7.カンパネラ
モモの体調が安定するまでの期間限定という条件で、週に3回、『柴崎書店』で1時間だけ自習する事を受け入れてもらえた。
親にも、結城さんにも。
親は元々うるさい方ではないが、やはり受験の直前期とあって、全く心配してないわけでもないようだった。
「自習室みたいに使わせてくれるって。」
本屋の奥の部屋で、少しだけ暗記科目を集中してやっつけてくる。そう具体的に言うと、だったらいいよ、と言ってくれた。
そのかわり、結城さんの迷惑になることをしないこと、成績を下げないことを約束した。
平日は月曜日のみ。
プラス、週末土日にそれぞれ1時間だけ。
「連絡先聞いていい?」
モモを急に病院に連れて行くこともあるから、店を閉める日は連絡するよ、と。
*
こうして俺の、書店通いが始まった。
訪れると、いらっしゃい、と微笑んでくれた。
時々、店に入っても何も反応がない時もあるが、そんな時は大抵ソファで寝ていた。
その時々で、コーヒーや紅茶を淹れてくれた。緑茶の事もある。
俺が自習している間、結城さんは本を読んだり、昨日寝てなくてと言って寝たり、パソコンを膝に乗せて何か作業をしたりしていた。
ある時分厚い本を書店スペースから取ってきて、真剣に読み始めた。布製ハードカバーのもので、それがさらに厚紙のケースに入れられている。
『 若草物語 』
と背表紙が見えた。
「面白いんですかそれ。」
「……うん。」
「どんな話ですか。草?」
「うん……。え?聞いた事ない?若草物語。」
「知らないです。」
結城さんは、なんてこった、と大袈裟な仕草で額に手のひらを置いた。
見た目はほとんど20代の若者だけど、こういう時のリアクションは少し古い。
「これが世代か。」
「あんまそういうの読まないです。」
「僕も読書してこなかった方だけど、どんな話かくらいは分かるよ。」
「……勉強になります。」
少しだけ悔しかった。
受験が終わったらやりたい事。
ピアスと、読書。決めた。
またある時は、別のハードカバーを読んでいた。
やはり厚紙のケースに入れられている。さらに半透明のカサカサした薄紙が、布製の豪華な装丁を覆っていた。
ページを捲るたびにその薄紙がカサカサなるのが耳障りなようで、結城さんはそれを剥ぎ取った。
「……店の売り物じゃないんですか。」
「そうとも言う。」
「ええ?」
俺はおかしくなった。
結城さんはお店を営んではいるが、儲けようとか本を売ろうと言う意思がほとんど感じられず、経営者というよりは、古い本が詰まった本棚を時折掃除しているだけの、単なる管理人のようだった。
だから店の商品を私物のように読む(だからといってみだりに汚したりはしないが)し、読み終われば本棚に返しに行く。
「いいんだよ全部僕んだから。」
ここにきて俺は一つの疑いを持った。
あのレジは動くのだろうか……。
そうして脇に置かれた厚紙のケースの背には『司馬遼太郎全集』と、太い文字で書かれている。
「その人は何となく知ってます。」
「ほんと?初めて読んだけど面白いね。
どんどん読めちゃう。」
モモはその間、静かに寝ていた。
時々起きて、トイレをしたり水を飲んだりしていた。
そして甘えたような声を出して、結城さんの足元に手を伸ばすと、結城さんはこれ以上ない柔らかな声で「だっこする?」と聞いてから、重たそうなその体をゆっくりと膝に抱えてあげた。
結城さんは愛おしそうに、
本当に愛おしそうにモモを撫でた。
モモの方も、結城さんを信頼していて、自分を守ってくれる存在だとちゃんと理解していて、おばあちゃんネコのか細い声だけど、何かして欲しい時、して欲しくない時は、短く鳴いて、結城さんに何かを伝えていた。
結城さんもそれが分かるらしく、「はいはい」などと返事をして、その度にモモの意図を汲んでやっていた。
優しい2人だった。
2人の間に、大きな愛情があった。その愛情を失いたくなくて、2人寄り添って生きているのがわかった。
「ずっと元気でいてね。」
独り言のようなそれは、
結城さんの心からの願いだった。
お別れが近いのかもしれないと思った。
――「ずっと」は、無理なんじゃないかな、結城さん。
けれどそれは、口にする必要のない事だった。
結城さんが一番よく分かっている事だろうから。
