音羽が帰った後、教室に残り黒板を見ながら、ひとりでため息をつく。
消し跡の白い粉が、夕陽のせいでよく目立ってる。


(はぁ……さっきの音羽の言ってた意味って……)

 あの、「気付いてるようで、全然気づかないよな」って言葉。
ほんと、なんのことだろう。
怒ってるような、呆れてるような、でも少しだけ寂しそうにも見えたけど。

 俺が何かしたのかな。
それとも、最近俺がいろんなやつと話してるのが気に食わなかったとか?

いや、そんなわけない。音羽は無関心タイプだし。
俺がドジだから、特別”目にかけて”くれてるだけで、……また心配されたんだろう。
うん、きっとそうに違いない。
 

「なに一人で考え込んでんの?」

 背後から声がして振り向くと、クラスメイトの佐伯(さえき)が後ろのドアから顔を出していた。
野球部で、クラスでもよく喋るやつだ。

「佐伯かぁ、いや、なんでもないよ」

「どうせまた音羽のことだろ? お前ら最近よく一緒にいんじゃん」
「あー、いや、たまたま……ほんと偶然」

「ふーん。偶然にしちゃ多くね? 放課後とかも一緒に残ったりしてんだろ」
「そ、それは……あいつが勝手に待ってるだけで!」

「うわ、なにそれ。惚れられてんじゃん」
「はぁ!?ちがうし!」

 声が裏返ると、佐伯がニヤニヤ笑う。

「まあ、でもお前ほんと世話焼かれ体質だよな。ドジっ子キャラというか。
 前も移動教室の時、脚立の下くぐって頭ぶつけてたし」

「いやあれは……タイミングが悪かっただけ!」
「で、そん時も音羽が助けてたろ?」

「うわ……見てたの?」
「見た。
ついでに、あいつマジで顔怖かった。『気をつけろ』って真顔で言ってて、あれ誰でもビビるやつだったぞ」
「やめてくれ!思い出させないで」

思わず、わっと顔を手で覆う。

「ま、あいつに構われるの、嫌じゃなさそうだけどな?」
「べ、別に!」

「ははっ!じゃ、忘れ物取りにきただけだから、俺帰るわ。また明日な〜」

 佐伯が笑いながら手を振って教室を出ていく。
その背中を見送りながら、俺は机に突っ伏した。

(……嫌じゃ、ない。たしかに。でも気恥ずかしいんだよ)

 だけど“嫌じゃない”って感情が、どんな意味なのか分からない。
というか、その前にやっぱり音羽には甘えすぎなんじゃないの?っていう罪悪感の方がちょっとでかい。
 

「まだいたのか?」

 ドアの音に顔を上げると、その音羽本人がそこにいた。
鞄を肩に掛けて、相変わらず整った顔で、何食わぬ顔をしている。

「あ、音羽。帰ったかと思った。」
「お前、遅い」
「なんで待ってるの?もう掃除も終わる」

俺が笑って答えると、彼は少し眉を寄せた。

「最近、残ること多いくない?」
「え? ああ、まあ……ノート写したりとかもしてるし、頼まれごと多くて」
「断れよ」
「そんな言い方すんなよ、頼まれたら放っておけないんだよ」
「……だから、抜けてるって言ってんの」

呆れたように言いながら、俺の鞄を勝手に取って自分のと一緒に肩にかける。

「ちょ、なにしてんの」
「持つ」
「いや、自分で持てる!」
「転びそうだから」
「転ばないって!」

……いや、実際この前階段でつまづいたけどさ。それでも!

 音羽は無表情のまま歩き出す。
俺の鞄も軽々と持ちながら、廊下の端をすたすた進む。

(……過保護すぎるって)


 たぶん、俺がちょっと抜けてるせいで心配かけてるんだろう。
昔から友達にもよく言われてきたし。
だから音羽のこの行動も、“世話焼き”の範囲内のはず。

 仕方なく音羽についていくように廊下を歩いていると、隣の教室の前で文化祭実行委員のやつらがまだ残っていた。
 ポスターとか装飾の準備をしているらしい。
その中にいた同じクラスメイトの一人が音羽と俺に気付いて声をかけてきた。


