“もう俺に関わらないで”
悠が言ったその言葉が、頭の中で何度も反響していた。
悠が屋上を出ていったあと、俺はしばらく動けなかった。
夕陽が沈んでいくのをただ見ていた。
(……俺、何してんだ)
守りたくて、気づけばいつも傍にいた。
優しくすればするほど、あいつを追い詰めていたのかもしれない。
“傷つけたくなかった”なんて、言い訳だ。
本当は――怖かった。
想いを伝えた瞬間に、全部壊れてしまうのが。
この手で壊してしまうのが、怖かった。
怖いのに欲しい。欲しいのに怖い。
失いたくない気持ちが曖昧な関係を続けさせた。
だから、何も言えなかった。
優しさの形で誤魔化して、“守る”という言葉で気持ちを包んで。
その結果が、あの言葉。
(俺のせいだ)
教室に戻ったときにはもう誰もいなかった。
机の上に残ったペンが転がって、カランと乾いた音を立てる。
その音がやけに大きく響いて、心臓の奥が痛んだ。
窓の外では夜が降り始めていた。
悠のメッセージボックス、既読にもならない。
更にメッセージを送ろうとして、やめた。
何を言っても、今の悠には届かない気がしたから。
(悠……あれからきっと泣いたんだろ)
思い出すと、胸が締めつけられた。
泣かせたのは俺だ。
守りたいと思っていたのに。
あんな顔、もう二度と見たくない。
「……ごめん、悠」
呟いても、返事はない。
部屋の時計がひとつ、音を刻む。
時間が進んでいるのに、心だけが取り残されている。
―翌朝
鏡の前で制服の襟を整える。
目の下にうっすらとクマができてる。
夜、ほとんど眠れなかった。
枕元のスマホには、打っては消したメッセージの履歴。
“ごめん”も、“話したい”も、“もう一度”も、全部消した。
教室に入ると、いつもの朝のざわめきで。
だけど、悠の席だけがぽっかり空いていた。
その空白が、教室全体の色を少し薄くしているように見える。
「……休みか」
小さく呟く。
昨日のあの顔を思い出す。
言葉を投げつけるようにして、涙をこらえていた悠。
あの冷たい瞳――本気で、俺を突き放そうとしていた。
けれど、どこかで知っている。
あれは俺に向けた“最後の強がり”だったことも。
(……あんな顔、もうさせたくない)
教室の窓の外に、朝陽が差し込む。
いつもなら心地よいはずのその明るさが、今日は痛かった。
――――――
翌朝、俺は学校を休んだ。
夜中までほとんど眠れなくて、朝になっても体が動かなかった。
スマホのアラームを何度も止めて、部屋のカーテンの隙間から差す陽をただぼんやり見ていた。
昨日、楓に言った言葉が、まだ耳の奥に残ってる。
――「もう俺に関わらないで」
あの瞬間の楓の顔が、頭から離れない。
驚いたような、痛そうな、あの表情。
何度思い出しても、胸が締めつけられる。
(……俺、酷い態度だったよな)
でも、あのまま黙ってたら、きっともっと苦しかった。
そう思っても、罪悪感は消えなかった。
窓の外で小鳥の声がして、太陽が明るく輝いている。
なのに、部屋の中は暗いままだ。
スマホの通知が一度鳴る。
確認する勇気はなかった。
楓の名前がある気がして、見たら壊れてしまいそうだった。
学校を休んだ翌日。
登校すると、教室のいつもの音が遠く感じる。
机に座ってノートを開く。
昨日までなら、朝の挨拶ひとつで笑い合えたのに。
楓の姿はまだ、見当たらない。
(……俺、昨日休んでたし、気まずいよな)
そんな考えが頭をよぎる。
何かを壊してしまった気がした。
チャイムが鳴る。
教科書を開く音が一斉に響く。
それでも、黒板の文字が目に入らなかった。
休み時間、移動教室のために廊下に出ると向こうの方に、楓の姿が見えた。
(今、来たのかな?)
