「……っ、はぁっ、はぁ……間に合った……!」

 廊下を駆け抜けながら、突き当たりで息を整える。
下校のチャイムが鳴ってから30分。
 駅に着いてからスマホを忘れたことに気づいて、慌てて学校まで走って戻ってきた。
よかった、閉まる前になんとかついた!

 教室のドアを開けると、教室にまだ一人残っている人がいた。

「あれ……楓?」

 黒髪が夕陽を受けて、やわらかく艶がでる。
見ていた冊子をを閉じてこちらを見た彼は、少しだけ驚いたように目を瞬かせた。

「悠、どうした。忘れ物?」
「うん、スマホ。駅に着くまで気づかなくってさ」

 息を整えながら自分の席まで来ると、楓がすっと立ち上がって
「これ?」と手に持っていたスマホを差し出した。

「ありがと、っていうか、まだいたんだ」
「少し、委員会終わって資料かまとめてた。
窓からお前が走ってくるの見えたから、ちょっと待ってた。」

 そんなことをさらりと言うから、
胸の奥が少しだけくすぐったくなって、笑ってしまった。
(待ってたって……そういうとこ好き)

「やっぱ楓ってマメだね」

「お前は抜けすぎなんだよ」
「はいはい。言われ慣れてますー」

 からかうように笑うと、楓の口元がほんの少しだけゆるんだ。
その仕草がすごく優しく見えて、視線を逸らせなくなる。

「……悠、もう帰る?」
「うん、でもせっかくだし一緒に帰ろ」
「いいよ……じゃあ俺んち、寄ってく?」
「え、寄ってもいいの?」
「当たり前。」

 少し間を置いて返ってきたその言葉が、耳の奥で反響した。
と、突然の放課後おうちデート……うれ……。
 語彙をなくした言葉を心の中でつぶやくと頭と身体がふわふわして温かくなった。

「じゃあ、晩ごはん、一緒に食べる?」
「え!うん!楓が作るの?」
「2人で。……一緒に作ろっか。」
「えっ!うん!」
「悠に包丁は使わせないからな。」
「もう高校生なんだから包丁くらい使えるって」

 笑いながら肩を軽く小突くと、楓が静かに息を漏らした。
窓の外では、日が沈みかけている。

 2人並んで歩く。
風が冷たくて、隣を歩く楓の肩がほんの少し近い。

「……このまま夜になっても、一緒にいたいな」
そう言いかけた言葉は、結局飲み込んだ。
 

「ただいま……って、俺が言うのおかしいか」

 玄関をくぐると、柔らかい照明と楓の香りがふわりと広がった。
いつか夢みたいに思っていた“楓の家”の空間。
現実なのに、胸がくすぐったい。

「キッチン、こっち」
「うわ、冷蔵庫でかっ。こんなでかかったんだ。前は気づかなかったな」
「そんなに感動するもん?」
「だって俺んちの倍あるよ。なんでも作れそう」
「じゃあ、作ってみよ」

 そう言って楓が冷蔵庫を開け、
卵と野菜、鶏むね肉を取り出した。
流れる動作がやっぱり様になってる。
なのに、俺の手元は案の定、少しぎこちなくて。

「……悠、包丁の持ち方、危なかしくないか?」
「え……そうか?」
「うん。貸して」

 手を取って包丁の向きを直してくれる。
その瞬間、指先が触れ合って――少し高い楓の体温を感じ
息が詰まるような静けさが落ちた。

「……お前、手、冷たいな」
「楓が熱いんだよ」
「……そうかもな」

 ぽつりと落ちた声が、やたら低く響く。

 気を紛らわせようと慌てて卵を割る仕事に回る。
けど、楓の視線を背中に感じて、卵を持つ手が落ち着かない。

「そんなに見るな、緊張する」
「見るなって言われても、見たい」
「は?」
「他のやつに見られるよりいいだろ」
「……なにバカなこと言ってんの?」
「俺だけでいい」

 小さく笑う声が、すぐ後ろで落ちた。
やばいって、こんな距離で笑うなって。

――結局、楓がメインで作ることになった。
オムライスとコンソメスープにサラダ。
一緒に並んで皿を盛りつけていると、
楓が突然スプーンを取って、俺の口元に差し出した。

「はい、味、見て」
「……え、え?」
「ほら」

 促されるまま一口食べる。
うわ、これもしかして『あーん』ってやつ!?突然すぎない?

「……おいしい。けど、ちょっとなんか、恥ずかしいんだけど」
「悠が味見したいって言ったんだろ」
「はぁ?言ってない! ていうか、そういう食べさせ方するの彼氏スキル解放しすぎ!!」

抗議をした俺に、楓が目を細めて小さく笑った。

「……なに笑ってんの」
「いや。こうしてるの、いいなと思って」

心臓がまた鳴る。

(あ、甘ぁ……)
たぶん、楓の声に反応してるんだ。


 料理の湯気が立ちのぼる中、俺たちは向かい合って座る。
小さな食卓の上に、あたたかい色が広がっていく。

(なんか、こういう時間……ずっと続いてほしい)

自然にそう思ってしまった。
 
 
 時計の針が11時を回った頃。
「もう電車、ないよ。泊まっていけばいい」
「うーん、……でも」
「俺がいてほしい」

視線を上げると、楓の瞳がまっすぐこちらを見ている。

そのあと、楓がふっと笑う。

「……そういえば、前に泊まった時、緊張してたよね、その後すぐ寝てったけど」
「えっ、あ、あれは……まぁ、色々あって……!」
「今日は?」
「えーと……今日は、もっと緊張してるっぽい」

 お風呂を借りて、楓の部屋着を着る。
少し大きめのスウェットに袖が余って、また自然と萌え袖になった。

「……似合ってる」
「また言った!絶対それ言うと思った!」
「だって、ほんとに可愛いんだよ」
「もういいってば……」

 近づく楓の声が、低くて優しい。
そのまま手が頬に触れる。
くすぐったいのに、離れたくなくてその手に頬を擦り寄せた。

「悠」
「……なに?」

「俺、お前のこと、ちゃんと守りたい。
 泣くのも、笑うのも、全部俺の隣でしてほしい」

 その言葉に、胸が熱くなる。
喉の奥が詰まって、うまく言葉が出てこない。
だめ、好きが溢れる。

「なに、その顔。」
「わかんない……でも、嬉しいのかな。そう言ってもらいたかったのかも」

「はぁ……俺は悠のどんな顔にも弱い……」

 そっと後頭部を包まれ、額が触れ合う距離。

「……大好きだよ、悠」

 その囁きのあと、楓の唇が重なった。

最初はやわらかく、次第に深く――。
首の後ろに手を添えられ、逃げられない。
楓の舌が俺の口内を優しく撫でる。
息が混じって、心拍数バグってる。
(もう、腰、抜けそう……)

 そして、唇が離れた瞬間。
 
「もう、離さないから」
 
その低い声が、俺の頭に響いた。


 俺の世界が、楓だけになる。

 もう、なにも怖くない気がした。