2.また来てね
コーヒーを飲み終えて店を出ると、既に地面が白く覆われていた。
「こっち。」
本屋の裏に、一台分の駐車スペースがあった。そこに、アイボリーの軽自動車が停められている。
「ベルトした?」
結城さん――と名乗るこの人は、あの謎の古本屋『柴崎書店』のオーナーらしい。ぱっと見は大学生くらいの「お兄さん」なのだが、実際はもう少し大人なんだろう。
「はい。……すみません。」
「夜だし、雪も降ってるし、ゆっくり行くね。」
と言って、結城さんはハンドルを回転させ、発進した。
窓の横をチラチラと白いものが降りていく。
参考書を買い忘れたこと。それで本屋に行こうと駅に向かっていた時に、偶々この店を見かけたこと。それを伝えると、結城さんは送っていくよと言ってくれた。
断ると、こんな遅い時間に中学生を放り出すなんて、心配で眠れなくなる、と頑なに譲らなかった。俺も、寒いし濡れたくないしで、結局、その親切に甘えることにした。
「いいのかな?
知らない人の車に乗らないようにって、
教わらなかった?」
と、赤信号で止まった時に結城さんがそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑うのだ。
「いえ、別にそんなことは。」
無いと思う。
無いとは思うが、もしかして?
と一瞬よぎったところで、はい、と差し出されたのは運転免許証。
綺麗な薄い爪が、細い指の先でほんのり桃色に見えた。
「身分確かな、しがない古本屋の店主です。」
青信号になり、結城さんはゆっくりとアクセルを踏む。
『 結城 薫 』
「ゆうき、かおるさん?」
「はい。」
『生年月日 昭和…年』
「え。昭和?」
「はい。」
「……えっと、だから、よん……?んん?」
「計算が遅いよ受験生?40歳。」
「よ、よん?よんじゅう?」
声がひっくり返った。
「嘘だ!全然見えません!」
「はい。あのー。そんな驚きすぎるのも、
ちょっとだけ傷つくっていうか……。」
「だって、俺の親と同じくらいです。
親は確か43って言ってました。」
「中3だよね。まあそれくらいだろうね。」
結城さんは、それスマホで写真撮っときな、と言った。
「この免許証を?え、なんでですか?」
自分がどこの誰で、どうして君を車に乗せているのか。誰かに何か聞かれたら、近所の本屋の人だってそれ見せて言いな。
「時代も時代だしね。面倒が起きないように。」
そう結城さんは言う。
面倒か。
不審者と思われたら、確かに結城さんに迷惑がかかる。
大人なんだ。
正しい対応かもしれないが、そんなことしないのに、と思った。疑われて困ることなんかないはずだ。必要はない。けれど結城さんがそうしてくれと言うなら、と思って写真に撮った。
写真写りもいい。
――けど、
ちらりと運転するその横顔を見る。
実物は綺麗すぎる。
どう見ても大学生くらいのお兄さんに見える。頑張って見ても、去年の正月の集まりで見た、社会人なったばかりという親戚の人と同じくらいにしか見えない。
「着いたよ。買っておいで。」
電車で本屋まで行くと言ったら、結城さんが、ついでだから本屋も寄ってあげる、と乗せてくれたのだ。
車で待たせるのも悪いので、目当てのものを素早く買った。駐車場に戻ると結城さんは、もう一度親に連絡するように言った。
「あと30分くらいで着くと思うから、そう伝えなさい。
雪道だから少しゆっくり行くからね。」
「はい。ありがとうございます。」
地元の町まで来ると、口頭で道案内をした。
あ、ここね、と曲がった先に、うちがある。
「その看板のところで停めて貰えば、」
と言ったけど、結城さんは降りて玄関まで付いて来た。そして、商店街の柴崎書店の者です、と親に挨拶をした。
「参考書を探しにウチに来られたんですが、全身濡れてたんで、風邪引くと思って……。」
リビングから現れたのは寝巻き姿のだらしのないオヤジ。体型から佇まいまで、結城さんと同年代とは思えない。全く……。
「余計なお世話だと思いましたが、上着だけでもと乾かしてたんです。それで余計に遅くなりました。ご心配おかけしました。」
と、結城さんは丁寧に頭を下げた。
母はその時、呑気に入浴中で、代わりに既に帰宅していた父親が出た。父親は、いつも俺が塾で遅くなるのを知っているし、今日だけ特別息子の帰りが遅いとか、それが心配とか、あまり頓着しておらず、むしろ結城さんの真摯な様子に逆に恐縮してしまった。
だけでなく、結城さんのあまりの物腰の柔らかさや、洗練された振る舞いに狼狽えて「ああ」とか「いえ」とか「そんな、」とか言っていた。
俺は車に乗り込む結城さんに、気をつけて、と言った。
結城さんはにこやかに笑って、車のパワーウィンドウを開けて、じゃ、また来てね。と言った。
「今度は、天気のいい日にね。あ、悪くても来てもいいけど。」
「あはは。はい。ありがとうございました。」
窓を閉めようとした結城さんは手を止めて、
「そうだ。」
とこちらを見た。
「名前、聞いていい?
