月を凌駕する光



             ִֶָ☾.


 どこからか鳥のさえずりが聞こえてくる。
 足元に春の陽光が差し、体中がぽかぽかと暖かい。
「ん、……」
 かさり、指で擦れた紙の音を聞き、俺はそっと瞼を開けた。目の前には、膝に置かれた開きっぱなしのままの本が静かに横たわっている。
 俺、何をしていたんだっけ。寝ぼけた頭で考えながら、寝落ちする前に先程していたことを思い出す。
 あ、そういえば読書をしていたんだ。春の午後の日差しが心地いいからとベランダで読書でもしようと思い至り、つい先程まで紙に印刷された文字の羅列を目で追っていた。
 それなのに、いつの間に───。俺は目を擦り、そこで、はっと気づいた。
「……っ、なんで」
 手に触れたのは、濡れた冷たい感触。それは涙で、うたた寝している間に泣いていたのかもしれない。……いや、かもしれないじゃなくて、俺は今、泣いていたのだ。
 頭の中に漂っていた霧が少しずつ消えていくにつれ、明瞭になった視界の隅にピー助を捉える。ピー助とは、俺が飼っているインコの名前だ。いつもピーピーと鳴いているから、リュカがそう名付けたのだ。
 リュカと同棲を始めた日、リュカが新しい家族にとピー助を連れてきた。これで一人の夜も怖くないし、寂しくないよ、と優しげに微笑んだリュカに、ピー助が「ピーピー」と嬉しそうに鳴いたのだ。
 と、口角を上げながらピー助を眺めていた俺は、またもはっとして表情筋を固まらせた。そしてバシン!と強く己の頬を叩く。痛々しく乾いた音が、午後の穏やかなベランダに響き、空気に溶けて消えていく。
「……ってぇ」
 俺は目に涙を浮かべながら、ぐすんっと鼻水を啜った。それから涙で濡れた顔を腕でゴシゴシと拭う。脇に置いてある机に本を置き、二人掛けのハンギングチェアから腰を上げて室内に戻る。
 もう、何も考えるな。思考を止めろ。脳を腐らせろ。そうしないと、また、思い出してしまう。そう何度も自分に言い聞かせては知らず知らずのうちに泣いてしまっているのは、今日でもう何度目だろうか。
 リュカに一方的に別れを告げられたあの日から、俺は深く冷たく、息もできずにただどこまでも闇の広がる深海の奥底へと沈んでいる。
 電子時計の日付は2026年4月8日という文字列を表示している。リュカと最後に過ごしたあの夜から、もう二年以上が経過していた。俺はその二年以上の間、ただ屍のように生きた。魂なんてものは、あの日リュカが吸い取ってフランスへ持って帰ってしまった。そのことを憎み、心の中でフランスにいるリュカへ意味のない悪態をつく日々は本当に価値のない、くだらないものだったのだろう。
 それでも俺にとっては、本当に苦しくてしんどい時間だったんだ。最愛の人から別れを告げられた悲しみは、俺が想像していたよりもずっと悲惨で(むご)たらしいものだった。
「……っ、もう、ほんと嫌になる」
 あいつを忘れられない俺も、俺を捨てたあいつも、この世界の広さも、このひとりぼっちの部屋も、全部全部、今すぐに爆発して粉々になって、消えてしまえばいいのに。
 青黒い水槽の中で揺蕩う俺は、今もまだリュカの腕の中に囚われたままだ。



             ִֶָ☾.


「琉悸、大丈夫か? お前、また暗い顔してるぞ」
「っえ? あ、ああ……うん。大丈夫だよ」
「………」
「………?」
「お前、本当嘘が下手なのな」
「……っな!? 嘘じゃないって!!」
「へいへーい。そんな慌てて言ったって嘘がもっと見え透いてくだけだぞー」
 ケラケラと笑いながらコーヒー片手に歩いていく拓哉(たくや)を、俺は小走りで追いかけながら必死になって言い返す。拓哉は肩を震わせて笑い、徐ろに足を止めた。
「……、まだ忘れられていないのか」
 拓哉が俺を真っ直ぐに射抜き、今一番聞かれたくない問いを投げかけてきた。俺は自ずとその視線から目を逸らし、「……別にそんなんじゃねえよ」と小さく呟く。
 そんな俺に、拓哉ははあー、と大きなため息を零す。俺は思わずビクリと肩を震わせた。
「もう二年だろ? いい加減忘れろ」
 いつまでもうじうじと過去に縛られ続けている俺に、拓哉はとっくの昔に呆れていたことだろう。それでも毎日俺に声をかけてくれるし、言葉数は少ないけれど側で廃人だった俺を支え続けてくれた。唯一の幼馴染は、今日も言葉こそ厳しいけれどその声音にはどこか仕方がないと呆れる、優しさと諦めが滲んでいる。
「……わかってる。ちゃんと、分かってるよ」
 勇気を出して拓哉と目を合わせ、苦々しく呟いた。そんな俺を、拓哉はやはりどこか諦めながら、だけど心配そうに見ていた。

 現在、拓哉と同じ会社の異なる部署で働いている俺は、たまに仕事でミスをすることがあるけれど、有難いことに周りの同僚や上司に頼られることも多い。
 これも、あの日あの時、リュカに別れを告げられてから廃人と化し仕事も私生活も何もかもどうでもよくなり、新卒の頃から勤めていた会社をクビになり、一週間も何も口にしていなかったせいで部屋の床で息絶えそうになっていた俺を奇跡的に発見した拓哉が、俺に飯を食べさせ、仕事探しを手伝ってくれ、周5で俺の家に来ては身の回りのことをしてくれたおかげだ。