20.本屋の結城さん
「あんたこれ、ほら。」
母親は小綺麗な紙袋を俺に押し付けた。
「なに。」
「柴崎さんに渡して。」
柴崎書店の店主は柴崎さんじゃなくて結城さんなのだが、母は頑なに柴崎さんと言う。
「結城さんに?なに?」
「内祝い。」
「ってなに?」
「うるさいわねーいちいち。調べなさいよ自分で。」
入学式から帰宅すると、上着も脱がずに母がその紙袋を俺に渡して、結城さんに届けろと言う。
そして言われた通り、内祝い、とスマホで検索する。
『内祝い――
家族の慶事に際し親しい周囲の人たちとそのお祝いを感謝を込めて分かち合う贈り物のこと。』
「ああ。なるほど。」
「本屋の柴崎さんに貰ったでしょ、お饅頭。ちゃんとお礼言いなさいよ。」
と、母は慌ただしく出て行った。午後からまた仕事である。
「本屋の結城さんだっての。」
と呟いた声はそれでも楽しげに1人のリビングに響いた。
暖かい日差しと、冷たい風の混ざる季節の変わり目に、俺は新しい制服に袖を通して駅前の通りを歩いた。
入学式で付けてもらった赤い花の胸章をそのままにして歩くのは少し恥ずかしいが、それも結城さんに見せたかった。
柴崎書店までは家から徒歩8分。隣近所というほどではないが、徒歩圏内の距離にある。
その日珍しく、結城さんは店の前に出ていた。
いつもは店の奥の薄暗い部屋に引きこもって、誰かが入ってきても返事もしないくらいなのに、珍しいなと思った。
店舗の入り口にいくつか鉢植えが並んでいる。
チューリップ、パンジー、ビオラ……。
そして腰ほどの高さの何かの「木」の鉢植え。
「花たくさんですね。」
としゃがんだ背中に声をかけると、ぱっと見上げるその顔が、手元のカラフルな花と馴染んでいた。
「律ちゃん!入学おめでとう!」
とハグをされた。
この髪と首の辺りからいつもふわっと漂う優しい匂いは、何だろう。シャンプー?
「店の前、春っぽくなりましたね。」
「なかなかいいでしょ。うわ律ちゃん……制服似合うねぇ……。」
と結城さんは少し腰を引いて、親指と人差し指を広げて作った両手のフレームの中から俺を見た。
「いや、地味な学ランなんで。」
藤山附属中の時はブレザーの制服だった。
野山高校は県内でも有数の進学校だが、歴史が古い分、昔から伝統のある詰襟の学生服だ。
「いやあかっこいいね!若者!そこ立って!」
花の寄せ植えと、小さめの樹木の鉢の横に立ち、言われるがまま笑顔を作る。が、なかなか撮らない。
どうしたのかなと思っていると
「……ちょっと聞きたいんだけど。」
「なんですか」
「今の子に1たす1は?って通じる……?」
ほんの少し不安そうにそう言うのが可笑しかった。
「ああ、俺は分かりますけど、他の子にはやめた方がいいですよ。親父が親戚の子にコテンパンにやられてました。」
「……お、おとうさん。なんてこった。
分かった、普通にするよ。」
「お願いします。」
「じゃ、撮るね!」
スマホの中をじっと見る結城さん。
レンズの中を俺は見つめていたつもりだけど、目線はカメラマンに留まって、少し視線のズレた写真が何枚か撮れた。
結城さんがお茶を淹れてくれている間に、俺は書店の中を見て回った。受験だ何だとゆっくり本棚を見て回ったことがなく、終わったら少し読書でもしたいと思っていたからだ。
何度見ても圧倒される本の量。
小説だろうと専門書だろうと、それぞれを、それぞれの専門家が、血肉を注いで書き上げた渾身の傑作なのだろう。そんなものが、何千と。一生かけても読み尽くせない先人の遺産。
読んでみたい。興味はある。これがダメとかいいとか、好みが特にあるわけじゃない。それだけに、何から読めばいいのかが、見当もつかない。