「おー藤谷と音羽、二人一緒に帰り?」
「え、あ、まあ……たまたま」
「たまたまなの?お前らもう夫婦かよ、って距離だな」
「誰がだよ!」


 思わず声を上げたら、音羽が静かに俺を横目で見た。
その視線がなぜか冷たくなくて、逆にほんの少しだけ笑ってるように見える。

「夫婦じゃない」
音羽がポツリと言う。
 
「おー、否定の仕方が夫っぽい〜」
「……お前らほんと面倒くさい」

そう言い捨てて、音羽はさっさと歩き出した。
俺も慌てて後ろ姿を追いかける。

(なんなんだよもう……)

 
 
 校門を出ると、空はもう少しで夜に変わる色をしていた。

「お前の駅まで送る」
「え? 音羽の駅、通り過ぎちゃうんじゃない?」
「構わない」
「いや、構うでしょ。そんなことしなくていいって」
「……心配なんだよ」

ふいに、真っ直ぐな声が降ってきた。

「は? 俺のこと?」
「他に誰がいるの」

あまりにストレートで、息が止まる。
けど、すぐに笑ってごまかした。

「ほんと過保護だなぁ、音羽。俺そんなに危なっかしく見える?」
「見える」

即答。刺さるわ。

「この前も、廊下でよろけてただろ」
「ん?……あー!あれは……たまたま!」
 あれ見られてたの?
恥ずかしいがどんどん上書きされていく。

「“たまたま”が多い」

 むすっとして言い返そうとした俺を見て、音羽の口元がわずかに緩む。
ほんの少しだけ、優しい笑顔。

……やめてくれ、心臓がもたない。


 
 駅へ向かう道の街路樹の下を二人で歩く。
無言の音羽に、話題を探して話しかける。
 
「なあ、音羽って、ほんと真面目だよな」
「そうか?」
「テストもいつも上位だし、授業中もすごい集中してるし。
俺なんか、途中でノートに落書き始めるのに」
「知ってる。隣だし」
「うわ、見てたの!?」
「全部」
「やめて恥ずかしいっ!」

思わず肩を叩くと、音羽が少しだけ笑った。
一瞬だけど、いつもより表情が柔らかい。
その顔を見ていると、どうしてだか胸が落ち着かない。

(なんなんだろ……この感じ)


 二人で並んで歩くと、影の長さが全然違う。
音羽が180センチで、俺は168センチ。
たった十数センチなのに、見上げるたび距離が遠く感じる。
それでも、視線が合うと、同じ高さにいる気がして不思議。
 
 コンビニの前を通るとき、見慣れた顔が出てきた。
さっきの佐伯がスポドリ片手にこちらを見てニヤッと笑う。

「うわ、ほんとに一緒にいんじゃん!」
「佐伯、なんでそんなピンポイントで出てくるの……」

「いやぁ、ちょっとマジでデートみたいで笑っただけ。音羽、お前マメだな〜」
「……何が」
「ほら、荷物まで持ってるじゃん。
このままお姫様抱っこでもして帰る?」

 音羽は冷たい表情で、佐伯を一瞥する。
その無言の圧に、佐伯が少し肩をすくめた。

「お、おう……ごゆっくり〜」

 去っていった佐伯の背中を見送りながら、俺は頭を抱えた。

「もう、最っ悪……!」

「お前、顔赤いぞ」
「うるさいな!あいつらみんな、ほんと余計なことばっか!」

 思わずしゃがみこみ両手で顔を隠す。
音羽は何も言わず、俺の前で同じようにしゃがんで手のひらで頭をポンポンと軽く叩いた。
指の隙間から覗くと、目尻が少しだけ柔らかくなっていた。
 
少しして顔の熱も落ち着いた頃
「あーーもう、俺コンビニちょっと寄っていい?」と立ちあがる。
音羽が無言でついてきた。

 アイスを選んでいると、背後から声がした。

「それ、甘すぎる」
「いいの、疲れてるし」
「俺が払う」
「え、なんで!?」
「こないだジュース奢ってもらった」
「それ百円だよ!?」
「だから今回は俺の番」

 理屈は合ってるような合ってないような。
でも、レジ前で押し問答してるうちに、会計を終わらせていた。

 外に出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
アイスを手に、俺は苦笑する。

「ほんっと、世話焼き」
「お前のことが放っとけないだけ」
「え?だから、そんなに?」
「……」

 買ってもらったのもあって
「アイスちょっとたべる?」
アイスを音羽の口の前に差し出した。
 音羽は何も言わず、差し出したそれに口をつける。
横顔が近っ。
間接キスとかじゃないです。ないけど、ないけど……落ち着けって!

