5.会ってもいいですか。
 結城さんが別れ際に持たせてくれたのは猫のエッセイだった。字が大きく写真が多くて、朝の通学の電車の中で読み終えてしまった。

 12月。
 2週間後に今年4度目の模試がある。
 俺は日曜日も朝から自習室に篭り、夕方真っ直ぐ家に帰り、食事と入浴や済ませたら、また真っ直ぐに勉強机に向かった。
 
 朝早く起きて、夜は遅くならないよう気をつける。
 どうしても計画が崩れてきそうだったら、
 少しだけ気持ち早めに寝て、早起きする。
 そして朝やる。
 杉本のアドバイスだった。

「寝てる間に、寝る前のことが強く記憶されるらしい。」

 と杉本は言う。
 睡眠を挟むと、暗記の定着が深まるというのだ。

「寝る前にスマホ触って動画見てたら、
 覚えた事台無し。勿体無いからすんなよ。」
 と言われたので、
 それは別にしてないと答えた。

 けどかわりに、最近俺が寝る前に布団の中で考えているのは結城さんのことばかり。
 毎日結城さんへの気持ちが上書きされ、
 その度に強化されているようなものだが、
 それは大丈夫なんだろうか……。

 本当はすぐにでも会いに行きたい。
 もっと話したい。
 ずっとあの場所にいたい。
 
 だって、帰り際にあんなに寂しそうにしていた。

 いつ来るとも知れない俺を、あの人は昨日も今日も待っているかもしれない。小さい古本屋はきっとお客さんなんて来ないだろう。一人で、モモとだけ喋って、あんなところに引きこもっていたら、そのうち結城さんはどうにかなってしまうんじゃないか。
 
 そう思うと居ても立っても居られない気持ちになる。

 けど、あの場所に行きたい本当の理由は、逃げだ。
 勉強からの。
 落ち着くし、癒されるし、心がほぐれる。
 いろんな嫌なことがどうでもよくなってしまう。

 それは、本来は悪いことではないのだろうけど、
 今に限って言えば、あまりよくない事だというのはわかる。
 
 嫌な事を忘れてしまえるのなら、
 きっと真っ先に、受験の事を忘れてしまうだろう。
 逃げるのなんて簡単だ。
 それは、非常によろしくない。
 
 そんな気持ちで結城さんに会いに行くのは、嫌だった。
 目の前のことから逃げた情けない男だと思われたくない。少しくらい寂しくても、頑張ってやり遂げる人だと思われたかった。ただ思われるだけでなく、実際にそんな人になりたかった。
 
 結城さんに、好かれたかったから。
 だから、読み終わったエッセイもまだ返しに行けていない。

 模試でA判定が取れたら、必ず会いに行こう。
 逃避のためではなくて、
 頑張ったことの報告のために。

 ――合格したらこれやろうっていうのがあると、やる気アップだね。

 結城さんだってそう言っていた。

 絶対にA判定を取る。第一志望を野山高校にして。

 *
 
「俺はまあ、湯浅でA出したけど?」
 だから、余裕な笑みで、ペラっと模試の結果を見せる杉本には完全に負けた気がしたけど、自分の結果には大いに満足している。

「俺もA。野山だけど。」
 欄を埋めるために第3志望に書いた湯浅はC判定。
 青陵はB。
 見事なABCだ。
 
「ま、野山も十分レベル高いから。」
 と、自分の言葉に少し気をつけ始めた杉本は、それでも時々ぽろっと言ってしまう「心無い言葉」に自分で少し焦って、取り繕うように言った。
 
 別に今のはそこまで嫌な言い方じゃないし、
 むしろ杉本らしくていいと思う。

「気にしてねーよ。」
 ポン、と肩に手を置くと、
「何がだよ。」
 と照れ隠しなのか、少し拗ねたように口を尖らせた。
 
 その耳に、鈍く光るもの。

 土日、塾に私服で来る杉本の、その耳についているのは樹脂ピアスではなく、金属のものになっていた。
 ピンの部分以外は黒いリングになっていて、直径1センチほどの少し小ぶりなものだ。

「あ、それ買ったの?」
「……貰った。」
「誰に?お母さん?」
 ブフッ!と杉本は噴き出した。
 
「オカンからピアス貰いたくねーわ。」
「えっ!彼女いたっけ。」
「出来た。」

 俺は声にも出せないで、口を開けて驚いた。

「え、なんで?誰?どこの?いつ?」
「5W1Hみたいに言うなよ……。
 貰ったのは10月くらいだよ。
 付き合ったのは……ん?いつだ?先週?2週間前?」
「順番おかしくない?貰ってから付き合ったってこと?」

 いやそれがさ、と杉本は説明し出した。
 
「ピアスやるって言われて、なんで?って聞いたら
 好きだって言われて、んで貰って。
 しばらくしてから、あのピアス受け取ったんなら付き合えって言われて、はい、みたいな。」

 な、なんだそれ。
 相手の言い分もよく分からないが、受け入れる杉本もわからない。
 けど、それでも付き合う事にしたのならお互い悪からず思っているということだろう。そうでないならおかしい。

