体育祭が終わってから数日。
少しずつ涼しくなってきた風が、窓のカーテンを揺らす。
グラウンドにはまだ白線の跡が残っていて、風が通り抜けるたびに白線の粉がふわりと浮いた。

 日常が戻ったはずなのに、また心の中だけはまだ何かがざわついていた。

(……最近、楓とちゃんと話してないな)

 体育祭の後、放課後に一緒に帰ったときのあの距離感がもう懐かしい。
今はそれがなんだか少し遠い。
用事があると言われればそれまでだし、俺だって無理に聞くほど図々しくもなれない。

 そんなことを思いながら、体育館へ続く渡り廊下を通り抜けたときだった。
角を曲がる手前で、聞き慣れた名前が耳に入った。

「……音羽先輩」

 女子の声だった。
思わず足が止まる。
部活帰りの誰かかな。
そのまま通り過ぎようとしたけど――

「ずっと前から、気になってました。先輩、付き合ってる人とか……いない、ですよね?」

 ……え?
ちょ、また告白されてんの?

 思わず壁の影に身を隠した。
自分でも驚くほど、心臓が早く鳴っている。
その先の会話が気になって仕方ない。

 少しの間があって、楓の声がした。

「……いないよ」

 静かに、でもはっきりと。
その一言で、胸の奥がぎゅっと締まる。

次の瞬間、女子がほっと息をつく音がした。

「そ、そうなんですね……! よかった……! あの、よかったら、私と付き合ってください!……見てた感じ特別な人とか、いないと思ったんですけど……」

「……まぁ。」

「それならっ――――」

 
 それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
その場を離れようとして、足がうまく動いてない。
喉がカラカラに乾いてる。

(……特別はいないって、そうだよな)

 あの言葉をどう受け止めていいのか分からない。
“いない”の中に、俺が入ってたんだ。
わかってる。楓と俺の関係って名前がないし。
だけど、どこかで少しだけ期待していた自分がいた。

 俺は……やっぱただの友達、だったんだな。
困ったときに助けてもらっただけの存在。
守りたいとか、優しくされたりしたのも、全部“人として”であって――
“好きだから”じゃなかったんだ。
まぁ……そりゃそうか。

(……また勘違いしてたのは、俺の方か)

 空を見上げると、雲の切れ間から陽が覗いていた。
それが目に刺さるくらい眩しくて、思わず顔を背けた。

 

 その日の夜、スマホの通知が鳴った。
グループSNS。
何気なく開いた画面の中に、見覚えのある名前があった。

 ――「#運営メンバーお疲れ様!」

 添付された数枚の写真。
そこには湊人と楓の姿もあった。

 一枚目は運営委員の集合写真。みんなカメラ目線で笑顔で写ってる。体育祭後の写真かな。
 二枚目。
体育祭の後、校舎裏のベンチで楓と湊人が二人でペットボトルで乾杯している。
笑っている楓の横顔が、少し柔らかく見えた。
 三枚目では、
湊人が楓に抱きついて、楓は少し驚いたように笑っている。

 ……息が止まった。

(……ほんとは、そういう関係なんじゃ……)

 指先が冷たくなっていく。
コメント欄には、軽い冗談がいくつか並んでいる。
《まじでお似合い!》《尊い》
そんな文字が、じわじわと心を削る。

(やっぱり俺だけの、特別じゃなかったんだな)

 その一言が、頭の中で何度も繰り返された。
誰かの隣で笑う楓。
 まるで今日目撃した告白場面の衝撃に追い打ちをかけるようにして、ネガティブになっていく。

 あの“好きになる”って言葉も。“守る”って言葉も。
優しさの一部に過ぎなかった。
俺は勝手に勘違いして、勝手に期待して。
そして今、勝手に傷ついている。

(……これ以上は、ダメだ)

 胸の奥で静かにそう呟いた。
もし、この気持ちをこのまま持ち続けたら、
俺は壊れてしまいそう。
楓を見るたび、苦しくなってしまう。
優しくされるたび、心がひりひりする。

今、気づいてよかった。

 だから、……離れよう。離れないと。
近くにいると、苦しい。
それに、近くにいたら、楓を好きな気持ちはなくせそうにない。
そうしないと、ちゃんと笑えなくなりそうだから。

 

 ベッドに横になっても、眠れない。
スマホの画面を伏せて、目を閉じた。

 思い出すのは、あの時の楓の声。

――「いないよ」「……まぁ。」
それが何度も反響して、胸の奥を締めつけてくる。
楓が告白されるのはよくあることだけど……

(……俺のこと、好きかも、とか思ってた……。
 確かに……「お前が好き」とは言われてないな)

 自嘲気味に笑った。
俺イタいやつじゃん。

涙は出ない。
ただ、心が静かに軋む音がした。

(離れた方がいい。きっと、それが正解……)