一冊一冊の分厚い本が群をなして、まるで学校の会議室にある歴代校長の肖像写真みたいなプレッシャーで、読め読め、と迫ってくる。心の中で、分かりました読みます、と返すのだが、厳つい背表紙の圧力に負けて手が出せない。
そして考えるのに疲れて、また今度、となるのだ。
「あの、えっと、これ。」
お茶が入ったよ、と声をかけてくれた結城さんに返事をして、奥の部屋へ入る。
「えーっと、……なんだっけ。親が。内祝い。そう、内祝いです。この前、お祝いありがとうございました。」
「ああ!いいのに、わざわざ。ご丁寧にありがとう。またお母さんによろしくね。」
そして、お持たせですが、とお茶の横に焼き菓子を添えてくれた。今結城さんに渡した内祝いの中から一つ取り出して。
「いただきます。」
部屋の中に、ペットシートはもうない。モモのケージもない。けれど、写真とモモのおもちゃが飾ってある。トイピアノの横に並んで、可愛らしく見守ってくれている。
少しづつ、時間が進んでいく。
店の前の植物も、単に春だからと言うより、結城さんなりの何か前向きな変化の兆しのように思えた。ゆっくりゆっくり、傷が癒やされたらいいと思う。
「律ちゃんがいてくれて良かった」
お茶を飲んで一息ついた時、脈絡なく結城さんはそう言った。
「え、そうですか。何もしてないですけど。」
何もしなくてもだよ、と結城さんは笑った。
「モモが居なくなって、どんなに寂しいかと思ってたけど……何かね、以外と生きていけるんだなって。悲しくてもお腹は空くし眠くなるし。ちゃんと生きてる。
でもこれ、1人だったらきっと耐えられなかったと思う。カビの生えた埃だらけの本の山の中で、1人で死んでたかもしれない。
律ちゃんのおかげで僕の今の毎日がある。
居てくれて本当にありがとう。」
そこで俺は「そんな。」と笑った。
真っ直ぐな感謝の言葉が照れ臭くて、というのと、どこか真実味のある切羽詰まった物言いと、その上にある「死」という言葉の実感から逃げたくて。
「大げさですよ。」
すると結城さんは視線を少しだけ漂わせて、
「ま、古本の中に埋もれたって死ねないか。あはは!」
と笑った。
俺は不意に涙が込み上げたので、それをぐっと押し下げて、理由もわからないまま反論した。
「笑ってほしくないです。」
「え。」
「死ぬって言葉を使って、笑って欲しくないです。やめてください。」
カチ、とお茶のカップを置く音が冷たく響いた。
「そうだね。ごめんね。僕が間違ってた。」
「いえ。俺にとっても結城さんは……」
大事な人なので、と続けようとして、違うだろ、と止めた。そんな「お友達」みたいな話をしに来たわけじゃないだろ。
「あ、いえ。ムキになってすいません。」
「ううん。今のは百パー僕が悪い。幾つになっても僕はダメだな。子供に怒られないと、分からないなんて。」
子供に。
子供って俺のことか。そっか。
「これからも、僕が何かこう……変な?今みたいに人としてそれはちょっと、って事があったらすぐ教えてね。僕ほんと、人に言わせると、常識がなくて、ダメなんだって。律ちゃんはしっかりしてるから、こんな大人になっちゃダメだよ。」
「俺結城さんが好きです。」
流石に目は見れなくて、目線をテーブルに落とす。
部屋が静まる。それまで調子良く喋っていた結城さんは一言も発しない。
「結城さんが、好きです。」
顔を上げて、目を見た。真っ直ぐ見た。
逃げないように。逃がさないように。
結城さんは目を大きくして、少し息を吸った。
そして吐いて、
「あの……間違いたくないから聞くね。
それは、僕も律ちゃんが好き、っていうその好きとは違う意味?」
「違うんですか?結城さんの好きはどういう意味のなんですか?」
そこでまた結城さんは一つ、大きく呼吸して、肩をこわばらせた。
「俺の好きがどんなんか教えましょうか?
