが」
「なんかさ……距離が近いとか、家まで迎えにきたりとか……」

音羽は少しだけ視線を落としてから、椅子から立ち上がって、そのままベッドの縁に腰を下ろした。

「嫌?」
「え?」
「距離、近いのとか。嫌?」
「いや……別に、嫌とかじゃないけど」

 言った瞬間、音羽の身体がすっと傾いた。
顔が近づく。
額と額が触れる。
鼻先が、ほんの数センチ。
息が触れる。

「……なら、もう少しこのままでいいだろ」
 
 初めて見る、ちょっとくすっと笑った顔。
耳元で落ちてくる、低い声。
 
(えっ!な、なにこれ、ちょ、近っ、近すぎる――)

 逃げなきゃと思っても、目も逸らせない。
言葉も出ずに、声も出ない。
手の甲が触れて、指先が軽く絡んだ瞬間、心臓がバグったみたい。

「……お前、ほんと危なっかしい」

 そう囁いて、音羽はゆっくり離れた。
俺は何も言えないまま、ただその背中を見る。
俺の心臓だけが全力疾走してる。


 そのとき、授業の予鈴が鳴って、音羽は教室に戻っていった。
俺は固まったまま午後の授業は出れず、保健室のベッドに残った。
気づいたら寝ちゃってて、起きたらもう放課後になってた。


 目をこすって廊下に出ると、音羽が俺の鞄を持って立っていた。

「え、いつからいたの」
「今来たところ」

 鞄を受け取り2人で昇降口に向かう。
下駄箱の前で靴を履き替えていると、音羽が言った。

「今日1人で帰れるの?送って行こうか。」
「え?いい、大丈夫だって!
熱も全然なかったし。ていうか帰りに寄るとこもあるし音羽はそのまま帰りなよ。」

「わかった。明日も、迎えに行く」
「えっ?」
「……お前、放っとけないから」

 その言葉に、また胸の奥がざわついけど、俺は笑ってごまかした。

「まったく、過保護だね」
「お前がそうさせる」

 それだけ言って、音羽は背を向けた。
なんだか背中が、少しだけ遠く見えた。


(……過保護、か)

 そう思いながらも、
本当は、まだ指がさっきの温度を覚えてた。
自分ではよくわからない感覚で、それが少し怖かった。