モモは俺から逃げたりはしないし、調子がよければ撫でさせてくれる。けど結城さんのように心を開いてはくれなくて、少し触ると嫌そうに自分の寝床に戻ったり、結城さんの足元にくっついたりするので、少し寂しかった。
「店に猫の本置いてあります?」
少しでもモモと打ち解けたい。
モモの気持ちが分かるようになりたい。
「無理して読まなくていいから。気晴らしに。」
と、結城さんは猫のエッセイをまた貸してくれた。
「買いますよ。」
と言うと、
「これ売り物じゃないの。僕んだから。」
そしていたずらっぽく、返してね、と笑うので、
そんな口実はもう要らないのにな、と
少しだけ切なかった。
本も読まない時は、暗記に付き合ってくれた。
「じゃあ10分測るね。」
10分で範囲を決めて、どこまで正確に覚えているか確かめる。結城さんがテキストを見て、俺が口頭で答える。
塾ではもう、新しいことを覚える時期は過ぎて、ひたすら過去問をやり続けている。
だから時々こうやって、基礎に立ち返って、暗記の危ういところを確実に埋められるのは助かった。
一人では、「多分覚えているだろう」と適当に流していたかもしれない。
「全問正解!」
「ヨッシャ!」
*
そうしているうちにクリスマスになった。
結城さんは小さなケーキを出してくれた。
「一人で食べるの寂しいから。」
とお願いされる形で、俺はまた、その言葉に甘えてケーキを頂いた。
食後にはコーヒーが出た。
砂糖とミルクがなくても、いつの間にか飲めるようになっていた。
「あれ。」
小さな食器棚の上に、ピアノの置物がある。
「前からありましたっけこれ。」
立ち上がって、見に行く。
「……ここに置いたのは最近かな。
上に置いてたのを、出したの。」
『上』とはここの2階で、結城さんの小さな寝室がある。もちろん見せてもらった事もないが、時々荷物をとりに上がって行く事があった。
「そーなんですか。」
30センチくらいだろうか。
木製で、しっかりした作りだ。
黒いツヤがあって、サイズを小さくしただけの本物のグランドピアノに見える。
おもちゃにしてはよく出来ているそれに、つい指が伸びそうになる。
「これ音鳴るんですか?」
「鳴るよ、弾いてごらん。」
と、言われても、ピアノは弾けない。
その時ファンヒーターの給油ランプがついて、灯油タンクが空になったと知らせる電子音が鳴った。
俺は何も考えずにその音を模倣した。
「これかな。」
ポン、ポン、ポンと鍵盤を人差し指で押さえると、ヒーターと同じ音程の音が鳴った。
「あ、あってた。正解〜。」
「すごーい!」
結城さんは少し声を高くした。
「音が分かるの?」
「いや、分かんないです」
音が分かるって、何?
「でもいま合ってたよ。」
じゃ、これは?と結城さんは冷蔵庫の扉を開けた。
1分ほど待つと、開けっ放しを知らせる電子音が鳴った。
「え、多分これじゃないかな。」
トーン、トーン、トーン。
「わ、すごい!」
結城さんはそう言ってキャッキャとはしゃいだ。
「律ちゃんピアノの才能あるかも!
ほら、弾いてごらん!」
と結城さんは、細くて白い指をカタカタ、と鍵盤の上で動かした。
結城さんが弾いた音を真似して、鍵盤を押す。
もちろん、人差し指で。
「わぁ、律ちゃんじょうずだねぇ!」
と、結城さんは手を叩いて喜んだ。
この音はここだよ、
そう言って結城さんは俺の人差し指に触れて、
ひとつひとつ、音を教えてくれた。
柔らかくて、優しい手だった。
ピアノは習ったことがない。
オヤジがよく車や家でずっとクラシックをかけいたから、有名な曲はだいたい耳にしたことがあるだけで、俺も家族も楽器には疎い。
ピアノが弾けたらかっこいいと思う事もあったけど、今は、ピアノが下手くそで良かったと思う。
俺の手を取って、教えてくれる結城さん。
目線の下にその髪がある。細い肩がある。
やってごらん、と囁く口がある。
「よし、覚えた!」
「律ちゃん天才!」
俺は人差し指で、同じ旋律をたどたどしく鳴らした。
あまりにも結城さんが、喜ぶから、何度も何度も、弾いた。
この小さな可愛らしいピアノは、
一体いつ、誰が、何のために……『誰のために』買ったのだろう。
そして2階に仕舞っていたものを、
ここに置いたのは、なぜ……?
――俺に、触らせたかった?
