19.俺はどちらでもないから
 呼び鈴が聞こえて玄関に出ると、ベージュのコートに黒いマフラーを巻いた結城さんが家の門の前で手を振った。

「ご進学おめでとうございます。」

 玄関先まで来てそう頭を下げる結城さんは、どうぞと紙の袋を母に渡した。

「まあ、そんな、ご丁寧に……、逆に申し訳ないです、ありがとございます。」
「いえ、気持ちですから。」
「え、何?お菓子?」
 と、覗くと、やめなさいみっともない、と母に頭を軽く小突かれた。
「ありがうございます。」
 2人は大人の会話を二言三言交わした後も、まだ喋ろうとしていたが、俺はいいからもう行こう、と結城さんの袖を引っ張って門を出た。
 最後に結城さんが「今日は律くんをお借りします。」と再び頭を下げた。



「お母さんともう少し話したかったのに。」
 ギアを変えてハンドルをゆっくり回転させながら、結城さんは柔らかく俺に抗議した。
「いいですいいいです、別に話さなくて。」
「分かったよ。あ、ちなみに律ちゃんはお饅頭好き?」
「え、饅頭ですか?いや別に好きでも、嫌いでも。」
「そう?お母さんに渡したお祝い、お饅頭だから。
 皆さんでまた食べてね。」
「え!饅頭好きです、食べます!」
 結城さんはあっはっは、と大きな口を開けて笑った。
 結城さんが笑うと安心するけど、少しだけ胸が痛い。

 春休みどこか行こうか。と言ったのは結城さんだ。
 そう言ってくれて嬉しかったけど、「はい」と即答できなかったのは、自分だけ楽しんでいいのかなという躊躇いがあったからだ。
 そんな俺に
「卒業祝い。」
 と明るく言った。
「させてよ。ね?」
 そうお願いされて断れるはずがない。
 卒業祝いと進学祝い。そう結城さんは言うけど、でも本当は多分、結城さんが行きたいんだろう。冬の間はずっとモモの介護。旅立った後は泣いてる俺を慰めてくれたり、思ったよりずっと気丈にしてはいた。ただやはり、時間と共に張り詰めていたものが少し緩んだのか、モモが旅立った直後よりも今の方がずっと沈んでいる感じがした。
「いいですね。」
 どこ行きます?と聞くと、律ちゃんの行きたいところは?と言われて、しばらく考えた。
 
「動物園がいいです。」
 
 モモが居なくなって寂しい結城さん。きっと動物全般も好きなんだろうと思って、そう言った。ふれあいコーナーとか、あるだろうし。多分。分からないけど……。



「わー、懐かしいなー。」
 ゲートに描かれた動物のイラストはペンキが劣化して剥がれているが、なんとなく見覚えがある。
「5年の遠足以来だ。」
「そうなんだ。よく覚えてるね。」
「結城さんは?いつぶりですか?中学か高校ぶり?」
 ああ、と結城さんは少し眉を下げた。
「僕、この県出身じゃないから。初めて来た。」
「え、あ、そっか、柴崎さんに頼まれてこっち来たって言ってましたもんね。地元どこですか?」
「東京。あ、ペンギンがいる。」
 結城さんは入り口付近のパネルに近寄り、園内マップを確認し始めた。
「ライオン、トラ……羊。え、ライオンとかトラの向かいに羊がいる構造なの?お互いどうなのそれ。」
「精神的にちょっと悪そうですね。」
 ちょっと見てこよう!と結城さんが小走りにトラのところへ向かった。
 
『アムールトラの〈レオン〉です!5歳です!』
 
 ケージの前にそう書かれた看板がある。
 通路を挟んで、羊はトラのお向かいさんだ。
「5歳か。でかいな。」
 俺たちに興味があるのか、向かいの羊が気になるのかは分からないが、のしのしと歩くレオンは檻までやってきて、ぴたりと動きを止めて、動物的センサーを駆使して周りの様子を探っている。
「レオン、狙ってない?これ。」
「羊はあんま分かってなさそうですね。尻向けてるし。」
「背中を向けたらダメでしょ、羊……。」
 レオンは、しばらくして飽きたのか、あるいは諦めたのか、向こうへ行ってしまった。
「次何見る?」
「カピパラ一択です。」
「一択?」
 結城さんは、こちらを振り返り、春の光の中で笑った。
「カピパラ、こっちです、確か。」
 と昔の記憶を辿って道を先導する。
 
