ある日の放課後、楓に勉強を教えてもらうことになったのは、ほんの偶然だった。
テスト前で数学が死んでる俺を見かねて、楓が「うちでやる?」と、ぽつりと言った。その一言が嬉しくて、「行く」って即答してた。
たぶん、勉強がしたかったというより……もっと一緒にいたかっただけ。
駅から少し歩いて着いたそのマンションは、俺の家とはまるで違う。
エントランス前で立ち止まって、思わず見上げる。
少しだけ胸がチクリとした。
(……ここだ)
前に、どうしても気になって――楓がお姉さんと歩いているのを、こっそりついていった日。
あの時は、胸の奥が苦しくて、この建物を見上げるだけで息が詰まりそうだった。
けど今は、同じ場所を見上げながら、まるで違う気持ちで立っている。
「……行こ」
隣で楓の声がして、ふっと現実に引き戻された。
あの時閉ざしたはずの扉を、今は自分の足でくぐる――そんな小さな奇跡みたいな感じ。
ガラス張りのエントランス、静かなロビー、エレベーターで上がるたびに鼓動が速くなる。
(……楓って、こんなところに住んでるんだ)
エレベーターを降りて、楓がポケットから鍵を取り出した。無駄のない仕草でカードキーをかざすと、電子音とともにドアが開く。
「どうぞ」
「……お、お邪魔しまーす」
楓の後を追い、玄関を一歩入った瞬間、ふわっとした香りが鼻をくすぐった。
楓の匂い――淡い香りに少しだけ混ざる、彼そのものの匂い。それだけでドキドキする。
廊下の奥には落ち着いた照明、静かな空気。足を踏み入れるたび、足音が響いて、変に緊張する。
「部屋、こっち」
促されてついていくと、整然としたリビングの奥にあるドアの前で楓が立ち止まる。
「ここ、俺の部屋。机広いから、勉強しやすいと思う」
「へぇ……! すご……。モデルルームみたい」
部屋の空気は静かで、あたたかい雰囲気だ。机の上には並べられた本と、シンプルなペン立て。窓の外には夜景が広がっている。
(この空気、全部が楓っぽいな……)
部屋に入った瞬間、ふわっとした柔らかい香りに包まれた。洗いたてのシャツみたいな匂いだ。でも、それだけじゃなくて……楓の匂いが、部屋中に染み込んでる。
「散らかってはないけど、座っていいよ」
「はーい……」
部屋を見回すと、整理整頓された本棚や観葉植物。シンプルなのに、どこか居心地がいい。ここに楓がいつもいるんだ、と思うだけでもっと緊張してきた。
「お茶、出すから」
「ありがと……あ、俺手伝うよ!」
「座ってて」
キッチンに向かう背中を眺めながら、「勉強なんてどうでもいいや」と思ってしまったのは内緒しとこ。
勉強のために寄ったはずの楓の家で、時間は思っていたよりも静かに、経っていった。
机の上にはノートと参考書、ペンの音だけが一定のリズムを刻んでいる。それだけのはずなのに、楓と同じ空間にいると、時間の流れがゆっくりな気がする。
「……ここ、わかる?」
隣から低く優しい声。楓が身を寄せて、俺のノートを覗き込む。距離が近いし、シャツの袖が触れて、体温が伝わる。
ねぇ、これ絶対集中させる気ないよね?ね??
彼の整った横顔が、至近距離にある。ペン先が止まったまま、自分の胸のドキドキがうるさくて。
「……わかんない」
「ここな。ここはこっちの公式を――」
楓の指が俺の手の上をなぞる。ペンを持つ指先が重なる。冷静にしてるのに、息が止まりそうなほど近くて。
目を逸らしたら負けな気がして、でも目を合わせても息ができないし……だめだめ、とにかく集中できない!
「……できた?」
「ん……、ありがと」
顔を上げると、すぐそこに楓の瞳。その黒い瞳に、俺がうつってる。
勉強を始めて、気づけば外はすっかり暗くなっていた。リビングのカーテン越しに見える夜景が、まるで別世界みたいで。そして時計を見た瞬間、思わず声が漏れた。
「えっ、うわっ、もうこんな時間!?」
「うん。集中してたからね」
「やば……帰る時間、完全に逃したかも……」
スマホを確認すると、電車の本数がぐっと減っている。終電までは、あとわずか。
「送ってくよ」
「いや、大丈夫! 楓の家、駅からちょっと遠いし……」
そう言いながらも、心の奥では――こっそり、ホッとしていた。
(でも、駅まで送ってもらえばもう少し楓といる時間が長くなるかも。)
「泊まってけば?」
楓が当たり前みたいに言った。
「……えぇっ?」
「電車もう少ないし、無理して帰る方が危ないし」
そう言って、「家には連絡できる?」と普通に俺に聞いてくる。
ほんとに、自然すぎる。まるで、最初からそうなるのが決まってたみたいに。
「……じゃあ、お言葉に甘える」
「うん。風呂、順番どうする?」
「っ、いや、どっちでもいい!」
「じゃあ、もうちょっと勉強進めたら先に風呂入っておいで。服、貸す」
どうしよ……俺の心臓、朝までもつの?