結城さんは、一体何者なんだろう。
どんな人なんだろう。
*
年末に向けて、モモの体調は、少し良い方向へ向かっているようだった。
柔らかいものならちょっとずつ食べられるようになった。寝てばかりだったけど、起きる時間も少しだけ増えた。ほんの少しだが。
そして結城さんは夜きちんと眠れるようになった。
病院には時々連れて行くらしいが、それでも以前のように横に張り付いてつきっきり、という必要は今の所無くなったらしい。
それでも俺は、必要ないと断られるまではと思って
週に3度、1時間の自習のために
お店に通った。
結城さんは、モモがすっかり元気になっても、
俺が来るのを拒まなかった。
モモの体調が安定するまでの期間限定という条件で、週に3回、『柴崎書店』で1時間だけ自習する事を受け入れてもらえた。
親にも、結城さんにも。
親は元々うるさい方ではないが、やはり受験の直前期とあって、全く心配してないわけでもないようだった。
「自習室みたいに使わせてくれるって。」
本屋の奥の部屋で、少しだけ暗記科目を集中してやっつけてくる。そう具体的に言うと、だったらいいよ、と言ってくれた。
そのかわり、結城さんの迷惑になることをしないこと、成績を下げないことを約束した。
平日は月曜日のみ。
プラス、週末土日にそれぞれ1時間だけ。
「連絡先聞いていい?」
モモを急に病院に連れて行くこともあるから、店を閉める日は連絡するよ、と。
*
こうして俺の、書店通いが始まった。
訪れると、いらっしゃい、と微笑んでくれた。
時々、店に入っても何も反応がない時もあるが、そんな時は大抵ソファで寝ていた。
その時々で、コーヒーや紅茶を淹れてくれた。緑茶の事もある。
俺が自習している間、結城さんは本を読んだり、昨日寝てなくてと言って寝たり、パソコンを膝に乗せて何か作業をしたりしていた。
ある時分厚い本を書店スペースから取ってきて、真剣に読み始めた。布製ハードカバーのもので、それがさらに厚紙のケースに入れられている。
『 若草物語 』
と背表紙が見えた。
「面白いんですかそれ。」
「……うん。」
「どんな話ですか。草?」
「うん……。え?聞いた事ない?若草物語。」
「知らないです。」
結城さんは、なんてこった、と大袈裟な仕草で額に手のひらを置いた。
見た目はほとんど20代の若者だけど、こういう時のリアクションは少し古い。
「これが世代か。」
「あんまそういうの読まないです。」
「僕も読書してこなかった方だけど、どんな話かくらいは分かるよ。」
「……勉強になります。」
少しだけ悔しかった。
受験が終わったらやりたい事。
ピアスと、読書。決めた。
またある時は、別のハードカバーを読んでいた。
やはり厚紙のケースに入れられている。さらに半透明のカサカサした薄紙が、布製の豪華な装丁を覆っていた。
ページを捲るたびにその薄紙がカサカサなるのが耳障りなようで、結城さんはそれを剥ぎ取った。
「……店の売り物じゃないんですか。」
「そうとも言う。」
「ええ?」
俺はおかしくなった。
結城さんはお店を営んではいるが、儲けようとか本を売ろうと言う意思がほとんど感じられず、経営者というよりは、古い本が詰まった本棚を時折掃除しているだけの、単なる管理人のようだった。
だから店の商品を私物のように読む(だからといってみだりに汚したりはしないが)し、読み終われば本棚に返しに行く。
「いいんだよ全部僕んだから。」
ここにきて俺は一つの疑いを持った。
あのレジは動くのだろうか……。
そうして脇に置かれた厚紙のケースの背には『司馬遼太郎全集』と、太い文字で書かれている。
「その人は何となく知ってます。」
「ほんと?初めて読んだけど面白いね。
どんどん読めちゃう。」
モモはその間、静かに寝ていた。
時々起きて、トイレをしたり水を飲んだりしていた。
そして甘えたような声を出して、結城さんの足元に手を伸ばすと、結城さんはこれ以上ない柔らかな声で「だっこする?」と聞いてから、重たそうなその体をゆっくりと膝に抱えてあげた。
結城さんは愛おしそうに、
本当に愛おしそうにモモを撫でた。
モモの方も、結城さんを信頼していて、自分を守ってくれる存在だとちゃんと理解していて、おばあちゃんネコのか細い声だけど、何かして欲しい時、して欲しくない時は、短く鳴いて、結城さんに何かを伝えていた。
結城さんもそれが分かるらしく、「はいはい」などと返事をして、その度にモモの意図を汲んでやっていた。
優しい2人だった。
2人の間に、大きな愛情があった。その愛情を失いたくなくて、2人寄り添って生きているのがわかった。
「ずっと元気でいてね。」
独り言のようなそれは、
結城さんの心からの願いだった。
お別れが近いのかもしれないと思った。
――「ずっと」は、無理なんじゃないかな、結城さん。
けれどそれは、口にする必要のない事だった。
結城さんが一番よく分かっている事だろうから。