 ずいぶんと暖かくて、歩き出せばコートも要らないくらいだった。日陰にいると、風が少し冷たく感じるけれど。

 ――東京。あ、ペンギンがいる。

 聞かれたくなかったんだな。
 さりげなく、何気なく聞き出そうとした俺の狡さ、やましさに、気付かれてしまっただろうか。
 そっとその横顔を伺ってみる。気付いたけど、気付かないフリをしてくれてるんだろう。大人だし、優しいから。

 打たせ湯が、ドボドボドボ……と、重たい音をたてながら白い湯気がゆっくり立ち上っている。
 暖かいお湯に打たれて、まるで夢見心地なカピパラを見て、結城さんが「癒しでしかない……」とため息をついた。しかも、そんなのが5体、特に何もせずみんな仲良く温泉に浸かっている。まるで「極楽じゃ」と聞こえてきそうな顔で。
「カピパラ尊いっす。」
「ほんとだねぇ。いいなあ僕も温泉行きたい……。」
「いいですね温泉。あ、結城さん、これ。ここ。」

『こんにちは!カピバラの〈りゅう〉です。』

「あ、『バラ』?『パラ』じゃないんだね。」
「正式にはそういう事ですね。パラだと思ってました。」
「僕も。」

 その後、キリン、アルパカなどを見て回った。

「少し引き返すけど、ペンギン行きましょう」
 と俺が言ったのは、ゲートを潜ってすぐの看板で「ペンギンがいる」と結城さんが呟いたのがなんとなく気になったからだ。ペンギンはこの動物園のメイン客寄せの一つなので、ゲートからすぐの所にあるから、少し戻らなければならない。
 けれど結城さんは立ち止まって
「あ、見たいの?」
 と俺に聞く。
「あ。えっと、見たいですけど、ていうか結城さん好きなのかなと思って。」
 え?と、不思議な顔をするので
「さっき看板のところで見てたでしょ、ペンギンがいる、って。それで見たいのかなーって。あ、別に興味ないなら他見ましょう。どこ行きます?このまま適当に歩きます?」
 結城さんは少し困ったように笑って、ほんの何秒かだけ考えた。
「いいよ、行こう。ペンギン。」
 小走りに弾んだ結城さんの髪が、ふわっと揺れた。
 
 ――手を繋ぎたい。
 
 唐突に沸いたその願望に、俺は自分で1番びっくりした。けど多分、いいと言われたらすぐにでも繋いでいたと思う。

 ペンギンのエリアは親子連れが多かった。
 まだ背の届かない小さな子を、母や父が目線の高さまで抱えてやっている。
 結城さんは手すりに身を寄せて、ペンギンの様子を見ている。楽しんでいるのかどうかは分からない。心なしか口数が少なく、話しかけると微笑んで返してくれるが、どちらかというと無表情にも見えた。
 足元を小さな子供がわっと駆け抜けて通り過ぎるので、俺は驚いて少しだけのけぞった。が、結城さんはあまり反応を示さない。
 疲れてるのかな。歩かせすぎたかな。
 めぼしいものは見たし、そろそろかな、と思った時、たった今駆け抜けて去って行った子供が再び、今度は泣き喚きながら駆けてきた。
 ペンギンの展示は一つの独立したサークルになっていて、その男子は俺らのそばを通り抜けたあと囲いを一周走ってまた戻ってきたのだ。
 
「おとーさーーん!」
 
 声をかける間もなく、また鬼気迫るダッシュで駆け抜けて行った。
 俺と結城さん、だけでなくその周りの親子連れもその男子を目線で追っている。
 
「おとーーーーさーーーーーーーん!!!!!」
 
 2周目が終わり、3周目に突入した。
 2周走って見つからないなら、もうここにはいなくて、別の場所に移動してるだろうよ、と声をかけてやりたいが、その理屈も跳ね除けるように暴風雨さながら泣きじゃくる高エネルギー体のような子供に、どう接したら良いかわからなかった。
 その腹の底から親を呼ぶ姿の、その命懸けのような必死さや、懸命さ、ひたむきさは、物凄いパワーに溢れて圧倒されるが、所詮子供で、本当に何も見えてないんだなと思った。