結城さんのと手繋ぎたいし抱きしめたいし、キスとかそれ以上のことも勿論したいですよ。結城さんは?」
「……わ、」
結城さんは「わ」と言ったきり、ヘナヘナとテーブルに身を伏せた。
「若いって、すごい……。なんにも、怖くないんだ。」
と、何故か笑った。
口元が結城さんの綺麗な顔を歪ませるように、片方だけ引き攣っている。そんな表情を今まで一度も見たことがなくて、ぞわりとした。
「君が?僕を?好きなの?そんな風に?」
「知りませんでした?知ってるかと思ってました。」
負けたくない。そっちが俺を子供扱いしたんだろう。
だったらそうしてやる。聞き分けのいいフリはしない。
結城さんは腕を胸の前で組んで、足をクロスした。
「また僕、何か間違ったかな。」
と読めない目をして言う。
「君に何か勘違いさせるような何か……。君が、僕にそんな気持ちを持つなんて。
勘違いじゃないの?
よくあるだろ、教育実習生の先生に憧れを抱く女子とか、保健室の先生を好きになる男子とか。
ごめん、僕がきっとなにか、接し方を間違えてたんだ。君には、とっても大事な未来があって、そのスタートラインにちゃんと自分の力で辿り着いた。親御さんだって喜んだろうね。なのに、ああ、」
なんてことを……。
結城さんは頭を抱えた。
俺は、言い訳なのか贖罪なのか分からないその言い分を理解できなくて、咀嚼するように考えていた。
そして最後に、
「僕が君の未来の障害になるなら、僕はここには居られないじゃないか。」
と力無く、まるで絶望でもしているように嘆くので、俺は訳がわからなかった。
「結城さんがどうして俺の障害になるんですか。なる訳ないでしょ。」
「君はまだ若くて、だから怖いもの知らずで、それはすごく特別で素晴らしい権利なんだろうけど、その分、視野も狭い。
これから沢山の人と出会って、経験して、成長していくんだよ。僕なんかに構ってる場合じゃないよ。」
「誰と出会って、その人をどう思うか、それくらい自分で決めます。それが近所の本屋の人だってだけで、どうして俺の人生の障害になるのか理屈が分かりません。」
「分からない?それが視野が狭いって証拠だよ。」
「はい。若者の特権です。」
「開き直りか。それも君らしいね。けど、そうやって、」
「ついでに言いますね。」
俺が言葉を被せると、結城さんは少しだけ苛立ったように口を閉じた。
「自分が俺の障害になるんなら、ここに居られないって言いましたけど、そう思うならこの町を出ていったらどうです?ねえ、そんな事本気で考えてるんですか?」
何でそんな事を言うんだと、心底信じられないとでも言うように傷ついた顔をしたが、構わず続けた。
「俺は分かってますよ。結城さんにそんな事するつもりはない。というか、出来ない。」
「……どうしてそう思うのさ。」
「そんなの、結城さんが俺を必要としてるからに決まってます。
俺は絶対にそんなこと思いませんけど、じゃあ仮に、結城さんの言う通り、結城さんが俺の将来の何かの邪魔になるんだとしても……自分で去っていくなんて、あなたはそんな事出来ませんよ。
だって結城さんには俺が必要でしょ。その感情が何なのか、俺と同じ気持ちなのか、それはあえて言いませんけど、結城さんは多分俺から離れられないと思います。この町に居たいはずです。違いますか。」
息をつかずに一気にそう捲し立てると、結城さんは、いからせていた肩をシナシナと下ろして、身体いっぱいに膨らませていた威嚇的な空気が抜けたように、小さくなってしまった。
言い過ぎたかな。
でも、これくらい言わないと、伝わらないし、きっと逃げてしまう。
「……その通りだよ……。」
