6.不用心
 モモの体調が、あまり良くないようだ。
 
 今日は結城さんの膝ではなくて、ペットシートが敷かれた一角の、クッションの上で寝ていた。
 
 撫でてやりたかったが、猫の健康のことは分からないし、体調が悪いのに起こしても可哀想なので触らないでおいた。
 落ち着いた寝息を立てているが、何回かに一回ほど、僅かに呼吸しづらそうにすることがあった。

「苦しいのかな。」
「今は大分落ち着いたんだ。大丈夫だよ。」
 
 もっと早く会いにきたらよかったなと後悔した。
 頑張るとか、頑張れないとか自分のことじゃなくて。
 会いたいと思ってくれるなら、
 もっと早く来たらよかった。

 結城さんは昼も夜もなく、看病に寝たり起きたりで、きちんと睡眠が取れてないらしい。

「ごめんね。さっきはちょっと、寝ちゃってて。」

 俺が店に入っても反応が最初なかったのはそのせいらしい。

「起こしてすみません。疲れてるんですよね。
 寝てていいですよ、こっちで。」
 
 俺は、大きな居心地のいい一人がけのソファから立って、結城さんに促したけど、断られた。

 そして、
「僕が寝たら、君帰っちゃうでしょ。」
 と力なく笑うのだ。
 
 今日は紅茶が出された。
 少し赤みがかったお茶。
 美味しい。

「どう?ルイボスティー。飲めそう?苦手じゃない?」
「全然苦手じゃないです、好きです。」

 あ、お茶が、って意味です。
 と心の中だけで言い訳する。
 言葉にしたら、否定しながらも逆にそうだと認めてしまう事になる。

「あの、ピンポン鳴るやつ、つけないんですか?」
「ピンポン?ああ、お店の入り口ね。そうだねえ。」

 つけた方がいいかなあと首を傾げるので、
 
「不用心ですよ。」
 と言った。
「俺が悪いやつだったらどうするんですか。」
「え?律ちゃんが?」
 ぱっと結城さんの表情が晴れる。
 俺が悪いやつだったら、の仮定でどうして明るくなるのかの理屈は分からないが、笑顔になるならそれでいいと思った。

「めっちゃ悪いやつかもしれないですよ俺。」
「いやあ困ったね。何するの。」
「そうですね。寝てる結城さんを……、」

「うん。」

 起こさないで、優しくしたい。
 そのままにさせて、
 寒そうなら布団をかけてあげて、
 ご飯をつくってあげる。
 お味噌汁を作ってあげる。
 掃除をして洗濯をして、
 片付けをして、モモのお世話もやってみる。
 店番も、やってあげる。
 
 どれも、出来るか分からないけど。
 どれも、出来っこないけれど。

「……の、顔に、」

「うん。」

「ヒゲを書きます。」

 それはヤダ!と笑ったので、
 成功してよかったと思った。

「どうしてるかなあって思ってたよ。」
 と言って結城さんはカップに口をつけた。

「模試があって、ちょっと、頑張ろうかなって思って。」
「そっか。頑張ってるんだね。」
「はいこれ、A判定でした。」
 俺はリュックから、模試の結果票を引っ張り出した。
「すごい!え、しかも理科が満点!」
「数学が悔しいです。」
 1問だけ詰まらないミスで落としたのだ。

「いやでも凄いよ。賢いんだろうなとは思ってたけど、本当に賢いんだねえ。頑張ったねえ。」

 俺は恥ずかしくて、いやぁ、まぁ、とか何とかモゴモゴ言った。この前の、結城さんにまごつくオヤジみたいだなと自分で思った。くそ。

 その時モモが、咳き込んだ。猫も咳をするのかは知らないが、何か吐き出すような苦しげな呼吸で、ケッ、ケッと音を立てた。
 結城さんの顔が一気に真剣になり、モモのそばにかけよってしゃがみ、口元を拭ってやってから、その様子を注意深く観察した。

「あ、これは大丈夫。」

 少ししてから結城さんは立ち上がり、少しふらつきながらまた椅子に腰掛けようとするので、今度は俺が立ち上がった。

「結城さん、こっち。」
 その腕をとって、腰を支えた。
 驚くほどに細く、頼りなく、儚い体をしていた。
 そして沸き立つ甘い香り。

「え。ちょ、律ちゃん、」
「こっちで。」
 そして俺は無理矢理に結城さんを、今しがたまで俺が座っていた、大きな一人がけのソファに座らせた。
 もちろん、ゆっくり、丁寧にだ。
 リクライニング機能があるので、ゆっくりとそれを倒す。そして足元を可動させれば足台が出てくる。
 そして、膝掛けをかける。

「寝てください。」
「でも、」

 結城さんの目が泳ぐ。

「俺はこっちで、」
 といつも俺が来た時に結城さんが座る、木製の椅子に腰かけた。
 
「うん。自習します。」
「え。」
「勉強します。今から。
 だから結城さんは邪魔しないで目を閉じて下さい。」
「けど。」
「モモが少しでも苦しそうになったら、
 俺が必ず起こしますから。
 だから俺が起こすまでは寝てください。」

 それでもまだ迷うようにして眉を寄せるので、俺は傍まで行って、ソファの横に膝をついた。
 
 そして目線を合わせる。
 
 髪が柔らかそうで、触りたい。
 眼鏡を外してカタンとテーブルに置いた。
 初めて、眼鏡を外した結城さんを見た。

 透明感のある瞳の不思議な色あいに、
 吸い込まれそうになる。
 綺麗だ。

「帰りませんから。」
 と言うと、結城さんは、あ、と喉を詰まらせた。
「寝たら俺が帰るってさっき言いましたよね。
 帰りませんよ。まだ18時です。」
 スマホを出して、親にサクサクとメッセージを送る。
 
 『 塾の後、本屋で自習してから帰ります。 』

 その画面を結城さんに見せ、
「親にも嘘ついてませんよ。」
 と言うと、また泣き出しそうになって、けれど今度は笑っていた。
「ありがとう。」
「何か変だと思ったらすぐ起こしますから。」

 結城さんは、じゃあ悪いけど、少し寝させてもらうね、と言って、目を閉じた。

 数学のノートを開いて、問題を解く。
 頭が痛くなるような、もどかしい突っ掛かりのある問題だったが、この時はなぜか容易く解法にたどり着いた。
 心が穏やかで冷静になれるだけで、こんなに頭もスッキリ動くのかと思った。

 部屋の中に、2つの寝息がある。
 一つの寝息は、おばあちゃんネコのモモ。
 長生きしてほしい。
 結城さんが寂しがるから。
 けど、モモはどうかな。疲れたかな。
 ゆっくり休んで欲しいと思うのは、俺が世話してないから、情がまだ浅いからだろうか。俺はただ、結城さんのために、ただそのために、モモの命が永らえて欲しいと思った。

 2つ目の寝息。こちらはほとんど寝息がしない。
 胸の上下する動きで呼吸していると分かるが、
 それが無ければ、一体ちゃんと生きているのか分からないほど、その存在の、どうにも消えていきそうな心許なさが、胸をかき乱した。
 
 その思いを振り払うように、
 俺はただ次の問題に取り掛かる。

 俺はやっぱり悪いやつだ。
 寝ている結城さんに優しくしたい。それは事実だ。
 掃除だろうと洗濯だろうと、役に立つなら覚えてみせる。
 けど同時に、寝ている結城さんに、
 優しくないことをしたい。
 困らせたい。
 困らせて、それでも拒めないようなことを、したい。

 不用心ですよ。
 と、その寝顔に教えてあげたかった。