 走って親を探すのは分かるが、ペンギンの囲いだけを運動会みたいにぐるぐる回っても見つかるわけないのだが、この子にとってはペンギンのエリアを回り続けることが最大限に出来ることなのだ。
 ここを走り続ければ、僕がこうして一生懸命に走り続ければ、大声で叫び続ければ、絶対に、絶対に、お父さんが見つかる。
 そう信じてやまない涙と鼻水だらけのその子が、哀れにも可愛らしくも思えた。
 子供はひたむきで、だからこそ愚かで、そして可愛い。
 
 他の家族は、その男子が気になって、どうしようか、激しく走り回るその子にどう近づいていいのか、と迷うように、お互いに囁き合っている。
 結城さんはその子から既に目を離し、ペンギンを見下ろしている。
 なんとなくの先入観だけど、結城さんは多分子供の扱いが俺よりは上手なはずだ。それに優しくて愛情深い。そんな困っている子、まして目の前で迷子になっている子に、真っ先に手を差し伸べるような行動が、誰よりも似合う人だ。
 結城さんは興味を失ったように冷めた目で、ケージの中に視線をやっていた。さしてペンギンを熱心に観察するでもないその目線の先に、何かきっと別の景色が写っているのだろうが、俺には知る術もない。

 そのうちに、父親らしき男性が少し離れたところから走ってきた。男の子はすんなりとその男性に抱かれ、涙をふきながら家族の元へ戻って行った。一件落着である。
 ふっと横を見ると、結城さんはその流れを見ていたようだが、感情が剥がれ落ちたようなその横顔に、どう話しかけたらよいか分からない。
 
「子供って、すげーパワフルなんですね。」
 聞き逃したのか、結城さんは微かに「え?」と言った。
「めっちゃ全力失踪してましたね。あの子。」
「うん。そうだね。」
 やはり元気がない。
「帰りますか。」
「えっ。」
「疲れてますよね。すいません、たくさん歩かせて。」
「あ……。ごめんね、なんか、気をつかわせたね。僕が誘ったのに。」
「最後にここだけ寄っていいですか?」
 と道の先を指差した。

 ペンギンの展示からすぐそこに、「どうぶつふれあいコーナー」がある。ペンギンを見た後の家族がそのまま寄れるような動線だ。
 うさぎやモルモットなど、比較的おとなしく、そこまで俊敏でない小動物に、飼育員さんのアドバイスを受けながら膝の上に乗せて撫でられるコーナーだ。
 既に子供たちが何人か居て、可愛いと言いながら撫でる子や、慣れない生身の動物の扱いに苦戦して怖がる子供など様々だ。
 俺は結城さんに、元気を出して欲しくて、癒されて欲しくて、行きましょう、と言った。結城さんはやはりあまり元気がないようだったけど、うさぎに癒されればきっと元気になれると思った。可愛いね、と明るく笑ってくれるはず。

 飼育員さんに声をかけ、まず俺が「ふれあい体験」をすることにした。抱き方、撫でるコツ、してはいけないことを教えてもらい、いざ膝にうさぎを乗せてもらう。
 白いウサギは見た目の愛らしさに反して思いの外ずっしりと逞しい重量があった。腹のあたりがヒクヒクと緊張しているように速く呼吸で動いている。撫でると、少しだけ身を硬くしたが、おとなしくしてくれた。指先から、暖かい体温が伝わって、自分の指先が冷たかった事に気がついた。
 けど、俺の指先があったまるということは、ウサギにとって俺の指は「冷たい」という事なのでは?と思い、可哀想になった。そこですぐに飼育員に声をかけて、終わらせてもらった。

 次に結城さんを座らせて、その膝に飼育員さんが別のウサギを乗せる。今度はこげ茶色の毛をしたウサギだ。
 結城さんは同じように飼育員さんからのアドバイスを聞いてからウサギに触れた。しかし動物慣れしているはずのその手つきがぎこちない。と思えばすぐに、「あ、お願いします」と飼育員さんに声をかけて、あっさりとふれあいを終わらせてしまった。
 
 終始硬い顔をして、一つも楽しそうじゃない。

 広い駐車場を歩く時も無言だった。
 何も話せなかった。
 動物園、嫌だったのかな。
 何か怒ってるのかな。
 
 ……どうして?

