その笑顔、俺限定。

 
 体育祭が終わってから数日。季節がちゃんと進んでるみたいで、風が少し冷たくなってきた。
 日常は戻ったはずなのに、心の中だけ、また何かがそわそわしてる。

(……最近、楓とちゃんと話してないな)

 体育祭の後、何度か一緒に帰ったときのあの距離感がもう懐かしい。
ほんの数日前なのに、今はそれがなんか少し遠い感じがする。用事があると言われればそれまでだし、俺だって無理に聞くほど図々しくもなれないし。

 そんなことを思いながら、体育館へ続く渡り廊下を通り抜けたときだった。
角を曲がる手前で、聞き慣れた名前が耳に入ってきた。

「……音羽先輩」

 女子の声……つい足が止まってしまった。
部活帰りの誰かかな。
そのまま通り過ぎようとしたけど――

「あの、ずっと前から、気になってました。
 先輩、今付き合ってる人とか……いない、ですよね?」

 ……えっ?ちょ、また告白されてんの?

 思わず壁の影に身を隠した。
自分でも驚くくらい、心拍が早くなってる。
立ち聞きみたいなこと、よくないってわかってるけど!
その先の会話が気になって仕方ない……。

 少しの間があって、楓の声が聞こえる。

「……いないよ」

 静かに、でもはっきりと答えた。
その一言で、胸がぎゅっと締まる。

そのあと、女子がほっと息をつく音がした。

「そ、そうなんですね……! よかった!あの、よかったら、私と付き合ってください!見てた感じ特別な人とか、いないと思ったんですけど……」

「……まぁ」

「それならっ――――」

 

 それ以上は聞かなかった。というより、聞けなかった。その場を離れようとして、足がうまく動いてない。喉もカラカラに乾いてる。

(……特別はいないって、……そう、だよな)

 あの言葉をどう受け止めていいのか分からない。
『いない』の中に、俺入ってたんだ。
いや、わかってる。楓と俺の関係って名前がないし。
だけど、どこかで少しだけ期待していた自分がいた。

 俺は……やっぱただの友達、だったんだ。
困ったときに助けてもらっただけの存在。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
……好きだからとかじゃなかったんだ。

まぁ……そりゃそうか。
また勘違いしてたのは、俺の方?でもちょっとくらい期待しちゃわない?あんなの……!

 空を見上げると、雲の切れ間から陽が覗いてて。
それが目に刺さるくらい眩しくて、思わず顔を背けた。

 

◇◇

 その日の夜、スマホの通知が鳴った。グループSNSだ。
暗い気持ちの中、何気なく開いた画面の中に、見覚えのある名前があった。

 ――「#運営メンバーお疲れ様!」

 添付された数枚の写真。
そこには湊人と楓の姿もあった。

 一枚目は運営委員の集合写真。みんなカメラ目線で笑顔で写ってる。体育祭後の写真かな。
 二枚目。
体育祭の後、校舎裏のベンチで楓と湊人が二人でペットボトルで乾杯している。
笑っている楓の横顔が、少し柔らかく見える。
 三枚目では、
湊人が楓に抱きついて、楓は少し驚いたように笑っている。

 ……息が止まった。

(……ほんとは、そういう関係なんじゃ)

 指先がどんどん冷たくなってく。コメント欄には、軽い冗談がいくつか並んでる。
《まじでお似合い!》《尊い》そんな文字で、心を削られる。

やっぱり俺だけの、特別じゃなかったんだなぁ。

 その一言が、頭の中で何度も繰り返される。誰かの隣で笑ってる楓。まるで今日目撃した告白場面の衝撃に、追い打ちをかけるようにして、ネガティブになってく。

 あの『好きになる』って言葉も。『守る』って言葉も。優しさの一部に過ぎなかったとか……。
俺、勝手に勘違いして、勝手に期待して。
それで今、勝手に傷ついててさ……バカみたい。

(……これ以上は、ダメだ)

 もし、この気持ちをこのまま持ち続けたら、俺、壊れちゃうかも……。
楓を見るたび、苦しくなってしまうし、優しくされるたびに、心がひりひりする。

片想いでもいいなんて、甘かったんだ。

今、気づいてよかった。

 だから、……離れよう。離れないと。
近くにいると、苦しい。
それに、近くにいたら、楓を好きな気持ちはなくせそうにない。
そうしないと、ちゃんと笑えなくなりそうだ。

 

 ベッドに横になっても、全然眠れない。スマホの画面を伏せて、無理やり目を閉じた。

 思い出すのは、あの時の楓の声。

――「いないよ」「……まぁ」
それが何度もリピートされて、胸を締めつけてくる。

楓が告白されるのはよくあることだけど……。
俺のこと、好きかも、とか思ってた……。
確かに……「お前が好き」とは言われてないな。

 自嘲気味に笑った。
俺イタいやつじゃん。


涙は出ないけど、ただ心がきしむ感じがした。

(離れた方がいい。きっと、それが正解……)

