3.志望校
 俺の通う藤山大学附属中は大体が県内御三家の高校を受験する。
 
 土曜日の昼、塾の自習室で弁当をつついていると、
 杉本の耳たぶに小さな半透明の樹脂ピアスがついているのに気が付いた。
 
「げ、いいのかよ。」

 午後からの授業の前に、朝からここに来るのが杉本とのお決まりになっている。
 杉本の明るい髪色は、結城さんとは違って自分で染めたものだ。
 杉本は菓子パンをくわえて、
「湯浅の『ゆ』は、ゆるいの『ゆ』」
 と、左右の耳を滑稽にひっぱる。
 
 すこし赤く腫れているようだが、それにも増して浮かれている。
 両耳に開いたピアスの穴。
 いつの間に開けたんだと聞けば、昨日の夜らしい。

「いや、俺もね?開けるんなら、ホントは合格してからのつもりだったんだけどさぁ。」
 
 杉本の志望校である湯浅学院は、御三家の一つであるが、その中で最も毛色が変わっている。
 
 普通科と芸術科がある。
 制服もない。髪型や髪色は自己判断。
 髪を染め耳に穴が開いているという、ただそれだで注意されたりはしない。
 ただ、なによりまず難易度がずば抜けて高い。
 自由な校風の噂だけを聞きつけて憧れる者も中にはいるが、安易には目指せない狭き門なのだ。

「いいなあ。」
 土曜日の杉本は、ピアスを開けただけでなく、どこで買ったんだよと聞きたいような少しおしゃれな私服を着ている。髪型もセットしたのかいつもより都会的になっていて、得意気だった。
 しかも、いつものような嫌味を言ってこない。こっちのテキストの進度について以前のように変にマウントをとったりせず、ただの素直な友人として接してくれる、そんな余裕さえあった。

 ピアスの効果で人間性まで落ち着くんだろうか。
 少し大人びて見えるのが羨ましい。
 
「じゃ、進堂も湯浅ってことで!」

 杉本はそう言ってポンと肩に手を置いて、軽く笑う。
 
「いやいや、無理だって。」
 
 そう言ってくれるのはありがたいが、今更学力も及ばないし、多分そう言う校風に自分は合ってない気がする。

「やっぱ野山一択なの?」
 野山高校は、駅から少し離れた郊外にある、県内で一番古い伝統のある高校だ。
 
「……一応。」
 御三家第2位の青綾高校を目指した時もあったが、模試の合格判定がいつもギリギリなのと、通学に距離があるため、もう3位の野山にしようと親とも話して決めたのだ。
 野山だって十分レベルが高い。

「青綾は?」
「それも無理だよ。もういいだろ。」
 と少しだけ強く言って弁当箱の蓋をしめると、それ以上言ってくることはなかった。

 ピアスだろうと染髪だろうと、
 湯浅だろうと青綾だろうと、俺には無縁だ。

 夕方まで授業を受け、駅まで2人で歩く。
 昨日と違って晴れている。
 地面は少しだけまだ湿っているが、濡れるほどではない。
 週に3度、何度も何度もこの道を2人で通った。
 寒い日も暑い日も。仲の良い日も、喧嘩した日も。
 そのどれも、いつかいい思い出だったと思いたい。
 そう思えるなら、どんな事も無駄じゃない。
 いつか、この日を懐かしむ時が来るんだろうか、と真っ赤な夕日を見て思った。

「野山もいい学校だよ。」
 と唐突に杉本が言う。
 え?と聞き返すと、どうやら昼間の話の続きらしい。

「うちのアニキが行ってたから。
 部活とかみんな楽しそうだった。
 ダンス部もあるって。……まあそれは女子ばっかだけど。
 あと、なんだっけ、レゴじゃねーや、ほら、
 あのー、電車とか人とかの小さいやつで、
 建物とか、川とか橋とか……。」
「ああ、ジオラマ?」
「そうそれ!ジオラマ!ジオラマ部がすげーらしい。
 見たことないけど。」
 と、杉本は少しこちらの様子を伺うように、笑った。