 分からないけど、怒らせたんなら、
 不愉快にさせたんなら、俺のせいだ。
 俺が多分、何か間違ったんだろう。
 
「すみませんでした。」
 シートベルトに手を伸ばそうとした結城さんに、そう言った。
「……え?」
 とベルトから手を離して、こっちを向く結城さん。
 
 狭い車内にお互いの呼吸や身じろぎする衣擦れの音だけが響く。
 
「俺が……、何かしたんですよね。でも俺、分かんなくて。」
「何?え、何のこと?」
「俺、自分の事、少しは賢いって思ってました。勉強は別に苦手じゃないし、嫌いじゃないしって。
 けど今、結城さんが、何でそんな態度なのか、全然分かんなくて……。いろいろ考えたんですけど、分からなくて。ごめんなさい、何か怒ってますか?」
 結城さんに嫌われたくない。怒らせたくない。
 いつも笑ってて欲しい。
 好きだから。
 そう言ってしまいたい。

 けれど、意外にも結城さんはそこでパタパタと、大きな涙をまつ毛で払いながら流してしまった。澄んだ瞳から、いつまでもこぼれ落ちるその粒は、透き通って頬をつたい、顎の先まで届いた。その涙を拭いたい。その頬に触れたい。出来るはずがない。

「僕は。僕の方こそ。」

 結城さんは車に置かれたボックスティッシュを二、三枚抜き取って、目や鼻を拭いた。そして鼻を啜ってから、続けた。

「律ちゃんが謝ることなんて何もない。そんな風に思わせてたんだね、ごめんね。今日は合格祝いなのに。おめでたい日なのに。ごめんね、嫌な空気にしちゃって。」

「それはいいんです。結城さんといるなら俺はどこでも何してても楽しいです。」
 そうなんだ。俺のお祝いとか、だから楽しくしなきゃとか、そんなんじゃない。泣いても笑っても、一緒に居られることが嬉しい。

 だけど、心に何か引っかかっているなら、結城さんを泣かせる何かがあるなら、俺へのお祝いなんかいらないから、その心を晴らしたい。それだけだ。
 
「動物園、来たくなかったですか、本当は。」
「違うんだ、来れて嬉しいよ。律ちゃんと。」
「じゃ何がそんなに辛いんですか。何が哀しいんですか。」
「ごめんね。」
「だから、何が、」
 優しくしたい。励ましたい。力になりたい。
 なのに、なれない。その苛立ちを結城さんに向けようとするなんて、どこまで俺は身勝手なんだ。
 
「思い出しちゃうから。」

 結城さんは両手で顔を覆った。

「どうしても、思い出しちゃうから……。」
 声を噛み殺して、肩を震わせている。溢れた涙が指を伝って、ゆっくりと手の甲を辿る。

 そうなのか。
 ああ、やっと、理解した。
 
 そして自分の愚かさに腹が立った。
 どうしてこんなに気が回らないのだろう。
 他のことなどどうでもいいから、今この時だけは、この時期だけは絶対間違えちゃいけないことだった。
 
 少し前まで結城さんの膝に乗せられて
 優しく撫でられていたのは
 あの膝の上は、特別な場所で、この世でそれが許されていたのは、たった一匹の、あの愛くるしい生き物。

「何とも思ってなかったんだよ、最初は。
 けど、膝に乗せたらもうね。ダメだった。
 重みとか、体温とか。全部……。」

 だから律ちゃんは何も悪くないと結城さんは言いながら、また涙をティッシュで拭った。

 悪くないことあるか。
 全部俺のせいじゃないか。

「あの、すみませんでした。俺、結城さんに元気になってもらおうと、ほんとそれだけで。余計に悲しませちゃって。」
「うん、分かってる。だから、何も悪くないんだよ。
 ごめんね。」