「誰?クラスは?」
「学校のやつじゃなくて、えっと……。
 よく電車で同じになるヤツで。」

 他校か。
 電車で一緒になったくらいで、付き合うまで持っていけるのか。

「すごいなお前。」
「でも勉強忙しいからほぼ遊んでない。
 スマホも触ってないから連絡もしてない。」
「まあそりゃそうなるな。」
 少し相手が可哀想だけど、
 受験生にコクるというのはそういう事だ。

 駅に着いたので、杉本と手を振って別れる。
 俺たちは上りと下りで別々の方向に帰る。

 シートが空いていないので、出入り口に立って、
 流れる景色を見る。
 一定のリズムで振動を感じながら、ポールに捉まる。
 
 ドアの窓ガラスに自分の顔が映る。
 その耳を、触ってみる。

 もし、合格する前に勝手に開けたら、結城さんは怒るかな。呆れるかな。開けちゃったの?って、心配するかな。
 そんな事をふと考えた。



 地元の駅に降りると少し緊張した。
 
 2週間と少し。
 長かった。
 けどそのお陰で勉強は頑張れたし、結果も出た。
 
 あとは本を返して、A判定でした、って報告して、少しだけ喋って……。すぐ帰ったらまた寂しがるかな。今日くらいは少しくらい長居してもいいかな。模試のいい結果が出たばっかりなんだし。

 引き戸は容易く開いた。カラカラカラ、と乾いた音をたてて。

「こんにちは。」

 一歩踏み入れると、ほこりっぽい紙の匂い。
 
 売れずにいつまでも取り残されている古い本が、この場所で長年耐えて、積み重なった1日1日。その月日の重みと同じだけ苦しいような、懐かしいような、厚みのある、少し古ぼけた空気感。
 古本屋独特の匂い。
 その雰囲気が、結城さんの柔らかさや、理知的な雰囲気と馴染んで、好きだった。

 けれど、今日は奥からやって来ない。
 律ちゃん。と飛んで出てくるかと思ったのに。
 でもドアは開いていたから、中には居るはずだ。

「お邪魔します。」

 一歩、中に入る。
 最初に来た時も、次に来た時も、すぐに奥の部屋に通されたから、売り物のこれら古本をじっくりと見たことはなかった。

 どの本も、色合いが落ち着いている。
 全体的にベージュ。茶色。或いは深い朱。濃い緑。
 カラフルな現代的な背表紙はあまり見られない。
 年代物の本は、背表紙が豪華だ。
 紙ではない。布だ。本に布が貼ってある。
 読めそうもないので手には取らない。
 ……読めそうだからと手にする人は、
 逆にどれだけいるのだろう。

 目を滑らせながら、店の奥まで進む。
 すると、レジの横の一角の本棚一帯だけが、他のものと比べてやや色合いが豊富なのに気がついた。
 
 背が低い棚に敷き詰められているのは絵本。
 
 しゃがんで、指でなぞる。
 
 他の本棚と違い、このエリアは年代が新しい。
 古いものには違いないが、何十年と経っているような、あっちの歴代の本の群れとは、明らかに手触りが違う。
 表面がつるっとしていて、そこまで埃っぽくない。

 『ぐりとぐら』
 『どうぞのいす』

 なんとなく知っている。

 『わんぱくだん』

 読んだことがあるかもしれない。

 『どろぼうがっこう』

 これは知らないな……。
 そのタイトルのおかしさ、可愛らしさに、ふと手を伸ばしたところで、奥の扉がカタンと鳴って、結城さんが顔を出した。

「律ちゃん。」
「あ、こんにちは。」

 小上がりに立つ結城さんは驚いた様子で、絵本の棚の前でしゃがみ込む俺を見下ろしている。
 何となく、悪さを見つかったような心地がして、俺はサッと立ち上がり、リュックから借りた本を出した。

「あの、ありがとうございました。これ。
 返すの遅れちゃって……。」

「あ、ああ、うん。いいんだよいつでも。」
 
 いつも、――と言っても会うのはこれで3回目だけど――、会えばいつでも笑顔でにこにこと迎え入れてくれたのに、この時は様子が違っていた。
 存在が虚で、目の焦点が彷徨っていて、俺を見ているようで、どこか違うところを見ているみたいだった。

「じゃ、失礼します……。」
「えっ。」

 笑顔がない、愛想もない。
 迷惑だったかな。こんな中学生が、結城さんみたいな大人の冗談を、間に受けて。読んだら返しに来てねと言うのを、俺に会うための口実だなんて都合よく受け取って、恥ずかしい。
 そう思って、傷つきたくなくて、だから帰ろうとした。

 なのに、結城さんはそれだけでもう、
 目に涙をいっぱい溜めて、

「うん。」

 と静かに言うので、そんな風に泣かれて、帰れるわけがなくて、だから俺は、モモは元気ですか、と聞いた。

「モモに会ってもいいですか。」

 結城さんはそっと目頭で涙を抑えて、いいよ、と言った。