「見てないんかい。」
 と返すと、ぎこちない空気が少し消えて、二人で笑えた。きっと来る。他愛もないこんな今日を懐かしいと思う日が。
 
 杉本は杉本なりに俺に気を遣っている。
 元々違う小学校出身で、お互い中学受験して藤山附属で友達になった。
 藤山附属は内部進学と外部受験生の人数が半々で、互いに決して仲が悪いと言うわけではないが、両者の間に少しだけ見えない壁がある。

 経済状況だったり、家族構成、親の仕事、長期休暇の過ごし方、普段の生活習慣。小さい頃から、当たり前のように積み重ねられたそれぞれの世界の「常識」の範囲。

 普通にしていれば交わることのなかった二つの文化が接し合うことで、「そんなの知らなかった」「そんなのやったことない」という事が増える。それがいい事なのかどうなのかは分からない。
 ともかく、遠い町の公立小から藤山附属に進学した者同士で、俺たちの間には、自然とお互いが馴染むような友情があった。

 そんな中で杉本は最初から飛び抜けていた。
 中1の初めての定期試験で杉本は総合1位。
 しかも2位以下に圧倒的な差をつけて。
 見たところガリ勉でもない。部活もやっているし、漫画もゲームも話題のものは一通り話が通じる程度には遊んでいる。話題についていけない俺とは違う。
 
 聞くと、中学受験の時は6年になってやっと塾に行き出したらしい。
「一応塾行ったほうがいいって親が言うから」
 一応じゃない。中受に塾は必須だ。
 傾向と対策を、課金して努力してやっと手にする者がほぼ全ての中、杉本はそのほとんどを既に自力でこなせていた。

 群を抜いて賢かった杉本だが、中3の春頃から少しずつ、荒れ始めた。
 まず髪を染めた。オシャレのためなのか、大人への反抗のためなのかは分からない。
 そして、人が変わったように、嫌な言葉、嫌味なマウントが増えて、友達が減った。
 公立小出身同士で気が合う友人だと、親友だと思っていたが、いつからか俺に対しても棘のある言葉を投げかけるようになった。
 けれど、向こうから接して来る回数が減るわけでもなく、避けられるわけでもなく、一緒に行動することには変わりがなかった。
 人が変わったような杉本だったが、徐々にそれが普通になっていて、俺も当たり前に受け止めて、流すようになっていた。

「野山は、プールの授業も無いらしい。
 プールだるいしラッキーじゃん。」
 と言ったので、へえ、と返すと、杉本は
「だから女子のは見れねーけど。」とニヤっとした。
 
「それ逆にいい所なのか微妙じゃね?」
「お?女子の水着にはさすがに興味ありますか?
 律くんまさかムッツリってやつですか?
 じゃあ湯浅に来ますか?」
「ちげーわ!」
 と、肩を軽く叩くと、杉本は「折れたぁ〜」と大袈裟に喚いたので、面白かった。

「……湯浅は授業でプールあんの?」
「あるよ。気になってんじゃん。来る?」
「行かねーよ。」

 今日に限って何故か嫌味らしい嫌味がなく、俺の志望校に対して何かとフォローしようとするのを見て、やっぱりこっちの杉本の方が元々の姿なんだと改めて分かった。
 
 俺は杉本から、いくら傷つくような事や嫌なことを言われても、何故か友達をやめようとは思わなかった。
 その理由を考えたことはなかったが、今何となく分かった気がした。俺は、元々の「素直だった時のこいつ」こそが、本当の杉本だと無意識に信じていたのかもしれない。

「ピアス痛かった?」
「……全然?」

 耳たぶが赤く腫れて、今日だけで何度も触ったり掻いたりしている。

「いや絶対痛いでしょ。」
 
 強い夕陽が長く差し込んで、
 杉本の明るい髪を燃えるように染めた。

 昨日の夜、衝動的にピアスを開けたと言う杉本。
 その顔は、やってやったというように晴々としている。
 けれどその笑顔が、どこか痛々しい。
 耳たぶの真新しい傷口のせいだけではないだろう。
 
「開けたい?やってやろうか?」
「うーん。合格したら、かな。」

 あと単純に、杉本が何を言ってきても、
 学年で1番賢く1番面白い魅力的な友人の、
 その親友という特別な地位を
 俺が手離したくなかったからだ。