モモは俺から逃げたりはしないし、調子がよければ撫でさせてくれる。けど結城さんのように心を開いてはくれなくて、少し触ると嫌そうに自分の寝床に戻ったり、結城さんの足元にくっついたりするので、少し寂しかった。
「店に猫の本置いてあります?」
少しでもモモと打ち解けたい。
モモの気持ちが分かるようになりたい。
「無理して読まなくていいから。気晴らしに。」
と、結城さんは猫のエッセイをまた貸してくれた。
「買いますよ。」
と言うと、
「これ売り物じゃないの。僕んだから。」
そしていたずらっぽく、返してね、と笑うので、
そんな口実はもう要らないのにな、と
少しだけ切なかった。
本も読まない時は、暗記に付き合ってくれた。
「じゃあ10分測るね。」
10分で範囲を決めて、どこまで正確に覚えているか確かめる。結城さんがテキストを見て、俺が口頭で答える。
塾ではもう、新しいことを覚える時期は過ぎて、ひたすら過去問をやり続けている。
だから時々こうやって、基礎に立ち返って、暗記の危ういところを確実に埋められるのは助かった。
一人では、「多分覚えているだろう」と適当に流していたかもしれない。
「全問正解!」
「ヨッシャ!」
*
そうしているうちにクリスマスになった。
結城さんは小さなケーキを出してくれた。
「一人で食べるの寂しいから。」
とお願いされる形で、俺はまた、その言葉に甘えてケーキを頂いた。
食後にはコーヒーが出た。
砂糖とミルクがなくても、いつの間にか飲めるようになっていた。
「あれ。」
小さな食器棚の上に、ピアノの置物がある。
「前からありましたっけこれ。」
立ち上がって、見に行く。
「……ここに置いたのは最近かな。
上に置いてたのを、出したの。」
『上』とはここの2階で、結城さんの小さな寝室がある。もちろん見せてもらった事もないが、時々荷物をとりに上がって行く事があった。
「そーなんですか。」
30センチくらいだろうか。
木製で、しっかりした作りだ。
黒いツヤがあって、サイズを小さくしただけの本物のグランドピアノに見える。
おもちゃにしてはよく出来ているそれに、つい指が伸びそうになる。
「これ音鳴るんですか?」
「鳴るよ、弾いてごらん。」
と、言われても、ピアノは弾けない。
その時ファンヒーターの給油ランプがついて、灯油タンクが空になったと知らせる電子音が鳴った。
俺は何も考えずにその音を模倣した。
「これかな。」
ポン、ポン、ポンと鍵盤を人差し指で押さえると、ヒーターと同じ音程の音が鳴った。
「あ、あってた。正解〜。」
「すごーい!」
結城さんは少し声を高くした。
「音が分かるの?」
「いや、分かんないです」
音が分かるって、何?
「でもいま合ってたよ。」
じゃ、これは?と結城さんは冷蔵庫の扉を開けた。
1分ほど待つと、開けっ放しを知らせる電子音が鳴った。
「え、多分これじゃないかな。」
トーン、トーン、トーン。
「わ、すごい!」
結城さんはそう言ってキャッキャとはしゃいだ。
「律ちゃんピアノの才能あるかも!
ほら、弾いてごらん!」
と結城さんは、細くて白い指をカタカタ、と鍵盤の上で動かした。
結城さんが弾いた音を真似して、鍵盤を押す。
もちろん、人差し指で。
「わぁ、律ちゃんじょうずだねぇ!」
と、結城さんは手を叩いて喜んだ。
この音はここだよ、
そう言って結城さんは俺の人差し指に触れて、
ひとつひとつ、音を教えてくれた。
柔らかくて、優しい手だった。
ピアノは習ったことがない。
オヤジがよく車や家でずっとクラシックをかけいたから、有名な曲はだいたい耳にしたことがあるだけで、俺も家族も楽器には疎い。
ピアノが弾けたらかっこいいと思う事もあったけど、今は、ピアノが下手くそで良かったと思う。
俺の手を取って、教えてくれる結城さん。
目線の下にその髪がある。細い肩がある。
やってごらん、と囁く口がある。
「よし、覚えた!」
「律ちゃん天才!」
俺は人差し指で、同じ旋律をたどたどしく鳴らした。
あまりにも結城さんが、喜ぶから、何度も何度も、弾いた。
この小さな可愛らしいピアノは、
一体いつ、誰が、何のために……『誰のために』買ったのだろう。
そして2階に仕舞っていたものを、
ここに置いたのは、なぜ……?
――俺に、触らせたかった?
結城さんは、一体何者なんだろう。
どんな人なんだろう。
*
年末に向けて、モモの体調は、少し良い方向へ向かっているようだった。
柔らかいものならちょっとずつ食べられるようになった。寝てばかりだったけど、起きる時間も少しだけ増えた。ほんの少しだが。
そして結城さんは夜きちんと眠れるようになった。
病院には時々連れて行くらしいが、それでも以前のように横に張り付いてつきっきり、という必要は今の所無くなったらしい。
それでも俺は、必要ないと断られるまではと思って
週に3度、1時間の自習のために
お店に通った。
結城さんは、モモがすっかり元気になっても、
俺が来るのを拒まなかった。