君のことなんて呼んだらいいかな。」
あ、と思った。
「えっと、」
何故か自分の口で名乗るのが恥ずかしい。
俺はリュックに括り付けてある塾のIDカードを見せた。
「新堂 律……りつ君。わ、なんかかっこいいね。」
と言うので、顔が熱くなった。
夜だからどうせ見えてない。
「俺、中学は地元じゃなくて、受験したんで附属に行ってます。」
「あ、藤山附属かぁ。頭いいんだ。」
「全然です。まあだから、地元の同級生らと違って駅の商店街は毎日通るんで、また行きますよ。」
「うん。またね。じゃあね。」
す、と滑りだした結城さんの白い軽自動車。
雪がさっきより積もっているから、
気をつけて無事帰って欲しいなと思った。
――また来てね。
――今度は天気のいい日に
――悪くても、来てもいいけど
俺は母親のあとの風呂につかりながら、
結城さんの言葉を反芻していた。
また来てねと言ってくれたものの、
はいじゃあ来ましたと、言葉の通り行くのはどうも恥ずかしい気がする。
けれど、ふと思った。
傘を店の外に忘れて来たじゃないか。
忘れた俺、でかした!
拳で湯船のお湯を叩く。
言い訳でもこじつけでも、行く理由が出来た。
それだけで心が浮き立った。
コーヒーを飲み終えて店を出ると、既に地面が白く覆われていた。
「こっち。」
本屋の裏に、一台分の駐車スペースがあった。そこに、アイボリーの軽自動車が停められている。
「ベルトした?」
結城さん――と名乗るこの人は、あの謎の古本屋『柴崎書店』のオーナーらしい。ぱっと見は大学生くらいの「お兄さん」なのだが、実際はもう少し大人なんだろう。
「はい。……すみません。」
「夜だし、雪も降ってるし、ゆっくり行くね。」
と言って、結城さんはハンドルを回転させ、発進した。
窓の横をチラチラと白いものが降りていく。
参考書を買い忘れたこと。それで本屋に行こうと駅に向かっていた時に、偶々この店を見かけたこと。それを伝えると、結城さんは送っていくよと言ってくれた。
断ると、こんな遅い時間に中学生を放り出すなんて、心配で眠れなくなる、と頑なに譲らなかった。俺も、寒いし濡れたくないしで、結局、その親切に甘えることにした。
「いいのかな?
知らない人の車に乗らないようにって、
教わらなかった?」
と、赤信号で止まった時に結城さんがそう言って、少しだけ悪戯っぽく笑うのだ。
「いえ、別にそんなことは。」
無いと思う。
無いとは思うが、もしかして?