力の抜けた声に、少し罪悪感が湧いた。
「律ちゃんの、言う通り。そう、その通り。僕はもう律ちゃんがいないと多分生きていけない。それは理屈じゃない。理屈じゃないから、だから……どんな気持ちなのかの説明は出来ないよ。」
「俺と同じ気持ちじゃなくていいです。」
大人の狡さを攻めたり、弱さを攻撃したい訳じゃなくて、ただ気持ちを伝えたいだけだ。
困らせたい訳じゃない。それは本当だ。
「別に、結城さんをどうかしようって思ってないです。流石にそれは、ないです。ただ、気持ちを知って貰いたかっただけなんで。」
「どうかし……、律ちゃん。うん……。」
「あの。それがもし、俺がそんな気持ちで居るってだけで結城さんが困るんなら、ここに来るのやめます。」
「えっ。」
「あ、やめません。減らします。本は買いたいんです。」
「え、え〜〜困るな。」
「あ、困るんなら、もう……」
「あ、じゃなくて、来なくなったら、困るなぁって。」
でもなあ、僕にそんな気がないのにそうやって来てもいいよとかってのも、都合がいいって感じだよね。でもなー、そうすると律ちゃん来なくなるのか〜。
と、ブツブツ言っている。
「俺が来ないと困るんですか。」
「……うん。」
「来て欲しい?」
「来て欲しい!」
その声色は、必死な色が濃くなっている。
それで俺は十分に心が満たされて、優しくなって、幸せになった。
「じゃ、これからも来ます。」
結城さんは、ぱっと明るく笑った。
進展しねぇなー、と俺は自嘲しながらも、まあいいかと思った。
その後お茶を飲み干して、お菓子を食べて、少し雑談してから、本のことを聞いた。
読みたい気持ちはあるのに何を読んだらいいか分からないと。
「おすすめとかありますか?」
「ないんだよ。」
「ええ?」
思いっきり不満の声を出した。
「本屋なのに?」
「僕は、この本屋というよりも、モモの世話を頼まれてここに来ただけで本のことは分からないんだよ。ここに来て本を売った事なんか1冊か2冊くらいだよ。」
……そうじゃないかなあと思っていたけど、本当にそうだったとは。
「おすすめの本は分からないけど、律ちゃんの人生はこれからなんだから、その時その時で、興味が出てくるはずだし、焦らず読んでいけばいいと思うよ。
まあ、それまでは……、ありがちだけど、この辺り。読みやすそうなミステリー系とかはどうかな。」
「じゃあそれ買います。」
えー、と、結城さんは嫌な顔をした。
「律ちゃんからお金取れないよ。」
「じゃあ同級生に言いふらしますね。あそこで本ただで貰ったって。本好きの賢いやつらが押しかけますよ。」
「君は悪い子だな!」
結城さんは大笑いして、俺の肩を叩いた。
結城さんは仕方なく俺から数百円の本代を受けとって、俺に本を渡した。
「それじゃまた来ますね。」
「うん、また来てね。」
そう平和そうに手を振る結城さん。
背を向けた途端、血が一瞬熱くなって、いたずら心のフリをして勢いよく振り返った。
そして、ほんの数秒だけ腕の中に閉じ込めた。
けれど強い力を込めて、俺の気持ちが伝わるように、真剣な気持ちが伝わるように、祈りながら抱きしめた。
ぱっと腕から解放して、その顔も見ずに、そして俺も顔を見せられずに、走り出した。
頬も耳も熱い。
幸せで、嬉しくて、大好きな気持ちが抑えられない。
また来るとは言ったけど、どんな顔をしたらいいか分からない。
結城さんは、どう思っているだろう。
どんな反応をしただろう。
気になって一瞬だけ振り返った。
少し遠ざかった柴崎書店の店先に、結城さんはまだ佇んでいた。そして両手を、乙女のような仕草で頬にあてている。
俺は猛ダッシュした。
脈ありじゃねーかよ!