勉強だけのつもりだったのに。気づけば、夜はもうふたりだけの時間に変わっていた。
少しだけ勉強の続きをし、俺はペンを置く。
「……そろそろ、お風呂借りていい?」
「タオル、そこに用意してある。服もこれ貸すから」
「ありがと」
脱衣所のドアを閉めた瞬間、心臓がどくんと鳴った。鏡に映る自分の顔が、ほんのり赤い気がする。湯気の中で息を吐いても、胸のドキドキは鎮まらなかった。
――音羽楓。
クールで完璧で、どこか近寄りがたいのに、俺にだけ優しい。
俺の恋人。
今日もきっと、何度も視線を合わせてきた。
それを思い出すだけで、またドキドキと胸が熱くなって、じわじわと息が詰まる。
風呂を上がってリビングに戻ると、楓はソファに座ってスマホをいじってる。俺が借りたのは、楓の部屋着のスウェット。少し大きめで、袖が指先まで隠れる。
「楓、ありがと。これ、借りたー」
振り向いた楓の目が、一瞬だけ動きを止めた。
「……やば。それ、いい」
「へ?」
「なんでそんなに可愛くなるの」
「は?なにいってんの!?」
「袖も、あざといな」
「はぁ?気のせいだって!」
慌てて袖をまくるけど、楓の口元がゆるむ。
「今日やばいね!」
……急に生き生きしだしたんだけど。こわ。
こんな楓、初めて見たなぁ。
(……付き合ってから更に恥ずかしいこと平気で言うようになったよな)
ソファに腰を下ろすと、隣に楓も座った。
「……なぁ、楓」
「ん?」
「俺さ、最近ちょっと怖いんだよな」
「怖い?なにが」
「うん。なんか急に幸せで追いついてない感じするし、これがもし離れたらって思うと……」
言葉が途切れて、楓がゆっくりこっちを向く。その目に、まっすぐ映ってるのは俺だけだ。
「悠」
名前を呼ばれただけで、涙腺が緩みそうになる。
「壊さないからね。絶対に」
短く、でも強い声で言った。
楓の手がそっと俺の手に重なり指を絡める。
温かくて、安心するな。けど、それが逆に怖くなるくらい。
「いやでも俺、たまに思うんだよ。楓がもし俺に飽きたらって」
「飽きる?」
「うん。俺、普通だし、特に取り柄もないしさ」
「そんなこと言わないで」
低く響いた声に、びくっと肩が揺れた。
楓はそのまま、俺の手を包み込んだままお互いが見つめ合う状態で言った。
「俺が好きになったのは、悠そのままだもん」
「そのまま?」
「明るくて、優しくて、ちょっと抜けてて……でも、誰よりもまっすぐなとこ」
少し間を置いてから、続ける。
「……全部好き」
言葉じゃなく心に直接響いた気がした。
『全部好き』
楓の言葉に、胸がぎゅうっと締めつけられる。
言葉だけじゃなくて、触れてる手の温度からも伝わってくる。
嘘がひとつもないと感じる。全部が本気のような。
「……っ、そんなの言われたら……俺、泣きそうになるじゃん、どうすんの!?」
「泣いていいよ」
楓が、そっと俺の頬に触れた。
涙なんて全然落ちてないけど。
でも指が涙をなぞるみたいに優しい。
「俺、悠が悲しくて泣いていると、俺も苦しくなる」
「……なんで」
「好きだから」
楓の声は、低くて、あったかくて、どこまでも優しい。
……死ぬ、普通に死ぬ……。
あまりの恥ずかしさに思わず両手で顔を覆った。
でも、その手をすぐに包み込まれ楓の手に握られた。
楓は手を離さずに抱き寄せた。
背中にまわる腕は優しいのに思ったより強くて。
逃げられないくせに、安心できて落ち着いてしまう。
「俺が全部、受け止めるから」
「え……」
「どんなに不安でも、怖くても、全部俺に話して」
「でも」
「でも、いらない」
楓は俺の顔を覗き込んできて、気づいたらお互いの額が触れたまま。息が届くくらい近い……。
「悠の全部、俺の中にしまっておきたい」
恥ずかしすぎて、楓のシャツの袖を掴んだ。
耐えきれず冗談っぽく言ってみる。
「そんなこと言ったら……ほんとに離れられなくなる、かもよ?」
「離れるつもり、一回もないけど」
即答だった。
「だから、不安にならないで」
視線を上げると、黒い瞳が真っ直ぐこっちを見てる。
優しいのに、なんか熱い目してる。
楓の表情が、初めて見るくらい柔らかく変わっていく。眉が緩んで、口角がわずかに上がって……。
その顔を見ているだけで呼吸止まりそう。
俺、耐性ないって……甘すぎ……しんど……。
「楓……ちょっと待って、ほんと無理……」
名前を呼んだ瞬間、楓の瞳が微かに揺れた。そして、もう一度強く抱き寄せられた。
「悠……俺さ、たぶん、もう理性残ってない」
「えっ!?」
「お前、可愛すぎ」
「……」
「悠、俺もう前には戻れない」
息が止まるほど近くて、肩越しに感じる彼の息。指先が後頭部にまわって、ゆっくり髪を撫でてくる。
「……ちょ、ちょっと……」
「動かないで」
「う、動けないし」
小さい笑い声が、耳のすぐ近くで響いて頭が真っ白だ。
楓の指が頬に触れ、顎をそっと持ち上げた。その目はもう俺しか見てない。
うわぁ、ど、ど、どうしたらいいの……
固まってる間に楓が言った。
「……キス、してもいい?」
答えを出すより先に、蕩けるような顔をした楓が言う。
「悠……大好き。お前は……俺だけのもの」
(ちょっと待って、心の準備――)
思考より先に言葉が出た。
「俺も好き」
その瞬間、楓の顔が近づいた。
唇と唇が触れる。
そっと目を閉じる。
楓の唇が離れてすぐ、頬にもその唇が落ちてきた。その時――顔を寄せたまま、掠れる声で言った。
「悠、これから、ずっとずっと、一緒にいよう?」
「……うん。一緒にいる」
互いの鼓動がだけが、部屋の中に響いてるみたいに静かな夜。
楓は満足そうに微笑んだ。
もう戻れないってわかるくらい、俺たちは深く惹かれ合っていた。