 そう言い聞かせながら、目を閉じる。
それでも、夢の中にまで楓の笑顔が出てきそうで――
俺は毛布の中で、小さく息を殺した。


  翌日、教室は空気がやけに重く感じる。
いつもなら朝のざわめきが心地いいのに、今日はどこか遠い世界みたい。

 楓はいつも通りだった。
黒板の前で誰かに話しかけられ、いつもの無表情な顔で淡々と仕事をこなしている。
その姿を見ているだけで、胸の奥がじりじり痛んだ。

(……俺だけが、置いていかれてるみたい)

 昼休み、成瀬が何か話しかけてきたけど、上の空で返事をしていたら「お前、今日テンション低くね?」と笑われた。
笑い返す余裕もなかった。

 気を抜くと、昨日の写真が頭に浮かぶ。
湊人と楓の笑顔。
その並びが、今でも焼きついて離れない。

 午後の授業が終わったあと、ノートを閉じて帰ろうとしたとき、机の上に影が落ちた。
顔を上げると、楓が立っている。

「……悠、今、話せる?」
「今?」
「今。屋上、来て」

 また、断る言葉を探したけど今度は見つからない。
逃げたいのに、足は勝手に動いた。

 

 屋上の扉を開けると、風が一気に吹き抜けた。
フェンスの向こうでカラスが鳴いている。

 楓は手すりに背を預け、俺を見ている。
その表情は、どこか探るようで、でも優しい。

「……今日、俺のこと避けてる?」
「そんなこと――」
「ある。話しかけても目を逸らす。何かあった?」

 その問いに、喉が詰まった。

“何もない”って言えばよかった。
それで全部やり過ごせばよかった。
でも、もう限界だった。

「……楓さ」
「ん?」
「俺のこと、心配してくれてるのって……なんで?」

 一瞬、楓の眉が動いた。
そして少し考えるようにして言った。

「なんでって……放っておけないから、だろ」
「放っておけない友達だから、でしょ」
「……そういう言い方、するなよ」

 胸の奥がズキンとした。
でも止まらなかった。

「だってそうじゃん。楓は最近は誰にでも優しいし、困ってる人いたら絶対助けるし。
 俺なんて、その中の一人でしかないんだろ」

「違う」
「違わない。俺、勘違いしてたんだよ。勝手に特別だって思ってた」

 言葉を吐くたびに、喉が熱くなる。
でも涙は出ない。
泣いたら、楓が困るだけだから。

 楓が一歩、近づいた。
「悠。お前、何を見た?」

 その言葉に、一瞬だけ喉がつかえる。

「……何も」
「嘘つくな。顔に出てる」
「じゃあ……聞くけど。楓は、誰かに告白されたりしてない?」

 楓の目が、一瞬だけ揺れた。
そして静かに頷いた。

「昨日、ちょっとな。でも、断ったよ」
「……そっか」

 胸の奥で何かが壊れた音がした。
断った――その事実が嬉しいはずなのに、どうしても笑えなかった。
“断った”って言葉に、やっぱり“俺の名前”がなかったから。

 風が強く吹いて、髪が揺れる。
楓の声が、その風の音に混ざる。

「それが、こんなにお前が苦しそうな顔するなら、俺――」
「もう、いい」
「悠?」

 スッと心が冷えてく感じがした。

「もう……俺に関わらないで」

 楓の動きが止まった。
目が見開かれて、何も言えないまま静止している。
風の音の中で、楓が一瞬だけ息を呑んだのがわかった。

 きっと、俺の顔が思ったより冷たかったんだ。
それでも、もう戻れなかった。

 自分でも、あまりに静かに言えたのが怖かった。
怒っているわけでも泣いているわけでもない。
ただ、これ以上は無理だと、心が限界を告げていた。

「ごめん。でも、俺……もう分かんないんだ。楓が優しくするたびに、何を思えばいいのか分かんなくなる」
「……俺はそんなつもりじゃ」
「分かってる。楓は悪くない。……じゃあ俺、先帰るわ」

 それだけ言って、背を向けた。
風が頬を打って、それがやけに冷たくて。

 扉に手をかける前に、後ろで楓の声がした。

「……俺は、お前を傷つけたくなかった!!」
風鈴みたいに、フェンスの金網が鳴った。


「……それが一番、傷つくんだって」
掠れた小さい声は、誰にも届かず、風の中に溶けていった。
 
 ドアノブを回す手が、情けないくらい震えた。
それでも振り返らなかった。
振り返ったら、全部ほどけてしまう気がしたから。

 ドアの向こうの影が滲んだ気がして、涙が一筋頬を伝った。
俺は振り返ることもなく、そのまま屋上を出た。

 

 その日の夜、部屋の電気もつけず、ベッドの上で天井を見ていた。
あの時の楓の表情が、何度も頭の中で再生される。
驚いた顔。
哀しそうな目。
全部、忘れられない。

(言わなきゃよかった……でも、言わなかったら、きっともっと心が壊れてた)

 スマホの画面を伏せたまま、目を閉じる。
楓からの未読メッセージが一件きてた。
開ける勇気は、今はまだなかった。


 もう、笑い合ってた頃には戻れないかもしれない。

 それでも、楓の笑顔だけは――どうしても嫌いになれなかった。