春の日に、飛び立っていきそうな力強い興奮と、喜びが溢れて、どこまでも走って行けそうだった。
「あんたこれ、ほら。」
母親は小綺麗な紙袋を俺に押し付けた。
「なに。」
「柴崎さんに渡して。」
柴崎書店の店主は柴崎さんじゃなくて結城さんなのだが、母は頑なに柴崎さんと言う。
「結城さんに?なに?」
「内祝い。」
「ってなに?」
「うるさいわねーいちいち。調べなさいよ自分で。」
入学式から帰宅すると、上着も脱がずに母がその紙袋を俺に渡して、結城さんに届けろと言う。
そして言われた通り、内祝い、とスマホで検索する。
『内祝い――
家族の慶事に際し親しい周囲の人たちとそのお祝いを感謝を込めて分かち合う贈り物のこと。』
「ああ。なるほど。」
「本屋の柴崎さんに貰ったでしょ、お饅頭。ちゃんとお礼言いなさいよ。」
と、母は慌ただしく出て行った。午後からまた仕事である。
「本屋の結城さんだっての。」
と呟いた声はそれでも楽しげに1人のリビングに響いた。
暖かい日差しと、冷たい風の混ざる季節の変わり目に、俺は新しい制服に袖を通して駅前の通りを歩いた。
入学式で付けてもらった赤い花の胸章をそのままにして歩くのは少し恥ずかしいが、それも結城さんに見せたかった。
柴崎書店までは家から徒歩8分。隣近所というほどではないが、徒歩圏内の距離にある。
その日珍しく、結城さんは店の前に出ていた。
いつもは店の奥の薄暗い部屋に引きこもって、誰かが入ってきても返事もしないくらいなのに、珍しいなと思った。
店舗の入り口にいくつか鉢植えが並んでいる。
チューリップ、パンジー、ビオラ……。
そして腰ほどの高さの何かの「木」の鉢植え。
「花たくさんですね。」
としゃがんだ背中に声をかけると、ぱっと見上げるその顔が、手元のカラフルな花と馴染んでいた。
「律ちゃん!入学おめでとう!」
とハグをされた。
この髪と首の辺りからいつもふわっと漂う優しい匂いは、何だろう。シャンプー?
「店の前、春っぽくなりましたね。」
「なかなかいいでしょ。うわ律ちゃん……制服似合うねぇ……。」
と結城さんは少し腰を引いて、親指と人差し指を広げて作った両手のフレームの中から俺を見た。
「いや、地味な学ランなんで。」
藤山附属中の時はブレザーの制服だった。
野山高校は県内でも有数の進学校だが、歴史が古い分、昔から伝統のある詰襟の学生服だ。
「いやあかっこいいね!若者!そこ立って!」
花の寄せ植えと、小さめの樹木の鉢の横に立ち、言われるがまま笑顔を作る。が、なかなか撮らない。
どうしたのかなと思っていると
「……ちょっと聞きたいんだけど。」
「なんですか」
「今の子に1たす1は?って通じる……?」
ほんの少し不安そうにそう言うのが可笑しかった。
「ああ、俺は分かりますけど、他の子にはやめた方がいいですよ。親父が親戚の子にコテンパンにやられてました。」
「……お、おとうさん。なんてこった。
分かった、普通にするよ。」
「お願いします。」
「じゃ、撮るね!」
スマホの中をじっと見る結城さん。
レンズの中を俺は見つめていたつもりだけど、目線はカメラマンに留まって、少し視線のズレた写真が何枚か撮れた。
結城さんがお茶を淹れてくれている間に、俺は書店の中を見て回った。受験だ何だとゆっくり本棚を見て回ったことがなく、終わったら少し読書でもしたいと思っていたからだ。
何度見ても圧倒される本の量。
小説だろうと専門書だろうと、それぞれを、それぞれの専門家が、血肉を注いで書き上げた渾身の傑作なのだろう。そんなものが、何千と。一生かけても読み尽くせない先人の遺産。
読んでみたい。興味はある。これがダメとかいいとか、好みが特にあるわけじゃない。それだけに、何から読めばいいのかが、見当もつかない。
