(楓 side)


 放課後の教室は、まだざわめきが残っている。
黒板の端に書かれた体育祭の反省会の文字も、どこか名残惜しそうに見える。

窓の外からの陽が悠の笑顔を照らしている。


「ねぇ成瀬、それ絶対サボってたでしょ!」
「違うって! 本気で応援してたんだって!」

 笑いながら悠が成瀬にツッコむ。
その声にみんなもつられて笑って、教室がふわっと明るくなる。
その中心にいるのが、悠だった。


……ほんと、ずるいやつ。


 無邪気で、かわいくて、誰にでも優しくて、少し抜けてる。
でも、その笑顔は俺にとって特別で。
見ているだけで、胸の奥が熱くなる。

こんなことは、本人は気づいているだろう。

 
悠の笑い声がまだ耳に残っていたころ、
 
「音羽ー、これ持って帰る? 忘れてたやつ」

佐伯が俺に声をかける。
渡されたのは、体育祭のときに使ったリストバンド。
クラスカラーのブルーに、白い文字で「2-B」って入ってる。

「……ありがとう」

 手の中に収まるそれを見て、少しだけ苦い記憶がよぎる。

(……葛原にも、これをあげたんだったな)

 あのとき、「欲しい」って無邪気に言われて、何も考えずに渡した。
それだけのことだったのに、まさかあんなに喜ぶとは思わなかった。

――それを、悠が見てたなんて知らなかった。

あのあと、悠の表情が少し曇ってた理由。
ようやく、今になってわかる。

(俺、あいつをまた苦しめたんだな)

 ほんと、もう……俺って気づかないうちに悠を傷つけてる……。
自分でも嫌になる。

 
 悠はまだ、成瀬とふざけあってる。
笑いながら軽く小突き合って、
無邪気に笑うその姿に――胸の奥がきゅっと痛んだ。

「……」

(信じられないくらい可愛い。……でも今のは、俺の知らない笑顔だ)

 こんなふうに笑うのは、俺といるときじゃない。
他の誰かといるときにだけ見せる顔。
いつもずっと見てるからわかる。

理屈じゃなくて、ただ、寂しかった。

守りたいと思ってるのに、独占したいと思ってる自分が嫌になる。

(はぁ、どうしてこんなに、心が狭いんだろう。こんな気持ちじゃ、やっぱりダメ……だよな。)

 

「楓? どうしたの?」

 不意に悠が顔をのぞき込んできた。
近いな。
至近距離で見ると、まつ毛の長さまでわかる。

もっと近づきたい、触れたい。
その頬に手を添えて“好き”だと伝えたい……。


「いや……なんでもない」

「なんか、難しい顔してたよ?」

「お前を見てたからだろ」

「え?なにそれー」

少しだけ笑ってごまかす。
そうでもしないと、この“きれいじゃない”気持ち、隠せそうになかった。


 悠と並んで歩く放課後の帰り道。

「ねぇ楓、今日さ、久しぶりにすっごい笑った気がする。疲れたけど、楽しかった」
隣で悠が笑う。その横顔が、とても眩しかった。

 俺は何も言わず、ただ頷いた。
喉の奥に、何かがつかえて言葉が出ない。
その笑顔が、たまらなく愛おしい。
それなのに、時々、怖くなる。

 悠がどこかへ行ってしまいそうで。
自分以外の誰かと、あの笑顔を分け合ってしまいそうで。

「……なに?」
「いや。お前、ほんとに楽しそうだなと思って」
「そりゃ楽しかったもん。楓ももっと笑えばいいのに」

「俺、笑ってるつもりなんだけど」
「それは“優しい顔”であって、“笑ってる”とはちょっと違う」

 悠はそう言って、いたずらっぽく笑った。
俺の胸の奥が、きゅうっと締まる。

本当に、無自覚なんだよな。
その笑顔ひとつで、人を掴んで離さなくすることに。

「はぁ……お前、そういうとこ、ずるいわ」
「え?なにが?」
「なんでもない」
「またそれ。そうやってごまかす」

俺が目を逸らすと、悠が小走りで前に出た。
「ほら、置いてくよー!」
振り返って笑う。

(この手で触ったら壊れてしまいそう)

本気でそう思った。
この柔らかい笑顔を、俺の手で曇らせたくない。

 守ることしかできない自分が、少し悔しい。
それでも――

「悠」

呼び止める声が、思っていたより大きくなった。
悠が立ち止まって、振り返る。

「……なに?」
「お前、あんまり無防備に笑うなよ」
「なんで?」
「俺が、困るから」

「?」
悠は首をかしげる。
その無邪気な仕草に、心がほどけてく。

「……困るって、変なの」
「……ほんとだ」

そう言って、隣に並ぶ。
2人の影がアスファルトに並ぶ。

 この影が、いつか重なる日が来るだろうか。
まだ遠くに見えるその未来を、

俺は初めて“願った”。


(どうか、この笑顔を、俺の手で守れますように)


 風が吹いて、髪が揺れた。
その小さな音だけが、帰り道に響いていた。

――そして、夜がゆっくりと降りてくる。