 そう言い聞かせながら、目を閉じる。
それでも、夢の中にまで楓の笑顔が出てきそうで――俺は毛布にくるまって、息をひそめた。



◇◇

  翌日の教室、空気がなんだか重く感じるな。
いつもなら朝のざわめきが心地いいのに、今日はどっか遠い世界みたい。

 楓はいつも通りだった。
黒板の前で誰かに話しかけられて、いつもの無表情な顔で淡々と仕事をこなしてる。
その姿を見てるだけで、胸がじりじり痛い。

(……俺だけ、置いていかれてるみたい)

 昼休み、成瀬が何か話しかけてきたけど、上の空で返事をしていたら「お前、今日テンション低くね?」と笑われた。
笑い返す余裕が全然ないよ。

 気を抜くと、昨日の写真が頭に浮かんでしまう。
湊人と楓の笑顔。
その並びが、今でも焼きついて離れない。

 午後の授業が終わったあと、ノートを閉じて帰ろうとしたとき、机の上に影がかかった。
顔を上げると、楓が立ってる。

「……悠、今、話せる?」
「今?」
「今。屋上、来て」

 また、断る言葉を探したけど今度は見つからない。
逃げたいのに、足は勝手に動いた。

 

 屋上の扉を開けると、風が一気に吹き抜けた。フェンスの向こうでカラスが鳴いた。

 楓は手すりに背を預け、こっちを見てる。その表情は、どこか探るみたいで、でも優しい。

「……今日、俺のこと避けてる?」
「そんなこと――」
「あるって。話しかけても目逸らすし、何かあった?」

 その言葉に、喉が詰まった。

「なんでもない」って言えばよかった。
それで全部やり過ごせばよかった。
でも、もう限界だった。

「……楓さ」
「ん?」
「俺のこと、心配してくれてるのって……なんで?」

 楓の眉が動く。そして少し考えるようにして言った。

「なんでって……お前、放っておけないから」
「放っておけない友達だから、でしょ?」
「……そういう言い方、すんなよ」

 胸の奥がズキンとした。でも止まらなかった。

「だってそうじゃん。楓は最近は誰にでも優しいし、困ってる人いたら絶対助けるし。
 俺なんて、その中の一人でしかないんだろ?」

「違う」
「違わない。俺、勘違いしてたんだよ。勝手に特別だって思ってた」

 言葉を吐くたびに、喉が熱くなる。
でも涙は出ない。
泣いたら、楓が困るだけだ。

 楓が一歩、近づいた。
「悠。お前、何を見たの?」

 その言葉に、一瞬だけ喉がつかえる。

「……何も」
「嘘つくな。顔に出てるよ」
「じゃあ……聞くけど。楓は、誰かに告白されたりしてない?」

 楓の瞳が揺れた。
そして静かに頷く。

「昨日、ちょっとね。でも、断ったよ」
「……そっか」

 胸の奥で何かが崩れたような音がした気がした。
断った――その事実が嬉しいはずなのに、どうしても笑えなかった。
“断った”って言葉に、やっぱり“俺の名前”がなかったから。

 そのとき、風が強く吹いて、髪が揺れる。その風の中で、楓の声が聞こえた。

「それが、こんなにお前が苦しそうな顔するなら、俺――」
「もう、いい」
「悠?」

 スッと心が冷えてく感じがした。

「もう……俺に関わらないで」

 楓の動きが止まる。
目が見開かれて、何も言えないまま静止してる。
楓が息を呑んだのがわかった。

 きっと、俺の顔が思ったより冷たかったんだ。でも、もう戻れなかった。

 自分でも、あまりに静かに言えたのが怖かった。こんな言い方しかできないくらい、もう余裕がなかった。怒ってるわけでも泣いてるわけでもない。
でも、これ以上は無理って、心が限界を告げていた。

「ごめん。でも、俺……もう分かんない。楓が優しくしてくれるたびに、何を思えばいいのか分かんなくなる」
「……俺そんなつもりじゃ」
「分かってる。楓は悪くない。……じゃあ俺、先帰るわ」

 それだけ言って、背を向ける。風が頬を打ってきて、それがとても冷たくて痛い。

 扉に手をかける前に、後ろで楓の声がした。

「……俺は、お前を傷つけたくなかった!!」
風鈴みたいに、フェンスの金網が鳴った。


「……それが一番、傷つくんだって」
掠れた小さい声は、誰にも届かず、風の中に消える。
 
 ドアノブを回す手が、情けないくらい震えた。でも振り返らない。
振り返ったら、全部ほどけてしまう気がしたから。

 ドアの向こうが滲んだ気がして、涙が一筋頬を伝った。
……ごめん、楓。

俺は振り返ることもなく、そのまま屋上を出た。

 

◇◇

 その夜、部屋の電気もつけず、ずっとベッドの上で天井をぼうっと見てる。
あの時の楓の表情が、何度も頭の中で再生される。
驚いた顔。哀しそうな目。全部、忘れられない。

言わなきゃよかった……でも、言わなかったら、きっと、耐えられなかった。

 スマホの画面を伏せたまま、目を閉じる。
楓からの未読メッセージが一件きてた。
開ける勇気は、今はまだない。


 もう、笑い合ってた頃には戻れないかもしれない。

 それでも、楓の笑顔だけは、どうしても嫌いになれなかった。