その笑顔、俺限定。

(楓 side)


 気づいたのは、ずっと後になってからだった。

 俺が悠を好きになった理由なんて、最初は本当にわからなかった。

 でも今は、思う。

 最初に惹かれたのは、心でも言葉でもなくて……視線だったんだ、と。



 ◇◇

 あの日は、偶然だった。
 たぶん、彼を最初に見かけたのは一年くらい前だ。

 まだ、クラスも違って、名前も知らなかった頃。廊下の窓際で、彼が友達と笑いながら話していた。騒がしい廊下の中で、彼の笑い声だけが、自分に届く周波数が違ったみたいだった。

 ただ笑っているだけなのに、なぜか印象に残った。

 何がきっかけだったのかは覚えていない。でも、あのときの光景だけはずっと頭に残っていた。
 無邪気に笑う彼が、他の誰よりもまぶしく感じた。ただ、それだけ。
 
(なんで、あんなに気になるんだろ)
 
 自分でも理由がわからなかった。
 何度かその彼を見かけるようになってからは、気づけば廊下でその姿を探すようになっていった。

 偶然すれ違うたびに胸が少し乱れて、名前も知らないのに、目が離せない。

 そして二年になって――同じクラスになった。
 始業式の朝、出席番号の読み上げで『藤谷悠』という名前を聞いた瞬間、胸が高鳴った。

 やっと名前を知れた。それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
 
 窓際の席であくびをしていた藤谷悠を見たとき、俺の中の何かが、引っかかった気がした。
 その柔らかな表情も、少し寝ぐせのついた髪も、全部が人間らしくて――眩しい。

 無意識に視線を逸らしたが、あのときなぜか心の中が動いた気がした。

 気づけばいつもいつも目で追っていた。授業中にペンを落とすたび、消しゴムを探して慌てるたび、
 
(……かわいい)
 
 彼の抜けた仕草が愛しく見えて仕方がなかった。
 けれど、本人は自覚してなさそうだったが、時々疲れた表情が見える時があった。

 ――放っておけない。
 
(なんで、俺は……)

 自分でもわからなかった。俺は今まで、他人に深入りしない性格だった。
 でも、藤谷悠だけは、放っておけない。気づけば、手が動いていて言葉が口から出ていた。

「落とした」「気をつけろ」
 そんな、どうでもいい言葉の中に、『守りたい』という本音を混ぜて。

 最初は同じ学校のただのクラスメイト。けれど、彼が笑うたびに、俺の中では変わっていった。

 
 ◇◇

 ある日の放課後。教室で黒板を消していた彼の背中を、俺は無意識に見つめていた。
 細い肩。けれど、不思議とまっすぐで、芯が強そうだった。その姿を見て、胸が熱くなった。

 気づけば近づいていた。「それ、俺がやる」と言って、彼の手から黒板消しを取った。
 ほんの数センチの近さまで近づき、彼の髪から漂う、シャンプーの匂いがふわっと香る。

 息を吸うことすら忘れた瞬間だった。もっと近づきたい、でも踏み込めばなにかを失いそうで。その衝動に、俺はため息を吐いた。

(なんでだろう……)

 彼を見ると、胸がなぜか痛くなる。守りたいと思うのに、同時に、近づくのが怖くなる。

 そのうち、俺は気がついた。
 藤谷悠は、誰にでも優しい。男女関係なく、友達にも後輩にも笑って接する。その笑顔を見るたび、俺は落ち着かなくなった。

(……俺以外に、そんな顔、してほしくない)

 そんなこと、言えるわけがないのに。それでも頭のどこかで、いつも彼のことばかり考えていた。

 あるとき、成瀬に話しかけられて笑う彼を見て、思わず足が止まった。
 何気ないやりとりのはずなのに、俺の中で何かが弾けた感覚がした。イライラして、奥歯を噛み締めた。

(……やだ)

 苦しくなった。彼に近づくでもなく、触るでもなくて、ただ見てることすら痛い。
 でもそれに名前をつけるのは、もう少し後だった。

 文化祭準備の日、悠が脚立から落ちそうになったあの瞬間、身体が勝手に動いた。考えるより先に、手が伸びていた。

 彼を抱きとめたときの、体温と息の熱。
 手が震え、もう離したくないと思った。
 あの瞬間、やっと自覚した。

 俺、藤谷悠が――好きなんだ。

 そう気づいたら、もう引き返せなかった。
 誰よりも彼を見て、誰よりも彼の全部を知って、誰よりも彼を守りたい。
 そして、俺がいないとダメだと思わせたいと思った。

 でも、悠は俺の想いにドギマギしながらも気づかない。
 いつも無邪気に笑って、「音羽って、ほんと過保護だよな」なんて言ってくる。

(それは、お前だから。お前にだけ)

 そう言いそうになるたび、言葉を飲み込んだ。俺の勝手な独占欲で彼を困らせたくなかったし、傷つけたくもなかった。

 でも、心の奥ではいつも思っていた。

 他の誰も見ないで、
 ――俺だけを見てほしい。

 ただ、それだけを。

 それでも、あの日。初めて彼の名前を呼んだ時、悠は驚いた顔で俺を見た。
 その顔が、今も忘れられない。

 俺の心臓がとてもうるさくて、何も言えなかった。けれど、あの瞬間にやっと、「届いてほしい」と願ってた俺の想いが、少しだけ形になった気がした。

(……悠)

 いま隣で笑っているその横顔を見て、俺は思う。

 出会った日からずっと、この気持ちは変わっていない。
 むしろ、ずっと強くなっている。

 だからもう、隠すつもりはない。
 たとえ誰にどう思われようと、どうでもいい。
 

 俺はもう悠を手放すつもりはない。