一冊一冊の分厚い本が群をなして、まるで学校の会議室にある歴代校長の肖像写真みたいなプレッシャーで、読め読め、と迫ってくる。心の中で、分かりました読みます、と返すのだが、厳つい背表紙の圧力に負けて手が出せない。
そして考えるのに疲れて、また今度、となるのだ。
「あの、えっと、これ。」
お茶が入ったよ、と声をかけてくれた結城さんに返事をして、奥の部屋へ入る。
「えーっと、……なんだっけ。親が。内祝い。そう、内祝いです。この前、お祝いありがとうございました。」
「ああ!いいのに、わざわざ。ご丁寧にありがとう。またお母さんによろしくね。」
そして、お持たせですが、とお茶の横に焼き菓子を添えてくれた。今結城さんに渡した内祝いの中から一つ取り出して。
「いただきます。」
部屋の中に、ペットシートはもうない。モモのケージもない。けれど、写真とモモのおもちゃが飾ってある。トイピアノの横に並んで、可愛らしく見守ってくれている。
少しづつ、時間が進んでいく。
店の前の植物も、単に春だからと言うより、結城さんなりの何か前向きな変化の兆しのように思えた。ゆっくりゆっくり、傷が癒やされたらいいと思う。
「律ちゃんがいてくれて良かった」
お茶を飲んで一息ついた時、脈絡なく結城さんはそう言った。
「え、そうですか。何もしてないですけど。」
何もしなくてもだよ、と結城さんは笑った。
「モモが居なくなって、どんなに寂しいかと思ってたけど……何かね、以外と生きていけるんだなって。悲しくてもお腹は空くし眠くなるし。ちゃんと生きてる。
でもこれ、1人だったらきっと耐えられなかったと思う。カビの生えた埃だらけの本の山の中で、1人で死んでたかもしれない。
律ちゃんのおかげで僕の今の毎日がある。
居てくれて本当にありがとう。」
そこで俺は「そんな。」と笑った。
真っ直ぐな感謝の言葉が照れ臭くて、というのと、どこか真実味のある切羽詰まった物言いと、その上にある「死」という言葉の実感から逃げたくて。
「大げさですよ。」
すると結城さんは視線を少しだけ漂わせて、
「ま、古本の中に埋もれたって死ねないか。あはは!」
と笑った。
俺は不意に涙が込み上げたので、それをぐっと押し下げて、理由もわからないまま反論した。
「笑ってほしくないです。」
「え。」
「死ぬって言葉を使って、笑って欲しくないです。やめてください。」
カチ、とお茶のカップを置く音が冷たく響いた。
「そうだね。ごめんね。僕が間違ってた。」
「いえ。俺にとっても結城さんは……」
大事な人なので、と続けようとして、違うだろ、と止めた。そんな「お友達」みたいな話をしに来たわけじゃないだろ。
「あ、いえ。ムキになってすいません。」
「ううん。今のは百パー僕が悪い。幾つになっても僕はダメだな。子供に怒られないと、分からないなんて。」
子供に。
子供って俺のことか。そっか。
「これからも、僕が何かこう……変な?今みたいに人としてそれはちょっと、って事があったらすぐ教えてね。僕ほんと、人に言わせると、常識がなくて、ダメなんだって。律ちゃんはしっかりしてるから、こんな大人になっちゃダメだよ。」
「俺結城さんが好きです。」
流石に目は見れなくて、目線をテーブルに落とす。
部屋が静まる。それまで調子良く喋っていた結城さんは一言も発しない。
「結城さんが、好きです。」
顔を上げて、目を見た。真っ直ぐ見た。
逃げないように。逃がさないように。
結城さんは目を大きくして、少し息を吸った。
そして吐いて、
「あの……間違いたくないから聞くね。
それは、僕も律ちゃんが好き、っていうその好きとは違う意味?」
「違うんですか?結城さんの好きはどういう意味のなんですか?」
そこでまた結城さんは一つ、大きく呼吸して、肩をこわばらせた。
「俺の好きがどんなんか教えましょうか?
