4.15年間
「で、買ったのがこれ?」
 結城さんの白い手に収まっているのは、塾からの帰りに早速買ったピアッサーだ。

「そっかぁ、もうそういうお年頃かあ。」
 と結城さんはにこにこして、
 それをテーブルに伏せて戻した。
 
 結城さんの言葉の端に、
 少しだけ何かの違和感があった気がしたが、
 その正体までは分からなかった。

 忘れた傘を取りに、ここには昨日の夕方来るつもりだった。晴れていたし、夕飯の前に少し寄るだけなら時間もそうとられない。
 けれど、鍵が固く閉まっており、内側には灰色のカーテンがぴっちりかかっていた。傘は中にしまってくれたのかな。とそのまま帰った。
 
 会えなくて、残念だった。
 また来てねって言ったくせに、とどこか裏切られたような気分に勝手になってしまい、そんな自分を自分でも馬鹿だなと思った。

 日曜の今日、午前の勉強の予定が早めに済んだので、散歩のつもりで昼前に家を出て、『柴崎書店』に遊びに来た。もちろん、傘を取りにくると言う名目のためだ。
 今日は開いていたのでほっとした。

 戸を開けて、傘を……と言い出す前に、結城さんはにこにこと奥から出て来た。

「いらっしゃい律ちゃん!」

 そう言って、よく来たねと手招きし、奥の部屋へ入れてくれた。
 
 俺は何故かそれを当然のように受け取って、
 懐かしいような、馴染みの家に遊びに来たような
 そんな感覚で靴を脱いだのだった。

 向かいに座った今日の結城さんは、黒のニットを着ている。細かい網目のタートルネックで、ゆったりとした身幅のものだ。下も黒っぽいパンツ。
 この前の白い可愛らしいニットも似合うけど、こんなシンプルな黒上下もまた雰囲気が一段と深まっていいなと思った。
 
「お母さんとかは、怒らないの?ピアス。」

 入れてくれたのは暖かいココア。
 結城さんも同じものを飲んでいる。

「うちの親は割とそういうの放任というか。
 ねぇ……姉が、あ、俺姉がいるんですけど。
 姉貴が高校入ってピアスした時も、へー、とかって。」
「今時なんだねぇ」
 膝に、重たそうな猫をのせて、時々撫でてやっている。

「結城さんは開けてないんですか?」
「僕?ピアス?開けてないよ。」
 と、ふわりとした軽そうな髪を両耳にかけて、耳をみせてくれた。柔らかくて少し広がりのある髪を、そうやって耳に収めたのを正面から見ると、少しスッキリした印象になった。
 
 髪をするりと撫で付ける細くて長い指や、露わになった首筋、そして何も傷がついていない白くて形の良い耳。
 
 何よりピアスだとかに、何も興味のなさそうな、そのゆったりとした態度。
 俺は急に、ピアスを開けたいと言う望み自体が、とても子供じみているように感じてしまって、
「野山だって校則厳しいから、多分開けないと思います。」
 と言い訳をした。

「ただ、何となくの約束っていうか。杉本との。」
「うん。合格したらこれやろうっていうのがあると、
 やる気アップだね。」
「そうなんです。それです。」

 ふふふ、と結城さんは笑って、猫を撫でた。

「あの。昨日来たんですけど締まってて。
 土曜日はやってないんですか?この店。」
 
 すると結城さんは少し驚いたように顔を上げた。
 
「え、ごめんね、来てくれてたの?」
「あ、え、あの、傘忘れてったから、塾の帰りだし、どうせ通り道だし。」
「そっか。ごめんね。
 昨日はちょっと病院にね、この子の。」
 
 この子、と言って撫でるのは膝に乗せた大きい猫。

「猫の?動物病院とかですか?」
「そう。モモって言うんだ。女の子。……おばあちゃんだね。」
 
「ナゥ」
 と、モモが声を出した。

「なんか、会話が通じているような……
 こっちの言うこと分かるんですか?」
「そうなんだよ。ね、モモ。分かるもんね?」

 アァ、と返事をして、それから大きなあくびをした。

「見た?」
 え?、と聞くと、
「舌。可愛いピンクだったでしょ。だからモモって言うんだって。」
「へー……。」
 猫の舌って大体そうなんじゃないかと思ったけど、つっこまないでおいた。

