体育祭の午後の競技が終わる頃には、声を張り上げていたクラスメイトたちも、疲れと達成感で顔をほころばせている。
俺は片づけ用の段ボールを抱えながら、グラウンドの隅を歩いていた。
汗をぬぐいながらふと遠くを見ると、倉庫の横で楓が湊人と話しているのが見えた。
湊人は満面の笑みで何かを話していて、楓はそれに軽くうなずいている。
(……またあの一年生か)
また胸の奥がチクリと痛んだ。
別におかしいことをしてるわけじゃないのに、気づけば目で追ってしまう。
風が吹いて、二人の声が少しだけ届く。
「先輩、ほんとありがとうございます! この前もらったこのリストバンドも、大切にします!」
「あぁ、それ……別に。余ってただけだから」
穏やかにそう答える楓の声が、風に混ざって聞こえた。
それなのに湊人は「ペアっぽいの嬉しいです!」と笑って跳ねている。
楓は困ったように視線をそらした。
(……やっぱり、そういうことだったんだ)
胸の中のもやもやが、少しだけ溶けた気がした。
しばらく湊人と楓は話していたけど、俺は気にしないようにそこを離れ、持ち場に戻って片付けに集中した。
湊人が去っていくと、楓がこちらに気づいて歩いてきた。
「悠」
「あ、うん」
名前を呼ばれただけで、なぜか足が止まった。
太陽を背にして立つ楓の顔が、少し影になって見える。
「どうした? 顔、疲れてる」
「そう? 平気。……楓こそ、さっきの一年と何話してたの?」
「別に。お礼言われただけ」
「ふうん……」
会話がそこで途切れる。
風が、汗ばんだシャツの裾を揺らした。
「……気になる?」
唐突な楓の問いに、ハッとする。
「べ、別に。気にしてないし」
「そっか」
それだけ言って、彼はふっと目を細める。
笑っているのに、どこか寂しそうな笑顔だった。
体育祭が完全に終わる頃、
照りつけていた日差しも柔らかくなり、空気がほんの少しひんやりしている。
俺は教室に戻って、片付けの続きで、雑巾を手に机を拭いていた。
外からは笑い声や打ち上げの誘いが聞こえる。
けど、どうしてもさっきの光景が頭から離れなかった。
(湊人くん、嬉しそうだったな……)
別に、楓が何をしてもいい。
だけど、心のどこかが苦しくなる。
その理由を、自分でもわかっているくせに、説明できなかった。
「……悠」
不意に背中から名前を呼ばれ、思わず振り返る。
そこにいたのは楓だった。
「もう残りはいい。後は俺がやる」
「え? いいよ、これくらい――」
「いいから」
机を拭いていた手を、楓の手が軽く押さえた。
そのまま視線が合う。
いつもより近くて、息を吸うのも忘れる。
「……お前、今日ずっと様子がおかしい」
「えっ?」
「何かあった?」
「べ、別に。そんなの――」
言葉が詰まる。
楓の目が、嘘を許さないように真っ直ぐで。
「葛原のこと、まだ気にしてる?」
「……あれは……」
「俺、ああいうの苦手なんだよ。誰かが勝手に“ペア”とか言うのも、誤解されるのも」
静かに言う声が、胸に響く。
「また変な噂たてられるのも嫌だから先に言っとく。
さっき、葛原から告白された。」
「っ!」
楓の顔を見ながら目を見開く。
楓は静かな声で続きを話した。
「それで、断ったよ」
驚きすぎて何も言えない。
「でも悠には変に誤解されたくない」
「え?」
「……」
目を逸らせなくなった。
鼓動が速くて、息が浅くなる。
「お前の顔見てたら、もうたまらない気持ちになる」
「……え、な、なに……」
言葉を探してる間に、楓の両手が俺の頬を包んだ。
顔は熱くて、それに触れている楓の手は少し冷たくて気持ちいい。
楓を見つめたまま、心臓が、破裂しそうに鳴ってる。
「……そんな顔するな。俺、余計に抑えられなくなる」
小さく呟いた声が、耳の奥に落ちる。
まるで泣きそうなほど優しい声だった。
その距離のまま、楓が視線を逸らして小さく息をつく。
「……ごめん。今のは、ちょっと反則だった」
「……別に」
精一杯笑おうとした。
けど頬が熱くて、きっと変な顔になってる。
「今日は送る」
「え?」
「顔、赤いまま帰したら、今度はお前がおかしな噂になる」
そう言って楓は微かに笑った。
けれどその笑みの奥には、ほんの少し焦りのような熱が見えた気がした。
帰り道、風が冷たくなり、街の灯りがちらちらと瞬いている。
……“おかしな噂”って、俺と噂になることを言ってるのか?
「……なあ、楓」
「ん?」
「もし、“俺たち付き合ってる”とか噂になったら……どうする?」
楓は少し考えるように歩を止めた。
そして、静かに俺を見た。
「訂正はしないかも」
「え?」
「そう思われても、俺は別に困らないから。悠が嫌だったら考えるけど」
その言葉の意味を考えるより先に、胸がぎゅっと掴まれた。
“困らない”……だなんて。
(……ずるいな、そんな言い方)
頬に当たる風が少し冷たい。
でも、それ以上に心の中が熱かった。
歩きながら、楓がぽつりと呟く。
「悠」
「なに」
「今日のお前、少しだけ……俺のこと、見てた」
「……っ、そんなこと……!」
「気のせいかもしれない。でも、そうだったらいいなと思って」
笑うように言って、前を向く。
その横顔に、沈みかけた夕陽が重なって、何も言えなくなった。
――俺たちってどういう関係なんだろう。
それを口にだすと今までと同じではいられないかも。怖い。
だから曖昧なままでもいい。
このまま近くで繋がっていたい。
また、自分がなんとも言えない表情をしている気がして俯いた。
「……お前のことは、俺が守るからな」
楓は前を向きながら不意にそう言った。
その言葉が、まっすぐ胸に落ちてくる。
冗談ではない、そんな顔じゃなかった。
まっすぐで、優しくて――。
(どうして不意に“守る”だなんて言うんだろう)
俺は笑ってごまかしたけど、
心の奥でずっと楓の言葉が響いていた。