結城さんのと手繋ぎたいし抱きしめたいし、キスとかそれ以上のことも勿論したいですよ。結城さんは?」
「……わ、」
結城さんは「わ」と言ったきり、ヘナヘナとテーブルに身を伏せた。
「若いって、すごい……。なんにも、怖くないんだ。」
と、何故か笑った。
口元が結城さんの綺麗な顔を歪ませるように、片方だけ引き攣っている。そんな表情を今まで一度も見たことがなくて、ぞわりとした。
「君が?僕を?好きなの?そんな風に?」
「知りませんでした?知ってるかと思ってました。」
負けたくない。そっちが俺を子供扱いしたんだろう。
だったらそうしてやる。聞き分けのいいフリはしない。
結城さんは腕を胸の前で組んで、足をクロスした。
「また僕、何か間違ったかな。」
と読めない目をして言う。
「君に何か勘違いさせるような何か……。君が、僕にそんな気持ちを持つなんて。
勘違いじゃないの?
よくあるだろ、教育実習生の先生に憧れを抱く女子とか、保健室の先生を好きになる男子とか。
ごめん、僕がきっとなにか、接し方を間違えてたんだ。君には、とっても大事な未来があって、そのスタートラインにちゃんと自分の力で辿り着いた。親御さんだって喜んだろうね。なのに、ああ、」
なんてことを……。
結城さんは頭を抱えた。
俺は、言い訳なのか贖罪なのか分からないその言い分を理解できなくて、咀嚼するように考えていた。
そして最後に、
「僕が君の未来の障害になるなら、僕はここには居られないじゃないか。」
と力無く、まるで絶望でもしているように嘆くので、俺は訳がわからなかった。
「結城さんがどうして俺の障害になるんですか。なる訳ないでしょ。」
「君はまだ若くて、だから怖いもの知らずで、それはすごく特別で素晴らしい権利なんだろうけど、その分、視野も狭い。
これから沢山の人と出会って、経験して、成長していくんだよ。僕なんかに構ってる場合じゃないよ。」
「誰と出会って、その人をどう思うか、それくらい自分で決めます。それが近所の本屋の人だってだけで、どうして俺の人生の障害になるのか理屈が分かりません。」
「分からない?それが視野が狭いって証拠だよ。」
「はい。若者の特権です。」
「開き直りか。それも君らしいね。けど、そうやって、」
「ついでに言いますね。」
俺が言葉を被せると、結城さんは少しだけ苛立ったように口を閉じた。
「自分が俺の障害になるんなら、ここに居られないって言いましたけど、そう思うならこの町を出ていったらどうです?ねえ、そんな事本気で考えてるんですか?」
何でそんな事を言うんだと、心底信じられないとでも言うように傷ついた顔をしたが、構わず続けた。
「俺は分かってますよ。結城さんにそんな事するつもりはない。というか、出来ない。」
「……どうしてそう思うのさ。」
「そんなの、結城さんが俺を必要としてるからに決まってます。
俺は絶対にそんなこと思いませんけど、じゃあ仮に、結城さんの言う通り、結城さんが俺の将来の何かの邪魔になるんだとしても……自分で去っていくなんて、あなたはそんな事出来ませんよ。
だって結城さんには俺が必要でしょ。その感情が何なのか、俺と同じ気持ちなのか、それはあえて言いませんけど、結城さんは多分俺から離れられないと思います。この町に居たいはずです。違いますか。」
息をつかずに一気にそう捲し立てると、結城さんは、いからせていた肩をシナシナと下ろして、身体いっぱいに膨らませていた威嚇的な空気が抜けたように、小さくなってしまった。
言い過ぎたかな。
でも、これくらい言わないと、伝わらないし、きっと逃げてしまう。
「……その通りだよ……。」
力の抜けた声に、少し罪悪感が湧いた。