誰かと話している。
それだけで胸の奥が痛んだ。
その背中が、遠くに感じる。
(このまま、もう話すこともないんだな)
そんな考えが頭をよぎると、喉の奥がつまった。
昼休みに窓際でぼんやりしていると、成瀬がパンを片手に声をかけてくる。
「藤谷、なんか元気なくね? 風邪?」
「寝不足」
「お前さ、寝不足の理由が“音羽関係”ならちゃんと寝とけよ?」
軽い冗談のように言われて、笑おうとしたけど声にならない。
もう今は、笑顔の作り方がわからなかった。
それから数日が過ぎた。
楓は生徒会の手伝いを頼まれているらしく、その手伝いや先生の補佐で忙しそうだった。
誰にでもクールだけど平等に接して、優しくて、落ち着いてて。
俺だけは甘やかす。
そういうところが、好きだった。
でも今はそれが怖くて。
自分だけのものじゃないって、痛いほどわかった。
(……これ以上はダメ。ちゃんと諦めよう。)
そう決めたはずなのに、何日経っても気づけば目で追ってしまう。
視界の端で、黒髪が揺れるたびに、胸がそわそわする。
そんな自分が情けなくて、うまく息も出来ない。
自分で離れることを選んだくせに、
いつまでも心が、
いたい。いたい。くるしい。つらい。
その日の放課後、下駄箱で靴を履き替えようとしたとき。
背中から声がした。
「悠」
振り返ると、楓がいた。
少し息を切らして、真剣な顔をしている。
「悠と話がしたい」
「俺はしたくない」
「じゃあ、なんでそんな顔すんだよ」
「そんな顔ってどんな顔だよ!」
「……泣きそうな顔」
「っ!してない!」
言われて初めて気づいた。
視界が滲んでる。
必死で涙を堪えて答える。
すぐに靴を履き校門とは反対側にむかって走り出す。
(いやだいやだいやだ!泣きたくなんてない!)
中庭まで来た時、チラッと後ろを見ると
楓が走って追いかけてきている。
「待って、悠、話を――」
振り返ってちゃんと楓の目を見た。
「……もう、いいよ。俺に関係ないことだし」
言葉が零れた瞬間、自分でも驚いた。
心とは正反対の言葉なのに、止められなかった。
「もういい。何が本当とか、ウソだとか、そういうのとかどうでもいい。
だって、俺……もう、」
――もう、”好き”をやめる。
この言葉がどうしても声にならなくて、震えて勝手に視界が滲む。
もうどうして泣いてるのか、分からなかった。
付き合ってるとか、付き合ってないとか、俺たちの関係が曖昧なのに。
でももう、自分の気持ちをぶつけずにはいられなかった。
「俺なんでずっと苦しいの、なんで……。
こんなに痛いのに……どうして……もう辛い」
涙がぽたぽたと落ちる。
楓が何か言おうとしたのを遮るように、
俺はその胸に飛び込んだ。
「……嫌いに、なりたい!……嫌い、に、なりたい!」
嗚咽混じりの声でそう言うと、
楓の腕がゆっくり俺の背中に回された。
強く、でも優しく。
「悠……ごめん。俺が、泣かせた」
「もう、泣きたくない……」
「泣いていい。俺が全部受け止める」
楓の手が、髪を撫でる。
その手の温度が、涙よりも温かかった。
「俺……絶対、お前を大事にする。
何があっても、お前を泣かせたままにはしないから」
その言葉が、心の奥に深く沈んだ。
信じたい。
信じて、また傷つくのが怖いのに。
それでも、心が勝手に縋ってしまう。
「……そんなこと言って、また苦しくさせるくせに」
「そうかも、しれない」
楓が困った顔で微笑みながら――
「それでもその後、必ず涙を止めるから。だから嫌いにならないで……」
その笑顔が少しだけ滲んで見えた。
楓は俺が落ち着くまで、頭を撫で、抱きしめたまま待ってくれた。
少しだけ落ち着いた頃、楓が口を開いた。
「俺も、苦しいことあるんだ」
「……楓が?」
「お前が泣いてるの見てる時とか。
それでも悠を離せないんだよ。……ずるいんだよ、俺」
その言葉に、また涙が込み上げた。
何も言えず、ただ胸の中に顔を埋める。
遠くでチャイムの音が鳴る。
まだ楓の腕の中にいた。
――あの苦しみの夜をいくつも越えて、
ようやく少しだけ、呼吸ができた気がした。