 まだまだ全然立ち直れなくて。

 そう言うので、俺は
「だってまだひと月経ってないですよ、仕方ないですよ。」と、月並みなことを言うしかなかった。
 
 けれど同時に、頭の1番奥の真ん中、針の先ほどの中心点にかすめた直感が、「それだけじゃないはず」と俺に確信をもって訴えている。
 
 モモのことは当然、心から悲しんでいる。それが嘘だとは言わない。どころか何よりの現実で真実だ。ただその根底に、モモの事とは別の、重く覆しがたい苦しみと後悔があって、それが今もなおモモの喪失を通して結城さんを泣かせに来ている。直感なのか妄想なのか分からないが、そう思わせる事がいくつもあった。
 
 目の縁が薄く色づいている。
 この人の、暖かい人間性の奥にある影や苦しみなんかには一つも手が届かない。触らせてもらえない。そんなことは許してくれない。
 その証拠に、
「もう行こうか。お腹すいたね!」
 といつものように明るく言って、シートベルトを閉めようとする。これで終わり、と言わんばかりに。
 
 冷静に切り替えられる大人のようだ。
 
 いや、違うな。大人なんだ。
 決して大人を演じている訳ではなくて、結城さんは大人なんだ。
 どちらかというと大人を演じるのは子供の方だ。大きくなりたくて、成長したくて、追い抜きたくて。でも子供だから、簡単には出来ない。だから無理に気持ちを抑えたり、誤魔化したり。
 そうしてあがく子供は純粋で愚かで、それゆえ愛おしい。ひたむきに生きてさえいれば大人は見てくれるはずと信じ込んでいる。

 俺は、そのどちらでもない。
 大人ほど気持ちを切り替えて区切りをつけられないし、
 子供のように、素直に真っ直ぐ大人にぶつかっていける純真さは無い。
 
 ……けど、考えてみたら、子供ってそこまで愚かだろうか。
 ペンギンの囲いをただひたすらに周回していたあの子は、本当に「ここをぐるぐると回れば親が見つかる」などと純粋に信じていたのだろうか。いや、そんなに馬鹿じゃないだろう。

 ぐるぐると同じところを走り回る異常さで、周りの大人に助けを求めて、それがもしかしたら父親にも届くと思っていたのではないか。同じところを何周も走っていたのは、同じところに父親がいると信じている子供ゆえの、視野の狭さと判断力の欠如によると、その時俺は思ったけど、違うのではないか。

 そんな事くらいあの子はちゃんと分かっていて、それでもそうしたのだ。子供らしい半狂乱を大人がみてくれると、分かっていたから。

 子供は未熟で愚かだ。けれど同時に自分の未熟さや無力さを十分理解していて、それを大人に受け入れてもらう術も本能的に備わっている。
 でなければ助けを求めて泣いたりしない。
 泣いてぶつかるのは、そのまま真っ直ぐ進むしか脳がないからではなくて、「それでも大人はこんな自分を見捨てないはず」と言う期待と打算があるはずだ。
 それを狡さというか、成長というか、その違いはあるだろうけど。

「結城さん。」
 カチッとベルトを締めると、心までも引き締まった気がした。
「なに?」
「ラーメン食いたいです。」
「いいね!行こう!」
 食いしん坊バンザイ!などと結城さんははしゃいで、アクセルを楽しげに踏んだ。

 好きだと言いたい。言おう。
 そしたらきっと結城さんは絶対困る。分かってる。
 けど大人だから、どんな風にだって受け止めてくれるだろう。軽く受け流してしまうかもしれない。
 けど、多分俺を傷つけるようなことだけはしないはずだ。

 車内の温度が僅かに上昇した気がして、俺はパワーウィンドウを少し下ろした。
 外気がサッと流れ込んで、頬や額を撫でた。そこに冬の重たい質感はなく、不要な湿度を脱ぎ捨てた爽やかで身軽な風だった。