「律ちゃんの、言う通り。そう、その通り。僕はもう律ちゃんがいないと多分生きていけない。それは理屈じゃない。理屈じゃないから、だから……どんな気持ちなのかの説明は出来ないよ。」
「俺と同じ気持ちじゃなくていいです。」
大人の狡さを攻めたり、弱さを攻撃したい訳じゃなくて、ただ気持ちを伝えたいだけだ。
困らせたい訳じゃない。それは本当だ。
「別に、結城さんをどうかしようって思ってないです。流石にそれは、ないです。ただ、気持ちを知って貰いたかっただけなんで。」
「どうかし……、律ちゃん。うん……。」
「あの。それがもし、俺がそんな気持ちで居るってだけで結城さんが困るんなら、ここに来るのやめます。」
「えっ。」
「あ、やめません。減らします。本は買いたいんです。」
「え、え〜〜困るな。」
「あ、困るんなら、もう……」
「あ、じゃなくて、来なくなったら、困るなぁって。」
でもなあ、僕にそんな気がないのにそうやって来てもいいよとかってのも、都合がいいって感じだよね。でもなー、そうすると律ちゃん来なくなるのか〜。
と、ブツブツ言っている。
「俺が来ないと困るんですか。」
「……うん。」
「来て欲しい?」
「来て欲しい!」
その声色は、必死な色が濃くなっている。
それで俺は十分に心が満たされて、優しくなって、幸せになった。
「じゃ、これからも来ます。」
結城さんは、ぱっと明るく笑った。
進展しねぇなー、と俺は自嘲しながらも、まあいいかと思った。
その後お茶を飲み干して、お菓子を食べて、少し雑談してから、本のことを聞いた。
読みたい気持ちはあるのに何を読んだらいいか分からないと。
「おすすめとかありますか?」
「ないんだよ。」
「ええ?」
思いっきり不満の声を出した。
「本屋なのに?」
「僕は、この本屋というよりも、モモの世話を頼まれてここに来ただけで本のことは分からないんだよ。ここに来て本を売った事なんか1冊か2冊くらいだよ。」
……そうじゃないかなあと思っていたけど、本当にそうだったとは。
「おすすめの本は分からないけど、律ちゃんの人生はこれからなんだから、その時その時で、興味が出てくるはずだし、焦らず読んでいけばいいと思うよ。
まあ、それまでは……、ありがちだけど、この辺り。読みやすそうなミステリー系とかはどうかな。」
「じゃあそれ買います。」
えー、と、結城さんは嫌な顔をした。
「律ちゃんからお金取れないよ。」
「じゃあ同級生に言いふらしますね。あそこで本ただで貰ったって。本好きの賢いやつらが押しかけますよ。」
「君は悪い子だな!」
結城さんは大笑いして、俺の肩を叩いた。
結城さんは仕方なく俺から数百円の本代を受けとって、俺に本を渡した。
「それじゃまた来ますね。」
「うん、また来てね。」
そう平和そうに手を振る結城さん。
背を向けた途端、血が一瞬熱くなって、いたずら心のフリをして勢いよく振り返った。
そして、ほんの数秒だけ腕の中に閉じ込めた。
けれど強い力を込めて、俺の気持ちが伝わるように、真剣な気持ちが伝わるように、祈りながら抱きしめた。
ぱっと腕から解放して、その顔も見ずに、そして俺も顔を見せられずに、走り出した。
頬も耳も熱い。
幸せで、嬉しくて、大好きな気持ちが抑えられない。
また来るとは言ったけど、どんな顔をしたらいいか分からない。
結城さんは、どう思っているだろう。
どんな反応をしただろう。
気になって一瞬だけ振り返った。
少し遠ざかった柴崎書店の店先に、結城さんはまだ佇んでいた。そして両手を、乙女のような仕草で頬にあてている。
俺は猛ダッシュした。
脈ありじゃねーかよ!
春の日に、飛び立っていきそうな力強い興奮と、喜びが溢れて、どこまでも走って行けそうだった。