と一瞬よぎったところで、はい、と差し出されたのは運転免許証。
綺麗な薄い爪が、細い指の先でほんのり桃色に見えた。
「身分確かな、しがない古本屋の店主です。」
青信号になり、結城さんはゆっくりとアクセルを踏む。
『 結城 薫 』
「ゆうき、かおるさん?」
「はい。」
『生年月日 昭和…年』
「え。昭和?」
「はい。」
「……えっと、だから、よん……?んん?」
「計算が遅いよ受験生?40歳。」
「よ、よん?よんじゅう?」
声がひっくり返った。
「嘘だ!全然見えません!」
「はい。あのー。そんな驚きすぎるのも、
ちょっとだけ傷つくっていうか……。」
「だって、俺の親と同じくらいです。
親は確か43って言ってました。」
「中3だよね。まあそれくらいだろうね。」
結城さんは、それスマホで写真撮っときな、と言った。
「この免許証を?え、なんでですか?」
自分がどこの誰で、どうして君を車に乗せているのか。誰かに何か聞かれたら、近所の本屋の人だってそれ見せて言いな。
「時代も時代だしね。面倒が起きないように。」
そう結城さんは言う。
面倒か。
不審者と思われたら、確かに結城さんに迷惑がかかる。
大人なんだ。
正しい対応かもしれないが、そんなことしないのに、と思った。疑われて困ることなんかないはずだ。必要はない。けれど結城さんがそうしてくれと言うなら、と思って写真に撮った。
写真写りもいい。
――けど、
ちらりと運転するその横顔を見る。
実物は綺麗すぎる。
どう見ても大学生くらいのお兄さんに見える。頑張って見ても、去年の正月の集まりで見た、社会人なったばかりという親戚の人と同じくらいにしか見えない。
「着いたよ。買っておいで。」
電車で本屋まで行くと言ったら、結城さんが、ついでだから本屋も寄ってあげる、と乗せてくれたのだ。
車で待たせるのも悪いので、目当てのものを素早く買った。駐車場に戻ると結城さんは、もう一度親に連絡するように言った。
「あと30分くらいで着くと思うから、そう伝えなさい。
雪道だから少しゆっくり行くからね。」
「はい。ありがとうございます。」
地元の町まで来ると、口頭で道案内をした。
あ、ここね、と曲がった先に、うちがある。
「その看板のところで停めて貰えば、」
と言ったけど、結城さんは降りて玄関まで付いて来た。そして、商店街の柴崎書店の者です、と親に挨拶をした。
「参考書を探しにウチに来られたんですが、全身濡れてたんで、風邪引くと思って……。」
リビングから現れたのは寝巻き姿のだらしのないオヤジ。体型から佇まいまで、結城さんと同年代とは思えない。全く……。
「余計なお世話だと思いましたが、上着だけでもと乾かしてたんです。それで余計に遅くなりました。ご心配おかけしました。」
と、結城さんは丁寧に頭を下げた。
母はその時、呑気に入浴中で、代わりに既に帰宅していた父親が出た。父親は、いつも俺が塾で遅くなるのを知っているし、今日だけ特別息子の帰りが遅いとか、それが心配とか、あまり頓着しておらず、むしろ結城さんの真摯な様子に逆に恐縮してしまった。
だけでなく、結城さんのあまりの物腰の柔らかさや、洗練された振る舞いに狼狽えて「ああ」とか「いえ」とか「そんな、」とか言っていた。
俺は車に乗り込む結城さんに、気をつけて、と言った。
結城さんはにこやかに笑って、車のパワーウィンドウを開けて、じゃ、また来てね。と言った。
「今度は、天気のいい日にね。あ、悪くても来てもいいけど。」
「あはは。はい。ありがとうございました。」
窓を閉めようとした結城さんは手を止めて、
「そうだ。」
とこちらを見た。
「名前、聞いていい?
君のことなんて呼んだらいいかな。」
あ、と思った。
「えっと、」
何故か自分の口で名乗るのが恥ずかしい。
俺はリュックに括り付けてある塾のIDカードを見せた。
「新堂 律……りつ君。わ、なんかかっこいいね。」
と言うので、顔が熱くなった。
夜だからどうせ見えてない。
「俺、中学は地元じゃなくて、受験したんで附属に行ってます。」
「あ、藤山附属かぁ。頭いいんだ。」
「全然です。まあだから、地元の同級生らと違って駅の商店街は毎日通るんで、また行きますよ。」
「うん。またね。じゃあね。」
す、と滑りだした結城さんの白い軽自動車。
雪がさっきより積もっているから、
気をつけて無事帰って欲しいなと思った。
――また来てね。
――今度は天気のいい日に
――悪くても、来てもいいけど
俺は母親のあとの風呂につかりながら、
結城さんの言葉を反芻していた。
また来てねと言ってくれたものの、
はいじゃあ来ましたと、言葉の通り行くのはどうも恥ずかしい気がする。
けれど、ふと思った。
傘を店の外に忘れて来たじゃないか。
忘れた俺、でかした!
拳で湯船のお湯を叩く。
言い訳でもこじつけでも、行く理由が出来た。
それだけで心が浮き立った。