 やっぱり、どうしても思う。
なんでこんなイケメンが、俺なんかにここまでしてくれるんだろう。
 
 コンビニの前で、並んで立って俺はアイスを食べながらスマホをいじってると、音羽がぽつりと聞いた。

「……さっき、誰とメッセージしてた?」
「ん? あ、隣のクラスの友達。文化祭の準備の話」
「ふーん」

短い返事。
その横顔は、ほんの少しだけ不機嫌に見えた。

 彼はまた不機嫌王子になってる。
何をそんなに気にしてるんだろう。

そう思った瞬間、音羽が一歩近づいた。

近いって。
肩が触れて、
髪が頬ににかかるくらいの距離。


「……お前、もう少し自分のこと大事にしろ」
「え?」
「人のことばっか気にして、自分のこと後回しにしてる」
「そんなこと――」
「ある」

 低い声に、胸がずきんとした。
音羽が俺を見ている。
真っ直ぐで、逃げ場がないくらいの視線で。

(なんでそんな顔すんだよ……)

心臓が、少し痛い。
でもそれは苦しいんじゃなくて――なんかあったかい感じもする。


 そのあと音羽は当然のように「家まで送る」と言い出した。
方向は同じでも、うちは音羽の最寄り駅より二駅も先のはず。
べつに俺は男だし毎日乗っている電車なんだし、と断ろうとしたけど全然引かないから、結局そのまま一緒に電車に乗った。

 電車が来て、ドアが開く。
車内に入ろうとしたとき、音羽が俺の手首を掴んだ。

「……気をつけろよ」
「え?なに?」
「段差」

あ、ほんとだ。ちょっとつまずきかけた。

「ほらな」
「……はいはい」

照れ隠しの笑いで手を引っ込めようとしたけど、
音羽の指がほんの一瞬だけ離れなかった。

(……あれ?)

 それは短い一瞬。
でも、今日はその“一瞬”がなんか心に引っかかった。
電車の中では特に話すことなく、俺の最寄駅で一緒に降りて、家の前まで送ってくれた。


 家に帰って、風呂に入っても、今日は音羽のことが頭から離れない。
湯気の中で目を閉じていると、あの時の夕焼けや、音羽の手の温度がリアルに蘇ってくる。

(音羽ってあんなに冷たそうなのに、手は意外とあったかいんだな……)

思い出して、両手で顔を覆う。
俺、何考えてんの?
バカみたいだ。はずかし……

するとさらに、さっきの佐伯の言葉まで頭をよぎる。

『惚れられてんじゃん』

ぶんぶんと首と横に振る。
(……そんなわけ、ないだろ)

けど、“ない”って即答できない自分がいる。
もし仮に、ほんの少しでもそんな可能性があったら。
俺は、どうするんだろう。

考えてもわからないまま、湯船に頭から沈ませた。


軽くのぼせそうになりながら脱衣場で着替える。
 
『お前が放っとけない』
『自分のこと大事にしろ』

俺はただの“世話焼き対象”で、
音羽は俺のドジを見て放っておけないだけ――
そうなんだけど、うーーーん。
今日はうちまで送ってくれていつもより世話を焼いてくれたな。

待って。
いや、めちゃくちゃ音羽のことばっか考えてる。
今日はいつもより長い時間一緒にいたからかな。
 

 答えが出ないままベッドにダイブした時、スマホが震えた。
画面には“音羽楓”の名前。

『明日、朝迎えに行く。』

(え、なんで!?)

 思わず吹き出して、けど胸の奥がくすぐったくて、笑いきれなかった。
本当にくるのかな。
また、明日もあの視線に捕まるの?
それを分かっていながら、どこかで――俺は楽しみにしていた。