 モモは結城さんの膝の上で何度か体勢を変えてから、頭を下ろして目を閉じた。横腹がくうくうと膨らんで、そのうち穏やかな寝息をたて始めた。

 結城さんは俯いてモモの首を撫でた。
 口元は柔らかく微笑んでいた。

「もう、14歳なんだ。」
「いえ、15です。」

 結城さんは顔を上げて、キョトンとした。

「あ、ごめん、律ちゃんは15歳だったね。」

 俺のことを、「律くん」ではなく「律ちゃん」と、結城さんはいつのまにか呼ぶようになった。

「モモがね。14歳でね。」
「あ、猫が、いえ、モモが。」
「そう。君が一歳の時に……この子は生まれたんだね。」
「そうなりますね。」
 この時はそれがただの計算かと思った。

「だいぶおばあちゃんだから、ちょっと昨日は体調崩しちゃって、病院連れてったの。だから、居なくてごめんね。」
「いえ。14歳でおばあちゃんて、なんか凄いですね。」
「時が経つのは早いね。」

 結城さんはどうしてだか寂しそうで、泣きそうになっているようで、目が赤くなっていた。
 
 猫の寿命のことはよく知らないけど、おばあちゃん猫ということは、この先そんなに長くは生きられないのかもしれない。病院に行くほどだから、それで、結城さんは心を痛めているのかもしれない。

 大きく太って、暖かい場所で、
 毎日寝て過ごす、おばあちゃんのモモ。

「モモは、いいな。」
 
「何故?」

 だって。
 食べて、寝て、結城さんの膝でくつろいで、甘えて。
 それが許されている。

 そんな事を言ったら、結城さんの飼い猫に嫉妬しているみたいで、みっともないから言えない。

「……大事に飼われてるから。」

「律ちゃんだって大事に育てられてるでしょう。」

「そうかなぁ。」
「そうだよ。
 でなきゃ親御さん、塾なんか行かせないよ。」
「そうかなあ?」
「そうだよ。」

 君は、15年間、大事に育てられてきたんですよ。
 とにこやかに言う結城さんだけど、冗談とか茶化すような様子は一つとなく、目の奥の光がとても真剣に見えた。

「あ、律ちゃんお昼まだだよね?」
 すっと立ち上がり、冷蔵庫に手をかけようとするので、
 俺は流石にそれはと思って断り、
 すぐお暇することにした。

「忙しいもんね。」
 受験生の山場だもんね。
 そう言って俺の帰宅を受け入れようとする結城さんは、建前ではなくて本心から残念がっているようだった。

 結城さんは俺が帰ろうとする時
 とても哀しそうにするので
 やっぱり俺は、モモが羨ましいと思った。

 そんな風にする結城さんのそばに、
 モモなら居てあげられるから。

 書店のドアから出ようとすると、結城さんが一つの本を俺に持たせた。

「え、何ですか?」

「読んだら返してね。」
 と言った。
 
 それは、俺を帰したくない結城さんの、
 唯一のわがままのような、
 こじつけのような、
 言い訳なのだと分かって、苦しくなった。

 俺は、はい、としか言えなかった。

「君はモモが羨ましいと言ったけど。」
 と、
 店の前まで俺と一緒に出てきた結城さんは
 こう言った。

「僕は君のご両親が羨ましいよ。」

 俺は何と返したらいいか分からず、「いや俺の親は大したアレじゃないんで」と特に意味のない親下げ発言をしてしまった。

 手を振って、角を曲がるまで
 ずっと結城さんは見送ってくれている。
 
 昼下がりは、久しぶりに暖かい日差しがさして、
 気持ちの良い気候だった。
 
 それだけに、別れ際の結城さんの寂しげな様子が
 いつまでも胸に残った。